四日目。
昼休み、部室の机には一枚の紙が広げられていた。
エレーナが一晩かけて書き上げたという、新しい作戦書だ。
『一年生勧誘大作戦 〜我が覇道は若き力と共に〜』
「……副題いるか、これ」
「いるのじゃ。士気が上がるであろう」
作戦書の中身は、驚くほど薄かった。
一、一年の教室に行く。
二、勧誘する。
三、部員ゲット。
以上。
「作戦って言うか、ただの予定だろこれ」
「細かいことは現場で考えるのじゃ。臨機応変というやつじゃ」
自信満々のエレーナを横目に、俺はパックのジュースのストローを噛んだ。
残る一年を狙うこと自体には、俺も賛成だった。ただし、理由はエレーナとは少し違う。
「一年を狙うなら、外部進学者だな」
「外部進学者?」
「中等部から上がってきた内部進学者は、お前のことをもう知ってる。昨日の先輩も言ってたろ。菓子パン戦争」
去年、中等部限定の金桃クリームパンを巡って、エレーナ率いる高等部軍が購買に突撃した事件。
昨日の三年の先輩は楽しい思い出のように語っていたが、あの日、購買の前で高等部生に押しのけられた中等部生たちにとっては、たまったものではなかっただろう。
その中等部生たちが、今の一年生だ。
「……あやつらは、まだ根に持っておるのか」
「持ってるだろうな。午後の授業が全部潰れた事件だぞ」
「むう。金桃クリームパンは、それだけの価値があったのじゃが」
反省の色はなかった。
「とにかく。高等部から入ってきた外部生なら、その話を知らない可能性が高い。お前の悪名が届く前に、勧誘するんだ」
「なるほど。さすがは我が副官じゃ」
「副官になった覚えはない」
「では参謀じゃ」
「同じだよ」
エレーナは作戦書の「二、勧誘する」の横に、『外部生を狙う』と書き足した。
それで少しだけ、作戦書らしくなった。
◇
放課後。
俺たちは一年の教室が並ぶ、二階の廊下に立っていた。
一年A組。
授業が終わってまだそれほど経っていないからか、教室にはたくさんの生徒が残っていた。
笑い声と、椅子を引く音と、放課後の予定を話し合う声。
賑やかな空気の中に入っていくのを、俺はついためらってしまう。
「いいか、エレーナ。まずは様子を見て、外部生っぽい奴を探して――」
「頼もう!」
俺の言葉が終わるより早く、エレーナはドアを勢いよく開け放っていた。
教室中の視線が、一斉にエレーナへ集まる。
「我こそは第十六代魔王エレーナ・フェリアにして、世界征服部部長である。お主らを我が配下に加えてやるため、じきじきに出向いてやったのじゃ。ありがたく思え」
「…………」
地獄。その一言に尽きた。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、教室の空気が一瞬で冷えきる。
誰かが落とした消しゴムが、床を転がる音だけがやけに大きく響いた。
「あっ、ま、魔王様! お疲れ様っす!」
その沈黙を、上ずった声が破った。
教室の後ろの方で、小さな羽を生やした男子生徒が、がたりと立ち上がって頭を下げている。
一日目に「恐れ多いっす!」と断ってきた、インプ族の一年生だった。
「おお、お主か! ここのクラスであったか!」
「は、はいっ! 勧誘、が、がんばってください!」
インプの少年は、緊張で羽をぱたぱたさせながら、もう一度深々と頭を下げた。
入部する気は、相変わらずないらしい。
その声につられたように、教室のあちこちで、何人かが顔を上げた。
犬のような耳をした獣人の男子生徒。肌に薄く鱗の模様が浮かんだ、リザード族の女子生徒。
魔族の生徒たちだ。
獣人の男子生徒が、慌てて背筋を伸ばし、エレーナに向かって小さく会釈した。
エレーナも気づいて、ひらりと手を振り返す。
けれど、そのすぐ後だった。
「え、なに。魔王と知り合いなの?」
隣の席の人間の男子生徒が、驚いたように彼の顔をのぞき込んだ。
「魔王って、怖いんでしょ? 大丈夫なの、それ」
「え、あ……」
獣人の男子生徒の耳が、ぴくりと伏せられた。
「……い、いや。知り合いってほどじゃ、ないけど」
そう言って、彼は曖昧に笑った。
それきり、もうエレーナの方を見ようとはしなかった。
リザード族の女子生徒は、隣に座る同じ魔族の友達と、ちらりと目を合わせていた。
「……関わらない方がいいよね」
「うん。菓子パン戦争みたいなのに巻き込まれたら、たまんないし」
小さな声でそう言い合うと、二人そろって教科書に視線を落とした。
俺は、そのやり取りを見逃さなかった。
二年や三年の魔族は、一年以上同じ学校にいて、素のエレーナを見てきた。
飴一つで機嫌が直ることも、菓子パンに本気になることも、ゲームに負けて本気で悔しがることも。
だからゴルドたちは、敬いながらも気安く接するし、遠慮なく断る。
でも、一年生にとって、エレーナはまだ「魔王」でしかないのだ。
恐れ多くて近寄れない者がいる。
人間の友達の手前、関わっていると思われたくない者がいる。
面倒に巻き込まれたくなくて、距離を置く者もいる。
エレーナは――気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
インプの少年に向かって、胸を張って手を振り返していた。
「……臨機応変はどうした」
「今、臨機応変にやっておるところじゃ」
「どこがだよ」
小声で言い合う俺たちを、一年生たちが遠巻きに見ている。
ひそひそと交わされる声が、嫌でも耳に入ってきた。
「魔王って、あの菓子パン戦争の……」
「え、マジ? 本物?」
「うちのお兄ちゃん、あのとき購買で突き飛ばされたって」
……やっぱり根に持たれていた。
「……あの」
空気を元に戻すように、一番前の席の男子生徒が口を開いた。
「俺、もう部活決まってるんで」
それを皮切りに、「私も」「僕も」「あ、今日は塾が」と、次々に声が上がる。
断りの言葉が、波のように教室の後ろへと広がっていった。
中には、目を合わせないようにそっと教室を出ていく生徒までいる。
「な、なんじゃお主ら! まだ部の説明もしておらんのじゃぞ!」
「説明しなくても、名前で全部伝わってるんだよ」
ふと、教室の真ん中あたりに座っていた女子生徒と目が合った。
他の生徒が慌てて目を逸らす中、その子だけは、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
菓子パン戦争の話にも、ひそひそ話にも、加わっていない。
――外部生か?
声をかけようとした、そのときだった。
「ねえ、やめときなよ」
隣の席の女子生徒が、その子の袖を引いた。
「あれ、魔王だよ。関わったら、絶対ろくなことにならないって」
「え、そうなの?」
「そうだよ。去年なんてさ――」
耳打ちが始まる。
きょとんとしていた女子生徒の顔が、みるみるうちに曇っていった。
最後にちらりとこちらを見たその目は、もう他の生徒と同じ色をしていた。
「…………」
これ以上ここにいても、エレーナの悪名が上塗りされるだけだ。
俺は騒ぐ魔王の首根っこを掴み、一年A組から退散した。
◇
「納得いかんのじゃ……」
部室に戻っても、エレーナはまだぶつぶつと文句を言っていた。
机に突っ伏したまま、作戦書の「三、部員ゲット」の文字を、恨めしそうに指でなぞっている。
「あれだけ人がいて、一人も話を聞こうとせんとは。最近の若者は覇気が足りんのじゃ」
「お前も若者だろ」
俺は向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。
「……一人、いたんだけどな。興味ありそうな子」
「なに? どこにじゃ」
「教室の真ん中。たぶん外部生だった。でも、隣の子に止められてた」
エレーナの手が、ぴたりと止まった。
「……我の話を、されておったのか」
「たぶんな」
「…………」
エレーナは、しばらく黙っていた。
それから、むくりと顔を上げて、作戦書に何かを書き足し始めた。
『四、噂より先に動く』
「噂より先に、か」
「うむ。我の悪名が届く前に、勧誘するのじゃ。明日は、もっと早く動くぞ」
それ、俺が最初に言ったことだよな。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
魔王の悪名と、勧誘する魔王。
どちらが速いかは、正直、考えるまでもない気がした。
◇
五日目。
「噂より先に動くのじゃ」
昼休みのチャイムが鳴り終わる前に、エレーナはもう俺の教室の前にいた。
「早くないか」
「早くなければ意味がないのじゃ。昨日の作戦書、四番を忘れたか」
『四、噂より先に動く』。
昨日の夜、エレーナがやけに丁寧な字で書き足していた一行だ。
……だが、その作戦は、一年の廊下に着いた瞬間に崩れ去った。
「あ、魔王だ」
「やば、来た」
「隠れろ隠れろ」
廊下にいた一年生たちが、俺たちの姿を見るなり、蜘蛛の子を散らすように教室へ逃げ込んでいく。
ぴしゃり、ぴしゃりと、あちこちのドアが閉まる音がした。
「…………」
「……噂の方が、先だったな」
昨日の一年A組の一件は、一晩で一年中に広まっていたらしい。
しかも、尾ひれがついて。
「ねえ聞いた? 魔王が昨日、A組に殴り込みかけたんだって」
「え、私は魔王が一年を配下にするために、教室を一つずつ制圧してるって聞いた」
「怖っ。次うちのクラスかな」
閉まったドアの向こうから、ひそひそ声が漏れ聞こえてくる。
「……殴り込みなどしておらん」
「制圧もしてないな」
「我はただ、勧誘しただけなのじゃ……」
エレーナが、閉ざされたドアの前で肩を落とした。
◇
それでも、エレーナは諦めなかった。
一年B組。ドアをノックすると、内側から「今、取り込み中でーす」と声がした。
一年C組。ドアは開いていたが、俺たちが入った瞬間、教室にいた全員が一斉に机に突っ伏して寝たふりを始めた。
一年D組。教室の入り口に、手書きの紙が貼られていた。
『魔王おことわり』
「…………」
「…………テウス」
「何も言うな」
「我はまだ何も言っておらん」
「言わなくても分かる」
三日前と、まったく同じやり取りだった。
今度は、俺がエレーナの背中をぽんぽんと叩く番だった。
◇
最後に回ったのは、一年E組だった。
ここは、ドアも閉まっていなかったし、張り紙もなかった。
ただ、昼休みのせいか、教室に残っている生徒は少なかった。
「頼もう……」
さすがのエレーナも、声に力がなかった。
教室にいた数人の生徒が、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らす。
勧誘の口上を最後まで聞いてくれる者は、やはりいなかった。
ふと、教室の奥に目が行った。
窓際の、一番後ろの席。
机の横に鞄が掛けられたまま、持ち主の姿はない。
机の上には、何かを消したような、うっすらとした跡が残っていた。
昼ごはんを食べに出ているのだろう。
そう思って、俺はすぐに視線を戻した。
「……行くか、エレーナ」
「……うむ」
◇
放課後。
部室のドアを開けると、先客がいた。
山のような体躯と、蛇の尾。
「おー、エレーナちゃん。テウスくん。おつかれー」
「お邪魔してるわね」
ゴルドとミラだった。
狭い部室に、ゴルドの巨体が収まりきらず、半分ドアからはみ出している。ミラは器用に尾を段ボールの隙間に巻きつけて、なんとか場所を確保していた。
「な、なぜお主らがここにおるのじゃ」
「なぜって、手伝いに来たんだよ。チラシ配るって言ったじゃん」
ゴルドが、手に持った紙の束を持ち上げた。
手書きのチラシだった。丸っこい字で『世界征服部 部員募集中!』と書かれ、隅には小さな花の絵が添えられている。
「園芸部のみんなで書いたんだよー。かわいいでしょ」
「私は吹奏楽部の子たちに声をかけておいたわ。部活の説明、聞くだけでもって」
エレーナは、しばらくぽかんと二人を見ていた。
それから、ぎゅっと唇を結んで、そっぽを向いた。
「……た、頼んでおらんのじゃ」
「うん、頼まれてないね」
「頼まれてないわね」
ゴルドとミラが、顔を見合わせてにこりと笑う。
エレーナの耳の先が、赤くなっていた。
ただ、と。
ミラが少しだけ表情を曇らせた。
「でもね、エレーナ。一年の子たちの間で、ちょっと変な噂が流れてるみたい。『魔王が一年の教室を荒らし回ってる』って」
「……知っておる」
「チラシ配りも、一年の廊下は難しいかもしれないわ。今は、行くだけで逃げられちゃうでしょうから」
ミラの言うとおりだった。
今日一日で、俺たちが一年の廊下に足を踏み入れるたびに、ドアが閉まる音を何度聞いたか分からない。
「どうする、エレーナちゃん」
ゴルドが、のんびりと聞いた。
エレーナは、机の上の作戦書をじっと見つめていた。
一、一年の教室に行く。
二、勧誘する。外部生を狙う。
三、部員ゲット。
四、噂より先に動く。
どれも、うまくいかなかった。
「……もう少しだけ、やってみるのじゃ」
エレーナは、ペンを取った。
作戦書の一番下に、新しい一行を書き足す。
『五、諦めない』
「それ、作戦か?」
「作戦じゃ」
エレーナは、きっぱりと言った。
「ゴルド、ミラ。チラシは、一年以外の廊下に貼ってくれ。一年の方は、我とテウスで、もう少し回る」
「りょーかい」
「分かったわ」
ゴルドがチラシの束を抱え直し、ミラがするりと尾をほどく。
二人が部室を出ていくと、急に部屋が広く感じられた。
「……テウス」
「なんだよ」
「明日も、付き合うのじゃぞ」
「……分かってるよ」
俺はそう答えて、窓の外を見た。
期限まで、あと一週間とちょっと。
この時点で、俺はまだ知らなかった。
明日、一年の廊下の角を曲がった先で、あの子に出会うことを。