大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
二月の終わり。連絡船のタラップを降りると、潮の匂いが先に鼻をついた。
雪村伊里奈は、キャリーケースの持ち手を握り直した。
見上げた学園艦の空は、思っていたよりずっと低くて明るい。
雪の気配が、どこにもなかった。
(……ここが、大洗)
「転入生の雪村さんね。ようこそ、大洗女子学園へ」
事務室の女性は、にこにこと書類を受け取った。春から三年生。中途半端な時期の転校に、理由を聞かれることはなかった。
聞かれたら「家の事情」と答えるつもりだった。嘘ではない。ただ、全部でもない。
聞かれないほうが、ずっと楽だ。
(誰も、私を知らない)
制服が違う。校章が違う。呼ばれる名前の響きまで違う。
それだけで、肩の荷がひとつ下りたような気がした。下りたのだと、思いたかった。
*
一週間もすると、校内の様子はだいたい頭に入った。
戦車道の気配は、驚くほどなかった。
掲示板にも、廊下にも、体育館にも。
(そうだよね。まだ、始まってないんだから)
窓の外の海を眺めながら、伊里奈は指を折った。
あと、一か月半。
四月の初めに、西住みほがこの学校へやってくる。
それを知っているのは、この艦で自分だけだった。
(知っていて、何ができるんだろう)
教えたところで、誰が信じるだろう。信じてもらえたところで、何が変わるだろう。
去年、それを確かめたばかりなのに。
かつて、この世界は画面の向こうの物語だった。
何度も見返した。台詞を覚えるほどに。最終章は、第5話まで劇場の暗闇で息をのんで見届けた。
だから、伊里奈は知っている。大洗が、これからどうなるのかを。
去年の決勝戦のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。
雨で重くなった空気。泥の匂い。足場を失って流されていく黒森峰の戦車。
そして、仲間を助けるために動きを止めた一両。
――止められると思っていた。
自分はあの場所にいたのだから。あの時、何かひとつでも違う選択ができれば、と。
無線の向こうで、カチューシャが叫んだ。
「撃ちなさい!」
砲声。
白旗が上がった。
プラウダは優勝した。
何ひとつ、変わらなかった。
(原作は、変えられない)
あの日から、雪景色がほんの少し遠くに見えるようになった。
だから、逃げるように転校を決めた。行き先に大洗を選んだ理由だけは、自分でもうまく言葉にできない。
(本当は、逃げたかっただけじゃないのかもしれない)
変えられないと知っている場所から離れて、まだ誰にも決められていない場所へ行きたかった。そんな子供じみた理由を、自分でも信じきれずにいる。
プラウダを発つ朝、伊里奈は誰にも何も告げなかった。
カチューシャにも。ノンナにも。
雪の積もる甲板を、見送りのないまま歩いて、連絡船に乗った。
振り返れば、きっと足が止まる。だから、振り返らなかった。
*
転入して十日目の放課後。
伊里奈は、人気のない場所を探して艦の隅へ歩いていた。
賑やかな場所が苦手なわけではない。ただ、今日は誰とも話したくなかった。
気がつくと、校舎から離れた古い区画に迷い込んでいた。
錆びた鉄扉。半分だけ開いた、倉庫の入口。
何気なく中を覗いて、息が止まった。
薄暗がりの奥に、砲塔があった。
傾斜した車体前面。どっしりとした砲塔。大きな転輪が並ぶ足回り。
塗装はほとんど剥がれ、全身に錆が浮いている。それでも、見間違えようがなかった。
「……T-34」
声が、勝手にこぼれた。
足が勝手に前へ出る。気づけば、掌が装甲に触れていた。
ざらついた鉄が、冷たい。
砲塔の側面。錆の下に、赤い星の名残がうっすらと残っている。
(どうして、ここに)
大洗に、ソ連の戦車はいない。
伊里奈の知っている物語には、いなかったはずだ。
(……どうして、こんなに胸がざわつくんだろう)
ただの古い鉄の塊だ。放っておかれて、錆びて、忘れられている。
それなのに、目を逸らせない。
「ねえ、そこで何してるの?」
背後から声がして、伊里奈は飛び上がりそうになった。
振り返ると、作業着姿の少女が立っていた。短めの茶色い髪。片手には箒、反対の手にはちりとり。
「うわ、人がいた。びっくりした」
「こっちの台詞です」
「あはは、ごめんごめん。私、朝倉こはる。春から二年。美化委員の当番で、ここの掃除に来たんだけど」
こはるは倉庫の奥へ目をやり、首を傾げた。
「……あれ、何だろう? なんか、すごく大きいね」
「戦車です」
「せ、んしゃ?」
「T-34。ソ連の戦車です」
言ってから、しまった、と思った。
詳しすぎる。
でも、こはるは目を輝かせただけだった。
「すごい、知ってるんだ! ねえ、名前は?」
「雪村伊里奈。転入生です」
「あ、噂の転入生! じゃあ、伊里奈ちゃんだね」
「……いきなり、ちゃん付けですか」
「だめ?」
「だめ、ではないですけど」
妙な子だ、と思った。妙で、悪い気はしなかった。
*
「こはる、いつまで掃除して……あ、誰かいる」
倉庫の入口に、さらに二人。
黒髪を低く結んだ少女と、ノートを抱えた背の高い少女。
「水野千紗。春から二年。こはると同じ当番」
「黒田すみれ。春から三年。……こんにちは」
三人は倉庫の奥へ進み、揃って足を止めた。
「……戦車ね」
すみれが静かに呟いた。
「T-34だって。伊里奈ちゃんが教えてくれた」
「詳しいんだね、雪村さん」
千紗に見つめられ、伊里奈は視線を逸らした。
「少しだけ、です」
「ねえ、これ動くのかな?」
こはるが、戦車の周りをぐるぐる歩き始めた。
「無理でしょう。こんなに錆びているのに」
すみれが首を振る。
「足回りも傷んでるし、砲塔にも大きな凹みがある」
千紗が言った。
「そっか……」
こはるは残念そうに口を尖らせた。
そのとき、伊里奈の口が動いた。
「直せなくは、ないです」
三人の視線が、一斉に伊里奈に向く。
「え?」
「時間はかかります。部品も足りないかもしれない。でも、全部だめになっているわけじゃない」
言いながら、伊里奈は自分に驚いていた。
戦車道から離れるために、この学校へ来たはずだった。
動かない戦車の前で、こんなことを言うつもりはなかった。
それなのに。
「本当に?」
こはるが身を乗り出した。
「やってみないと、分かりませんけど」
「やろう!」
「えっ」
「やろうよ、伊里奈ちゃん。私も手伝う!」
「ちょっとこはる、そんな簡単に」
千紗が止めかけて、ふっと息を吐いた。
「……でも、確かに気になる。私も、手伝えることがあれば」
「記録なら、取れるわ」
すみれがノートを開く。
「いつ、どこを直したのか。あとで困らないように」
伊里奈は、三人の顔を順番に見た。
出会って、十分も経っていない。
それなのに、誰も伊里奈の過去を知らないまま、同じ戦車を見上げている。
(変なの)
過去を知らない人たちの前だと、自分の言葉がやけに軽く聞こえる。軽いのに、嫌じゃない。
「……いいんですか? 本当に時間がかかりますよ」
「いいよ!」
こはるが笑った。
「だって、気になるじゃん!」
理由はそれだけで十分らしかった。
伊里奈は、小さく息を吐いた。
「じゃあ、まず、この倉庫を片付けましょう。作業できる場所を作らないと」
「了解!」
三人が箒を握り直す。
伊里奈は、もう一度T-34を見上げた。
錆びた赤い星が、差し込む夕日に、うっすらと浮かんでいる。
私の知っている物語に、いなかった戦車。
(原作に、いなかった戦車)
もしこれが、物語の外から来たものなら。もしこの戦車が、動いたなら。
……考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。変えられないと、あれほど思い知ったはずなのに。
それでも、一度浮かんだ期待は、簡単には消えてくれなかった。
四月の初め、西住みほが来る。
そのときまでに、この戦車を動かせるようにしておく。
理由は、まだ言葉にならなかった。
ただ、掌に残った鉄の冷たさだけが、確かだった。