市丸ギンの離反から、数日が経った。
瀞霊廷は、いまだ混乱の中にあった。
五番隊隊長、藍染惣右介。
三番隊隊長、市丸ギン。
九番隊隊長、東仙要。
三人の隊長が、護廷十三隊を裏切った。
その事実は瞬く間に広まり、各隊では対応に追われている。
当然、三番隊も例外ではなかった。
「……いやあ、参りましたねえ」
望月輝夜は、目の前に積み上げられた書類を眺めていた。
市丸ギンの行動記録。
隊長室への出入りの記録。
各隊との連絡履歴。
過去に発せられた命令の確認。
一番隊からの照会だけでも、既に相当な数に上っている。
「望月三席、こちらも確認をお願いします」
「……まだあるんですか」
「申し訳ありません」
「いえいえ。あなたが悪いわけではありませんからねえ」
輝夜は書類を受け取った。
隊長が裏切った。
その事実一つで、随分と仕事が増えるものらしい。
「……まったく、最後まで人使いの荒い方ですねえ」
思わず漏れた言葉に、隊士が顔を上げた。
「……望月三席」
「はい?」
「市丸隊長は……本当に、我々を裏切ったのでしょうか」
輝夜は筆を止めた。
「……そうですねえ」
どう答えたものか。
藍染とともに虚圏へ去った。
それは間違いのない事実だった。
だが、あの男が何を望み、何のためにそうしたのか。
そこまでは、輝夜にも分からない。
「少なくとも、護廷十三隊を去ったことは事実でしょうね」
「……そう、ですか」
隊士は俯いた。
「我々も、疑われているのでしょうか」
「調べられてはいるでしょうねえ」
輝夜は書類を揃えた。
「ですが、疑われていることと、罪があることは別です」
「……はい」
「聞かれたことには、知っている範囲で正直に答えてください。分からないことは、分からないで構いません」
「承知しました」
「それから」
輝夜は少しだけ笑った。
「妙な遠慮はしなくていいですよ。今まで通り、仕事をしてください」
「……はい!」
隊士は頭を下げ、部屋を出ていった。
輝夜はその背中を見送った。
知っていることは正直に話せ。
随分と立派なことを言ったものだ。
「……人のことは言えませんねえ」
自嘲気味に笑い、筆を取った。
⸻
三番隊への風当たりは、以前より厳しくなっていた。
無論、隊士全員が裏切り者として扱われているわけではない。
だが、他隊との連絡には慎重な確認が求められ、以前なら口頭で済んだ話にも書面が必要になった。
他隊の隊士とすれ違えば、時折、探るような視線を向けられる。
仕方のないことだとは思う。
輝夜自身、もし他隊の隊長が裏切ったと聞かされれば、その部下に多少の警戒はするだろう。
問題は、その疑いをどう晴らしていくかだった。
「望月三席。巡回の配置についてですが」
「ええ。昨日の案で問題ありませんよ」
「ですが、他隊から変更の要請が……」
「では、理由を確認してください。必要な変更なら応じましょう」
「承知しました」
仕事は、なくならない。
隊長がいなくなったからといって、巡回も警備も必要なくなるわけではない。
誰かが負傷すれば手当てが必要だし、隊士たちの訓練も続く。
そうした当たり前の仕事を、今まで通り続けなければならない。
「……さて」
輝夜は立ち上がった。
向かったのは、隊長室だった。
⸻
室内は、妙に整っていた。
市丸ギンが使っていた机。
椅子。
書類棚。
どれも、つい先日までと変わらない。
ただ、主だけがいない。
「…………」
輝夜は机の前に立った。
ここへ呼び出されたことは、数え切れないほどある。
仕事を押しつけられたことも。
くだらない冗談に付き合わされたことも。
何を考えているのか分からない笑顔に、呆れたこともあった。
「……少しは片づけていってほしかったですねえ」
当然、返事はない。
窓の外には、庭の柿の木が見えた。
輝夜はしばらくそれを眺め、それから机に残された書類を手に取った。
記録の確認をしなければならない。
隊長室に残されたものも、順次調べられることになるだろう。
見慣れた部屋が、いつの間にか調査の対象になっていた。
「……本当に、面倒なことをしてくれましたねえ」
そう呟いて、輝夜は部屋を出た。
⸻
吉良イヅルが隊舎へ戻ってきたのは、その日の午後だった。
事件の夜には所在が確認されていたが、負傷の手当てや事情の確認もあり、落ち着いて話せる機会はなかった。
「……望月先輩」
廊下から聞こえた声に、輝夜は顔を上げた。
「おや、イヅルくん」
吉良は深く頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「……ええ。お帰りなさい」
輝夜は椅子から立ち上がった。
「無事で何よりです」
「……はい」
顔色は、あまりよくなかった。
身体の傷よりも、別のものが堪えているのだろう。
「お怪我の方は?」
「大丈夫です」
「そうですか。なら、よかった」
輝夜は頷いた。
「……お茶でも飲みましょうか」
「ですが、仕事が……」
「仕事は逃げませんからねえ」
机の上を見やる。
「残念ながら」
吉良は少しだけ口元を緩めた。
「……そうですね」
⸻
茶葉を用意し、湯を注ぐ。
慣れた作業だった。
湯呑みを取り出しかけて、輝夜の手が止まった。
三つ。
いつもの数だった。
「…………」
一つを棚に戻す。
残った二つに茶を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
吉良は湯呑みを受け取った。
二人は向かい合って座った。
しばらく、何も話さなかった。
先に口を開いたのは、吉良だった。
「……松本さんと、戦いました」
「ええ。聞いていますよ」
「市丸隊長の命令でした」
「……そうですか」
吉良は湯呑みを見つめた。
「僕は、隊長を信じていました」
「…………」
「雛森さんには手を出さないと、そう約束してくださったんです」
声が、わずかに震えた。
「だから、僕は……」
吉良は言葉を詰まらせた。
藍染に刺された雛森桃は、辛うじて一命を取り留めている。
そのことも、既に知らされていた。
「僕は、何をしていたんでしょうか」
輝夜は答えなかった。
吉良が何を望んでいたのかは分かる。
市丸ギンを信じたかった。
雛森を守りたかった。
だが、その結果として、友人にも刃を向けた。
そして、自分は。
「……イヅルくん」
「はい」
「市丸隊長が何を考えていたのか、俺にも分かりません」
吉良が顔を上げた。
「……先輩にも、ですか」
「ええ」
輝夜は茶を一口飲んだ。
「長い付き合いでしたが、結局、何も聞かせてはいただけませんでしたねえ」
正確には、聞かなかったのだ。
聞く機会がなかったわけではない。
何度もあった。
それでも、自分は踏み込まなかった。
「……そう、ですか」
吉良は俯いた。
しばらくして、小さく呟いた。
「……僕は、まだ」
「はい」
「市丸隊長を、嫌いになれません」
輝夜は目を細めた。
「……そうですか」
「こんなことになっても、まだ……」
吉良は唇を噛んだ。
「情けないですよね」
「……どうでしょうねえ」
輝夜は湯呑みを置いた。
「俺も、嫌いにはなれそうにありませんから」
吉良が顔を上げた。
「先輩……」
「まあ、仕事を山ほど残していかれたことには、少々腹が立っていますがねえ」
いつもの調子で言う。
吉良は一瞬、呆気に取られたような顔をした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……そうですね」
「ええ。実に困った隊長でした」
二人は、それ以上ギンについて話さなかった。
今は、何を言っても答えが出る気がしなかった。
ただ、冷めかけた茶を飲んだ。
それだけだった。
⸻
翌朝。
三番隊の執務室には、久しぶりに二人分の筆の音が響いていた。
「先輩、こちらの確認は終わりました」
「ありがとうございます。では、次はこちらを」
「……先輩」
「はい?」
「これ、先輩が確認する書類ですよね?」
「おや、そうでしたか」
「そうでしたか、じゃありません」
吉良が眉を寄せる。
輝夜は笑った。
「いやあ、やっぱりイヅルくんがいると助かりますねえ」
「……まったく」
いつものやり取りだった。
ただ、隊長の席は空いたままだ。
これからの三番隊は、吉良を中心に立て直していくことになるだろう。
正式な指示が下るまでには、まだ時間が掛かるかもしれない。
それまでは、自分にできることをする。
そう決めていた。
「……ところで、イヅルくん」
「はい」
「少し、出掛けてきてもよろしいですかねえ」
吉良が顔を上げた。
「どちらへ?」
「一番隊です」
「……一番隊?」
「ええ。少々、お話がありまして」
吉良は不思議そうな顔をした。
「何か、追加の報告ですか?」
「まあ、そんなところです」
輝夜は書類を揃えた。
「その間、こちらをお願いできますか?」
「それは構いませんが……」
「ありがとうございます」
輝夜は立ち上がった。
「では、行ってきます」
「……お気をつけて」
その言葉に、足が止まった。
ほんの一瞬。
あの日、市丸ギンに言ったのと同じ言葉だった。
「…………」
輝夜は振り返った。
「ええ。すぐ戻りますよ」
そう答えて、部屋を出た。
⸻
一番隊へ向かう道すがら、輝夜は考えていた。
本当に、これでいいのだろうか。
今まで隠してきたものを、自ら明かす。
それがどういう意味を持つのかは、分かっている。
弓張月。
自分の斬魄刀。
その始解について、周囲が知っていることは限られている。
相手の呼吸を奪う。
それが、公にしている能力だった。
無論、間違いではない。
だが、全てでもない。
誰にも明かさずにいた能力。
それは、輝夜にとって最大の武器だった。
誰が、何を見ているのか。
誰と、何を話しているのか。
相手に気づかれることなく、それを知ることができる。
生き残るためには、実に都合のいい力だ。
だから、隠してきた。
知られれば警戒される。
警戒されれば、使いづらくなる。
場合によっては、その力を持っていること自体が疑われる理由になる。
今までは、それでよかった。
情報を持っていれば、危険を避けられる。
誰かが何かを企んでいても、先に知っていれば対処できる。
少なくとも、自分だけは生き残れる。
そう考えていた。
「……結局、何もできませんでしたねえ」
藍染の生存を知っていた。
市丸ギンが関わっていることも察していた。
だが、何もしなかった。
いや。
何もしないことを選んだ。
それが最善だと思っていた。
藍染を相手に、自分一人で何ができるというのか。
下手に動けば、口を封じられる可能性だってあった。
誰かに相談したところで、信じてもらえる保証はない。
その判断を、今でも完全に間違いだったとは思わない。
だが。
誰かに伝えていれば。
誰かが、自分とは違う方法を考えてくれていれば。
何か一つくらいは、違う結果になったのではないか。
そんな考えが、どうにも頭から離れなかった。
「……嫌になりますねえ」
輝夜は小さく息を吐いた。
生き残りたい。
その気持ちは、今も変わらない。
死ぬのは嫌だ。
痛いのも嫌だ。
できることなら、面倒事にも巻き込まれたくない。
ただ。
あの隊舎に帰りたい。
吉良と茶を飲みたい。
隊士たちと、くだらない話をして笑っていたい。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
自分だけが生き残れば、それでよかったはずなのに。
守りたいものが、随分と増えてしまったらしい。
「……困ったものですねえ」
輝夜は苦笑した。
全てを話せば、どうなるか。
今まで誰の目を借りてきたのかと問われるかもしれない。
なぜ黙っていたのかと、責められるかもしれない。
何より、自分の能力が藍染への対抗手段になるかどうかさえ、まだ分からない。
それでも。
少なくとも、自分以外にこの力の使い道を考えられる者がいる。
その可能性を、今度は捨てたくなかった。
「……さて」
目の前には、一番隊の隊舎があった。
輝夜は足を止めた。
「少々、怒られに行きますかねえ」
⸻
面会の申し出は、既に届けてあった。
藍染惣右介の一件に関連して、重要な報告がある。
そう伝えたところ、総隊長から呼び出しを受けたのだった。
案内された先には、山本元柳斎重國をはじめ、幾人かの隊長が集まっていた。
室内に入った瞬間、空気が変わる。
向けられる視線。
肌を刺すような霊圧。
三番隊の三席が、一人で立つには少々居心地の悪い場所だった。
「三番隊三席、望月輝夜」
総隊長の声が響く。
「藍染惣右介について、報告があるとのことじゃな」
「はい」
輝夜は深く頭を下げた。
「此度の件に関連して、皆様にお伝えしたいことがございます」
「申してみよ」
輝夜は顔を上げた。
隊長たちの視線が、一斉に集まる。
市丸ギンの部下だった男。
その男が、今になって何を話すというのか。
そう思われても、仕方がない。
普段なら、こんな場所には近寄りたくもなかった。
できるだけ目立たず。
できるだけ危険を避けて。
できるだけ長く、生きていたかった。
その考えは、今も変わらない。
ただ、そのために必要なことが、少しだけ変わった。
輝夜は静かに口を開いた。
「……今一度、私の始解についてお話があります」
こうして、余燼に薪がくべられた。
物語は、さらに大きな炎となって燃え広がる。