大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
夕方の演習場に、ファンファーレが鳴った。
表彰台の前に、両校の選手が並んでいる。右に黒森峰。左に大洗。並んだ数は、黒森峰のほうがずっと多い。それでも、今日、真ん中に立つのは大洗だった。
「第六十三回戦車道全国高校生大会、優勝――大洗女子学園!」
審判長の蝶野亜美の声が、夕焼けの空に響いた。
みほが、一歩前へ出る。手渡された優勝旗は、思っていたよりもずっと重かったらしい。受け取った瞬間、みほの体が、ほんの少しだけ前へ傾いた。
後ろから、沙織と華が、そっとその背中を支えた。
大洗の列から、拍手と歓声が湧き上がる。桃は、もう声が出ていなかった。柚子がその隣で、ハンカチを二枚使っている。杏は、両手を頭の後ろで組んで、いつもの顔で旗を見上げていた。その目だけが、夕日のせいにしては、少し赤かった。
伊里奈は、大洗の列のいちばん端で、その旗を見ていた。
画面の向こうでは、この場面は、ほとんど映っていなかった気がする。勝った、と叫んで、次の場面ではもう町を走っていた。
けれど、本当は、ここにも時間があったのだ。風の匂いがして、誰かが鼻をすすって、旗の重さに少しよろける時間が。
「……伊里奈ちゃん、泣いてる?」
隣で、こはるが小声で言った。
「泣いていません」
「ふーん」
こはるは、自分の目元を袖でごしごしとこすってから、前を向いた。
―――
表彰式が終わると、演習場は、あっという間に撤収の時間になった。
大洗の戦車は、明日の朝の貨物列車で帰る。それまでに、運べる状態にしておかなければならない。
「さーて、と」
ナカジマが、油だらけの手袋をはめ直した。
「みんな、ぼろぼろだねー。一晩で、どこまでいけるかなー」
「一晩で全部、ですか……?」
優花里が目を丸くすると、ツチヤが「いけるいける」と親指を立てた。スズキとホシノは、もう工具箱を開けている。
並んだ戦車は、どれもひどい有様だった。底が潰れたヘッツァー。横倒しから起こされたM3。履帯の切れた八九式。正面が黒焦げのポルシェティーガー。片側の履帯を引きずったIV号。
そして、前面が大きくへこんだ、赤い星のT-34。
「IV号は、履帯ごと替えないとだめだねー。駅までは、九四式のトラックで引っ張ってもらおうか」
ナカジマが、IV号の足回りを覗き込みながら言った。
「T-34は?」
こはるが、身を乗り出す。
ナカジマは、へこんだ前面を、手のひらでこんこんと叩いた。それから、エンジンの点検口を開けて、しばらく黙って中を見ていた。
「……うん。前はへこんでるけど、中は無事。走れるようにはできるよ」
「よかったぁ……」
こはるが、その場にしゃがみ込んだ。
「でも、手が足りないなー。こっちは、ポルシェとヘッツァーで手一杯だし」
「私たちがやります」
伊里奈は、言った。
「教えてください。言われたとおりに、四人でやります」
ナカジマは、伊里奈の顔を見て、それから、後ろに並んだこはると千紗とすみれを見た。三人とも、もう作業着の袖をまくっていた。
「――最初にこの子を直したの、君たちだったよね」
「はい」
「じゃあ、任せた。わかんないところだけ、呼んで」
ナカジマは、にっと笑って、ポルシェティーガーのほうへ戻っていった。
―――
夜の演習場に、投光器の白い光がいくつも灯った。
あちこちで、工具の音と、溶接の火花が上がっている。ヘッツァーの下に潜り込んだ杏が「あ、これ、底板もう一枚いるねー」とのんきに言い、桃が「会長、危ないです!」と叫んでいる。バレー部の四人は、八九式の履帯をつなぎながら、なぜかスパイクの掛け声をかけていた。
T-34の前では、四人が、へこんだ前面の装甲と向き合っていた。
「……ここ、思ったより深いね」
千紗が、懐中電灯でへこみの縁を照らす。
「ジャッキで内側から押し戻して、焼きを入れれば……一晩あれば、なんとかなるかしら」
すみれが、記録帳に寸法を書き込んでいく。今日の分のページは、もう、ほとんど埋まっていた。
「伊里奈ちゃん、このボルト、外していいやつ?」
「はい。その次の二本も。……そこは、右回りです」
「わかってるってば」
こはるが、スパナを回しながら口を尖らせた。
倉庫で初めてこの戦車を見つけた日のことを、伊里奈は思い出していた。錆びて、埃をかぶって、どこから手をつければいいのかもわからなかった。あのとき、こはるは、ボルトの回し方も知らなかった。
今は、言われる前に、次の工具を手に取っている。
「……へこみ、残しておいてもいいかな」
こはるが、ふと手を止めて言った。
「え?」
「直せないところは、そのままでいいんじゃないかなって。だってこれ、今日、伊里奈ちゃんが前に出た跡でしょ。――私が、後ろに下がらなかった跡」
千紗が、懐中電灯を下ろした。すみれが、ペンを止めた。
伊里奈は、しばらく、そのへこみを見つめていた。
去年の雨の日、自分は、撃たないでくださいと言うことしかできなかった。今年は、撃ちたかった弾を撃って、そのかわりに、ここで撃たれた。
「……いいえ。直しましょう」
伊里奈は言った。
「この子には、まだ次がありますから。へこんだままじゃ、次の一発は受け止められません。――跡は、すみれの記録帳に残してもらいましょう」
こはるは、少しだけ口を尖らせてから、こくんと頷いた。すみれが、記録帳の端に、小さく書き込んだ。
『前面装甲のへこみ:修理。理由――次があるから。跡は、このページに残す』
2/
夜が更けたころ、千紗が、工具を置いて言った。
「伊里奈。……行ってきたら」
「え?」
「プラウダの人たち、まだ駐車場のほうにいるって。さっき、ケイさんが言ってた。明日の朝いちばんで帰るから、今夜はあそこに泊まるんだって」
伊里奈は、手の中のスパナを見下ろした。
「……でも、まだ途中です」
「ボルトなら、私が締めとくよ」
こはるが、油で真っ黒になった顔で笑った。
「右回りでしょ。わかってるってば」
「記録も、ちゃんとつけておくわ」
すみれが、記録帳を持ち上げてみせる。
「……でも、あの人のところに行くときに、手ぶらは、ないと思うけど」
三人に背中を押されるようにして、伊里奈は、投光器の光の外へ歩き出した。
―――
駐車場の奥に、白いテントがいくつも並んでいた。
その前に、背の高い人影と、その肩の上の小さな人影が、夜空を背にして立っていた。まるで、誰かが来るのを待っていたかのように。
「遅い!」
伊里奈が口を開くより先に、小さな人影が叫んだ。
「カチューシャを、いつまで待たせるつもりよ! もう、ピロシキが冷めちゃったじゃない!」
「……待っていて、くださったんですか」
「待ってないわよ!」
「待っていました」
ノンナが、静かに言った。カチューシャは、その頭をばしんと叩いた。ノンナは、少しも動じなかった。
伊里奈は、二人の前で、深く頭を下げた。
「……砲身、ありがとうございました」
「何のことかしら」
カチューシャは、つんと顎を上げた。
「カチューシャは、何も知らないわよ。送ったのは、『地吹雪』と『ブリザード』でしょ。カチューシャとは、関係ないわ」
「天気予報のようなものです」
ノンナが、真顔で付け足す。
伊里奈は、こらえきれずに、小さく吹き出した。倉庫で、すみれが伝票を読み上げて、同じことを言ったのだ。
「……何よ。何がおかしいのよ」
「いえ。――その天気予報の人たちに、伝えてください。八十五ミリは、ちゃんと届きました、と」
カチューシャは、しばらく黙っていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……見てたわよ。路地の角で一輌。入口で一輌。たったの二輌」
「……はい」
「八十五ミリを積んでおいて、二輌。カチューシャの戦車隊なら、落第よ」
それから、小さく、付け足した。
「……でも、最後の一発は、まあまあだったわね。黒森峰の副隊長の砲塔、ずっとぎしぎし言ってたもの」
「当たり前でしょう、と言いたいのですよ」
ノンナが言う。
「カチューシャが、育てたのだから、と」
「ノンナ! 余計なこと言わないの!」
―――
しばらく、三人は、何も言わずに夜空を見ていた。富士の黒い影が、星のあいだに大きく横たわっている。
「……で?」
カチューシャが、ノンナの肩の上から、伊里奈を見下ろした。
「それだけ?」
「え?」
「次に会うときは、ちゃんと言いなさいって、言ったわよね。雪の上で」
その目は、少しも笑っていなかった。
「あんた、何か言いたい顔してるわよ。去年と、おんなじ顔」
伊里奈は、息をのんだ。
去年の決勝の前の晩。カチューシャの部屋の扉を叩いて、撃たないでください、と頼んだ。占いみたいなことを言うな、と追い返された。あのときと同じ顔を、自分は今、しているのだろうか。
伊里奈は、ゆっくりと息を吸った。
「……近いうちに、大洗は、もう一度、困ることになるかもしれません」
カチューシャの眉が、ぴくりと動いた。
「今日、勝ちました。それで、学校は残るはずです。……でも、それで、全部が終わるとは限らない。もう一度、なくなりかける日が来るかもしれないんです」
風が、テントの布を、ぱたぱたと鳴らした。
「……また、それ?」
カチューシャの声は、低かった。
「前も、あんたは、そういう顔で、そういうことを言ったわ。クロムウェルも、雨も、川も。全部、あんたの言ったとおりになった」
「……はい」
「で? 今度は、それを聞いて、カチューシャに、どうしてほしいのよ」
伊里奈は、首を横に振った。
「……何も。ただ、知っていてほしかったんです。何も言わずにいなくなるのは、もうなしだと、言われたので」
カチューシャは、目を丸くした。
それから、心の底から呆れたように、大きなため息をついた。
「――バカね。ほんっとに、バカ」
「……すみません」
「謝るところじゃないわよ」
カチューシャは、ノンナの肩の上で、腕を組んだ。
「そういうときはね。『助けてください』って、言うのよ」
伊里奈は、言葉を失った。
「カチューシャはね、去年、あんたの話を聞かなかった。それは、もう謝ってもらったし、カチューシャも言ったわ。だから、今年は聞いてあげる。少しだけって言ったけど――今日は、全部、聞いてあげるわよ」
「カチューシャは、頼まれると断れない人ですから」
ノンナが、そっと言う。
「誰が!」
カチューシャは叫んで、それから、もう一度、伊里奈をまっすぐに見下ろした。
「いい? 困ったら、ちゃんと言いなさい。どこにいても。カチューシャの戦車隊は、雪の上なら、どこへだって行くんだから」
「……雪の、上なら」
「雪がなくても、行ってあげるわよ。……たぶんね」
伊里奈は、笑った。笑おうとして、うまく笑えなかった。目の奥が、熱かった。
「……はい。そのときは、ちゃんと言います。助けてください、と」
「よろしい」
カチューシャは、満足そうに頷いた。それから、急に眠そうに、大きなあくびをした。
「……もう寝るわ。ノンナ、テントに戻るわよ」
「はい」
ノンナは、カチューシャを肩に乗せたまま、くるりと背を向けた。二、三歩進んでから、首だけで振り返る。
「イリーナ」
「はい」
「次に会うときも、今日のように、ちゃんと来てください。――日記に、書くことがありますから」
―――
その夜、テントの中の小さな明かりの下で、ノンナは、日記帳を開いた。
隣の寝袋からは、もう、規則正しい寝息が聞こえている。眠る前に、カチューシャは三回、「あの子、本当にバカなんだから」と言った。三回とも、少しだけ嬉しそうだった。
ノンナは、今日の日付の下に、ゆっくりとペンを走らせた。
『大洗、優勝。イリーナのT-34、二輌撃破。砲身は、役に立った』
少し考えてから、もう一行。
『イリーナ、今度は、ちゃんと言いに来た。カチューシャ、「助けて」と言うように命令。――あの子が困るとき、私たちは、たぶん、雪がなくても行くのだと思う』
3/
夜明け前の駅で、大洗の戦車が、一輌ずつ貨車に積まれていった。
演習場から九四式の六輪トラックに引かれてきたIV号は、自動車部が夜通しかけてつないだ履帯で、最後の数メートルだけ、自分の足で貨車に上がった。その横で、あんこうチームの五人が、ほっとしたようにそれを見上げている。
T-34も、こはるの操縦で、自分の力で貨車に上がった。前面のへこみは、伊里奈がプラウダのテントから戻ったあと、四人がかりでジャッキを押し、溶接機の火を当てて、夜明けまでにほとんど元の形に戻してあった。目を近づければ、うっすらと跡がわかる。それくらいだった。
「……走った! 走ったよ、伊里奈ちゃん!」
「はい。走りましたね」
そのやりとりを、すぐ横でナカジマが、眠そうな目で、うんうんと頷きながら聞いていた。
―――
客車の中は、ほとんどの人が眠っていた。
通路をはさんだ向こうでは、一年生たちが、山のように重なり合って寝ている。紗希だけが、窓の外の暗い空を見ていた。その前の席では、麻子が、沙織の膝を枕にして、当然のような顔で眠っている。沙織も、そのまま寝ていた。
いちばん後ろの席で、伊里奈の肩にも、温かい重さがもたれかかっていた。
こはるだった。油の匂いのする作業着のまま、口を少し開けて、すうすうと寝息を立てている。
向かいの席では、千紗が、窓の外を見ていた。すみれは、膝の上に開いた記録帳に、まだ何かを書き込んでいる。
「……二人とも、寝ないんですか」
伊里奈が小声で言うと、千紗が、少しだけ笑った。
「もったいなくて。寝たら、今日が終わっちゃうから」
「私は、書き終わってないだけよ」
すみれが、ペンを止めずに言った。それから、ふと、顔を上げた。
「……伊里奈。ひとつだけ、聞いてもいい?」
「はい」
「どうして、大洗に来たの」
列車が、小さな鉄橋を渡っていく。窓の外で、まだ暗い川面が、ちらりと光った。
伊里奈は、しばらく、答えなかった。
プラウダにいたことも、三度止めようとして三度とも届かなかったことも、そのあと誰にも言わずに転校したことも、三人はもう知っている。あの雪の教会で、全部話した。ただ、どうして大洗だったのかだけは、まだ話していなかった。
「……西住さんが、いつか来る場所だと思ったんです」
伊里奈は、ゆっくりと言った。
「どうしてそう思ったのかは、うまく言えません。教会で、わかっていたと言ったのと、同じです。――でも、最初は、何もしないつもりでした。戦車にも乗らないで、ただ遠くから見ているだけのつもりで。……十日で、破りましたけど」
千紗が、黙って聞いている。すみれのペンが、止まっていた。
「そうしたら、倉庫に、あの子がいたんです」
伊里奈は、小さく笑った。
「錆びて、埃だらけで。誰にも、もう一度動かそうと思われていなかった。――それを見たら、どうしても、放っておけなくなって。そこに、こはるが来て、千紗と、すみれが来て」
肩の上で、こはるが、むにゃむにゃと何かを寝言でつぶやいた。「右回り……」と聞こえた気がして、千紗が吹き出しそうになるのをこらえた。
「……逃げてきた先で、以前よりもずっと、戦車に乗りたくなるとは思いませんでした」
「……そっか」
千紗が、そっと言った。
すみれは、しばらく伊里奈の顔を見ていた。それから、記録帳に目を落として、静かに言った。
「あなたが、この先のことを知っているのは、もうわかってるわ。教会で、そう言ったもの」
伊里奈の肩が、わずかにこわばった。
「今日の町の路地も。入口で、あの人が間に合わないってわかってたみたいな顔も。――記録をつけていると、そういうことに気づくのよ」
「……すみれ」
「聞かないわ」
すみれは、ペンを、また動かし始めた。
「言いたくなったら、言って。言いたくならなければ、それでいい。――ただ、ひとりで抱えて、また黙っていなくなるのだけは、やめて。私たちの記録に、空白のページを作らないで」
伊里奈は、何も言えなかった。
さっき、カチューシャに言われたのと、同じことだった。困ったら、ちゃんと言いなさい。何も言わずにいなくなるのは、もうなし。
一年前の自分には、そう言ってくれる人が、いなかったわけではなかったのだ。自分が、聞こうとしなかっただけで。
「……はい。約束します」
「よろしい」
すみれは、どこかで聞いたような言い方で、そう答えた。伊里奈は、思わず吹き出して、肩の上のこはるを起こしそうになった。
―――
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。
千紗が、窓ガラスに額を寄せて、つぶやいた。
「……次も、この四人でいようね」
「次?」
「次の大会。でも、次の練習でも。倉庫の片付けでもいいけど」
伊里奈は、窓の外を見た。水平線の向こうが、うっすらと橙色に染まり始めている。
知っている。その「次」が、どんな形で来るのか。平穏なものではないことも。
けれど、それでも。
「……はい。次も、四人で」
肩の上で、こはるが、寝たまま「うん……」と返事をした。
三人は、声を殺して笑った。
4/
大洗駅のホームに列車が滑りこんだとき、最初に聞こえたのは、ブラスバンドの音だった。
「……え?」
窓に張りついた千紗が、目を丸くした。
駅前の広場が、人で埋まっていた。商店街のはっぴを着たおじさんたち。手作りの横断幕を広げた子どもたち。『祝 全国大会優勝 大洗女子学園戦車道チーム』。その字の横に、誰が描いたのか、ずいぶんかわいくなったIV号の絵が添えてある。
「す、すごい人……!」
目を覚ましたばかりのこはるが、寝ぐせのついた頭のまま、窓から身を乗り出しかけて、すみれに襟首をつかまれた。
「落ちるわよ」
「だって、だって! 町じゅうの人が来てるよ!」
ホームに降りると、拍手が、波のように押し寄せてきた。
誰が最初に言い出したのか、わからない。人垣のどこかから、声が上がった。
「隊長さーん!」
「西住さーん! こっち向いてー!」
みほが、びくりと肩を跳ねさせた。助けを求めるように振り返ると、杏は干しいもをくわえたまま、にやにやと笑っているだけだった。その隣で、桃が、腕を組んで胸を張った。
「隊長、なんか言え!」
「えっ、で、でも、何を……」
杏が、干しいもを口から離して、のんびりと言った。
「いつものでいいよー、西住ちゃん」
小山が、そっとみほの背中を押した。
みほは、広場を見渡した。知らない人たちが、たくさんいた。この春、この町に来たとき、誰ひとり知らなかった人たちだった。
みほは、小さく息を吸った。
そして、戦場でそうするように、まっすぐ前を見た。
「――パンツァー・フォー!」
一瞬の間があって、それから、広場がどっと沸いた。
「パンツァー・フォー!」
商店街のおじさんたちが、意味もわからないまま拳を突き上げている。子どもたちが、それをまねして跳ねている。
「……すごい。通じてないのに、通じてる」
千紗が、半分泣きながら笑った。
―――
パレードは、駅前から商店街を抜けて、港まで続いた。
先頭は、IV号だった。シュルツェンを外したままの車体の、車長用キューポラから、みほが上半身を出している。そのすぐ横で、優勝旗が、海からの風を受けてはためいていた。
「みぽりん、手振って、手!」
通信手ハッチから身を乗り出した沙織が言うと、みほは、困ったように笑いながら、小さく手を振った。
「みほさん、もっと大きく、ですよ」
「優勝旗を掲げての凱旋行進……! 夢にまで見た光景であります!」
華の隣で、優花里が、なぜか敬礼をしている。麻子は、いつもどおりの眠そうな顔で、それでも一度もふらつかずに、まっすぐ車体を進めていた。
その後ろに、八九式、三突、M3、三式、ルノー、ヘッツァー、ポルシェティーガーが続いた。どの戦車にも、焦げ跡と、へこみと、昨日の戦いの名残がこびりついている。
「アヒルさーん! かっこよかったよー!」
「バレー部、復活しまーす! 部員募集中でーす!」
典子が、八九式の上から、沿道にバレーボールを投げこんでいる。
カバさんチームの三突には、なぜか旗が四本も立っていた。M3の上では、一年生たちが手をつなぎ、沿道の子どもたちと一緒に何かの歌を歌っている。
その列の、いちばん最後に、T-34がいた。
一晩で叩き直した前面装甲。砲塔の横には、塗りなおしたばかりの赤い星と、こはるの描いた少し不格好なシロクマ。
沿道から、ひそひそと声が聞こえた。
「あれ、最後の戦車、一輌だけ形が違うな」
「赤い星だって。外国の戦車?」
「ほら、あれだよ。最後の門のとこで、黒森峰の大きいのと撃ち合ったやつ」
「中継で見た見た! あの子たち、四人だけで乗ってるんだって」
こはるが、操縦席の窓から、そっと外をのぞいた。
「……なんか、見られてる」
「そりゃ見るわよ。赤い星とシロクマ、目立つもの」
すみれが言うと、こはるは、むしろ得意げに胸を張った。
「直しといて、よかったね」
「――おーい! 赤い星の子たち!」
魚屋の前で、ねじりはちまきのおじさんが、大きな手を振っていた。
「最後のあれ、しびれたぞー! 今度、店に寄りな! イカの一夜干し、持ってけー!」
千紗が、ハッチから身を乗り出して、思いきり手を振り返した。
「ありがとうございまーす! 四人分、お願いしまーす!」
「ちゃっかりしてるわね……」
すみれがあきれ顔でつぶやいたが、その口元は、ゆるんでいた。
―――
沿道の人垣の中で、ひときわ小さなおばあさんが、腕を組んで立っていた。
IV号が前を通ると、操縦手ハッチから、眠そうな顔がのぞいた。
「……おばあ」
「麻子! あんた、そんな眠そうな顔で運転してるのかい!」
「……ちゃんと前は見てる」
「当たり前だよ、まったく!」
怒鳴ってから、おばあさんは、ふっと口をつぐんだ。それから、そっぽを向いたまま、ぼそりと言った。
「……よく、やったね」
麻子は、何も言わなかった。ただ、おばあさんの前を通り過ぎるあいだだけ、ほんの少し、IV号の速度を落とした。
沙織が、それに気づいて、何も言わずに、麻子の肩をぽんと叩いた。
―――
「……ねえ、沙織さん。あの人たち、さっきから沙織さんのこと見てない?」
商店街の端で、華がIV号の上から指をさした。
沿道に、同じくらいの年の男の子たちが、何人かかたまっていた。手に、紙を持っている。『武部さん かっこよかった』と書いてある。
「えっ」
沙織が、固まった。
「えっ、えっ、私? うそ、私? ちょ、ちょっと待って、今、髪ぐちゃぐちゃなんだけど! ゆかりん、鏡! 鏡ない!?」
「せ、潜望鏡ならありますが!」
「それ鏡じゃないからー!」
通信手席にもぐりこんで、髪を直し始めた沙織を見て、華が、肩を震わせて笑った。
「モテ期、到来ですね」
「ほんとに来た……! 戦車道、すごい……!」
IV号の上の騒ぎを、列のずっと後ろのT-34から双眼鏡で見ていた千紗が、ぽつりと言った。
「……戦車道、いいなあ」
「千紗。そういう目的じゃないでしょう」
「わかってるけどさ!」
伊里奈は、そのやりとりを聞きながら、砲塔のハッチに腰かけて、町を見ていた。
商店街のアーケード。古い看板の床屋。シャッターに描かれた、色あせたあんこうの絵。
ここに来たばかりのころ、この町を、まともに見たことはなかった。どこへ行っても、同じだと思っていた。
今は、ひとつひとつの店の名前を、言える気がした。
――この町が、守れた。
それは、伊里奈が、まだ一度も知らなかった結末だった。知っていた物語の中でも、確かに大洗は勝った。けれど、その中に、赤い星のついた戦車は、いなかった。
胸ポケットの上から、カードの角に、そっと触れた。
『Удачи』
「……はい。ちゃんと、届けましたよ」
誰にともなく、そうつぶやいた。
5/
パレードの列は、商店街を抜けて、港へ向かう道に入っていった。
岸壁の向こうに、大洗女子学園の学園艦が、いつもと同じ顔で浮かんでいた。廃校の話など、はじめからなかったような顔で。
沿道の人波が途切れたあたりで、IV号の上のあんこうチームの五人は、ようやく肩の力を抜いた。
「ねぇ、帰ったら何する?」
沙織が、通信手ハッチから身を乗り出して言った。髪は、結局、直りきっていなかった。
「お風呂入って」
華が、楽しそうに言う。
「アイス食べて」
操縦手ハッチの下から、麻子の声がした。
「それから」
優花里が、わくわくした顔で続きをうながす。
沙織が、にっと笑って、キューポラのみほを見上げた。
「戦車乗ろっか?」
みほは、一瞬きょとんとして、それから、優勝旗の下で、いちばんの笑顔になった。
「――うん!」
その声は、港の向こうの学園艦まで、届きそうだった。
―――
その列のいちばん後ろを、T-34も、ゆっくりと港へ向かっていた。
操縦席のこはるは、前のポルシェティーガーとの車間距離を気にしながら、それでも鼻歌を歌っている。千紗は砲塔のハッチから身を乗り出し、すみれは、膝の上の記録帳を閉じたところだった。
伊里奈は、車長用ハッチから上半身を出して、自分たちの戦車を見下ろしていた。
叩き直した前面と、よく見ればまだうっすらと残る跡。塗りなおした赤い星と、白い熊。カチューシャたちから届いた、まだ少し場違いなほど立派な八十五ミリの砲身。
倉庫の奥で、錆と埃にまみれていたころの姿は、もうどこにもなかった。
「……ねえ、伊里奈ちゃん」
操縦手ハッチから、こはるが顔だけ出した。
「帰ったら、何する?」
「え?」
「あっち、言ってたよ。お風呂入って、アイス食べてって」
千紗が、首だけ伸ばして、あんこうチームのほうを見た。
「いいな、それ。うちも、そうしよう」
「私は、記録の清書があるけれど」
「すみれ、それ今日やらなくてもいいって」
「今日の記録は、今日のうちに書くものよ」
すみれはそう言ってから、閉じたばかりの記録帳の表紙を、指でとんとんと叩いた。
「……でも、お風呂とアイスのあとなら、いいわ」
「やった!」
こはるが、操縦席で小さく跳ねた。T-34が、ほんの少しだけ揺れた。それから、もう一度、伊里奈を見た。
「で、そのあとは?」
伊里奈は、答えようとして、言葉を探した。
知っている物語は、みほの「うん!」で終わっていた。そこから先は、いつも、少しだけ違う日々で、そして――また、この艦が脅かされる日が来る。
それを、伊里奈は知っている。
約束はした。言いたくなったら、言う。ひとりで抱えて、黙っていなくならない。カチューシャにも、すみれにも、そう約束した。
だから、その日が来たら、きっと言う。
でも、それは、今日ではなかった。
伊里奈は、ハッチの縁に手を置いた。鉄の表面が、陽を吸ってほんのり温かかった。
「そのあとは」
伊里奈は、三人の顔を、ひとりずつ見た。
「――戦車、乗りましょうか」
一瞬の間があって。
「――うん!」
三人の声が、そろった。
港の風が吹いて、砲塔の赤い星の上を、海鳥の影が横切っていった。
変えられない物語が、あるのかもしれない。それでも、この戦車がここにいることだけは、誰が書いた物語にもなかった。
今は、それでいい。
伊里奈は、目を細めて、学園艦を見上げた。
アニメ版はここまでです!
あとはドラマCDなど書いてから劇場版書きたいと思います!