ワームが動いた。
いや、動いたという言葉では足りない。視界の端で輪郭が歪み、一瞬で俺の左側へ回り込んだ。
「クロックアップ」『CLOCK UP』
その瞬間──世界が変わった。
音が消えた。
いや、消えたんじゃない。引き伸ばされた。加賀美さんの声が「レイ──」と伸びきって、どこか遠い国の言葉みたいに響く。風の音が低く唸り、耳鳴りのように重なる。
砂だ。
さっきワームが車を投げつけた時に舞い上がった砂が、空中に止まっている。止まっているんじゃない──落ちるのが遅すぎて、見えているだけだ。粒一つ一つが、琥珀色の朝日の中でゆっくりゆっくり回転しながら浮いている。
(何だこれ)
思考は普通に動いている。いや、思考だけが普通で、世界が異常に見える。瓦礫の欠片が目の前を漂う。さっきまで地面に散乱していたガラス片が、水の中みたいにゆるやかに浮遊している。
そして──俺の身体も、この遅い世界に染まり始めていた。
足裏の感覚が鋭くなる。アスファルトの微細な凹凸が足の裏から読み取れる。心臓の鼓動が速い。いや、速いんじゃない。速く感じるだけで、実際には──合っている。この世界の速さに、合っている。
(俺も──速い)
自分の手を見る。握った拳が、視界の中でくっきりと見える。指の関節一つ一つ、装甲の継ぎ目、隙間から漏れる光。全部が鮮明だ。マスクドフォームの時には感じなかった感覚が、全身から一斉に流れ込んでくる。
だが──感覚に追いつく前に、来た。
鉤爪だ。
視界の左端から、青い残像が迫る。エピラクナワームの右腕。鉤爪が俺の脇腹を狙って、弧を描いている。
(速い──!)
驚きで一瞬、身体が硬くなった。足が止まる。拙い。この世界では一瞬が永遠になる。だが──身体が動いた。反応する。前に倒れ込むように体重を移動し、右肩を沈めて躯幹をずらす。
鉤爪が俺の脇を掠めた。
装甲と爪が触れ合う金属音が、ゆっくりと響く。火花が一つ、二つ、空中に弾けては漂う。
(……当たってない)
生きてる。
俺はクロックアップの世界で、最初の一撃をかわしていた。
呼吸をする。空気が肺に入るのが分かる。遅い世界の中で、俺の身体だけが追いつき始めている。
触手がうねるのが見える。頭部から伸びた何本もの触手が、俺の方へ向かってゆっくりと鞭のように振られる。その一本一本が、空中で波紋のような軌跡を残している。
俺は──その軌跡を見据えた。
敵が、見える。
ワームの触手がうねる。
遅い世界の中で、それだけが嫌に鮮明だった。空中に漂う砂粒の間を縫って、触手の先端が俺の喉元へと伸びてくる。軌道が見える。だが──かわすだけじゃ、終わらない。
(どうする?)
逃げ回ってるだけじゃ勝てない。師匠は──勝ちに来る。攻撃をかわしながら、次の一手を用意する。
俺は胸元のリュシオルゼクターに意識を向けた。まだ触れていない。だが、何となく分かる。このままじゃ終わらないと、教えてくれている気がした。
「光…出せるよな」
思った瞬間、身体が反応した。
腹部の節が脈打つ。さっきまで淡く発光していた青いコアが、一瞬だけ強く瞬いた。蛍光グリーンの装甲の隙間から、眩い光が溢れ出す。
世界が、一瞬だけ白くなる。
「──ッ!」
エピラクナワームが反応した。触手が揺れる。狙いが逸れた。喉元へ向かっていた触手の先端が、わずかに右へ流れる。たった数センチ。だが、この世界では──
(今だ)
俺は地面を蹴った。アスファルトが砕ける音が遅れて響く。踏み込む一歩が、クロックアップの世界の中で鋭く伸びる。右へ、左へ。光を放ちながら、俺はワームの視界の中で揺さぶりをかけた。
そして──
「残像…!」
胸元のゼクターをもう一度強く意識する。腹部の光が波打ち、身体の輪郭が一瞬だけ揺らいだ。そのまま右へ飛び出すと──
俺の身体が、そこに残った。
正確には「残っていた」。俺の形をした光の像が、空中に留まっている。質量を持った残像だ。それは一瞬だけ実体のように霞み、俺と同じ姿のまま固まっていた。
(やった…!)
エピラクナワームが反応した。残像へ触手を振り下ろす。鉤爪が光の像を貫いた瞬間──
「そこだ!」
俺は逆側から飛び込んだ。左斜め後ろ。触手を振り下ろしたことで、ワームの左側が大きく開いている。
右拳を叩き込んだ。
ガァン!
鈍い衝撃が腕を伝う。マスクドフォームとは違う軽い拳。だが、速度は乗っている。ワームの頭部が横に揺れ、青い外殻にひびが走った。
「まだ──!」
続けて左足を振り上げる。低い位置からワームの脚部を刈り取るように蹴り上げた。バランスが崩れたワームの身体が、空中で大きく傾く。
俺は間合いを詰め、さらに右肘を叩き込んだ。青い装甲が砕け、触手が一斉に暴れ出す。だが──もう届かない。体勢を崩したワームの攻撃は、空振りばかりだ。
(今なら──)
ワームの腹が見えた。外殻に覆われた胴体。そこが、開いている。
俺は右足を引いた。踏み込みに備えて重心を落とす。クロックアップの世界で、その動作は鋭く、しかし静かに整えられていく。
ライダーキック。
映像で見た師匠の技。あの高さに届くかは分からない。だが──今、狙える。
「師匠──」
心の中で呟いた。
ワームが、崩れた体勢から何とか起き上がろうとしている。だが、その動きは遅い。残像の光がまだ視界の端で揺れている。
間合いは十分。足元は安定している。背中の推進器はまだ使えないが──この距離なら跳べる。
俺は、決めた。
胸元のゼクターに手を伸ばした。
蛍の腹部、尻のあたりに小さな突起がある。スイッチだ。俺の指先がそれに触れる。ひんやりとした金属の感触が、クロックアップの世界の中でもはっきりと分かった。
「一つ──」『One』
ピッ。
押した。
ゼクターの光が一瞬だけ強くなる。腹部の節が順番に脈打ち、青いコアが明滅する。まるで心臓の鼓動みたいに。全身の装甲に微かな振動が走った。
「二つ──」『Two, 』
ピッ。
二度目。光が一段階強くなる。足元から熱が上ってくるような感覚。踏み込む力が、太腿に集まっていくのが分かる。俺は右足を引き、左足を前に出した。軸足を固める。残像がまだワームの視界を攪乱している。鉤爪が光の像を叩き割ろうと暴れている。
「三つ──」『Three.』
ピッ。
三度目。
ゼクターの羽が開いた。
背中の推進器が唸りを上げる。だが、飛ばない。飛ばない。今はまだ必要ない。ゼクターはそれを理解しているようで、推進器は微かに震えるだけだった。代わりに──足元へ力が流れ込んでくる。まるで地面と一体化したみたいに、軸足が強固になる。
『RIDER KICK』
電子音声が、遅い世界の中で鮮明に響いた。
「行くぞ──!」
俺は地面を蹴った。
アスファルトが砕ける音が、後から追いついてくる。身体が宙に浮く。右足を振り上げる。足先に蛍光グリーンの光が集まり、炎のように揺らめいた。
ワームがこちらを向いた。残像を破壊した鉤爪が、今度は俺の方へ向かって振り下ろされる。だが──遅い。
「遅えよ!」
空中で体勢を変える。師匠が映像の中で見せたみたいに、一度空中で静止する感覚。重力なんて忘れたみたいに、俺の身体は空中で軌道を修正した。
光をまとった右足が、ワームの腹部へ突き刺さる。
「──っ!!」
衝撃が脚から全身へ走った。鈍い音。青い外殻がひび割れ、砕け散る。ワームの身体が大きく後方へ弾き飛ばされた。
その瞬間──世界が戻った。
音が押し寄せる。風の音、瓦礫が地面に落ちる音、加賀美さんの声。全部が一度に耳に飛び込んできた。
「──ぐあぁぁぁ!!」
エピラクナワームが断末魔を上げる。身体を包んでいた青い外殻が粉々に砕け散り、光の粒子となって消えていく。最後に残った触手が空を掻いて、そして──動かなくなった。
クロックアップが解除された。
足元の砂粒が、一斉に地面へ落ちる。さっきまで空中に漂っていた瓦礫が、ばらばらと音を立てて散らばった。
俺は着地した。膝が震えている。呼吸が荒い。だが──立っていた。
「…やったのか?」
自分の声が、少しだけ震えていた。マスクの奥で息を呑む。胸元のゼクターが、静かに明滅している。
エピラクナワームの残骸は、もう何もなかった。ただ黒い焦げ跡だけが、アスファルトの上に残っている。
「レイくん!」
背後から走ってくる足音。振り返ると、加賀美さんがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。その顔には、驚きと──安堵が混じっていた。