大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
丘の上から見下ろすと、黒い戦車の列が、ゆっくりと輪を縮めてくるのがわかった。
先頭には、ひときわ角ばった車体がいる。ヤークトティーガー。正面の装甲は、T-34の八十五ミリでも、とても抜ける厚さではない。その後ろに、パンターとラングが続いている。坂の途中で、さっきヘッツァーに履帯を切られたヤークトパンターとパンターが、まだ足回りの修理をしているのが見えた。
『全車、稜線の陰に入ってください。撃ち下ろしで、近づいてくる車輌から狙います』
みほの声は、落ち着いていた。
「千紗、左の斜面を。すみれ、徹甲弾を」
「了解」「入ってる」
こはるが、T-34をそろりと稜線の陰へ下げる。砲身の先だけが、丘の縁から黒森峰を覗いた。
黒森峰が、斜面に取りついた。
三突の砲身が火を吹く。パンターが一輌、坂の途中でがくりと止まり、白旗を上げた。続けて、IV号の一発が、ラングの側面を捉える。
『やった!』
無線の向こうで、誰かが歓声を上げる。
『よーし、撃て撃てー! どんどん撃てー!』
桃の声が、ひっくり返っている。
『桃ちゃん、私たち今は下にいるから、撃ってないってば』
柚子が、困ったように笑った。
『根性ーっ! この調子で、もう一本取っていこう!』
典子の声が、まるで試合中のコートみたいに弾む。
『高所を取って、敵を誘い込む。カンナエの再現だな』
カエサルが言うと、すかさずエルヴィンが返した。
『いや。寡兵で狭い地形を守るなら、テルモピュライだろう』
『テルモピュライは、守った側が全滅しとるぜよ』
おりょうの冷静なひと言に、左衛門佐が『縁起でもない』と呟いた。
「……みんな、元気だね」
こはるが、少しだけ肩の力を抜いた。
伊里奈も撃った。狙ったのは、ヤークトティーガーの陰から半分だけ出てきたラングだった。けれど、相手は撃たれる前に、また巨体の陰へ滑り込む。砲弾は、ヤークトティーガーの正面で火花を散らしただけだった。
ヤークトティーガーは、止まらない。撃っても撃っても、分厚い正面で弾かれる。ゆっくりと、本当にゆっくりと、斜面を登ってくる。そのすぐ後ろに、黒森峰の本隊がぴたりとついていた。
黒い列の中ほどで、ティーガーIIのキューポラから、エリカが丘を見上げていた。ヤークトティーガーの正面で、大洗の砲弾が当たっては弾ける。そのたびに、口元が緩んだ。
「……これが、王者の戦いよ」
小細工はいらない。厚い装甲で、正面から、ただ押し潰す。それが黒森峰で、西住流だ。
砲弾が、すぐ脇の地面をえぐった。もう一発。今度は、砲塔の横をかすめていく。
「……こっちばっかり、狙ってない?」
こはるが、首をすくめた。
気のせいではなかった。斜面を登ってくる黒森峰の砲口のいくつかが、さっきから、ずっとT-34を追っている。IV号でも、ポルシェティーガーでもなく。
伊里奈には、理由がわかっていた。
砲塔に描かれた、赤い星。去年の決勝で、黒森峰から十連覇を奪った学校の印だ。そして、その学校の砲手だった自分が、今、ここにいる。
「……すみません。私の戦車だからです」
「なんで伊里奈ちゃんが謝るの」
こはるが、少しだけ怒ったように言った。
「赤い星は、みんなで残すって決めたんでしょ。だったら、狙われるのも、みんなでだよ」
すみれが黙って次の砲弾を込め、千紗が「次、右から来る」と短く言った。
「……少しずつ、近づいてきてる」
千紗が、小さく言った。
知っている。この丘には、長くはいられない。
『……十八対八。このままでは、押し切られます』
みほの声が、静かに言った。
『丘を捨てて、撤退します。ただ、後ろの道は、もう塞がれています』
『会長、お願いします』
『はいよー。戦車の雑誌で読んだんだけどさ、いちばん安全なのは、敵のど真ん中なんだって』
杏ののんきな声と同時に、丘の下の茂みから、小さな車体が飛び出した。ヘッツァーだ。
低い車体が、黒い戦車の群れの、そのど真ん中へ滑り込んでいく。パンターの真横をすり抜け、ラングの鼻先をかすめ、ティーガーIIの影に入る。
黒森峰の隊列が、目に見えて乱れた。
ヘッツァーのすぐ脇にいたパンターの車長が、キューポラから身を乗り出して何か叫びながら、足元の操縦手の肩を何度も蹴っている。撃とうにも、すぐ隣に味方がいる。砲塔を回せば、別の味方に砲身がぶつかる。整然としていた隊列が、一輌の小さな戦車に、ぐちゃぐちゃにかき回されていく。
修理を終えたばかりのヤークトパンターが、また履帯を切られて止まった。車長の悲鳴が、ここまで届いた気がした。
――ウチの履帯は重いんだぞー!
「……会長、すごい」
こはるが、ぽかんと口を開けた。
混乱の中で、三突の一発が、もう一輌を止めた。白旗。十七対八。
『今です。全車、右へ! 一気に突破します! レオポンさん、先頭をお願いします。カモさん、最後尾で煙幕を!』
大洗の戦車が、稜線を越えて一斉に斜面を駆け下りた。崩れかけた黒い列の、その隙間へ。
先頭を、ポルシェティーガーの大きな車体が切り開いていく。最後尾では、カモさんチームが、また白い煙を吐き出していた。
「こはる、カモさんの前につきます。千紗、右後ろを」
「わかった!」
T-34は、煙を張るB1bisのすぐ前についた。砲弾が、すぐ横の地面を何度もえぐる。
黒い戦車の群れのあいだを、大洗の戦車が駆け抜けていく。丘の下で、ヘッツァーが悠々と抜け出してくるのが見えた。
『いやー、楽しかったー』
杏の声が、無線から聞こえた。
―――
観客席の大きな画面に、黒い隊列のど真ん中を駆け回る、小さなヘッツァーが映っていた。
「Wow! crazy! 見た? 今の見た!? 黒森峰のど真ん中よ!」
ケイが、手を叩いて立ち上がった。膝の上から転げ落ちたポップコーンを、ナオミが黙って拾い集める。
「信じらんない……あんなの、ただの自殺行為じゃない」
アリサが、思いきり顔をしかめた。
「That's the trick! 撃てないのよ、黒森峰。あれだけくっついてたら、撃ったら味方に当たっちゃう。アンジー、やるじゃない!」
ケイは、コーラの瓶を高く掲げた。
少し離れた席では、衝立と小さなテーブルの向こうで、ダージリンがティーカップを口元へ運んでいた。
「ダージリン様。大洗、さっきまで完全に囲まれていましたけれど……」
オレンジペコが、心配そうに画面を見上げる。
「勝負は時の運、と言うでしょう?」
「……それ、囲まれているときに言う言葉でしょうか」
ダージリンは答えずに、ただ微笑んで、紅茶をひと口含んだ。
さらに上の段では、ノンナの肩の上で、カチューシャが身を乗り出していた。
「なによ、黒森峰! さっきから、あのT-34ばっかり狙って!」
「赤い星だからでしょう」
ノンナが、静かに言った。
「わかってるわよ!」
カチューシャは、ノンナの頭の上で頬をふくらませた。
「……去年のこと、まだ根に持ってるのよ。黒森峰は」
ノンナは答えなかった。あの雨の日、撃てと言ったのが誰だったのか。ノンナも、カチューシャ自身も、よく知っている。
「イリーナ、ちゃんと避けなさいよね。せっかくの……」
言いかけて、カチューシャはぴたりと口を閉じた。
「せっかくの、何ですか」
「なんでもないわよ!」
ノンナは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。太くなったあの砲身がどこから来たのか、ここで口にするほど、ノンナも野暮ではなかった。
その頃、観客席のいちばん端に張られた大きなテントでは、前の晩から会場入りして、夜通し宴会を続けたアンツィオの生徒たちが、毛布にくるまってすっかり眠り込んでいた。
「……ドゥーチェ……ドゥーチェ……」
寝言でドゥーチェを呼ぶ一年生の横で、当のアンチョビは、パスタの皿を抱えたまま、幸せそうに寝息を立てていた。
2/
丘を抜けてしばらく走ったところで、ポルシェティーガーの後ろから黒い煙が上がり始めた。
『あー、エンジンご機嫌ななめだねー』
ナカジマの声は、のんきだった。
『止まったら追いつかれちゃうでしょ。走りながら直すよ』
双眼鏡の中で、ポルシェティーガーの後部ハッチが開いた。ナカジマが、工具を片手に、揺れる車体の上へ這い出してくる。走っている戦車の、エンジンの真上に。
「えっ」
こはるが、思わず声を漏らした。
ナカジマは、煙の中に腕を突っ込んで、何かをいじり始めた。そのあいだも、ポルシェティーガーは走り続けている。
『よーしよし、いい子でちゅねー。もうちょっとがんばりまちょうねー』
なぜか、赤ちゃんに話しかけるような声が、無線に乗って流れてきた。
「……あれ、絶対に真似しちゃいけないやつだ」
すみれが、記録帳を握ったまま呟く。
「後ろ! 一輌だけ、追ってくる!」
千紗が叫んだ。
振り返ると、黒い隊列から一輌だけが飛び出して、こちらへ迫ってきていた。ティーガーII。キューポラから身を乗り出しているのは、銀色の髪。
逸見エリカだった。
その砲身が、エンジンの上で作業を続けるナカジマのほうへ、ゆっくりと回っていく。
『IV号、ポルシェティーガーの後ろにつきます』
みほの声と同時に、IV号が速度を落とした。ポルシェティーガーとティーガーIIのあいだに、その車体を割り込ませる。フラッグ車が、自分から射線に入っていく。
「こはる、IV号の横へ。少しでも的を散らします」
「わかった!」
T-34も、IV号と並ぶように位置を変えた。ティーガーIIの砲口が、まっすぐこちらを向いている。この距離なら、外さない。
伊里奈は、息を止めた。
そのとき、ティーガーIIの車体が、がくりと傾いた。
片側の転輪が外れ、履帯ごと地面に投げ出されている。七十トン近い車体で、荒れ地を全速で追い続けた代償だった。ティーガーIIは、その場で大きく向きを変え、止まった。
「……切れた」
千紗が、呆然と言う。
ポルシェティーガーの煙が、少しずつ細くなっていく。ナカジマが車内へ戻り、ハッチが閉まった。
―――
『左の動力計、異常! ……操縦、ききません!』
操縦手の悲鳴を聞くより先に、エリカは、車体が傾いたのを体で知っていた。
逸見エリカは、ティーガーIIの横に飛び降りて、地面を蹴っていた。
「なんで、こんなときに……!」
あと一発だった。照準器の真ん中に、あの子のIV号がいた。自分から、仲間の盾になりに来たのだ。去年と、同じように。
乗員が工具を持って飛び出していく。そのあいだにも、大洗の戦車は、どんどん遠ざかっていく。煙の向こうに、IV号と並んで走る、くすんだ緑の車体が見えた。赤い星。
去年の決勝で、黒森峰から十連覇を奪った学校の印だ。あの雨の中、車長のいなくなったフラッグ車を、プラウダは撃った。ルールの上では、何ひとつ間違っていない。それでも、あの日のことを、黒森峰で忘れた者はひとりもいない。
その赤い星を、あの砲手は、塗り替えもせずに大洗へ持ち込んだ。プラウダを飛び出して、よりによって、あの子の隣に。
挨拶のとき、棘を向けても、言い返しもしなかった。「そのとおりです」と、それだけ。それが、余計に腹立たしかった。
「……どの面さげて、あの子の隣にいるのよ」
砲手が、おそるおそる振り返る。
「副隊長。次は、あのT-34を先に……」
「IV号が先よ。フラッグ車を落とせば、それで終わるんだから」
エリカは言い捨てて、それから、低く付け足した。
「……あの赤い星は、そのあとで、私が撃つ」
「……覚えてなさいよ」
煙の向こうに消えていく赤い星を睨んだまま、エリカはもう一度、地面を蹴った。
―――
「あら」
ダージリンが、カップを持つ手を止めた。画面の中で、ティーガーIIが片側の履帯を投げ出して、斜めに止まっている。
「四本足の馬でさえ、つまずく」
「黒森峰でも、ということですね」
オレンジペコが頷く。
「黒森峰の重戦車は、足回りが弱いんですよね。プラウダ対策で、重い車輌ばかり揃えたのが、裏目に出ましたね」
「ええ。大洗は、最初からそこも計算に入れていたのかもしれないわ」
「ええ。でも、見るべきはそこではないわ」
ダージリンは、画面のもう一方を目で示した。ポルシェティーガーとティーガーIIのあいだに割って入った、IV号の小さな車体。
「フラッグ車が、自分から仲間の盾になる。普通の隊長なら、絶対にしないことよ」
「……負けたら、終わりなのに」
「だから、あの子は強いの」
ダージリンは、カップの紅茶に目を落とした。表面は、静かに凪いでいた。
「Oh! 見て見て、黒森峰の副隊長、地団駄踏んでる!」
ケイが、お腹を抱えて笑った。
「……わかるわ、その気持ち」
アリサが、なぜかしみじみと頷く。ナオミが、無言でガムを大きく膨らませた。
3/
行く手を、川がふさいでいた。
思っていたより、流れが速い。大洗の戦車は横一列に並んで、浅瀬へ入っていった。上流側に重い車輌を並べて、流れを少しでも和らげる。T-34も、その列の中にいた。
車体の下で、冷たい水が渦を巻く。
『エンジン、止まっちゃいましたー!』
桂利奈の泣きそうな声が、無線に響いた。
列の端で、M3が止まっていた。流れが車体の横腹を叩き、少しずつ、少しずつ、下流へ押していく。
『だ、大丈夫です! 私たちのことはいいから、先に行ってください!』
梓の声だった。震えているのに、はっきりしていた。
『やだ、水入ってきたー!』
『あゆみ、足、足濡れてる!』
『わかってるってば! 優季、そこ押さえて!』
『こわいよぉ〜……』
M3の車内の悲鳴が、無線にそのまま流れてくる。あやと、あゆみと、優季。操縦席の桂利奈が、半泣きでスターターを何度も押している音まで聞こえた。
『かからない……かからないよぉ……!』
丸山紗希だけが、何も言わずに、足元に溜まっていく水をじっと見ていた。
伊里奈は、IV号のほうを見た。
キューポラから身を乗り出したみほが、M3を見つめたまま、動かなかった。
知っている。今、あの子の目に映っているのは、この川ではない。雨の中の、灰色の川だ。傾いて沈んでいく戦車と、自分が降りたせいで負けた試合と、そのあとのすべて。
誰も、何も言わなかった。
「……みぽりん。行ってあげなよ。こっちは、私たちが見るから」
沙織の声だった。すぐ隣に並んだIV号の、開いたハッチの奥から聞こえてくる。
「みほさんの戦車道が間違っていないって、私たちが証明します」
華の声。
「西住殿の判断は、間違っていません。去年も、今年も」
優花里の声。最後に、麻子がひと言だけ言った。
「行け」
みほが、顔を上げた。
IV号のハッチから、みほが外へ出る。腰にロープを結び、ワイヤーの端を手にして。隣の戦車の上へ、跳んだ。濡れた装甲に足を取られそうになりながら、それでも、迷わずに。一輌、また一輌。
T-34の上にも、みほの足が降りた。
ほんの一瞬だった。伊里奈がハッチから顔を出すのと、みほがこちらを見るのが、同時だった。
「……行ってください」
伊里奈が言うと、みほは小さく頷いて、次の戦車へ跳んでいった。
―――
観客席が、ざわめいた。
大きな画面に、川の真ん中で並んだ戦車の上を、一輌ずつ跳び移っていく小さな人影が映っている。
「……またですか」
オレンジペコが、思わず口元を押さえた。
「ええ。また、よ」
ダージリンは、カップをテーブルに置いた。音を立てずに置くつもりだったのに、ソーサーが、かちりと小さく鳴った。
「去年と同じことを、去年と同じ相手の前でしている。……今度は、隊長として」
「Oh……」
ケイが、ポップコーンの袋を握ったまま固まっていた。
「フラッグ車の車長が、降りた……?」
アリサが、信じられないものを見るように呟く。
「試合中よ!? 撃たれたら、それで終わりじゃない!」
「That's Miho」
ケイは、画面から目を離さずに言った。
「仲間を置いていけない子なのよ。最初から、ずっと」
ナオミが、ガムを噛むのをやめていた。
さらに上の段で、カチューシャは、何も言わなかった。
ノンナの肩の上で、小さな手が、ノンナの髪をぎゅっと握っている。ノンナは、何も言わずに、その手の力を受け止めていた。
去年も、同じ川を見た。雨の中で。あのときは、カチューシャがいちばん高いところにいて、撃て、と言った。
「……ノンナ」
「はい」
「黒森峰は、撃つわよね。今年も」
「撃つでしょう。ルールの上では、何も間違っていませんから」
カチューシャは、唇を噛んだ。
「……そうよね。カチューシャも、そう言ったもの」
ノンナは、そっと目を伏せた。今夜の日記に何を書くことになるのか、もう、なんとなくわかっていた。
観客席のさらに奥、関係者席の一角では、スーツの女性が、背筋を伸ばしたまま画面を見つめていた。
西住しほは、何も言わなかった。その表情は、画面の光の中で、少しも動かなかった。
「後ろ! 来た!」
千紗の声で、振り返る。
『六時の方向、敵です!』
優花里の声が、無線に重なった。
岸の向こうの稜線に、黒い車体が次々と姿を現していた。黒森峰の本隊だ。遠い。けれど、もう届かない距離ではない。
最初の砲弾が、川の中に大きな水柱を立てた。
『全車、援護射撃してください! 距離、千二百!』
沙織の声が、無線に乗って流れてくる。IV号の上では、優花里が大きな測距儀を構えていた。ドイツ製の、古い光学式の測距儀。優花里が読み上げる数字を、沙織が次々と全車に伝えていく。
伊里奈は、照準器に目を押しつけた。
去年、自分は頼んだ。撃たないでください、と。前の晩に、あの人の部屋の扉の前で。それは、届かなかった。
今年は、違う。
撃たせないために、撃つ。
「すみれ、榴弾。こはる、車体はこのまま」
「装填よし!」
八十五ミリの砲声が、川面に響いた。稜線の手前に土煙が上がる。当てるためではなかった。あの子が川の真ん中にいるあいだ、一秒でも長く、向こうの照準を乱すための一発だ。
大洗の戦車が、次々と砲を撃つ。ヘッツァーが列を離れて岸へ上がり、林を回り込んでいった。黒森峰の背中を突いて、少しでも足を止めるつもりなのだ。
それでも、黒い列は止まらなかった。砲弾が、少しずつ近くに落ちてくる。
その何発かは、はっきりとT-34を狙っていた。川の中の、赤い星を。
「伊里奈、こっちに集まってる!」
千紗が叫ぶ。すぐ横に水柱が立ち、冷たいしぶきがハッチから降り込んだ。
「……それで、いいです」
伊里奈は、照準器から目を離さなかった。
黒森峰がこちらを撃っているあいだは、そのぶん、川の真ん中は撃たれない。去年、あの子のフラッグ車を撃った学校の印が、今年は、あの子の盾になる。
「すみれ、次を。撃ち続けます。こっちを見ていてもらいます」
「……装填よし」
すみれの声は、少しだけ震えていた。それでも、手は止まらなかった。
―――
「……甘いのよ」
履帯を繋ぎ直して本隊に追いついたエリカは、稜線の上から川を見下ろして、吐き捨てた。
「仲間を助けるために、隊長が戦車を降りる? 去年と、何も変わってないじゃない」
川の真ん中で、小さな人影が、戦車から戦車へ跳んでいる。その後ろで、赤い星が、こちらへ砲口を向けていた。
『全車、一斉射撃! 川の中を狙いなさい!』
『後方、七時。敵』
まほの声が、そこへ割り込んだ。
林の陰から、低い車体が、黒森峰の背後へ回り込もうとしていた。ヘッツァーだ。
『十一号車、やれ』
一輌のパンターが砲塔を回す。ヘッツァーは、撃たれる前に、すばやく林の中へ引き返していった。
「……っ」
エリカは、唇を噛んだ。自分は、川しか見ていなかった。
まほは、もうヘッツァーを見ていなかった。膝の上の地図の、川の向こう。破れた橋の印のさらに先にある、小さな町。
『……みほは、町へ行く』
それは、誰に聞かせるでもない、短い小声だった。
―――
「つなぎました!」
M3の上から、みほの声がした。
ワイヤーが張られる。IV号と、隣の戦車たちが、ゆっくりとM3を引いた。川底をこする重たい音。流れに逆らって、M3の車体が少しずつ向きを変え、浅瀬へ寄っていく。
大洗の戦車が、一輌ずつ向こう岸へ這い上がる。最後にM3が岸に上がったところで、そのエンジンが、ぶるんと息を吹き返した。
『かかった! かかりましたー!』
桂利奈の声が、半分泣いていた。
「こはる、出してください!」
T-34が岸を駆け上がった直後、さっきまでいた川岸に、黒森峰の砲弾が雨のように降り注いだ。
伊里奈は、ハッチから振り返った。
IV号のキューポラに、みほが戻っていた。濡れた髪が、額に張りついている。沙織が泣きそうな顔で何か言い、華が微笑み、優花里が測距儀を抱えたまま何度も頷いていた。
去年の川で、あの子は、ひとりで降りた。
今年は、みんなが背中を押した。
それだけのことが、胸の奥で、ずっと鳴り止まなかった。
『ご、ごめんなさい! ありがとうございました!』
梓の声が、無線に乗った。後ろで、M3の一年生たちが一斉に何か叫んでいる。泣いているのか笑っているのか、もう区別がつかなかった。
『西住隊長ー! 一生ついていきますー!』
『あいーっ!』
桂利奈の声が、ひときわ大きく響いた。
―――
観客席で、オレンジペコが、胸の前で組んでいた両手を、そっとほどいた。
「……渡りきりました」
「ええ」
ダージリンは、もう一度カップを持ち上げた。今度は、ソーサーは鳴らなかった。
「よかったですね」
「あなた、さっきから祈ってばかりね。大洗の応援団みたい」
「そ、そんなこと……っ」
オレンジペコの頬が、ほんのり赤くなった。
上の段で、カチューシャが、ふん、と鼻を鳴らした。
「……当たり前でしょ。カチューシャたちに勝った学校が、あんなところで負けるはずないもの」
ノンナの髪を握っていた手から、ようやく力が抜けていた。
4/
川を離れると、黒森峰の本隊は、いったん見えなくなった。
代わりに、一輌だけが、少し離れたところをついてくる。III号戦車。偵察だ。こちらの行き先を、本隊に知らせ続けている。
「振り切れないね」
こはるが、ミラー越しに後ろを見て言った。
前方に、古い石の橋が見えてきた。大洗の戦車が、一輌ずつ渡っていく。最後に、ポルシェティーガーが橋に乗った。
その重たい車体の前が、橋の真ん中で、ふわりと持ち上がった。
「えっ」
六十トン近い戦車が、前を浮かせたまま進み、そして、どすんと橋の上に落ちる。わざとだ。誰が見てもわかる、乱暴な走り方だった。
石が軋む音がした。
ポルシェティーガーが渡りきった直後、橋の真ん中が、音を立てて川へ崩れ落ちた。
『え……えっ!?』
みほの声が裏返る。
『ごめんねー、落としといたよー。これで、ちょっとは時間稼げるでしょ』
ナカジマの声は、やっぱりのんきだった。黒森峰の本隊は、これで大きく回り道をしなければならない。
伊里奈は、崩れた橋を振り返った。知っていた。知っていても、目の前で見ると、笑うしかなかった。
―――
町に入ると、道は急に狭くなった。
古い商店の並ぶ通り。崩れかけた塀。路地が、網の目のように入り組んでいる。大洗が、いちばん得意にしている場所だ。
通りの先に、あのIII号がいた。こちらに気づくと、慌てたように角を曲がって逃げていく。
『偵察車です。追いかけます!』
みほの声に、大洗の戦車が一斉に動いた。本隊から離れた偵察車を、一輌だけで逃がす手はない。B1bisと三突が、先頭に立った。
伊里奈は、照準器から目を離せなかった。
知っている。あれは、逃げているのではない。誘っているのだ。あの角の先で、何が待っているのか。
画面の向こうで観たとき、自分はただ息をのんでいただけだった。
今は、違う。
「西住さん、雪村です! III号を追わないでください。あの先に、何かいます!」
一瞬、無線が静まり返った。
『……全車、停止!』
みほの声だった。IV号がつんのめるように止まり、後ろの八九式とM3が続く。T-34も、こはるが力いっぱいブレーキを踏んだ。
けれど、先頭のB1bisと三突は、もう角を曲がりかけていた。
間に合わない。
そのとき、地面が揺れた。
エンジンの音ではない。もっと低い。足の裏から腹の底へ、じかに響いてくる振動だった。電柱が小刻みに震え、商店のガラス戸がかたかたと鳴り出す。屋根瓦が一枚、ずり落ちて、通りの上で割れた。
通りの脇の建物の陰から、灰色の何かが、ゆっくりと押し出されてくる。
最初は、壁だと思った。動く壁。それが、逃げるIII号とこちらのあいだに、地響きだけを連れて、ゆっくりと割り込んでくる。
壁ではなかった。
戦車だった。
「……え」
こはるが言ったきり、口を閉じられずにいた。
車体の幅だけで、通りがほとんど埋まっている。その重さに耐えかねるように、履帯の下で舗装がひび割れていく。砲塔だけで、IV号の車体ほどもあった。そこから伸びる主砲は、T-34の八十五ミリが細い枝に見えるほど太い。その横に、さらにもう一門、副砲が並んでいる。
188トン。
数字では知っていた。画面でも観ていた。けれど、照準器いっぱいに灰色が広がったとき、伊里奈は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
マウス。
『な、なにあれ……』
沙織の声が、かすれた。
『マ、マウスです……! ドイツの超重戦車……実際に完成した戦車の中で、いちばん重い……。まさか、本当に動いているなんて……』
沙織の無線越しに聞こえる優花里の声が、震えていた。いつもなら目を輝かせて語り出すはずの声が、今は、ただかすれている。
『あれ、戦車っていうか……家じゃない?』
あやの呟きに、誰も笑わなかった。
B1bisと三突が、すぐに砲を向けた。ポルシェティーガーの八十八ミリも続く。灰色の装甲に、次々と砲弾が吸い込まれていく。そして、どれも、小石のように跳ね返った。傷ひとつ、ついたようには見えなかった。
灰色の砲塔が、ゆっくりと回る。急ぐ必要など、どこにもないとでもいうように。
砲口が、B1bisを向いた。
轟音。
空気そのものが、殴りつけてきた。離れているはずのT-34の車体まで震え、ハッチの縁から砂埃がこぼれ落ちる。B1bisの重い車体が、紙の箱のように持ち上がり、横倒しに転がった。白旗。
「……こんなの、校則違反よ……っ」
そど子の声が、かすれて無線に乗った。
『カモさんチーム、走行不能!』
沙織が、叫ぶように全車へ伝える。
『カモさんの仇だ!』
左衛門佐の声と同時に、三突が前へ出た。至近距離から、一発。灰色の装甲に、火花が散っただけだった。
三突が、慌てて後退しようとする。けれど、マウスの砲塔は、もう向き直っていた。二発目。三突の車体が大きく揺れ、白旗が上がる。
『……無念』
エルヴィンの低い声が、ひと言だけ聞こえた。
『カバさんチームも、走行不能……!』
二輌。ほんの数秒で。
伊里奈は、白旗の上がった二輌を見つめた。
もし、止めていなければ。IV号も、八九式も、M3も、あの角を曲がっていた。照準器の中で、マウスの主砲が、次の獲物を探してゆっくりと動いている。
変えられたのは、ほんの少しだった。それでも、少しは。
『全車、後退! 路地に入ってください!』
大洗の戦車が、散り散りに路地へ逃げ込んでいく。T-34の後ろで、マウスの砲声が、町の空気そのものを揺らした。
―――
観客席が、一瞬で静まり返った。
「What the……!?」
ケイが、立ち上がりかけたまま固まっていた。
「な、なにあれ……あんなの、反則でしょ!?」
アリサの声が裏返る。ナオミの口から、噛んでいたガムが、ぽろりと落ちた。
ダージリンのカップは、口元へ運ばれる途中で止まっていた。
「……マウス」
「あんなものを、黒森峰は持っていたんですか……」
オレンジペコの声が、かすれている。
「持っていることは、知っていたわ。でも、出してくるとは思わなかった」
ダージリンは、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。
「西住まほ。本気で、勝ちにきているのね」
上の段では、カチューシャが、ノンナの頭をばしばしと叩いていた。
「な、なによあれ! 聞いてないわよ! ノンナ、あれ何!」
「マウスです。百八十八トン。……私たちとの試合には、出てきませんでした」
「ずるいじゃない!」
カチューシャは叫んで、それから、急に声を落とした。
「……でも、イリーナ。止めたわよね、今」
「ええ。止めました」
「III号を追うなって。……なんで、わかったのよ。あの子」
ノンナは、画面の中の赤い星を見つめた。
「昔から、そうでしたから」
―――
逸見エリカは、本隊とともに、崩れた橋を大きく回り込んでいた。
『マウス、交戦開始。大洗の二輌を撃破』
無線から、その報告が届いた。
エリカは、キューポラの中で、口の端をつり上げた。
「……そうこなくちゃ」
無線の向こうから、隊列のどこかで誰かが流し始めた歌が聞こえてくる。パンツァー・リート。黒い戦車の列が、その歌に合わせるように、乱れのない隊形で町へ進んでいく。
先頭のティーガーⅠの上で、まほは、表情ひとつ変えていなかった。
5/
通りの角を、マウスがゆっくりと曲がってきた。
待ち構えていた大洗の戦車が、一斉に撃つ。八十五ミリも、八十八ミリも、灰色の装甲に吸い込まれては弾かれた。マウスは、その砲火の中を、何事もないように進んでくる。
その後ろから、III号がひょいと顔を出した。キューポラの丸眼鏡の車長が、こちらを指さして、甲高い声で笑っている。もっとよく見ようとしたのか、マウスの陰から車体を大きくはみ出させた。
誰かの一発が、その側面を捉えた。笑い声が途切れ、III号の上に白旗が上がる。
これで、マウスはひとりになった。けれど、それで何かが変わったわけではなかった。横から撃っても、後ろへ回って撃っても、あの装甲は抜けない。
『……このままじゃ、黒森峰の本隊が来ちゃう』
沙織の声が、震えていた。手元の戦車の資料をめくって、半分やけになったように言う。
『だいたい、大きすぎるよ! これじゃ、戦車が乗っかれそうな戦車じゃない!』
無線の向こうで、みほが息をのむ気配がした。
『……それです。沙織さん、ありがとう』
みほの声が、変わった。
『作戦を説明します。カメさんチームは、マウスの正面へ。アヒルさんチーム、カメさんチームの後ろについてください。ウサギさんチームは機銃で、レオポンさんチームとシロクマさんたちは主砲で、マウスの横から撃って、砲塔を右へ向かせてください。あんこうは、上から行きます』
「……横から、ですね」
伊里奈は、照準器を握り直した。知っている。この作戦で、何が起きるのか。そして、自分たちの役目は、ただ撃つことだ。抜けない装甲に向かって、撃ち続けること。
高架の下の、広い道路だった。
マウスが、ゆっくりとこちらを向く。
『行くよー』
杏の声と同時に、ヘッツァーが飛び出した。マウスの主砲が火を吹く。ヘッツァーは、その一発をぎりぎりでかわして、そのままマウスの正面へ突っ込んだ。
低く尖った車体が、マウスの巨体の下へ、くさびのように潜り込む。マウスの前が、わずかに持ち上がった。
『会長ーっ! つ、潰れる、潰れますーっ!』
桃の悲鳴が、無線を割った。
『桃ちゃん、頭下げて! 天井、下がってきてる!』
柚子の声も、さすがに上ずっている。
『だいじょーぶ、だいじょーぶ。……たぶんね』
杏だけが、干し芋でもかじっていそうな声だった。
「今です! こはる、右へ。すみれ!」
「装填よし!」
T-34が、M3とポルシェティーガーと並んで、マウスの横へ回り込む。三輌が、次々と砲を撃った。弾かれる。わかっている。それでも撃つ。マウスの砲塔が、こちらを向くまで。
『八十八ミリでも、びくともしないねー。硬いなー』
ナカジマの声は、こんなときでも感心しているように聞こえた。
『撃って! とにかく撃ち続けて! こっちを向かせるの!』
梓が叫ぶ。M3の機銃が、灰色の装甲に絶え間なく火花を散らした。戦車を倒すための弾ではない。うるさくて、たまらなくさせるための弾だ。
灰色の砲塔が、ゆっくりと回り始めた。
その隙に、八九式が走り込んできた。ヘッツァーの傾いた車体を、踏み台にする。勢いのまま、マウスの車体の上へ、よじ登っていく。
マウスのキューポラが開き、車長が顔を出した。
「おい軽戦車! そこをどけ!」
「嫌です。それに八九式は、軽戦車じゃないしぃ」
「中戦車だしぃ」
典子と佐々木の声が、なぜか無線越しにもはっきり聞こえた。
八九式に乗られたせいで、マウスの砲塔が回りきらない。マウスは、砲塔を振って八九式を振り落とそうとする。下からはヘッツァーに持ち上げられ、上からは八九式に押さえつけられて、巨体がきしんだ。
―――
観客席で、オレンジペコは、胸の前で両手を固く組んでいた。
ダージリンは、画面から目を離さずに言った。
「土壇場を乗り切るのは、勇猛さじゃないわ。冷静な計算の上に立った、捨て身の精神よ」
画面の中で、ヘッツァーの車体が、マウスの重みで少しずつ潰れていく。八九式が、振り落とされまいと必死に踏ん張っている。
「……捨て身、ですね。本当に」
オレンジペコの声は、ほとんど祈りだった。
道路脇の土手を、IV号が斜めに駆け上がっていくのが見えた。車体がぎりぎりまで傾く。そこから、砲身がゆっくりと下を向いた。狙っているのは、マウスの車体の後ろ。エンジンの上を覆う、薄い網の部分だ。
華なら、外さない。
砲声が、ひとつ。
マウスの車体の後ろから、黒い煙が噴き上がった。少しの間を置いて、その巨大な砲塔の上に、白旗が、ぱたりと上がった。
『……やった、の?』
沙織の声が震える。次の瞬間、無線の向こうで、歓声が爆発した。
けれど、マウスの下から、ヘッツァーが出てこない。
『あー、こっちも、つぶれちゃった。ごめんね、西住ちゃん。あとは、よろしくー』
杏の声は、最後まで、いつもと変わらなかった。
『こちらウサギさんチーム! 北の道に、黒森峰の本隊が見えます! すごい数です!』
梓の声が、歓声を断ち切った。
―――
観客席で、オレンジペコが、膝の上で小さく拳を握った。
「……やった」
それから、はっとしたように隣を見る。ダージリンが、楽しそうにこちらを見ていた。
「今の、見たわよ」
「み、見なかったことにしてください……」
ダージリンは、くすりと笑って、画面に目を戻した。
「それにしても、戦車の下に潜り込んで、上にも乗るなんて。……私たちも今度、やってみようかしら」
「やめてください。チャーチルの下に潜れる戦車なんて、うちにはありません」
「Hooray! やったやった! マウス、倒しちゃった!」
ケイが、アリサの肩をばんばんと叩いている。
「痛い、痛いってば! ……嘘でしょ。あのマウスを、あんな戦車で……」
アリサは、半分呆れたように、半分感心したように、画面を見つめていた。ナオミが、新しいガムの包み紙を、ゆっくりと開けた。
上の段で、カチューシャが、ノンナの肩の上で立ち上がりかけた。
「やったじゃない!」
それから、我に返ったように腕を組み直す。
「……ふん。カチューシャたちに勝った学校なんだから、それくらい当然よ」
「そうですね」
ノンナは、何も言わずに、カチューシャの足首をそっと押さえ直した。
―――
『マウス、撃破されました』
町の外れを進むティーガーIIの中で、その報告を聞いた逸見エリカの口元から、さっきまでの笑みが、すっと消えた。
「……あの戦車を?」
だが、エリカはすぐに顔を上げた。
「急ぎなさい! 町に入って、一気に押し潰すのよ!」
無線の向こうで、まほの声がした。
『全車、速度を上げろ。町に入る』
いつもと同じ、静かな声だった。けれど、エリカには、その声がほんの少しだけ、硬くなったように聞こえた。
6/
路地の奥に、残った戦車が集まった。
IV号。八九式。M3。ポルシェティーガー。そして、T-34。
五輌だった。
黒森峰は、まだ、その三倍近くいる。
伊里奈は、ハッチから身を乗り出して、ひとつひとつの車体を数えた。三式も、B1bisも、三突も、ヘッツァーも、もういない。
遠くで、重たいエンジンの音が重なり合っている。崩れた橋を回り込んできた黒森峰の本隊が、町へ近づいてくる。その真ん中に、まほのティーガーIがいる。
「……五輌、か」
すみれが、記録帳に何かを書き込みながら呟いた。
「でも、マウスは倒したよ」
こはるが言う。
「うん。倒した」
千紗が、小さく笑った。
『アヒルさんチーム、まだまだいけます! 根性です!』
典子の声が、無線に響く。
『いやー、八九式の上、けっこう揺れました。でも、気合いで乗り切りました!』
『あけび、それ、気合いでどうにかなる揺れじゃなかったよ』
妙子が笑いながら言い、忍が『でも、乗り切ったし』と短く付け足した。
『レオポンも元気だよー。ちょっとエンジン熱いけど。ツチヤ、まだいける?』
『いけるいけるー。なんならドリフトもいけるよー』
『それは、まだやめとこうね』
ナカジマとツチヤのやりとりに、スズキとホシノの笑い声が重なった。
『ウサギさんチームも、大丈夫です。……さっきは、本当に、ありがとうございました』
梓の声は、まだ少しだけ鼻声だった。
『みんな、無事でよかった……。じゃなくて、無事じゃないチームもいるけど……でも、よかった……』
沙織の声が、途中でぐしゃっと崩れた。
『沙織さん、しっかりしてください』
沙織のすぐ後ろで、華が穏やかに言うのが聞こえた。
『……少し、眠い』
麻子のひと言に、無線のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
伊里奈は、ハッチの縁を握りしめた。
知っている。この先で、大洗の戦車は、一輌ずつ減っていく。八九式は、黒森峰の本隊を引きつけて。M3は、後ろの駆逐戦車に食らいついて。ポルシェティーガーは、古い学校の入口で。
そして最後に、あの子が、姉とふたりきりで向き合う。
その結末を、伊里奈は知っている。知っているからこそ、口を閉じていた。自分の言葉ひとつで、あの子がたどり着くはずの場所が、ずれてしまうかもしれない。
今日の川で、あの子の背中を押したのは、自分ではなかった。沙織と、華と、優花里と、麻子だった。
それで、よかったのだと思う。
『みなさん、聞いてください』
みほの声が、無線から流れた。
『これから、最後の作戦を説明します』
伊里奈は、ハッチを閉めた。
車内は、薄暗くて、油の匂いがした。いつもの匂いだ。照準器の向こうに、まだ何も映っていない町が見える。
「……行きましょう。どこへでも」
三人が、同時に頷いた。