大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
路地の奥は、風が止まっていた。
五輌のエンジンが、低く、不揃いに響いている。IV号。八九式。M3。ポルシェティーガー。そして、T-34。
『こちらは五輌です。相手は、まだ十四輌』
みほの声は、落ち着いていた。川の真ん中で濡れた髪が、まだ乾いていないはずなのに。
『……ですが、フラッグ車は、どちらも一輌です』
『向こうの狙いは、フラッグ車であるわたしたち、あんこうチームです。みなさん、相手の戦力を、できる限り分散してください』
『正面から撃ち合えば、勝てません。だから、分けます。黒森峰を、ばらばらにします。こちらもばらけて、町じゅうをフラフラ動き回って、相手の列を伸ばします』
『フラフラ……』
沙織が、思わずというように繰り返した。
『はい。フラフラです』
無線のあちこちから、小さな笑いが漏れた。こんなときでも、あの子の作戦名は、どこか気が抜けている。それが、全員の肩から、ほんの少しだけ力を抜いた。
『アヒルさんチーム。黒森峰の先頭の部隊を、かき回してください。お姉ちゃんの周りから、できるだけ引きはがしてほしいんです』
『任せてください! フェイントは、バレー部の得意技です!』
典子の声が、弾む。
『あの、西住隊長! 後ろの重い駆逐戦車は、わたしたちにやらせてください!』
『エレファントと、ヤークトティーガー。あの二輌を、前へは出しません!』
梓の声だった。一瞬だけ裏返って、それから、まっすぐに続いた。
『――昨日、みんなで徹夜で研究した作戦があるんです』
一拍あって、みほの声が届いた。
『……わかりました。お願いします、ウサギさんチーム』
『レオポンさんチーム。町の外れに、古い学校があります。その入口で、待っていてください。わたしたちがお姉ちゃんを連れて入ったら、入口を塞いで、お姉ちゃんのティーガーを一輌だけにしてほしいんです』
『ふふーん。それは、うちの子の得意分野だねー。動かないのは、いちばん得意だから』
ナカジマの声に、ツチヤが『うちの子、走るのも得意だけどねー』と付け足した。
『あんこうは、敵フラッグ車との一対一の機会をうかがいます』
ここで、みほの声が、ほんの一拍だけ止まった。
『……お姉ちゃんを、学校の中へ連れていきます』
誰も、何も言わなかった。
伊里奈は、照準器の上に、そっと額を押し当てた。
知っている。この作戦で、八九式も、M3も、ポルシェティーガーも、一輌ずついなくなる。その代わりに、あの子は、姉とただ二人きりで向き合う。
そこに、自分の席はない。
それでいい。
『雪村さんたちには――』
「西住さん」
伊里奈は、無線のスイッチを押していた。自分の声が、思っていたよりも落ち着いていることに、少し驚いた。
「私たちは、最初はアヒルさんと一緒に動きます。黒森峰は、この赤い星を追いたがっていますから。引きつけるなら、これ以上の餌はありません」
無線の向こうで、沙織が息をのむ気配がした。
「そのあとは、レオポンさんのところへ行きます。入口の外を、一緒に守ります。――西住さんは、お姉さんのことだけを見ていてください」
しばらく、無線は沈黙していた。
『……お願いします。雪村さん』
それだけだった。けれど、その短い言葉の中に、伊里奈は、初めて大洗の格納庫でこの子を見つけた日からの、すべてを聞いた気がした。
―――
「……伊里奈ちゃん」
無線を切ると、こはるが、操縦席から振り返った。
「餌って、自分で言っちゃうんだ」
「……すみません。勝手に決めて」
「謝らないでよ。そうじゃなくて」
こはるは、歯を見せて笑った。油で汚れた頬が、薄暗い車内でもはっきりわかる。
「この子、走るのだけは、うちでいちばんなんだから。餌になるなら、いちばん捕まらない餌になろうよ」
「……入口で、最後まで残るのが、私たちの仕事なんでしょう」
千紗が、双眼鏡を拭きながら言う。
「記録、ちゃんとつけておくわ。ここから先は、一行も空けたくないもの」
すみれが、弾薬庫の蓋を開けた。残りは、多くない。
伊里奈は、三人の顔を順番に見た。
この三人は、この先を知らない。それでも、自分の選んだ役目に、一度も首を横に振らなかった。
「……行きましょう」
こはるが、ギアを入れた。
『それではこれより、最後の作戦――フラフラ作戦を開始します! Panzer vor!』
みほの声を合図に、五輌の戦車が、それぞれの路地へ、ばらばらに散っていった。
2/
黒森峰の本隊が、町へ入ってきた。その列の、いちばん後ろ。
そこには、重すぎて列に追いつけない二輌が、のっそりと続いていた。箱のような戦闘室を背負ったエレファントと、丘で大洗の砲弾をすべて弾いたヤークトティーガー。
そのさらに後ろの路地で、M3は息を潜めていた。
「……来た」
梓が、キューポラの隙間から小声で言った。
エレファントが、路地の入口を通り過ぎていく。固定された砲身は、前しか向いていない。横も、後ろも、気にしていない。
「……昨日、徹夜で研究した作戦を、実行するときが来たよ」
梓の言葉に、車内の五人が、そろって頷いた。優季が「みんなで徹夜したやつ」と小さく笑い、あゆみが砲の握りを確かめる。
「……それでいくよ。桂利奈、前へ!」
「あいーっ!」
M3が路地から飛び出し、エレファントの横腹に一発撃ち込んで、すぐに別の小路へ逃げ込んだ。
弾は弾かれた。けれど、エレファントは、隊列を離れて、M3を追ってきた。
「ついてきた!」
「桂利奈、次の角!」
狭い小路を、M3が右へ、左へと曲がる。車体の長いエレファントは、角を曲がるたびに、もたもたと向きを変える。三つ目の角で、M3はくるりと回り込み、エレファントの真後ろにぴたりとついた。
固定砲の駆逐戦車は、この狭さでは、もう向きを変えられない。
「名付けて――」
「「「「「戦略大作戦!」」」」」
五人の声がそろって、M3の二門の砲が、ほとんど零距離で火を吹いた。
しかし、灰色の後部装甲には、弾の跡がうっすらついただけだった。エレファントは、何事もなかったように動いている。
「う、うそ……」
「後ろなのに、抜けないの?」
「もう一回! もう一回やれば――」
あやとあゆみの声が重なる。そのとき、装填手の席から、小さな、本当に小さな声がした。
「……薬莢……捨てるとこ……」
車内が、しんと静まり返った。
紗希だった。紗希の細い指が、エレファントの戦闘室の後ろの、小さな丸い蓋を指している。撃ち終わった薬莢を、車の外へ捨てるための穴。そこだけは、分厚い装甲に守られていない。
「……紗希ちゃんが、しゃべった……」
「そこじゃないでしょ! あゆみ、あや! 二門、同時に!」
梓が叫んだ。
「せーの!」
主砲と副砲が、まったく同じ瞬間に火を吹いた。
小さな蓋が吹き飛んだ。少し遅れて、エレファントの巨体が、止まった。
戦闘室の上に、白旗が、ぷつんと上がった。
「……やった……」
「やったあああ!」
「紗希ちゃん、すごいよおお!」
抱きつかれた紗希は、何も言わずに、また空を見上げていた。ただ、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
―――
『エレファント、走行不能!』
黒森峰の無線が、はじめて乱れた。
『後ろから! 小さいのに……M3に……』
『どうしますか、隊長! 何輌か戻して――』
『動くな』
まほの声が、すべてを断ち切った。
『フラッグ車だけを狙え。他は構うな。――フラッグ車さえ落とせば、それで終わる』
―――
「次は、ヤークトティーガー」
梓は、自分に言い聞かせるように言った。
ヤークトティーガーの後ろに回り込んで、二門で撃ち込む。弾かれた。もう一度。弾かれる。エレファントよりも、さらに分厚い。薬莢を捨てる穴も、見つからない。
ヤークトティーガーは、追いすがるそぶりも見せず、曲がり角の向こうへ、すっと姿を消した。
「追いかけるよ!」
桂利奈がアクセルを踏む。M3が、曲がり角へ向かって加速する。
その角の手前で、梓の背中に、ひやりとしたものが走った。
――静かすぎる。
さっきまで聞こえていた履帯の音が、角の向こうで、ぴたりと止まっている。
「……止まって!!」
M3が、つんのめるように急停止した。
その鼻先を、角の向こうから飛んできた砲弾がかすめていった。車体の前に描いたウサギのマークが、半分、削り取られていた。
「……待ち伏せ、だった……」
あやが、青い顔で呟いた。
角の向こうから、ヤークトティーガーが、ゆっくりと姿を現した。今度は、正面をこちらに向けて。太い砲口が、M3をまっすぐに見下ろしている。
「後退!」
M3が下がる。ヤークトティーガーが、前へ出る。距離が、少しも開かない。次の一発で、終わる。
「……そうだ!」
桂利奈が、いきなり叫んだ。
「あの大砲って、長いんでしょ! だったら、もっと近くに行けば、当てられないよっ!」
梓が口を開くより早く、M3は前へ飛び出していた。
ヤークトティーガーの砲身の下をくぐり、その巨体の鼻先に、ぴたりと張りつく。長すぎる砲身は、ここまでは下を向けられない。短いM3の砲だけが、相手の装甲に届く。
「撃って、撃ちまくって!!」
二門の砲が、零距離で、何度も何度も火を吹く。それでも、分厚い正面は、びくともしない。
ヤークトティーガーが、前へ押してくる。七十トンを超える重さに、M3の車体がじりじりと後ろへ押し流されていく。
梓は、押されながら、車体の後ろを振り返った。
このまま押され続ければ、大通りへ出る。その先には、西住隊長のIV号が待つ、大通りがある。
――この戦車を、西住隊長のところへは、行かせない。
「梓! この先、道が切れてる! 下、水路だよ!」
優季が、覗き窓にしがみついて叫んだ。押されていくその先で、道が途切れている。柵もない、深い水路。
「……優季、あれ、やるよ。――うっちゃり!」
「うん! 桂利奈、合図したら、左!」
「撃たれる瞬間に、左へよけるの。そしたら、あっちは止まれない」
梓の声は、震えていなかった。
「……あい!」
M3が、大きく左へ切れた。その瞬間、ヤークトティーガーの砲が火を吹いた。
衝撃が、車体ごと全員を揺すぶった。M3が、横倒しに転がる。天地がひっくり返る中で、梓は、ハッチの隙間から、それを見た。
押し出す相手を失ったヤークトティーガーが、止まりきれずに、そのまま水路の縁を越えていく。重い車体が、頭から水路に突っ込んで、大きな水しぶきを上げた。
二つの白旗が、ほとんど同時に上がった。
―――
『……ウサギさんチーム、走行不能。……ヤークトティーガーも、走行不能です』
沙織の声が、全車に届いた。その声は、一度だけ詰まって、それから、叫ぶように続いた。
『みんな、怪我は!? 梓ちゃん!』
『……大丈夫です。みんな、逆さまだけど、大丈夫です』
梓の声は、笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。後ろで、「頭に血がのぼるー」と優季の悲鳴が上がる。
『西住隊長……私たち、ちゃんと、できましたか……?』
一拍あって、みほの声が届いた。
『……はい。ありがとう。ウサギさんチーム』
T-34の中で、伊里奈は、照準器に額を押しつけたまま、目を閉じていた。
あの川で、流されかけていた子たちだ。
その子たちが、今、いちばん重い戦車を、あの子のもとへ行かせなかった。
―――
観客席が、割れるように沸いた。
「OMG!! エレファントとヤークトティーガーよ!? あの一年生たちが!?」
ケイが、ポップコーンの袋を放り投げて立ち上がった。降ってきたポップコーンを、アリサが頭からかぶる。
「……ケイ」
「Sorry! でも見た? 薬莢の穴よ! あんなところ、うちの教本にも載ってないわ!」
「……それより、最後の。わざと左に切った。水路へ落とすために」
ナオミが、前を向いたまま言った。ガムを噛むのを、忘れていた。
衝立の向こうでは、オレンジペコが、もう祈る手もくずして、口を開けていた。
「……相討ち、ですか」
「ええ。でも、ただの相討ちじゃないわ」
ダージリンは、画面の中の、水路に頭を突っ込んだ巨体を見つめていた。
「あの二輌の砲は、どんな戦車でも一発で止められる。もしあれが西住さんのもとへ着いていたら、西住さんの作戦は、そこで終わっていたでしょうね」
カップを取り上げ、おそらくは冷めた紅茶を、それでも美味しそうに一口含む。
「あの子たちは、勝ちを取りに行ったんじゃない。隊長のために、道を守ったのよ」
上の段では、カチューシャが、完全に言葉を失っていた。
「……あの、川で。流されてた……」
「はい。あのM3です」
ノンナの声が、ほんの少しだけ、柔らかかった。
「……助けた子に、助けられてるのね。あの子。ミホーシャは」
カチューシャは、それきり黙って、ノンナの髪をそっと握り直した。
3/
その頃、町の大通りでは、黒森峰の本隊の先頭が、乱れのない列のまま進んでいた。
大通りを、黒い車体が一列に進んでくる。履帯が石畳を噛む音が、商店街の壁に跳ね返って、実際よりもずっと多くの戦車がいるように聞こえた。
その列の中ほどに、横道から、小さな車体がひょいと飛び込んできた。
八九式だ。
「アタック!」
典子の声と同時に、短い砲身が火を吹く。すぐ横にいたティーガーIIの砲塔の真横で、弾が、零距離で小さく弾けた。傷ひとつつかない。それでも、八九式は、さも当ててやったという顔で、くるりと向きを変えた。
「こぉぉのぉぉおッ!! 八九式の癖にぃ!」
ティーガーIIのキューポラで、エリカが真っ赤になって叫んでいた。
「レシーブ、よし! 次、トス!」
「「「はいっ!」」」
路地へ逃げ込む八九式を、ティーガーIIと二輌のパンターが、猛然と追い始める。
―――
一本離れた交差点で、T-34は、動かずに待っていた。
大通りから、ちょうど見える場所だった。隠れようと思えば隠れられる商店の陰から、わざと車体の半分を出している。砲塔の横の、赤い星が見えるように。
「……気づいた」
千紗が、双眼鏡を下ろさずに言った。
黒い列の中ほどで、一輌のパンターの砲塔が、ゆっくりとこちらへ回った。その後ろの一輌も。さらに、もう一輌も。
『赤い星! 三時の方向、プラウダの――大洗のT-34です!』
黒森峰の無線を、伊里奈は聞いていない。それでも、そう叫んだ誰かの声が、耳の奥に聞こえた気がした。
「こはる。一発撃ってから、左の路地へ」
「わかった!」
「すみれ、榴弾。当てなくていいです。足元を狙います」
「装填よし」
八十五ミリの砲声が、商店街にこだました。先頭のパンターの足元で、石畳が弾け飛ぶ。黒い列から、三輌が、はっきりとこちらへ鼻先を向けた。
「行って!」
こはるが、アクセルを踏み込んだ。
T-34は、狭い路地へ飛び込んだ。すぐ後ろで、さっきまでいた商店の看板が、砲弾に飛ばされて空へ舞った。
「右! 次の角を右」
「右ね!」
「その先、溝があります。少しだけ左に寄せて」
「……伊里奈ちゃん、この町、来たことあるの?」
「……地図を、覚えてきただけです」
それは、半分だけ本当だった。残りの半分は、画面の向こうで、何度も走った道だった。
後ろから、重い履帯の音が三つ、重なり合って追ってくる。角を曲がるたびに、すぐ後ろの壁に砲弾が穴を開けた。一発が、後部の工具箱をかすめて、車内が大きく揺れる。
「……大丈夫! まだ走れる!」
こはるが、誰よりも先に叫んだ。
「……こはる。次の角を曲がったら、止まってください」
「えっ、止まるの!?」
「曲がってすぐ、右の軒先に車体を入れて。――後ろから来る一輌目は、角を曲がるとき、必ず横を見せます」
こはるは、何も聞き返さなかった。
T-34が角を曲がり、そのまま、古い酒屋の軒先に車体を押し込んで止まる。杉玉が、砲塔の上で揺れた。砲塔だけが、ゆっくりと、今曲がってきた角のほうへ回る。
「すみれ、徹甲弾」
「……装填よし」
履帯の音が、近づいてくる。一輌目のパンターが、角を曲がってくる。曲がりながら、その砲塔は、まだ前を――T-34が逃げていったはずの路地の奥を、向いている。
その側面が、照準器いっぱいに広がった。
パンターの横の装甲。正面の半分もない。
七十六ミリなら、この距離でも、抜けたかどうかわからない。けれど、今のこの砲なら。
「――撃ちます」
八十五ミリの砲声が、路地の壁を震わせた。軒先の提灯が、いっせいに揺れる。
パンターの側面に、黒い穴が開いた。少し遅れて、その砲塔の上に、白旗が、ぱたりと上がった。
「……やった……! やったよ、伊里奈ちゃん!」
「こはる、出して。二輌目が来ます」
動かなくなったパンターが、角をそのままふさいでいる。後ろの二輌が、それを避けて回り込むあいだに、T-34は、もう次の路地へ滑り込んでいた。
伊里奈は、照準器から目を離さないまま、胸ポケットのカードに、一瞬だけ触れた。
――重い。でも、届く。
「……大事に、使わせてもらっています」
誰にともなく、小さく呟いた。
―――
「Wow! 見て、あのT-34! わざと見せてる!」
観客席の大きな画面には、町の地図に重ねて、両校の戦車の位置が映し出されていた。黒森峰の一本の列が、八九式とT-34に引っ張られて、あちこちへちぎれていく。
「……黒森峰の列が、伸びてる」
アリサが、思わず身を乗り出した。
「あんな小さいのに、二輌も三輌も引っかかってる。……何よ、あれ。ムキになりすぎじゃない」
「ムキになるように、動いてるのよ」
ナオミが、ガムを噛みながら短く言った。
「それに、今の一発。――角で待ち伏せて、パンターの横を一撃よ」
ナオミは、ガムを噛むのをやめていた。
「……八十五ミリ。ウチとやったときは、あんな砲じゃなかったのに」
アリサが、悔しそうに唇を尖らせた。
「Wow! じゃあ、もう一回やったら、もっと楽しいじゃない!」
「そういう話じゃないでしょ!」
衝立の向こうで、オレンジペコが、画面の一点を指さした。
「ダージリン様。黒森峰の何輌かは、あの赤い星の戦車ばかり追っています」
「ええ。――怒りは、人の目を一点に集めるわ。それが、あの子たちの狙いよ」
ダージリンは、カップを置いた。
「去年の傷を、自分から差し出しているの。……勇気のいることね」
上の段では、カチューシャが、ノンナの肩の上で拳を握りしめていた。
「……バカじゃないの。あんなところで赤い星を見せびらかして。狙ってくださいって言ってるようなものじゃない」
「餌ですね」
ノンナが、静かに言った。
「わかってるわよ! ……わかってるから、腹が立つのよ」
カチューシャは、画面の中の小さな緑の車体から、一瞬も目を離さなかった。
「……捕まったら、承知しないんだから。イリーナ」
「……でも、届いていますよ。イリーナの砲は」
ノンナが、静かに言った。画面の端で、白旗を掲げたパンターが、路地の角をふさいでいる。
カチューシャは、ふん、と鼻を鳴らした。
「……当たり前でしょ。あの砲身、どこから来たと思ってるのよ」
言ってから、カチューシャは、はっと口を押さえた。
ノンナは、聞かなかったふりをした。その口元だけが、ほんの少し、緩んでいた。
―――
西住まほは、ティーガーⅠのキューポラから、乱れ始めた自分の列を見ていた。
八九式に二輌。赤い星に三輌。それぞれの路地の奥で、砲声がばらばらに鳴っている。一本だった列が、町の網の目に吸い込まれていく。
『隊長! 副隊長のティーガーIIと先頭の何輌かが、八九式と赤い星を追って、隊列を離れています!』
随伴のパンターから、報告が飛んだ。
『……フラッグ車だけを狙えと、言ったはずだ』
これが、あの子の狙いだ。わかっている。先頭を引きはがされたぶんだけ、今、自分の周りは薄くなっている。それでも、どこかで、あの子は、自分の前に出てくる。
西住流に、逃げるという道はない。出てきたところを、正面から撃つ。
その瞬間は、思ったよりも早く来た。
大通りの先の十字路に、灰色の小さな車体が、ゆっくりと姿を現した。
IV号だった。キューポラから、柔らかい茶色の髪がのぞいている。
一瞬だけ、こちらを見た気がした。
IV号の砲が火を吹いた。砲弾は、ティーガーⅠのすぐ横の地面をえぐった。当てに来た弾ではない。呼んでいる弾だ。
IV号は、すぐに向きを変えて、町の外れのほうへ走り出した。
『フラッグ車を確認。――私が追う。残りは続け』
『はい!』
ティーガーⅠが、列を離れた。その後ろに、まだ列に残っていた何輌かの戦車が続く。
まほは、小さくなっていく灰色の車体を、まっすぐに見つめていた。
―――
『あんこう、お姉ちゃんを連れていきます』
無線から、みほの声が届いた。その一言で、伊里奈は、作戦が次の段階に入ったことを知った。
「こはる。町の外れへ。学校の入口です」
「後ろの二輌は?」
「連れていきます。入口に着くまでは、捕まらないで」
こはるが、黙って頷いた。その横顔は、もう、初めて操縦席に座った日のものではなかった。
遠くで、八九式の砲声がまた一つ鳴った。
『まだまだいけるよ! 次のコート、どっち!?』
『右です、キャプテン!』
その声は、まだ、どこまでも元気だった。
八九式は、黒森峰の先頭の部隊の中を、ただひたすら駆け回っていた。
ティーガーIIの横腹に、体当たりする。歩道に乗り上げて、ジグザグに走る。撃っても抜けない。それでも、そのたびに、黒い砲塔がこちらへ回る。そのぶんだけ、あの子の後ろを追う戦車が減る。
『ブロック! ブロック! まだ拾える!』
『キャプテン、前、前!』
けれど、町の外れの手前で、追いすがってきたティーガーIIの砲口が、ついに、まっすぐに八九式をとらえた。
直撃だった。小さな車体が、宙に跳ね上がった。
『……ごめんなさい、西住隊長。アヒルさんチーム、ここまでです……! ――でも、最高の試合でした!』
典子の声は、最後まで、コートの上の声だった。
『……あー、もうちょっと火力があったらなー』
『キャプテン、それ、最初からです』
―――
「……手間をかけさせて」
エリカは、白旗を上げて転がった八九式には、もう目もくれなかった。
無線からは、隊長が大洗のフラッグ車を追って町の外れへ向かったという報告が、何度も流れている。こんな小さな戦車に、ずいぶん遠回りをさせられた。
「――全速! 隊長のところへ行くわよ!」
伊里奈は、町の外れへ向かうT-34の中で、その声を聞いた。後ろを振り返っても、もう、八九式は見えなかった。
「……こはる。急ぎます」
「うん。――磯辺さんたちのぶんも、走るよ」
4/
町の外れに、古い学校があった。
もう何年も、誰も通っていないのだろう。錆びた門の向こうに、窓ガラスの割れた校舎がいくつも並んでいる。校舎と校舎のあいだには、戦車が一輌やっと通れるほどの、狭い通路が一本だけ通っていた。
その通路の手前で、ポルシェティーガーが待っていた。
『あー、来た来た。T-34ちゃん、お疲れー』
ナカジマの声が、いつものようにのんびりと届いた。
「後ろに、二輌連れてきました。一輌は、町に置いてきました」
『ほんとだー。じゃあ、その子たちは、うちでおもてなししようか』
T-34は、通路の入口のすぐ横、崩れかけた塀の陰に車体を滑り込ませた。砲口を、町から続く道へ向ける。
まもなく、その道の先に、灰色の車体が現れた。
IV号だ。全速で、こちらへ走ってくる。そのすぐ後ろに、ひときわ大きな黒い車体が、ぴたりとついていた。
ティーガーⅠ。
伊里奈は、照準器の中のその車体から、目を離さなかった。撃てば、当たる距離だった。当たっても、抜けはしない。それでも、もし撃てば、あの二人のあいだに、自分の砲弾が入り込む。
伊里奈は、引き金から指を離した。
IV号が、通路へ飛び込む。すれ違う瞬間、キューポラのみほが、こちらを見た。ただ、小さく頷いただけだった。
ティーガーⅠが、その後を追って、通路へ入っていく。
そのキューポラで、西住まほが、ほんの一瞬だけ、首をこちらへ向けた。
赤い星を。砲口を向けなかった、その砲手を。
それから、まっすぐに前へ向き直した。
『――はい、ここまでー』
ティーガーⅠの後ろが通路に消えたその瞬間、ポルシェティーガーが、重い車体をずいと前へ出した。
通路の入口が、大きな車体で、ぴたりとふさがれた。左右は校舎の壁。上には、渡り廊下。もう、どこにも隙間はない。
『ここから先は、行かせないよ〜』
―――
すぐに、履帯の音が押し寄せてきた。
T-34を追ってきた二輌。その後ろから、さらに何輌も。町じゅうに散らされていた戦車たちが、ティーガーⅠの後を追って、一斉にここへ集まってきたのだ。
「……すみれ、徹甲弾。こはる、車体はそのまま。千紗、黒森峰の並びを。先頭から順に」
「先頭、パンター。その横にもパンター。後ろに、ラングとヤークトパンター。……ティーガーIIは、いない」
ティーガーIIは、いない。
八九式が、まだ、あの人を引きつけてくれているのだ。伊里奈は、照準器の倍率を上げて、黒い列の先頭に狙いを戻した。
―――
『入口をこじ開けろ! ポルシェティーガーをどかせ!』
黒森峰の砲弾が、通路を塗りつぶすように降り注いだ。
ポルシェティーガーの正面で、何発もの砲弾が弾ける。分厚い前面装甲が、火花を散らしながら、それでも弾き返す。
『いやー、痛い痛い。――ホシノ、いってみようか』
『あいよ。八十八ミリ、いきまーす』
ポルシェティーガーの砲が火を吹いた。先頭のパンターが、がくんと止まり、白旗を上げる。
「……一輌!」
こはるが叫ぶ。
T-34も撃った。ポルシェティーガーの横へ回り込もうとした二輌目のパンターの側面。正面は分厚いパンターも、横は薄い。八十五ミリが、その横腹をまっすぐに撃ち抜いた。パンターが、崩れた塀に鼻先をぶつけて止まり、白旗を上げた。
『おっ、やるねー。いい音するじゃん、その砲』
ナカジマの声と同時に、八十八ミリが、その後ろから回り込もうとした、もう一輌のパンターを撃ち抜いた。白旗。
『二輌めー。T-34ちゃんと合わせたら、もう三輌だねー』
「……サンダース戦のときの七十六ミリなら、抜けませんでした」
『じゃあ、その砲身くれた人に、あとでお礼言わなきゃねー』
―――
「どきなさい!!」
その声は、無線ではなかった。
八九式を振り切ってきたティーガーIIが、黒い列をかき分けるようにして、前へ出てきていた。キューポラから上半身を乗り出したエリカが、地声で叫んでいる。
その砲口は、ポルシェティーガーではなく、塀の陰のT-34を向いていた。
伊里奈は、ハッチを開けた。
「伊里奈ちゃん!?」
こはるの声を背中に聞きながら、伊里奈は、身を乗り出した。砲声と煙の向こうで、あの強い目と、まっすぐに目が合った。
「……どきません」
「あんた……!」
「この先は、あの二人の場所です。私にも、あなたにも、入る席はありません」
エリカの顔が、怒りで歪んだ。
「……なによ、それ。プラウダの人間が、偉そうなこと言ってんじゃないわよ! 去年、あの子を撃ったのは、どこの学校よ!」
「……プラウダです」
伊里奈は、目を逸らさなかった。
「去年、私は、撃たないでくださいと頼みました。止められませんでした。――だから、今年は、自分の戦車で止めます」
一瞬だけ、エリカの口が、何かを言いかけて止まった。
その目の奥で、何かが、わずかに揺れたように見えた。去年の雨の日、黒森峰の列のどこかで、同じように、何もできずに立ち尽くしていた、だれかのように。
けれど、それは、すぐに消えた。
「……だったら、その赤い星ごと、消えなさい」
エリカは、キューポラの中へ沈んだ。
「――撃てっ!!」
―――
「すみれ」
「……装填よし」
伊里奈は、車内へ滑り込んで、照準器に額を押し当てた。
ティーガーIIの正面。抜けるはずがない。それでも、狙う場所は、ひとつしかなかった。砲塔と車体の継ぎ目。少しでも砲塔の回りを鈍らせれば、そのぶんだけ、あの二人の時間が伸びる。
二つの砲声が、ほとんど重なった。
衝撃が、前から来た。
耳が、一瞬、何も聞こえなくなる。車内の照明がちらつき、どこかで金属が軋む音がした。
やがて、頭の上で、乾いた音がした。
ぱたん。
白旗が、上がる音だった。
「……みんな、大丈夫ですか」
自分の声が、遠くに聞こえた。
「……平気」
「私も……記録帳、落としたけど」
千紗とすみれの声。それから、操縦席から、鼻をすする音がした。
「……ごめんね。この子、後ろに下がれなかった」
こはるが、操縦桿を握ったまま、泣いていた。
「下がらないで、と言ったのは、私です」
伊里奈は、照準器から額を離した。
「こはるさんは、最後まで、この子を動かしませんでした。――それが、いちばん難しいんです」
こはるは、返事をしなかった。ただ、握っていた操縦桿を、そっと放した。
―――
『……雪村さんたち、走行不能……』
沙織の声が、無線に乗った。
ハッチの隙間から、伊里奈は、外を見た。
ティーガーIIは、まだそこにいた。砲塔の継ぎ目に、八十五ミリの弾の跡が、黒く焼けついている。砲塔を回そうとするたびに、ぶつり、ぶつりと、小さく引っかかっている。
抜けはしなかった。けれど、届いた。
「……ちっ! なんで、回らないのよ!」
エリカの引きつった声が、煙の向こうから聞こえた。
―――
「イリーナーーーッ!!」
観客席のいちばん上の段で、カチューシャが、ノンナの肩の上で立ち上がっていた。
周りの客が、何事かと振り返る。カチューシャは、そんなことも気にしなかった。
「……バカ……バカじゃないの。自分から、前に出て……」
「カチューシャ。――足を」
ノンナが、その足首を、しっかりとつかんでいた。その手が、ほんのわずかに、震えていた。
「……見てください。ティーガーIIの砲塔を」
「……え?」
「回っていません。あの子の弾が、継ぎ目に入っています」
ノンナの声は、静かだった。けれど、その奥に、はっきりとした誇りがあった。
「……あの子は、最後まで、プラウダの砲手です」
カチューシャは、何かを言おうとして、やめた。そして、そっと、ノンナの肩の上に座り直した。
「……当たり前でしょ。カチューシャが、育てたんだから」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
衝立の向こうでは、オレンジペコが、ダージリンの横顔をそっとうかがっていた。
「……ダージリン様」
「ええ。――去年、撃った側にいた子が、今年は、撃たせないために立ったのよ」
ダージリンは、カップを置いた。そして、珍しく、何も引用しなかった。
「……立派な砲手だわ」
サンダースの席では、ケイが、黙って拍手をしていた。その横で、アリサが、めずらしく何も言わずに、小さく手を叩いていた。
―――
ポルシェティーガーは、まだそこにいた。
正面の装甲は、もう弾の跡で真っ黒になっていた。砲塔の上についていた工具箱は、どこかへ吹き飛ばされている。それでも、大きな車体は、通路の入口を、一歩も動かずにふさいでいた。
八十八ミリが、また火を吹く。前へ出ようとしたパンターが、白旗を上げた。
『三輌めー。――いやー、うちの子、今日はいちばん動いてないのに、いちばん活躍してるねー』
『それ、この子に言っちゃだめだよ』
スズキの声に、ツチヤとホシノの笑い声が重なる。
そこへ、列の後ろから、ラングとヤークトパンターが、ゆっくりと前へ出てきた。低い車体の二輌が、左右から、ポルシェティーガーに砲口を向ける。二つの砲声。ポルシェティーガーの車体が、大きく揺れた。
そして、ついに、その上に、白旗が上がった。
『……あー。やられちゃった。でも、まだ、どいてはあげないよー』
白旗を掲げたまま、動けなくなった大きな車体は、それでも、通路の入口をふさぎ続けていた。
『――西住さん、ごめーん。レオポン、やられちゃった。黒森峰、乗り越えてくるよー。急いでねー』
ナカジマの声が、通路の奥へ向けて、届けられた。
伊里奈は、白旗の上がったT-34のハッチから、その大きな背中を見つめていた。
入口は、まだ、ふさがれている。
その向こうで、二つの砲声が、交互に響いていた。
5/
通路を抜けた先は、校舎に囲まれた、古い中庭だった。
IV号が止まる。その向かいに、ティーガーⅠが止まる。
背後で、砲声が鳴り続けていた。けれど、それはもう、こことは別の世界の音のように聞こえた。
二輌のキューポラから、二人の姉妹が、それぞれ身を乗り出していた。
「……お姉ちゃん」
まほは、すぐには答えなかった。ただ、妹の顔を、まっすぐに見ていた。
「……西住流に、逃げるという道はない。こうなったら、ここで決着をつけるしかないな」
その声は、いつもと同じだった。静かで、揺るがない。
みほは、一度だけ、息を吸った。そして、まっすぐに答えた。
「……受けて立ちます」
―――
最初に動いたのは、ティーガーⅠだった。
八十八ミリが火を吹いた。ただし、IV号にではない。IV号の背後にある、古い校舎の壁だ。
榴弾が、校舎の一角を吹き飛ばした。崩れ落ちた瓦礫が、IV号の後ろの通路を、あっという間に埋めていく。
「……退路を、断った……!」
優花里の声が、震えた。
「麻子さん、前へ。右の校舎の陰に」
「……了解」
IV号が、崩れた壁の陰へ滑り込む。そのすぐ横を、次の一発が撃ち抜いていった。
校舎と校舎のあいだを、二輌の戦車が、追い、追われる。崩れた渡り廊下の下をくぐり、砂埃の立つ校庭を横切る。IV号が撃つ。ティーガーⅠの正面で、弾が弾かれる。ティーガーⅠが撃つ。IV号のすぐ後ろで、校舎の窓が一列、まとめて吹き飛ぶ。
ティーガーⅠの榴弾が、IV号のすぐ脇で炸裂するたびに、車体の横に吊るした薄い装甲板――シュルツェンが、一枚、また一枚と、引きちぎられて飛んでいく。それでも、IV号は、同じだけの数の砲弾を、すべてかわしていた。
装甲も、砲も、向こうが上だ。それは、最初からわかっていた。
だから、みほは、耳を澄ましていた。
――砲声が、違う。
次の一発の音が、さっきまでより、わずかに重かった。徹甲弾ではない。また、壁を崩すための榴弾だ。狙っているのは、この先の、出口。
「麻子さん、全速後退!」
「……後ろは、ティーガーだぞ」
「それでもです!」
IV号が、轟音を立てて後ろへ走り出した。そのすぐ前の出口が、榴弾で崩れ落ちた校舎の壁に埋まっていく。
後退するIV号の車体が、追ってきたティーガーⅠの鼻先に、ぶつかりそうなほど近づく。そのまま、すれすれで横へ抜けた。ティーガーⅠの砲塔が回り切る前に、IV号は、また別の校舎の陰へと消えていた。
まほは、キューポラの中で、わずかに目を細めた。
――音を聞いて、弾を当てたのか。
子どものころ、この子は、よく納屋の奥で、母の練習の砲声を聞いていた。あの弾は、あの弾は、と、楽しそうに当ててみせた。
その耳が、今、自分に向けられている。
―――
入口の外では、白旗を掲げたポルシェティーガーの上を、ティーガーIIが、よじ登ろうとしていた。
「乗り越えなさい! 車体が傾いてもいいから!」
エリカの声が、裂けそうに響く。
履帯が、動かない車体の装甲を噛む。一度、滑る。二度、滑る。三度目で、重い車体の前が、ゆっくりと持ち上がった。
伊里奈は、白旗の上がったT-34のハッチから、それを見ていた。
もう、自分にできることは、何もない。砲塔も動かない。無線も、届かない。
ただ、知っている。
この人は、間に合わない。
「……伊里奈ちゃん」
こはるが、小さな声で言った。
「西住さん、勝つよね」
伊里奈は、答えるのを、一瞬だけ迷った。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
それは、知っているからではなかった。そう信じているからだった。
―――
中央の広場で、二輌は、もう一度向き合った。
広場の真ん中には、古い花壇があった。もう何も咲いていない。その両側に、IV号とティーガーⅠが、砲口を互いに向けたまま、動かなかった。
『――西住さん、ごめーん。レオポン、やられちゃった。黒森峰、乗り越えてくるよー』
無線から、ナカジマの声が、かすかに届いた。
時間は、もうない。
IV号の車内は、静かだった。沙織は無線機の前で両手を組み、優花里は次の一発を抱えたまま息を止めている。麻子の手が、操縦桿の上で、これまでになく強く握られていた。
「……麻子さん。全速で回り込んでください。――後ろを取ります」
「……全速で回り込む? 履帯、切れるぞ」
「大丈夫。――ここで、決めるから」
みほは、目を閉じた。
そして、開いた。
「みほさん」照準器をのぞいたまま、華が言った。「行進間射撃でも可能ですが、〇・五秒でもいいので、停止射撃の時間をください。――確実に、撃破してみせます」
「……わかった。向こうの次の装填のあいだに、懐へ飛び込む。――一回きりだぞ」と、麻子が言った。
「……グロリアーナのときは失敗したけど。今度は、必ず」
優花里が、次の砲弾を胸に抱え直した。「装填は、ティーガーの砲塔より先に、必ず終わらせます!」
「……行くぞ」
IV号が、飛び出した。
正面から、ティーガーⅠへ。まっすぐに。西住流と同じ、逃げない走り方で。
ティーガーⅠの八十八ミリが火を吹いた。砲弾が、IV号の砲塔の脇をかすめていく。
次の装填までの、ほんの数秒。その数秒のうちに、IV号は、ティーガーⅠの懐へ飛び込んでいた。
ティーガーⅠの装填手が、次の一発を押し込む。まほの砲塔が、照準を合わせ直す。この距離なら、外さない。
その瞬間、IV号が、花壇の縁をかすめて、大きく左へ滑った。
履帯が、砂利を弾き飛ばす。車体が、横を向いたまま、ティーガーⅠのすぐ横を、すれすれですり抜けていく。その砲塔だけが、ティーガーⅠの背中を追って、ぐるりと回る。
無理な横滑りに耐えきれず、片側の履帯が弾け飛んだ。それでも、車体は止まらない。麻子は、残った履帯だけで、IV号をティーガーⅠの背中へと滑り込ませた。
ティーガーⅠの砲塔も、回っていた。けれど、IV号の車内では、優花里が、それより一瞬早く、砲弾を押し込んでいた。「装填、完了です!」
その後ろ姿を、まほは、照準器の端でとらえていた。
――大きくなったな、みほ。
IV号が、ティーガーⅠの背中で、ほんの一瞬だけ止まった。〇・五秒。
「――この一撃は、みんなの思いを込めた一撃」
華が、静かに引き金を引いた。
まほの「撃て」の声も、ほとんど同時だった。
二つの砲声が、ほとんど同時に、広場に響いた。
―――
白い煙が、広場を覆っていた。
どちらの砲弾が、どこに当たったのか。煙の外からは、誰にもわからなかった。
観客席の大きな画面も、ただ白く、煙を映している。
ケイが、コーラの瓶を握ったまま、動かなかった。アリサが、いつの間にかケイの袖をつかんでいた。ナオミの口は、もう、ガムを噛んでいなかった。
オレンジペコは、両手を胸の前で組んだまま、目をぎゅっと閉じていた。ダージリンの手の中で、カップの紅茶が、ほんのわずかに揺れていた。
カチューシャは、ノンナの頭にしがみついて、息をするのも忘れていた。
関係者席で、西住しほは、膝の上に置いた両手を、ほんの少しだけ、握りしめていた。
煙が、ゆっくりと、晴れていく。
IV号が、いた。片側の履帯が外れ、横のシュルツェンは一枚も残っていない。そのすぐ脇の地面が、大きくえぐれていた。ティーガーⅠの最後の一発は、紙一重で、外れていたのだ。その上に、旗はない。
その後ろに、ティーガーⅠがいた。
エンジンの上の薄い装甲に、小さな、黒い穴が開いていた。
そして、その砲塔の上で、白い旗が、風にかすかに揺れていた。
『――黒森峰女学園、フラッグ車、走行不能』
審判の声が、演習場じゅうに響き渡った。
『よって、大洗女子学園の勝利!』
―――
その声を、逸見エリカは、広場の入り口で聞いた。
ポルシェティーガーを乗り越え、通路を押し入って、ようやくたどり着いたその場所で。キューポラから身を乗り出したまま、動けなかった。
白旗を掲げた、ティーガーⅠ。
その後ろで、小さなIV号が、まだ煙を上げていた。
「……うそでしょ」
その声は、誰にも届かなかった。
―――
入口の外で、T-34の中は、しばらく静まり返っていた。
それから、こはるが、操縦席から身を乗り出した。
「……勝った。……勝ったの? 今の、勝ったってこと?」
「勝ったよ」
千紗が言った。その声が、微かに震えていた。
「……記録。……何て書けばいいのかしら。こんなの」
すみれが、拾い上げた記録帳を抱えたまま、笑っていた。笑いながら、泣いていた。
伊里奈は、何も言わなかった。
口を開けば、何かが、あふれてしまいそうだった。
画面の向こうで、何度も見た結末だった。
けれど、自分の耳で、この声を聞くのは、初めてだった。
6/
広場に、大洗の戦車が、一輌ずつ運ばれてきた。
引いてこられた車体もあれば、自分で走ってきた車体もある。三式。B1bis。三突。底がぶよぶよに潰れたヘッツァー。横倒しから起こされたM3。片側の履帯を引きずったIV号。履帯の切れた八九式。正面が真っ黒に焦げたポルシェティーガー。
そして、前が大きくへこんだ、赤い星のT-34。
伊里奈は、T-34から降りると、その車体に一度だけ、そっと手を当てた。
「……お疲れさまでした」
それから、三人と一緒に、広場の中央へ歩いていった。
―――
IV号のキューポラで、みほは、まだ動けずにいた。
「……みぽりん? 降りないの?」
沙織が、下から手を伸ばす。
「……あの、……足に、力が……入らなくて……」
みほは、半分泣きそうな顔で笑っていた。華と優花里が、両側から、その体をそっと支えて降ろしてやる。麻子は、操縦手のハッチから身を乗り出したまま、大きくあくびをした。
そこへ、生徒会の三人が、駆け寄ってきた。
「うわあああああん!! 西住ぃぃぃ!!」
桃が、子どものように泣きじゃくっていた。眼鏡が、もう涙で何も見えていない。
「桃ちゃん、よかったね。……本当に、よかったね」
柚子も、その背中をさすりながら、泣いていた。
杏だけが、いつものように笑っていた。けれど、その手は、干し芋の袋を、取り出しもせずに握りしめていた。
「……西住ちゃん」
杏は、みほの前に立った。そして、少しだけ、顔を伏せた。
「……ありがとね」
「これで、学校、廃校にならずに済むよ。――私たちの学校、守れたよ」
それだけだった。けれど、その短い言葉に、どれだけのものが詰まっているのか。伊里奈には、知ることができない。それでも、この人が、この一言のために、どれだけのものを一人で背負ってきたのかは、知っていた。
「……はい」
みほは、ただ、そう答えた。
―――
「……そど子」
麻子が、ふらふらと歩いていき、風紀委員の前で立ち止まった。
「な、なによ。――あ、あなたの遅刻データなら、全部消したわよ! 約束だもの……」
そど子が言い終わるより先に、麻子は、その小さな体に、ぶらんと抱きついていた。
「……えっ、ちょ、ちょっと……!?」
「……眠い」
「寝るなあああ!!」
その叫び声に、広場のあちこちから、笑い声が上がった。一年生たちが「西住隊長~!」と叫びながら突進してきて、八九式の四人が「根性でした!」と円陣を組む。歴女たちは、「これは、桶狭間だな」「いや、アウステルリッツだ」と、また言い合いを始めていた。
ナカジマたちは、焦げたポルシェティーガーの正面を覗き込んで、「これ、直すの何日かかるかなー」と、なぜか嬉しそうに言い合っている。
こはるが、伊里奈の袖を引いた。
「……うちの子も、直してもらおうね」
「……私たちで、直しましょう」
伊里奈は答えた。
「最初に直したときと、同じように」
―――
その輪の外を、黒い制服が、静かに通り過ぎていこうとしていた。
西住まほだった。
「……お姉ちゃん!」
みほの声に、まほは足を止めた。大洗の笑い声が、少しずつ静まっていく。まほは、ゆっくりとこちらへ歩いてきて、みほの前で立ち止まった。
しばらく、二人は、何も言わなかった。
それから、まほが、右手を差し出した。
「……優勝、おめでとう」
みほが、その手を握る。濡れたような、暖かい手だった。
「……完敗だな」
まほは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。伊里奈がこの人のそんな顔を見たのは、これが初めてだった。
「みほらしい戦いだったな。西住流とは、まるで違うが」
みほは、姉の顔を見上げた。その目から、とうとう、涙がこぼれ落ちた。けれど、笑っていた。
「……うん。――やっと見つけたよ。私の戦車道」
まほは、何も言わずに頷いた。
それから、手を離すと、その目が、みほの肩越しに、少し離れて立っていた伊里奈の上で止まった。
戦車喫茶の前で。ヘリコプターの前で。試合前の挨拶で。そして、今。
四度目のその目は、もう、静かなだけではなかった。
「……去年、プラウダの列に、ひとりだけ、勝った顔をしていない砲手がいた」
伊里奈は、息をのんだ。
「……今日は、いい顔をしているな」
それだけ言うと、まほは、踵を返した。
伊里奈は、その背中に、深く、頭を下げた。顔を上げられたのは、まほの姿が、黒森峰の列の中へ消えてからだった。
―――
「……ちょっと。そこの、赤い星」
振り返ると、逸見エリカが、腕を組んで立っていた。
その顔は、まだ、怒っているようにも、泣いたあとのようにも見えた。
「あんたの一発のせいで、砲塔が回らなかったのよ。……修理班が、全部ばらさなきゃわからないって」
「……すみません」
「謝るな。腹が立つから」
エリカは、ぷいとそっぽを向いた。それから、ちらりと、みほのほうを見た。
「……次は、負けないわよ」
その言葉は、みほに向けたものだった。けれど、エリカは、去り際に、もう一度だけ伊里奈を振り返った。
「あんたもよ。――次は、正面から撃ち抜いてやるんだから」
それは、「どの面さげて」ではなかった。「次は」だった。
伊里奈は、小さく、頭を下げた。
「……お待ちしています」
―――
観客席では、まだ拍手が鳴りやまなかった。
「Congratulations! ミホー! 最高のゲームだったわー!」
ケイが、席の上に立ち上がって、大きく手を振っていた。その足元で、アリサが、もう止めるのもあきらめて、一緒に手を叩いている。
「……うちも、あんなの、やってみたい」
ナオミが、ぽつりと言った。
衝立の向こうでは、オレンジペコが、ハンカチでそっと目元を押さえていた。
「……勝っちゃいましたね。本当に」
「ええ」
ダージリンは、新しい紅茶を注いでもらうと、それを、画面の向こうの小さな広場へ、そっと掲げた。
「――大洗女子学園に。それから、あの赤い星にも」
上の段では、カチューシャが、ノンナの肩の上で、じっと画面を見つめていた。
広場の端で、三人の仲間に囲まれて、伊里奈が笑っている。その横顔が、小さく映っていた。
「……会いに行かないのですか」
ノンナが、静かに尋ねた。
カチューシャは、しばらく答えなかった。
「……今日は、ミホーシャの日でしょ。カチューシャが出ていったら、主役が霞んじゃうじゃない」
それから、ぷいと、画面から顔をそむけた。
「……それに。あの子のほうから、来るべきでしょ。黙って出ていったのは、あの子なんだから」
「はい」
ノンナは、そっと口元を緩めた。その声が、ちゃんと、会いたがっていることを、彼女は、よく知っていた。
―――
関係者席で、西住しほは、まだ座っていた。
画面の中で、二人の娘が握手をしている。その光景を、しほは、一度だけ、強い顔で見つめた。
それから、その顔が、ほんのわずかにほどけた。
しほは、立ち上がった。そして、誰にも聞こえないほどの、小さな、けれど、終わりのない拍手を、画面の向こうへ送り始めた。
―――
夕日が、廃校の広場を、橙色に染めていた。
伊里奈は、へこんだT-34の前に立って、その赤い星を見上げていた。
結末は、知っていたとおりだった。
あの子が勝ち、姉と握手をし、自分の戦車道を見つけたと言う。一つも、変わらなかった。
変えられない物語だった。
けれど、その物語の中に、今年は、自分がいた。
通路の入口で、砲塔の継ぎ目に、一発だけ。去年、撃ちたくなかった弾の代わりに、今年は、撃ちたかった弾を。
「……伊里奈ちゃーん! 集合だってー!」
広場の向こうで、こはるが、大きく手を振っていた。その横で千紗が小さく手を上げ、すみれが記録帳を振っている。
伊里奈は、一度だけT-34を振り返ってから、三人のほうへ、走り出した。
「……今、行きます!」