大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
プラウダ高校の学園艦は、今日も北の海を行っていた。
「ちょっと、ダージリン! ジャムを紅茶に入れちゃだめよ!」
カチューシャは、空いた手で客の手元を叩いた。
「ジャムはなめながら、紅茶を飲むの。それが正しいロシアンティーよ」
「あら、そうだったの。勉強になるわ」
ダージリンは、少しも動じずにスプーンを置いた。すでに準決勝で黒森峰に敗れたというのに、この人は、いつもこうだ。
ノンナが、きれいなロシア語でひと言添えて、お茶請けを客の前に置いた。
「それで、こんなにのんびりしていて大丈夫なの? 次は準決勝でしょう」
「大丈夫に決まってるじゃない。相手は無名の弱小校よ。練習なんかしたら、燃料がもったいないわ」
カチューシャは胸を張った。ダージリンは、カップの縁に小さく微笑んだ。
「そうかしら。大洗の隊長は、西住の娘よ」
カチューシャは、ジャムのスプーンを取り落とした。
「……そ、それを早く言いなさいよ! 西住って、あの西住!?」
「ええ。――妹のほうだけれど」
「……なんだ、妹のほう。じゃあ、たいしたことないわね」
カチューシャは、もう一度胸を張り直した。後ろで、ノンナが小さくため息をつく。
「大洗を指揮しているのは西住だと、私は何度も申し上げましたが」
「聞いてないわよ!」
ダージリンは、そのやりとりを楽しそうに眺めてから、カップを置いた。
「それと、もうひとつ。――大洗には、T-34が一輌いるわ」
「T-34? フン、あんな弱小校にT-34が一輌あったところで……」
「車長は、雪村伊里奈。あなたの、元部下ね」
部屋の空気が、止まった。
カチューシャは、何も言わなかった。紅茶の湯気だけが、ゆらゆらと揺れている。
「わたくしのマチルダを、路地で二輌倒した子よ。ご存じなかった?」
「……知ってたわよ。行き先くらい」
それは、嘘ではなかった。二月にノンナから聞いている。ただ、そのあと、あの子がまた戦車に乗っていることは、知らなかった。
知らなかった、のではない。調べようと、しなかったのだ。
「……ふん。いいわよ。ちょうどいいじゃない」
カチューシャは、窓の外の雪原に目をやった。
「カチューシャに黙って出ていった子が、どの程度のものになったのか。たっぷり、見せてもらうわ」
その声が、ほんの少しだけ揺れていたことに、気づいたのはノンナだけだった。
2/
準決勝を前にした大洗の空気は、どこかふわふわしていた。
「ベストフォーだよ! 初出場でここまで来れたんだから、もう十分じゃない?」
練習の合間に、誰かがそう言った。いくつもの顔が、うんうんと頷く。必ず勝たなければいけないわけじゃないよね、と。
それを、桃の怒鳴り声が切り裂いた。
「馬鹿を言うな! 勝たなければ意味がないんだ!」
珍しく、本気の声だった。皆がきょとんとする中で、伊里奈だけが、桌の拳が震えているのを見ていた。
その理由を、伊里奈は知っている。負ければ、この学校はなくなる。それを知っているのは、まだ生徒会の三人だけだ。
そして、自分と。
その日の練習のあと、みほが生徒会室に呼ばれていくのを、伊里奈は廊下の端から見送った。
扉の向こうから、おいしそうな匂いが漏れてくる。あんこう鍋だ。
しばらくして出てきたみほは、不思議そうな顔をしていた。美味しかったけれど、どうして呼ばれたのかよくわからない、という顔だ。
生徒会は、まだ言えなかったのだ。
伊里奈は、拳を握った。自分がここで言えば、みほは先に知ることになる。けれど、それは自分が口にしていい言葉ではない。この学校の人たちが、自分たちの口で伝えるべきことだ。
そのかわり、伊里奈はその夜、倉庫に三人を集めた。
「次の試合。もし、相手が逃げるように見えても、追いかけないでください。それが、プラウダのいちばん得意なやり方なので」
「……伊里奈ちゃん、なんでそんなに詳しいの?」
こはるが、首をかしげた。
伊里奈は、すぐには答えられなかった。
「……試合の日に、話します」
それだけ言うのが、精一杯だった。
3/
試合会場は、一面の雪原だった。
吐く息が白い。大洗の戦車は七輌。新しい長砲身を載せたIV号、風紀委員のB1bis。そして、雪の中でも少しも浮かないT-34。
そこへ、雪を蹴立てて、奇妙な車輌が近づいてきた。荷台に鉄の架台をずらりと載せた、自走ロケット砲。その名も、カチューシャ。
降りてきたのは、小学生にしか見えない小さな少女と、その後ろに立つ、背の高い黒髪の少女だった。
伊里奈は、T-34の陰で息を止めた。
小さな少女が、大洗の前に立ちはだかる。その前で、杏が、わざわざ膝をかがめて目線を合わせた。
小さな少女の顔が、みるみる赤くなる。
「ノンナ!」
背の高い少女が、黙ってその体をひょいと持ち上げ、肩に乗せる。大洗の全員を、一番上から見下ろす形になった。
「あなた達はね、全てがカチューシャより下なの。戦車も技術も身長もね!!」
カチューシャは、大洗の戦車をじろりと見回して、その貧相さをけらけらと笑った。それから、みほに目を止める。
「去年はありがとう、あなたのお陰で私達優勝できたわ」
みほの顔が、こわばった。
伊里奈は、T-34の陰から一歩、前に出ていた。
「……カチューシャ」
その声に、小さな暴君の動きが止まった。
ノンナの肩の上から、ゆっくりと、伊里奈を見下ろす。その目は、相変わらず大きくて、そして、ひどく冷たかった。
「……イリーナ」
大洗の全員が、息をのんだ。こはるも、千紗も、すみれも。そして、みほも。
「カチューシャに一言もなしで出ていって、こんなところで、こんな弱小校のために戦車に乗ってるなんて。――去年の決勝で、カチューシャの隣にいたくせに!」
その一言で、みほが、はっと伊里奈を見た。
雨の匂いのする場所。どこかで見たことのある顔。その答えが、今、みほの中で結びついていくのが、伊里奈にはわかった。
「……私は、今は大洗の生徒です」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
カチューシャは、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいわよ。じゃあ、大洗の生徒として、たっぷり可愛がってあげるわ」
そこへ、桃が「失礼な!」と気色ばむ。カチューシャは、一瞬だけそちらをにらみつけた。
「しゅくせいしてやる!」
それから、ノンナの肩の上でくるりと向きを変える。
「じゃあね〜ピロシキ〜」
自走ロケット砲が、雪を蹴立てて去っていく。騒がしい小さな背中の下で、ノンナが一度だけ振り返った。
その目が、伊里奈をとらえる。
「……カチューシャを裏切ったあなたは私が撃ちます」
それだけを、伊里奈にだけ聞こえる声で残して。
4/
自走ロケット砲の音が遠ざかると、雪原に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、こはるだった。
「……伊里奈ちゃん、プラウダにいたの?」
「……はい」
伊里奈は、三人の前に立った。それから、少し離れたところで自分を見つめている、みほの前にも。
「試合の日に話すと、約束しましたね」
そう前置きして、伊里奈は話した。二年間、プラウダで砲手をしていたこと。去年の決勝で、カチューシャのすぐそばのT-34/85に乗っていたこと。そして、そのあと、プラウダを出たこと。
前の人生のことだけは、話さなかった。それは、まだ話せない。
「……黙っていて、すみませんでした」
頭を下げる。しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、千紗が、小さく息を吐いた。
「……そうだと思ってた。サンダース戦のから、ずっと」
「私もよ。記録をつけていれば、おかしなところは全部わかるわ」
すみれが、記録帳を胸に抱えて言う。こはるが、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「……雨の夜に、言ったでしょ。何か隠してても、気にしないって」
そして、みほが、一歩前に出た。
「……雪村さん」
声は、震えていなかった。
「あのとき、あの雨の中に、いたんですね」
「……はい」
みほは、しばらく伊里奈を見つめていた。それから、小さく頷いた。
「話してくれて、ありがとうございます。……試合のあとで、またお話しさせてください」
それだけ言って、みほは隊長の顔に戻った。試合開始の時間が、迫っていた。
5/
雪原の向こうから、歌声が聞こえてきた。
「カチューシャ」。プラウダの全員が、進撃しながら歌う歌だ。伊里奈も、何度も歌った。
その前に、あの小さな隊長が何を宣言したのかも、伊里奈にはわかっていた。撃破された車輌は、シベリア送り二十五ルーブル。力の差を見せつけるために、フラッグ車以外を先に全滅させる。
「……十五輌」
千紗が、双眼鏡を握りしめた。大洗は七輌。フラッグ車は、アヒルさんチームの八九式だ。
接敵は、あっけなかった。斥候のT-34が二輌、大洗の砲火で次々と白旗を上げる。残りは、泡を食ったように後ろへ下がっていく。
『いけるぞ! 一気に行っちゃいましょう!』
無線の向こうで、誰かの声が弾んだ。サンダースにも、アンツィオにも勝った。その勢いが、全員の背中を押している。
伊里奈は、無線のスイッチを押した。
「こちら雪村。――追わないでください。あれは、釣り野伏せです。カチューシャのいちばん得意な手です」
一瞬、無線が静まり返った。
みほの声が、少し遅れて続いた。
『……私も、手応えがなさすぎる気がします』
『しかし、今が好機だ! ここで引いたら、むしろ包囲されるぞ!』
桃の声がかぶさる。それに、いくつもの「行けます!」が重なった。
みほは、迷った。そして、皆の勢いを止めることができなかった。
『……わかりました。ただし、全車、周りに注意してください』
伊里奈は、目を閉じた。
変えられない。わかっていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「……こはる、列のいちばん後ろについてください。いつでも向きを変えられるように」
「……わかった」
そうして大洗は、雪原の奥へと追っていった。
やがて、前方に、雪に埋もれた廃村が見えてきた。
その瞬間、周りの丘と建物の陰から、一斬に砲塔が現れた。
『包囲されてます!』
砲弾が、雪を吹き上げる。前も、横も、後ろも。
「こはる、右へ! 列の尻を守ります!」
列のいちばん後ろについていたT-34が、車体ごと向きを変えて、後ろから迫ってくるT-34の群れに砲口を向ける。伊里奈は、一番近い一輌の足元を撃ち、その歩みを一瞬だけ止めた。
『全車、あの建物に!』
みほの声。廃村の中に、半ば崩れた石造りの教会があった。
七輌が、そこへ転がり込む。最後に飛び込んだのは、T-34だった。
教会の壁を、砲弾が何度も叩いた。しばらくして、その音が、ふいに止んだ。
白旗を持ったプラウダの生徒が二人、雪を踏んで近づいてくる。
「――カチューシャ様からの、伝言です」
ぶっきらぼうな口調だった。
「大洗の全員が土下座してイリーナが誠心誠意謝罪するなら、降伏を認める。猶予は、三時間」
教会の中の空気が、凍りついた。
伊里奈は、冷たい石の壁に背中を預けた。
知っている。この三時間で、この学校の秘密が明かされる。そして、みんなが、それでも戦うと決める。
ただ、その物語のどこにも、元プラウダの砲手の居場所は書かれていない。
それを自分で探さなければいけないのだと、伊里奈は、窓の外の雪を見ながら思った。