最初に聞こえたのは、悲鳴でも怒号でもなかった。
声だった。
『護廷十三隊、各隊隊長・副隊長、ならびに全隊士へ通達します』
執務室で筆を走らせていた望月輝夜は、顔を上げた。
縛道の七十七、天挺空羅。
広範囲に声を届ける、高度な鬼道だ。
「……おや」
何事かと思えば、続いたのは五番隊隊長、藍染惣右介の名だった。
死んだはずの藍染が生きていたこと。
中央四十六室が殺害されていたこと。
これまで下されていた命令の多くが、偽りであったこと。
淡々と告げられる内容に、廊下が騒がしくなっていく。
『藍染惣右介は、護廷十三隊に対する反逆者です』
やがて声が途切れた。
しばしの静寂。
それを破ったのは、廊下を駆ける足音だった。
「望月三席!」
三番隊の隊士が、勢いよく扉を開けた。
「今の通達は……!」
「ええ。聞こえていましたよ」
「藍染隊長が、生きていたというのは本当なのでしょうか」
「四番隊からの通達です。少なくとも、根拠のない話ではないでしょうねえ」
隊士は言葉を失った。
無理もない。
数日前まで、五番隊は隊長を失った悲しみに沈んでいた。
その死が偽りだったという。
まして中央四十六室まで殺されていたとなれば、瀞霊廷そのものが揺らぐ事態だった。
「……では、市丸隊長は」
隊士が口にした名前に、輝夜はわずかに目を伏せた。
「まだ、何とも言えませんねえ」
「ですが、以前から疑われていたのは……」
「疑いと事実は別ですよ」
穏やかな声だった。
「今は、確かな報告を待ちましょう」
「……承知しました」
隊士が去る。
扉が閉まると、輝夜は筆を置いた。
藍染惣右介が生きている。
そんなことは、とうに知っていた。
あの男が何かを企んでいることも。
市丸ギンが、それに関わっているらしいことも。
ただ。
「……随分と派手に動きましたねえ」
ここまで大きな騒ぎになるとは、思っていなかった。
いや。
思いたくなかったのかもしれない。
⸻
窓の外では、隊士たちが走り回っていた。
誰かが命令を叫び、別の誰かがそれを伝える。
隊長たちの所在を確認する声も聞こえてきた。
輝夜は机に肘をついた。
藍染が生きていたことが公になった以上、事態はもう隠しようがない。
ならば、あの少年はどうしているだろう。
黒崎一護。
先ほど双殛を受け止めていた、橙色の髪の旅禍。
彼は確か、朽木ルキアを救うために来たのだった。
そして、藍染が必要としているのも、おそらく彼女だ。
「……少しだけ、失礼しますよ」
輝夜は目を閉じた。
左目に意識を集中する。
次の瞬間、景色が切り替わった。
最初に映ったのは、白い羽織だった。
五番隊隊長。
藍染惣右介。
「…………」
輝夜は黙って、その男を眺めた。
やはり生きている。
それも、随分と元気そうだ。
左耳からは、少年の荒い息遣いが聞こえてくる。
視界の端には、赤髪の死神。
阿散井恋次だろう。
そして、その腕の中にいる少女。
朽木ルキア。
なるほど。
状況は思っていた以上に悪いらしい。
藍染が何かを語っている。
だが、輝夜にはその話を最後まで聞く余裕がなかった。
突然、一護の身体が動いた。
視界が跳ねる。
黒い刀身が目の前を横切った。
「……っ」
輝夜は思わず机の縁を掴んだ。
左目では激しい戦闘。
右目では静かな執務室。
自分の身体が動いていないと分かっていても、感覚が追いつかない。
次の瞬間。
刀が、視界の正面に迫った。
鈍い衝撃。
景色が大きく傾いた。
「……うわ」
輝夜は慌てて接続を切った。
見慣れた机が両目に戻る。
「……ああ、気持ち悪い」
額を押さえた。
どうにも、他人の戦闘を覗くのは性に合わない。
まして相手は、藍染惣右介である。
あの少年がどれほど強くなったのかは知らないが、まともに戦って勝てる相手ではないだろう。
「……生きていますかねえ、あの子」
気にはなる。
だが、今の自分にできることは少ない。
隊長格ですら届かない相手に、三席の自分が割って入ったところで、犠牲者が一人増えるだけだ。
それに、三番隊にはまだ大勢の隊士がいる。
輝夜は立ち上がり、窓を開けた。
「……皆さん、無茶はしないでくださいねえ」
届くはずのない言葉が、風に流れた。
⸻
次に異変が起きたのは、それからしばらくしてのことだった。
双殛の丘の方角から、異様な霊圧が立ち上った。
一つや二つではない。
重く、肌にまとわりつくような気配。
「……何ですかねえ、あれは」
隊舎の外にいた隊士たちも、足を止めている。
遠くの空が、妙に明るかった。
「望月三席!」
またしても伝令が駆け込んできた。
「双殛の丘に、巨大な虚が出現したとのことです!」
「……虚?」
「はい! それも、一体ではないようで……!」
輝夜は窓の外を見た。
虚が瀞霊廷に現れる。
それだけでも大事件だ。
しかも、今は藍染の謀反が明らかになったばかり。
偶然とは考えにくかった。
「隊長方は?」
「現場に集結されているとのことです!」
「そうですか」
輝夜は頷いた。
「三番隊は現状の警備を維持。負傷者が運ばれてきた場合に備えて、四番隊との連絡も確保してください」
「はっ!」
「それから、許可なく双殛の丘へ向かう者が出ないように」
「……よろしいのですか?」
「隊長方が集まっている場所へ、俺たちが無理に駆けつけても仕方ありませんからねえ」
輝夜は苦笑した。
「できる仕事をしましょう」
隊士が頭を下げて去っていく。
その背中を見送ってから、輝夜は再び椅子に腰を下ろした。
そして、左目を閉じた。
⸻
今度は、空が見えた。
いや。
空に、何かが開いていた。
巨大な裂け目。
その向こうには、いくつもの異形の影。
そして、光。
天から降り注ぐ光の柱が、地上の何者かを包んでいる。
左耳からは、複数の声が聞こえていた。
一護は負傷しているらしい。
視界が低く、思うように動かない。
その代わり、見上げる先の光景はよく分かった。
光の中に、三人の死神がいた。
藍染惣右介。
東仙要。
そして。
「…………」
市丸ギン。
白い隊長羽織。
細められた目。
朝と変わらぬ、あの笑顔。
輝夜は、黙って見つめた。
分かっていたことだった。
市丸ギンが藍染と何らかの関係を持っていることは、ずっと前から知っていた。
いつか、こうなるかもしれないとも思っていた。
だからこそ、朝、尋ねたのだ。
そこまでして、叶えたいものがあるのかと。
返ってきた答えは、たった一言。
『……ええ。ありますよ』
輝夜は左目を閉じようとして、やめた。
もう少しだけ。
もう少しだけ、見ておきたかった。
光の中で、ギンが何かを話している。
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
輝夜に向けられたものではない。
それでも、聞き慣れた声だった。
何十年も聞いてきた声。
隊舎で冗談を言うときも。
仕事を押しつけてくるときも。
吉良をからかうときも。
ずっと、同じ声だった。
光の柱が、ゆっくりと上昇していく。
三人の姿が遠ざかる。
周囲から怒号が上がった。
だが、誰も追いつけない。
輝夜はただ、その光景を見ていた。
やがて、ギンの姿が小さくなる。
白い羽織が、空の向こうへ消えていく。
そして、巨大な裂け目が閉じた。
「…………」
左目の景色が、静かな執務室へ戻った。
接続を切ったのは、自分だった。
それでも、しばらく目を開けられなかった。
⸻
「……行ってきます、ですか」
朝の言葉を思い出す。
いつもと変わらない挨拶だった。
行ってきます。
気をつけて。
ただ、それだけのこと。
そんなやり取りを、何度繰り返しただろう。
輝夜はゆっくりと目を開けた。
机の上には、まだ書類が残っている。
向かいの席は空いたまま。
隊長の席も、今は誰も使っていない。
「……参りましたねえ」
そう呟いて、笑おうとした。
だが、うまくいかなかった。
藍染が何かを企んでいると気づいたときも。
市丸ギンがそれに関わっていると察したときも。
藍染の死が偽装だと確信したときも。
輝夜は、誰にも話さなかった。
何を話せばよかったのか。
誰が信じてくれたのか。
話したところで、何が変わったのか。
分からないことばかりだった。
ただ一つ。
自分は何もしないことを選んだ。
それだけは、間違いなかった。
「…………」
輝夜は机に置いた筆を見た。
そして、朝から何度も開いていた扉へ目を向けた。
そこから市丸ギンが戻ってくることは、もうないのだろう。
少なくとも、昨日までと同じようには。
廊下から、隊士たちの声が聞こえてきた。
藍染の謀反について。
三人の隊長が姿を消したことについて。
そして、これからの三番隊について。
輝夜は立ち上がった。
扉に手を掛ける。
今は、彼らに伝えなければならないことがある。
誰も持ち場を離れないこと。三席は生き残りたい
負傷者の受け入れを優先すること。
正式な命令が下るまでは、各自の判断で動かないこと。
それから。
「……イヅルくんも、探さないとですねえ」
吉良が今、どこで何をしているのか。
それも、確かめなければならない。
輝夜は扉を開けた。
いつも通りの声で、隊士たちに呼びかける。
「皆さん。少し、お話があります」
振り返る隊士たちの顔には、不安が浮かんでいた。
無理もない。
自分たちの隊長が、護廷十三隊を裏切ったのだから。
「まずは、落ち着いてください」
輝夜は穏やかに笑った。
「大丈夫です。やることは、まだたくさんありますから」
そう言って、一人ひとりの顔を見た。
誰もが、何かを待っている。
命令か。
説明か。
それとも、安心できる言葉か。
自分には、隊長の代わりなど務まらない。
あの男ほど強くもなければ、何を考えているのか分からない笑顔を浮かべるのも苦手だ。
それでも。
ここに残ったのは、自分だった。
「……さて」
輝夜は袖をまくった。
「まずは、皆さんが無事かどうか、確認させてください」
三番隊の一日は、まだ終わらなかった。
18時尸魂界編エピローグ