大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
東富士演習場。
戦車道の聖地と呼ばれる富士の麓は、朝から人であふれていた。
大洗の戦車は、前の晩に貨車で運ばれてきた。荷台から降ろされた九輌が、陣地の草の上に並んでいる。IV号、ヘッツァー、八九式、三突、M3、B1bis、ポルシェティーガー、三式。そして、くすんだ緑の車体に赤い星と白い熊を描いた、T-34。
第六十三回戦車道全国高校生大会、決勝。大洗女子学園対黒森峰女学園。
試合前の大洗の陣地には、思いがけない客が次々と訪れた。
最初に現れたのは、紅茶のカップを手にしたダージリンと、オレンジペコだった。続いて、ケイがアリサとナオミを引き連れて、大きく手を振りながらやってくる。
「Hey、ミホ! 応援に来たわよ! 今日は思いっきりエキサイティングな試合を見せてね!」
「……なんで私たちが、負けた相手の応援なんか」
アリサがぶつぶつ言い、ナオミが黙ってガムを噛んでいる。ケイは気にした様子もなく、T-34のほうへ目をやった。
「That's cool! 砲身、変わってない?」
伊里奈は、答えに困って、曖昧に頭を下げた。
そして、雪もないのに、あの小さな暴君が、背の高い副隊長の肩に乗って現れた。
「ミホーシャ!」
カチューシャは、ノンナの肩の上から、胸を張ってみほを呼んだ。みほが、きょとんと目を瞬かせる。
「カチューシャを負かしたんだから、黒森峰なんかに負けたら承知しないわよ!」
それから、カチューシャの目が、ちらりと大洗の戦車の列をなぞった。
赤い星と白い熊。その砲塔から、一回り太くなった砲身が伸びている。
「……ふん。ずいぶん立派な砲身じゃない。どこで手に入れたのかしらね」
それは、伊里奈のほうを一度も見ないままの台詞だった。
伊里奈は、笑いをこらえて、深く頭を下げた。
「……寒いところの、親切な人からです」
「へえ。物好きな人もいたものね」
カチューシャは、つんとそっぽを向いた。その下で、ノンナが、ほんのわずかに口元を緩めていた。
「じゃあね〜ピロシキ〜」
去っていく二人を見送っていると、いつのまにか、ダージリンが伊里奈の隣に立っていた。
「不思議なことね。負かした相手が、皆、応援に来るなんて」
ダージリンは、カップの紅茶を一口含んだ。
「西住さんには、そういう力があるのよ。――それと、あなたにも、ね」
伊里奈は、何も答えられなかった。ダージリンは、それで満足したように、小さく微笑んで去っていった。
―――
大洗の陣地では、それぞれのチームが、それぞれのやり方で、試合前の時間をやり過ごしていた。
「お、落ち着け! 落ち着くんだ! 決勝だぞ、決勝!」
桃が、誰よりも落ち着かない声で、行ったり来たりしている。
「桃ちゃん、それ、もう五回目だよ」
柚子が、苦笑しながら水筒を差し出した。その横で、杏は干し芋を一枚ずつ、のんびりとかじっている。
「いいねえ、決勝。空気がおいしいよー」
バレー部の四人は、八九式の横で円陣を組んでいた。
「相手は黒森峰! 九連覇の王者! でも、こっちには根性がある!」
「「「はいっ!」」」
典子の掛け声に、三人の声が揃う。妙子が、なぜかサーブの素振りをしていた。
三突の陰では、歴女たちが地図を囲んでいる。
「平原に森、丘に川、そして市街地。……まるで、戦場の博物館だな」
エルヴィンが、帽子のつばを指で押し上げた。
「関ヶ原も、最初は霧の中だったぜよ」
「いや、ここはアウステルリッツだ。朝霧が晴れたとき、勝敗は決まる」
「……今日、霧は出てないけどね」
左衛門佐の呟きは、誰にも拾われなかった。
M3の周りでは、一年生たちが、互いの髪を結び直したり、お菓子を分け合ったりしている。
「ねえ、黒森峰の人たち、みんなすっごい怖い顔してたよ」
「戦車も全部ドイツのだしー」
「大丈夫だよ。西住隊長がいるもん」
梓がそう言うと、六人は顔を見合わせて、こくりと頷いた。紗希だけが、空を流れていく雲を見上げていた。
真新しいポルシェティーガーの上では、自動車部の四人が、最後の点検をしていた。レストアしたばかりのその車体は、試運転で砲塔が抜けなくなったり、エンジンから火を噴いたりと、つい数日前まで散々だったのだ。
「モーター、よし。エンジン、まあまあ」
「まあまあって何」
「走るけど、坂はちょっと自信ない、ってこと」
ナカジマとスズキのやりとりに、ホシノが肩をすくめ、ツチヤが「ドリフトはできる?」と目を輝かせた。
そして、三式の中では。
「き、緊張して、手が……」
「ねこにゃー、深呼吸もも」
「ゲームなら、ここでセーブするんだけどぴよ……」
アリクイさんチームの三人が、身を寄せ合って震えていた。
T-34の前では、こはるが、履帯を拳で軽く叩いていた。
「今日も頼むよ。いちばん大事な日なんだから」
「昨日、千紗と二人で全部の転輪を見たわ。問題なし」
すみれが記録帳を閉じる。千紗は、無線機の周波数をもう一度確かめていた。
伊里奈は、胸ポケットのカードに、そっと指を当てた。
今日、この場所で起きることを、自分はおおよそ知っている。知っているからこそ、口を閉じていなければならないことも。
―――
観客席は、もう、ぎっしりと埋まっていた。
サンダースの三人は、いちばん見やすい段に陣取っていた。ケイの膝の上には、大きなポップコーンの袋と、瓶のコーラ。足元には、なぜか軍用の携帯食の箱まで置いてある。
「ねえケイ、それ、試合中に食べるの?」
「もちろん! 観戦は、戦場の気分でしなくちゃ!」
アリサが呆れた顔をし、ナオミが黙ってガムの包みを開けた。
少し離れた一角には、白い衝立と小さなテーブルが据えられていた。ダージリンが、オレンジペコの淹れた紅茶を受け取る。
「ダージリン様、毎回これを運ぶの、けっこう大変なんですけど……」
「あら。紅茶のない観戦なんて、砂糖のないスコーンのようなものよ」
「スコーンに砂糖は、もともと入っていないと思います」
ダージリンは聞こえなかったふりをして、カップを口へ運んだ。
さらに上の段では、ノンナの肩の上から、カチューシャが会場全体を見下ろしていた。
「ノンナ、もっと右! 画面が見えないわよ!」
「はい」
ノンナが一歩動く。カチューシャは満足そうに頷き、それから、大洗の陣地のほうへ、ちらりとだけ目をやった。くすんだ緑の車体と、赤い星。すぐに、ぷいと顔をそむける。
ノンナは、何も言わなかった。
観客席の端には、大きなテントがひとつ張られていた。アンツィオの旗が立っている。前の晩から会場入りして、決勝の前祝いだと夜通し騒いでいたらしい。今は、テントの中から、静かな寝息だけが聞こえてくる。
そして、関係者席の一角に、スーツの女性がひとり、背筋を伸ばして座っていた。
西住しほは、まだ誰もいない試合会場を、黙って見つめていた。
準決勝のあと、娘の戦い方を、しほは「邪道」と切り捨てた。そして、もう一人の娘には、こう告げている。
――王者の戦いを、見せてやりなさい。
2/
「両校、挨拶!」
審判長の蝶野亜美の声が、よく通った。
両校の隊長と副隊長が、中央で向かい合う。黒森峰は、西住まほと、逸見エリカ。大洗は、みほと、桃と、伊里奈。
エリカは、まずみほを見た。上から下まで、値踏みするように。
「弱小チームだと、あなたでも隊長になれるのね」
みほは、何も言わなかった。桃が言い返しかけて、みほの横顔を見て、口を閉じた。大洗の誰も、その言葉を拾わなかった。
手応えのなさに、エリカは小さく舌打ちをした。その目が、みほを通り過ぎて、伊里奈の上で止まる。
「……へえ。プラウダを飛び出した砲手まで、拾ったのね」
その声には、隠す気のない棘があった。
「去年の決勝で、うちのフラッグ車を狙っていた列の、ひとりでしょう。よくもまあ、この人の隣に立てるものだわ」
「……はい。そのとおりです」
「だったら、――」
「エリカ」
まほの声が、短くそれを遮った。エリカは、不服そうに口をつぐんだ。
まほの目が、伊里奈をとらえた。
戦車喫茶の前で。サンダース戦のあとのヘリコプターの前で。そして今。三度目の、同じ静かな目だった。
伊里奈は、その目を、今度も逸らさなかった。
「礼!」
「「よろしくお願いします!」」
挨拶が終わって陣地へ戻る途中で、黒森峰の制服を着た少女がひとり、小走りに追いかけてきた。
「……西住さん!」
みほが、足を止める。
小梅は、息を切らしながら、みほの前で深く頭を下げた。
去年の決勝で、川に落ちた戦車に乗っていたという。あのとき助けてもらったお礼を、ずっと言いたかった。けれど、みほはすぐに黒森峰からいなくなってしまった。もう戦車道をやめてしまったのではないかと、心配していたのだと。
みほは、小梅に、まっすぐに答えた。戦車道は、やめない、と。
その声には、もう迷いがなかった。
伊里奈は、少し離れたところで、その光景を見ていた。
あの雨の日、川に落ちた戦車。その中にいた人が、今、ここで泣きそうな顔で笑っている。
撃たないでください、と無線に叫んだあの日。自分が守りたかったものは、守れなかった。けれど、みほが守ったものは、ちゃんと、ここにある。
それを、自分の目で見られて、よかった。
少女が去ったあと、優花里が、みほの横で小さく言った。だから何度も言ったでしょう、西住殿のしたことは、間違えてなかったんです、と。
みほは、少しだけ考えてから、首を横に振った。間違いだったかはわからない。でも、自分にとっては、正しいことだった、と。
3/
西住まほは、ティーガーⅠのキューポラから、大洗の陣地を見ていた。
九輌。一輌は、どう見てもその日に動かしたばかりのような三式。一輌は、まともに坂を登れるかも怪しいポルシェティーガー。
そして、赤い星のT-34。
「……八十五ミリ、か」
サンダース戦のときには、たしか七十六ミリだった。どこから届いた砲身なのかは、調べるまでもない。それを寄越す人間がいる学校は、ひとつしかない。
あの雨の決勝のあと、プラウダの列で、ひとりだけ勝った顔をしていなかった砲手。
その砲手が、今は妹の隣に立ち、妹のために、自分に砲口を向ける。
西住流に、逃げるという道はない。それは、今日も変わらない。
けれど、まほは、ほんの一瞬だけ、あの子がこちらを逸らさずに見返してきたことを思い出していた。
「――
その声に、迷いはなかった。
4/
試合が始まった。
大洗のフラッグ車は、あんこうチームのIV号。黒森峰のフラッグ車は、まほのティーガーⅠ。姉妹が、それぞれの旗を背負う。
両校の開始位置は、遠く離れていた。みほは、黒森峰が大きく回り込んでくる前に、守りやすい高地へ移り、三突とヘッツァーで待ち伏せるつもりだった。
伊里奈は、照準器をのぞきながら、左の森を見ていた。
知っている。黒森峰は、あの森を突っ切ってくる。
けれど、それを早く口にすれば、大洗の動きが変わる。変われば、このあとのどこかで、みほは姉にたどり着けなくなるかもしれない。
伊里奈は、唇を噛んだ。
そのとき、千紗が双眼鏡を下ろした。
「……森が、動いてる」
千紗が、自分で見つけたのだ。伊里奈は、すぐに無線のスイッチを押した。
「こちら雪村。左の森に、動きがあります」
ほとんど同時に、森の中から、黒い戦車の群れが飛び出してきた。
『――全車、右へ! 向こうの森に入ります! ジグザグに走ってください!』
みほの声。大洗の九輌が、一斉に向きを変える。
『な、なんでもう来てるんだ! 早すぎるだろう!』
桃の声が裏返る。
『左、左からも来てます! あ、あや、ハッチ閉めて!』
梓の声。
『森を突っ切ってきたのか。電撃戦だな、まさに』
エルヴィンが、なぜか感心したように言った。
『感心してる場合じゃないぜよ!』
『この子、重いから、急には曲がれないよー。みんな、先に行ってー』
ナカジマの声だけが、いつもどおりにのんびりしていた。
「こはる!」
「わかってる!」
T-34が、平原を斜めに突っ切る。後ろから、砲弾が土を吹き上げる。
伊里奈は、照準器を後ろへ回した。群れの先頭を走るパンターが、大洗の列の尻に食らいつこうとしている。
「――撃ちます」
八十五ミリの砲声は、七十六ミリよりもずっと重かった。パンターの足元で、履帯が弾け飛ぶ。その一輌が止まったぶんだけ、後続の列がわずかに乱れた。
「……重い。でも、届く」
伊里奈は、胸ポケットのカードに、一瞬だけ触れた。
そのときだった。
前を走っていた三式が、がくんと揺れて、後ろへ下がり始めた。
『う、うそ、ギアがかった……ゲームと違う……!』
猫田の悲鳴が、無線に響いた。
後退する三式の先に、IV号がいた。そして、そのIV号に、エリカのティーガーⅡが砲口を向けていた。
『――一発で終わらせる』
無線に乗った声が、こちらにまで聞こえた気がした。
伊里奈は、目をそらさなかった。
砲声。後退した三式が、その射線に、ちょうど入り込んでいた。三式の上に、白旗が上がる。IV号は、無傷だった。
『……あ、あれ?』
猫田の、きょとんとした声。
『アリクイさんチーム!ありがとう!怪我は大丈夫!?』
みほの声が、少しだけ震えていた。
「「「大丈夫(だっちゃ)(なりー)」」」
伊里奈は、ゆっくりと息を吐いた。
後退の仕方を、教えることはできた。教えなかった。その結果が、今の一発だった。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、伊里奈はそう呟いた。
―――
「……ちっ」
ティーガーIIのキューポラで、エリカは舌打ちした。白旗を掲げた三式の向こうで、IV号が森へ逃げ込んでいく。
『隊長、申し訳ありません。フラッグ車を、仕留め損ねました』
その声は、悔しさよりも、苛立ちのほうが勝っていた。
『構わない。陣形を崩さずに追え』
『はい!』
一輌減らした。それでいい。どうせ、あの子は逃げることしかできない。――それに、あの赤い星も。
エリカは、まっすぐに前を見た。
―――
観客席が、どよめいた。
「Oh no! いきなり一輌!」
ケイが頭を抱える。
「……でも、今の。三式がいなかったら、IV号が撃たれてたわよね」
アリサが、眉をひそめて画面を見つめた。
「Lucky! あれは、運がよかったのよ」
「運だけで決勝は勝てないでしょ」
「運も実力のうちって言うじゃない、アリサ」
ナオミが、ガムを噛みながら、小さく頷いた。
衝立の向こうでは、オレンジペコが、胸の前で両手を握りしめていた。
「始まって、まだ数分なのに……」
「黒森峰は、待たないわ。西住流は、最初の一撃で決めにくるもの」
ダージリンは、静かにカップを置いた。
「でも、決めきれなかった。……それが、あの子たちの運の強さね」
上の段で、カチューシャが、ノンナの頭の上で足をばたつかせていた。
「最初から一輌減らして、どうするのよ!」
「偶然ですが、三式がIV号を庇いました」
ノンナが、淡々と言う。
「わかってるわよ! ……もう。見てるこっちの心臓がもたないじゃない」
カチューシャは、そっぽを向いた。けれど、その目は、画面から一度も離れていなかった。
5/
大洗は、八輌になった。黒森峰は、まだ二十輌。
向こうの森を抜けた先に、小高い丘があった。地図の上では、二〇七高地と記されている。あそこを取れば、上から待ち構えられる。
『もくもく作戦、開始します!』
みほの合図で、大洗の戦車が一斉に発煙筒を放った。白い煙が、平原にもくもくと広がっていく。
その中を、八輌が丘へ向かう。
『じゃ、私たちはちょっと寄り道してくるねー』
杏の声と同時に、ヘッツァーだけが、煙の中で列を離れていった。低い車体が、草むらに溶けるように見えなくなる。
『会長!? ど、どこへ……!』
桃の声が、無線の向こうでひっくり返る。
『いいからいいから。かーしま、ちゃんと照準見ててね』
―――
逸見エリカは、ティーガーIIのキューポラから、白い煙の壁をにらみつけていた。
「煙幕……!? 忍者じゃあるまいし!」
どこかにいる。この煙の向こうの、どこかに。あの子のIV号も、赤い星のT-34も。
「前進! このまま煙の中に――」
『待て、エリカ』
まほの声が、無線から静かに届いた。
『みほのことだ。煙の中で、何か仕掛けている。むやみに飛び込むな』
「……っ、了解」
『あの方角は、二〇七高地だ。ポルシェティーガーは足が遅い。あの坂は登りきれない。焦らず、詰めればいい』
エリカは唇を噛んで、煙の向こうの、見えない丘を見上げた。
―――
まほの読みどおりだった。坂にかかったところで、一輌だけが、どんどん遅れ始めた。
『……ごめん、この子、坂は苦手なんだよねー』
ナカジマの、のんびりした声。ポルシェティーガーのエンジンが、苦しそうに咆えている。
『引っ張ります! ワイヤーを掛けてください!』
みほの声。煙の中で、何輌かの戦車が向きを変え、ポルシェティーガーの前に回り込んでいく。
「こはる、私たちも」
「うん! 力だけなら、うちの子も負けないよ!」
T-34の後ろに、太いワイヤーが掛けられる。千紗とすみれが、煙の中を走って金具を確かめ、車内に飛び戻ってくる。
「いいよ!」
「こはる、ゆっくり。みんなと合わせて」
「……せーのっ!」
何輌もの戦車に引かれて、ポルシェティーガーが、少しずつ坂を登り始めた。一輌では登れない坂も、全車で引けば登れる。履帯が土を噛むたびに、列は思ったよりも速く上へ進んでいく。
最初の煙が、少しずつ薄くなっていく。黒森峰の砲弾が、こちらへ近づいてきた。
『アヒルさんチーム、カモさんチーム、お願いします。パラリラ作戦です!』
みほの声。
『……その作戦名、なんとかならないの!?』
そど子の抗議が、無線に響いた。
『そど子、文句はあとで』
ごも代の声が、冷静に返す。
『……っ、もう! 風紀委員として、正々堂々と煙を張ります!』
『よーし、アヒルさんも行くよ! そうれっ!』
八九式とB1bisが、列の後ろで大きく蛇行し始めた。車体の後ろから、白い煙が勢いよく噴き出す。右へ、左へ。薄くなりかけた煙の上に、新しい煙が重なっていく。坂を登る大洗の列が、また、白い壁の中に隠れた。
煙の外から、黒森峰の砲弾が飛んでくる。けれど、どれも見当外れの場所に落ちていく。こちらが見えていないのだ。
そのうち、砲声の質が変わった。
頭の上を風を切って過ぎた砲弾が、丘の斜面に落ちて、土の柱を高く吹き上げた。ひとつ、またひとつ。狙いは列ではない。丘の上そのものだ。
「……榴弾です」
伊里奈は、照準器から目を離さずに言った。
「煙が晴れる前に、丘の上に居場所をなくさせる気です。――西住まほさんらしいやり方です」
「感心してる場合じゃないでしょ!」
すみれが、車内で頭を抱えた。天井に、土がばらばらと降りかかる音がする。
そのとき。
坂の下で、乾いた砲声が二つ続いた。
伊里奈は、ハッチの隙間から、坂の下をのぞいた。煙の切れ間に、黒い車体が二輌、斜めに止まっているのが見えた。ヤークトパンターと、パンター。どちらも、片側の履帯を地面に投げ出している。
ヤークトパンターのハッチが開き、ベリーショートの車長が身を乗り出した。
「な、なんで履帯が!? どこから撃ってきたのよ!」
叫び声だけが、煙の中に響いた。撃ったはずのヘッツァーは、もうどこにもいなかった。
『二輌、足止めしといたよー。私たちはこのまま下に残って、もうちょっと遊んでるねー』
『会長……!』
桃の声が、半分泣いていた。
―――
『隊長! ヘッツァーです! 追いますか!』
エリカの声が、無線に飛び込んだ。
『深追いするな』
まほの答えは、短かった。
『小さな一輌に構えば、本隊が遅れる。二輌は修理に回れ。残りは丘を囲む』
『……了解しました』
破られた履帯を繋ぎ直す二輌を残して、黒い列は、また一糸乱れずに動き始めた。ただ、そのわずかな足踏みのぶんだけ、大洗は、先に丘の上へたどり着くことになる。
―――
伊里奈は、照準器の向こうの白い世界を見つめていた。
知っている。この丘の上で、大洗は囲まれる。そして、そこから抜け出し、川を渡る。
その川で、みほは、もう一度、仲間を助けに戦車を降りる。
去年と同じように。けれど、今度は、去年とは違う結果になる。
その場面を、伊里奈は、画面の向こうで何度も観た。そして何度も、泣いた。
「……着いた!」
こはるの声で、伊里奈は顔を上げた。
丘の上だった。煙が、ゆっくりと晴れていく。
『各車、稜線の後ろについてください。車体を隠して、砲塔だけを出して。高さは、こちらの味方です』
みほの声に従って、大洗の七輌が、丘の縁にそれぞれの場所を取っていく。T-34も、こはるの操縦で、岩の陰に車体を沈めた。
そして、その下には、黒い戦車の群れが、丘をぐるりと取り囲み始めていた。
その真ん中に、一輌だけ、動かずにこちらを見上げているティーガーⅠがあった。
―――
「Yes! 登りきった!」
観客席で、ケイが拳を突き上げた。
「何が Yes よ。下、見てよ。囲まれ始めてるじゃない」
アリサが、画面の下のほうを指さす。黒い戦車の群れが、丘の麓をぐるりと取り巻くように広がっていく。
「でも、上を取ったのは大洗よ。撃ち下ろせるのは、上にいるほうだもの」
ケイが言い返す。その横で、ナオミが、ガムを噛みながら、ひと言だけ呟いた。
「……あのヤークトティーガー、正面からは抜けない」
ケイとアリサが、同時にナオミを振り返った。
衝立の向こうで、オレンジペコが、画面とダージリンの顔を交互に見た。
「丘の上に逃げ込めたのは、いいんですけど……」
「ええ。逃げ込めた。それに、西住まほは、あの小さなヘッツァーを追わなかった。王者の戦い方よ」
ダージリンは、カップを持ち上げかけて、また下ろした。
「……だからこそ、あの丘から出られるかしら」
上の段では、カチューシャが、ノンナの頭にしがみついていた。
「……ノンナ。あの丘、見たことあるわ」
「はい」
「プラウダの廃村と、同じよ。上に逃げて、下から囲まれて」
カチューシャは、ほんの少しだけ、声を落とした。
「……あのときは、カチューシャが囲む側だったけど」
ノンナは、何も言わずに、カチューシャの足首をそっと押さえた。
関係者席で、西住しほは、少しも表情を変えずに、丘の上の小さな戦車たちを見つめていた。