大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
教会の中は、吐く息まで凍りそうなほど冷えていた。
崩れた天井から、雪がちらちらと落ちてくる。七輌の戦車の周りに、二十数人の生徒が身を寄せ合っていた。
「……三時間、か」
誰かが、小さく呟いた。
「土下座なんて、する必要はない! 徹底抗戦だ!」
桃が叫んだ。けれど、その声に応える者はいなかった。外には十五輌。一歩でも出れば、集中砲火を浴びる。
「……私が、謝りに行きます」
伊里奈は、立ち上がっていた。
「条件には、私の謝罪も入っていました。カチューシャが怒っているのは、私です。私ひとりが頭を下げれば、せめて皆さんの土下座だけは――」
「だめ」
こはるが、伊里奈の袖をつかんだ。
「伊里奈ちゃんだけに謝らせるなんて、絶対にだめ」
「同感ね。チームの罰は、四人で受ける。聖グロ戦のあとに、そう決めたでしょう」
すみれが言う。千紗も、黙って頷いた。
伊里奈は、言葉を失って立ち尽くした。
みほは、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
これ以上、みんなを危ない目にあわせたくない。戦車道は、戦争じゃない。勝ち負けよりも、大事なものがあるはずだ。この学校に来て、皆と出会って、はじめて戦車道を楽しいと思えた。その気持ちを大事にしたまま、この大会を終えたい。
そう、みほは言った。
「……勝つ以外に、何が大事なんだ!」
桃の声が、裏返った。
「負けたら、我が校はなくなるんだぞ!」
教会の中が、しんと静まり返った。
「……学校が、なくなる……?」
みほが、呼吸を忘れたように繰り返す。
生徒会の三人が、顔を見合わせた。それから、杏が、干し芋をもたない手で、ゆっくりと前に出た。
この全国大会で優勝しなければ、大洗女子学園は廃校になる。それが、生徒会がずっと黙っていたことだった。
伊里奈は、冷たい石の壁にもたれたまま、目を伏せた。
知っていた。最初から、ずっと。
こはるが、伊里奈の顔をじっと見ていた。そして、何も聞かなかった。ただ、そっと伊里奈の手を握った。
長い沈黙のあと、最初に笑ったのは、沙織だった。
「……なんだ。じゃあ、やるしかないじゃん」
その一言をきっかけに、いくつもの声が上がった。この学校が好きだから。戦車道が楽しいから。最後まで、あきらめたくない。
みほが、その一人ひとりの顔を見回した。そして、最後に、伊里奈を見た。
伊里奈は、壁から背中を離した。
「……私も、戦います」
声は、思っていたよりもずっと、まっすぐに出た。
「プラウダのやり方なら、少しはわかります。二年間、あそこにいたので」
隠していたものが、今は役に立つ。そのことが、不思議なくらい胸を軽くした。
「……ねえ、伊里奈ちゃん」
こはるが、伊里奈の手を握ったまま言った。
「三時間あるなら、聞かせて。プラウダで、何があったのか」
何人もが、こちらを見ていた。生徒会の三人も、一年生たちも。そして、みほも。
伊里奈は、ゆっくりと息を吸った。
「……入学式の日のことから、話します」
2/
二年前の春。プラウダ高校の講堂は、凍えるほど寒かった。
新入生代表として壇上に上がったのは、小学生にしか見えない少女だった。首席入学。本人は、カチューシャと名乗った。
式が終わると、同じ新入生の何人かが、さっそくその子を取り囲んだ。生意気な首席、というわけだ。
伊里奈は、知っていた。この先に何が起きるのか。
小さな少女は、一歩も引かなかった。数分後、廊下に転がっていたのは、取り囲んだほうだった。
「……あんた、さっきから何見てるのよ」
振り返った少女に睨まれて、伊里奈は思わず背筋を伸ばした。
「雪村伊里奈です。……同じ一年生です」
「ふうん。見てただけ? 助けに入るでもなく」
「必要なさそうだったので」
少女は一瞬きょとんとして、それからけらけらと笑った。
「正直でいいわ。カチューシャの役に立つなら、名前くらい覚えてあげる」
それが、カチューシャとの最初の会話だった。
その夜、寮の食堂で、伊里奈はもうひとりと出会った。
窓際の席に、背の高い少女がひとりで座っていた。黒髪は、今よりずっと短い。誰とも話さず、ロシア語の本を読んでいる。
空いている席は、その向かいしかなかった。
「……ここ、いいですか」
少女は、本から目を上げずに頷いた。しばらくして、少女のほうから口を開いた。
「今日、同級生を何人も相手してた子。あなた、知り合いですか」
「さっき、知り合いになりました」
「そうですか」
少女は、本のページをめくった。
「私は、ああいう人は好きになれません。……同部屋なんですよ」
ノンナ。のちにカチューシャの傍らを片時も離れなくなる人が、最初はカチューシャを嫌っていた。画面の向こうで知ってはいたけれど、目の前で聞くと、不思議な気持ちだった。
教会の中で、誰かが小さく笑った。
「……あの二人に、そんな頃があったんだ」
沙織だった。伊里奈は、少しだけ頷いた。
3/
「一年目のプラウダは、ひどいものでした」
何年も黒森峰に勝てない。上級生の多くは勝つことをあきらめて、楽しくやれればいいと言っていた。練習はゆるく、戦車の整備は雑だった。
それに真っ向から逆らったのが、カチューシャだった。一年生をまとめ、上級生にかみつき、陽の当たらない教室で「シベリア送り」の補習を自ら開く。伊里奈は、その最初の生徒のひとりで、最初の砲手のひとりだった。
「伊里奈は、カチューシャの言うことを、いつも聞いてたの?」
千紗が尋ねる。伊里奈は、首を横に振った。
「いいえ。……何度か、止めようとしました」
一度目は、その年の全国大会だった。
プラウダは、聖グロリアーナと当たった。相手の隊長はアールグレイ。何をしてくるか読めない、型破りな人だと、伊里奈は知っていた。
試合の前夜、伊里奈は、上級生の作戦会議から追い出されたカチューシャをつかまえた。
「カチューシャ。明日の相手は、正面からは来ません。クロムウェルが、思いもよらない方角から回り込んできます。せめて、側面の見張りを――」
「なによ、それ。一年が上級生の作戦に口出しして、聞いてもらえると思ってるの?」
「あなたが言えば、少しは」
「カチューシャだって一年よ!」
カチューシャは、ぷいとそっぽを向いた。
「それに、そんな先のことがわかるなら、誰も苦労しないわ」
聞いてもらえなかった。
試合は、伊里奈の知っていたとおりになった。クロムウェルが、誰も見ていなかった方角から現れ、プラウダの列をかき回した。伊里奈は、その車体を照準器に捉えた。最後まで、捉え続けた。けれど、撃つ前に、自分の戦車に白旗が上がった。
「……それ、ダージリンさんが言ってた話?」
こはるが、目を丸くする。伊里奈は頷いた。聖グロとの練習試合のあと、ダージリンが覚えていたのは、あの日の一年生の砲手だった。
「二度目は、去年の決勝の前でした」
4/
二年目のプラウダは、変わり始めていた。
カチューシャのもとに、一年生も二年生も集まった。勝つためのプラウダ。その真ん中にカチューシャがいて、いつの間にか、その隣にノンナが立つようになっていた。
伊里奈も、その中にいた。勝つことが、楽しかった。それは、嘘ではない。
けれど、第62回大会の決勝が近づくにつれて、伊里奈は眠れなくなった。
決勝の前の晩。伊里奈は、カチューシャの部屋の扉を叩いた。
「明日、雨が降ります。川沿いの斜面が崩れて、黒森峰の戦車が一輌、川に落ちます。フラッグ車の車長が、それを助けに降りる。……そのときは、撃たないでください」
カチューシャは、しばらく伊里奈の顔を見ていた。
「……あんた、何言ってるの? 占い?」
「お願いです」
「バカね」
カチューシャは、扉に手をかけた。
「止まった的を撃たない理由なんて、試合にはないわ。寝なさい。明日は、勝つのよ」
扉が閉まった。
教会の中が、静まり返った。
みほが、伊里奈を見ていた。その目が、大きく見開かれている。
「……どうして、そんなことが、わかったんですか」
みほの声は、かすれていた。
伊里奈は、答えに迷った。前の人生のことは、言えない。
「……わかって、いたんです。ずっと前から。うまく説明できなくて、すみません」
みほは、それ以上聞かなかった。ただ、膝の上で、自分の手を強く握りしめていた。
そして、あの雨の日が来た。伊里奈は無線で、もう一度だけ頼んだ。撃たないでください、と。返ってきたのは、撃ちなさい、という声だった。
「三度目は、決勝のあとでした」
優勝したプラウダは、すぐに「汚れた王者」と呼ばれた。カチューシャは隊長になり、胸を張っていた。
伊里奈は、一度だけ、カチューシャに頼んだ。
「あの試合のこと、何か言ってくれませんか。黒森峰の副隊長が仲間を助けに降りたことを、せめて――」
「なんで、カチューシャが言い訳しなきゃいけないのよ」
カチューシャの声は、冷たかった。
「勝ったのは、カチューシャよ。ルールどおりに。それの何が悪いの」
悪くない。わかっていた。だからこそ、伊里奈は何も言い返せなかった。
三度、手を伸ばした。三度とも、届かなかった。
その冬、伊里奈は、誰にも言わずに転校の手続きをした。カチューシャにも、ノンナにも。変えられない物語のそばにいるのが、もう苦しかった。
「……それが、全部です」
長い沈黙が落ちた。
こはるが、伊里奈の手を、もう一度強く握った。
「私は聞いたわ」
すみれが、かじかんだ指で記録帳を開いた。
「ちゃんと、三回、止めようとしたって」
「伊里奈は、裏切ったんじゃないよ。届かなかっただけ」
千紗の声は、静かだった。
みほは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……私も、黒森峰から、誰にも何も言わずに出てきました」
伊里奈が顔を上げると、みほは、少しだけ笑っていた。
「だから、雪村さんの気持ち、少しだけわかる気がします」
5/
その頃、包囲の外側では、焚き火がいくつも燃えていた。
プラウダの生徒たちが、湯気の立つボルシチの鍋を囲んでいる。誰かがコサックダンスを踊り始め、手拍子が雪原に響いた。もう、試合は終わったようなものだった。
カチューシャは、アエロサンの操縦席に毛布を敷いて、小さく丸まっていた。
「……ノンナ。三時間たったら起こして」
「はい」
お腹がふくれて、眠くなった。だから三時間。それだけのことだ。
けれど、カチューシャは、なかなか目を閉じられなかった。毛布の中で、あの子の顔ばかりが浮かぶ。
一年の夏。聖グロとの試合の前の晩、あの子は、まるで見てきたみたいな顔で言った。クロムウェルが、思いもよらない方角から回り込んでくる、と。カチューシャは、取り合わなかった。次の日、本当にそうなった。
去年の決勝の前の晩も。雨が降る、川に戦車が落ちる、フラッグ車の車長が降りる。だから、撃たないで、と。占いみたいなことを言うから、追い返した。次の日、全部そのとおりになった。
気味が悪かった。だから、余計に聞かなかった。聞いてしまったら、自分の戦車道が、誰かに先に決められたものみたいになる気がしたから。
それでも、あの子は止めに来た。三度目は、優勝したあとだった。何か言ってくれ、と。カチューシャは、言い訳なんかしない、と突っぱねた。
あの子が転校したと知った日、カチューシャは書類を放り出した。その夜は、毛布をかぶったまま、朝まで眠れなかった。泣いてなんかいない。泣いてなんか。
「……ノンナ」
「はい」
「謝罪の条件。余計だったと思う?」
ノンナは、少しだけ間を置いた。
「いいえ」
「……そう」
あの子に、カチューシャの前で頭を下げさせなければいけない。そうしないと、あの子は二度とこっちを見ない気がした。頭を下げさせて、それから――それから、どうしたいのかは、カチューシャにもわからなかった。
「……イリーナ、強くなってたわね」
「はい」
「列の後ろで、ちゃんとこっちの足を止めた。一年のときは、照準器の前で震えてたくせに」
ノンナは答えず、カチューシャの毛布を、そっとかけ直した。
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。ノンナは、小さな声で子守唄を口ずさんだ。
歌いながら、ノンナは包囲の向こうの、崩れた教会を見ていた。
あの子が出ていった夜、毛布の下で震えていた小さな背中を、ノンナは知っている。知っているのは、自分だけだ。
だから、言った。私が撃つ、と。
カチューシャを泣かせた人を、ほかの誰にも撃たせはしない。自分の手で、終わりにする。それが、ノンナの決めたことだった。
6/
三時間は、長いようで短かった。
教会の中では、三突の履帯の修理が始まっていた。伊里奈も、工具箱を提げてその輪に加わった。
「そこのピン、先に抜いたほうが楽です」
「おお、助かる」
おりょうが、泥だらけの顔で笑った。
そのあいだに、優花里とエルヴィンが、包囲の偵察に出た。どこからか拝借したプラウダの上着を着て、焚き火のあいだを、何食わぬ顔で歩いていく。
戻ってきた二人は、驚くほどたくさんのことを知っていた。通りかかった一年生が、二人を先輩だと思い込んで、陣形を全部教えてくれたのだという。
優花里の描いた地図を囲んで、作戦会議が始まった。
「包囲の、ここだけが薄いんです」
優花里が、地図の一点を指さす。何人かの顔が、ぱっと明るくなった。
伊里奈は、その一点をじっと見つめてから、口を開いた。
「……そこは、わざと開けてあるんだと思います」
全員の視線が、伊里奈に集まる。
「カチューシャは、包囲に一か所だけ穴を作ります。そこを通ろうとした相手を、もう一度囲んで集中砲火を浴びせる。一年のときから、何度もそうやって勝ってきた人です」
「……じゃあ、フラッグ車を狙うのは?」
沙織の問いに、伊里奈は首を横に振った。
「フラッグ車の近くには、きっと何かを隠しています。いちばん重いものを」
優花里が、はっと地図を見直した。そこには、KV-2の印があった。
みほが、長いあいだ地図を見つめていた。そして、指先を、包囲のいちばん厚いところに置いた。
「……ここを、正面から突破します」
穴でも、フラッグ車でもない。誰も来るとは思っていない場所。
この作戦は、「ところてん作戦」と名付けられた。
伊里奈は、地図を見下ろしたまま、少しだけ息を止めた。
自分は、穴とKV-2のことは言えた。けれど、いちばん厚いところを破るという答えは、あの子が自分で出した。画面の向こうで観たとおりに。
それが、少しだけ誇らしかった。
けれど、そこからが長かった。
雪が強くなり、教会の中はどんどん冷えていった。お腹が鳴る。一年生たちの口数が減り、誰かがすすり泣きを始めた。
そのとき、みほが立ち上がった。
「……みんなで、勝とうって決めたじゃないですか」
伊里奈も立ち上がり
「…最後まで戦って勝つんだって…皆さん頑張りましょうよ…」
けれど返事はポツポツと聞こえるほど小さい。
みほと伊里奈は顔を見合せ頷いた。
「♪アアアン アン アアアン アン
アアアン アアアン アン アン アン
あの子 会いたや あの海越えて
頭の灯は 愛の証
燃やして 焦がして ゆーらゆら
燃やして 焦がして ゆーらゆら
こっち来て アンアン
逃げないで アンアン
波に揺られて アンアンアン♪」
一瞬の沈黙のあと、沙織が吹き出した。それから、優花里が、華が、麻子が立ち上がる。
こはるも、立ち上がった。
あの練習試合のあと、一人で踊ったあんこう踊り。今度は、二十数人で。こはるが、千紗が、すみれが、両隣で同じように手を振っている。
むちゃくちゃな振り付けだった。けれど、体は、不思議と温まっていった。
だから、誰も気づかなかった。約束の三時間がたって、教会の入り口でプラウダの使者が、所在なさそうに立ち尽くしていることに。
やがて、使者が咳払いをした。みほは、息を弾ませながら、まっすぐに答えた。
降伏は、しません。