瀞霊廷の朝は、いつにも増して騒がしかった。
六番隊隊士、朽木ルキアの処刑。
急な日程の変更によって、各隊は対応に追われている。
三番隊も例外ではない。
「……まったく、慌ただしいことですねえ」
望月輝夜は、執務室の窓から外を眺めていた。
隊士たちが廊下を駆けていく。
処刑の警備に当たる者、旅禍の捜索を続ける者、各隊との連絡に追われる者。
やることはいくらでもある。
机の上には、昨夜から片づけきれなかった書類が積まれていた。
吉良イヅルの席は、今日も空いている。
「……さて」
輝夜は机に戻り、書類を一枚めくった。
巡回の配置変更。
警備の増員。
処刑に伴う各隊への連絡事項。
どれも急ぎのものばかりだ。
「……勘弁してほしいですねえ」
そう呟いたところで、扉が開いた。
「朝から精が出ますねえ、望月はん」
聞き慣れた声だった。
「おや、市丸隊長」
顔を上げれば、市丸ギンがいつも通りの笑みを浮かべて立っている。
「おはようございます」
「おはようさん。随分と忙しそうやね」
「ええ。イヅルくんがいませんからねえ」
「そら難儀やなあ」
「まったくです」
輝夜は筆を置いた。
「それにしても、市丸隊長。昨日は随分と大変だったそうで」
「……何がです?」
「日番谷隊長との一件ですよ」
「ああ、あれですか」
ギンはくすりと笑った。
「ちょっと揉めただけですわ」
「隊長同士で刀を抜いておいて、ちょっとですか」
「まあ、そんな日もありますやろ」
「……物騒な話ですねえ」
輝夜が肩をすくめると、ギンは楽しそうに笑った。
「望月はんは相変わらずやね」
「それはこちらの台詞ですよ」
二人は顔を見合わせた。
まるで、普段と変わらぬ朝だった。
⸻
「ところで、イヅルくんのことなんですが」
輝夜は机に置かれた書類を揃えた。
「牢を出たそうですねえ」
「おや、聞かはったんですか」
「ええ。昨日、報告がありまして」
輝夜はギンを見た。
「ただ、正式に釈放されたわけではないとか」
「そうみたいやねえ」
「……ご存じありませんか?」
「さあ、どうでしょう」
ギンは相変わらず笑っている。
「まあ、イヅルなら大丈夫ですわ」
「そうですか」
輝夜はそれ以上尋ねなかった。
少なくとも、目の前の隊長は吉良の所在について何か知っているらしい。
「無事ならいいんですがねえ」
「心配してはるんです?」
「ええ。大切な後輩ですから」
輝夜はあっさりと答えた。
「それに、仕事が溜まる一方ですし」
「ふふ、そっちも大事やねえ」
「もちろんですとも」
ギンは空いた吉良の席に目を向けた。
「イヅルがおらんと、静かやね」
「そうですねえ」
輝夜もそちらを見た。
「普段なら、この辺りで書類を持ってくる頃でしょうか」
「望月はん、また仕事押しつけようとしてました?」
「人聞きが悪いですねえ。少々手伝っていただくだけですよ」
「ふふ、そういうことにしときましょ」
ギンは机の端に腰掛けた。
「……望月はん」
「はい?」
「イヅルのこと、頼みますわ」
輝夜は顔を上げた。
「……おや」
少し珍しい頼みだった。
ギンが吉良の仕事を任せることは、これまでもあった。
だが、今の言葉は少し違う。
「それは、副隊長代理としてですかねえ」
「どうでしょう」
「曖昧ですねえ」
「ふふ、望月はんなら大丈夫ですやろ」
輝夜はギンを眺めた。
いつもの笑顔。
何を考えているのか、分かりにくい男だ。
「……承知しました」
輝夜は軽く頭を下げた。
「イヅルくんのことは、お任せください」
「おおきに」
ギンは小さく笑った。
⸻
しばらくして、ギンが立ち上がった。
「ほな、そろそろ行きますわ」
「処刑の方へ?」
「ええ。ちょっと用事がありまして」
「……そうですか」
輝夜は窓の外へ目を向けた。
朝の光が、隊舎の庭を照らしている。
遠くでは、隊士たちの声が響いていた。
いつもと同じ景色。
ただ、今日は何かが違う。
「……市丸隊長」
ギンが振り返った。
「何です?」
何十年と聞かなかったことを、今更尋ねるつもりもなかった。
藍染の偽装死。急がされる処刑。隊長のいつもと変わらない態度。
今日を逃せば、もう二度と聞けないような気がした。
「……そこまでして、叶えたいものがあるんですか?」
ギンは少しだけ目を細めた。
「……何の話です?」
「さて。何でしょうねえ」
輝夜は笑った。
ギンもしばらくこちらを見ていた。
やがて、いつもの笑みに戻る。
「……ええ。ありますよ」
「…………」
輝夜はギンを見つめた。
それ以上、何も尋ねなかった。
「……そうですか」
少しだけ間を置いて、頭を下げる。
「では、お気をつけて」
「ええ」
ギンは笑った。
「ほな、行ってきますわ」
扉が閉まる。
輝夜はしばらく、その扉を眺めていた。
「…………」
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……はあ」
静かな部屋だった。
吉良の席は空いている。
隊長も出ていった。
残されたのは、自分と書類の山だけ。
「……仕事、ですかねえ」
輝夜は筆を取った。
⸻
どれほど時間が経っただろうか。
執務室に差し込む光は、いつの間にか角度を変えていた。
輝夜が書類に目を通していると、不意に遠くで大きな霊圧が膨れ上がった。
筆が止まる。
「……おや」
窓の外へ目を向けた。
双殛の丘の方角。
遠く離れていても、何かが始まったことは分かる。
「……いよいよですかねえ」
処刑が始まったのだろう。
輝夜はしばらく窓の外を眺めていたが、ふと一人の少年を思い出した。
黒崎一護。
橙色の髪をした、あの旅禍。
あの少年なら、今頃どうしているのだろう。
輝夜は筆を置き、椅子に深く腰掛けた。
そして、左目に意識を向ける。
次の瞬間、景色が変わった。
「……おやおや」
目の前には、巨大な炎の鳥。
その嘴を、一本の大きな刀が受け止めている。
視界の向こうには、処刑台があった。
そこに立つ、小柄な少女。
朽木ルキア。
「……なるほど」
どうやら、あの少年は処刑そのものを止めに来たらしい。
耳元では、何かを叫ぶ声が聞こえた。
だが、輝夜はそちらに意識を向けすぎないようにした。
左目に映る景色と、右目に映る執務室。
二つを同時に追うのは、相変わらず疲れる。
しばらく様子を窺っていると、炎の鳥が激しく揺らいだ。
視界が大きく動く。
「……おっと」
輝夜はそこで接続を切った。
見慣れた執務室が、両目に戻ってくる。
「……若い人は元気ですねえ」
小さく笑い、額を押さえた。
あの少年が何をしようとしているかは、もう十分に分かった。
ならば、こちらにもやるべきことがある。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「望月三席!」
隊士が駆け込んでくる。
「双殛の丘に旅禍が現れ、処刑が妨害されたとのことです!」
「そうですか」
輝夜は頷いた。
「各隊の動きは?」
「現時点では確認中です!」
「では、こちらは持ち場を守りましょう」
「……よろしいのですか?」
「ええ。向こうには隊長方がいらっしゃいますからねえ」
輝夜は机の上の書類を揃えた。
「それに、俺たちまで持ち場を離れたら、こちらが手薄になりますでしょう?」
隊士は少し考えた後、頷いた。
「承知しました!」
「巡回中の隊士にも、そのように伝えてください。不審な動きがあれば、すぐに報告を」
「はっ!」
隊士が去っていく。
輝夜は窓の外へ目を向けた。
双殛の丘。
あちらでは、今も何かが起きているのだろう。
そして、その騒ぎの中に、市丸隊長もいるのかもしれない。
「…………」
輝夜は、閉じた扉を一度だけ見た。
朝、隊長が出ていった扉だった。
「……さて」
筆を取る。
今の自分が守るべきものは、ここにある。
少なくとも、今は。
「……仕事に戻りましょうか」
三番隊の隊舎では、今日も隊士たちの足音が響いていた。