大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗)   作:ouka23

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鉄と油の匂い

翌日の放課後、伊里奈は自分の工具箱を提げて倉庫へ向かった。

使い込んだ金属の箱。角は擦り切れ、持ち手には油が染みている。

(持ってきておいて、よかった)

転校の荷物に入れたときは、使う日が来るなんて思っていなかったのに。

「うわ、本格的」

先に来ていたこはるが、箱の中を覗き込んだ。

「これ、全部伊里奈ちゃんの?」

「全部、というか。……昔から使っているものです」

「昔って?」

「昔は、昔です」

ごまかしたつもりはなかった。ただ、うまい説明が見つからなかっただけだ。

こはるは「ふーん」と言っただけで、それ以上は聞かなかった。

その代わり、箱の中から一番大きなレンチを取り出して、嬉しそうに振り回した。

「危ないです」

「あ、ごめん!」

「まず、決めておきたいことがあります」

伊里奈は三人を並べた。

「ひとつ。無理に動かさない。固着している部分は、力任せに外さない」

「うん」

「ふたつ。分からないことを、分かったふりをしない」

「はーい」

「みっつ。おかしいと思ったら、小さなことでも必ず言うこと」

すみれがノートに書き取る手を止めて、顔を上げた。

「……学校の備品に手を入れるのだから、先生にも話しておいたほうがいいわね」

「あ、そうだね」

千紗が頷く。

「私が行ってくる。美化委員の顧問の先生なら、話が通りやすいから」

結果は、拍子抜けするほどあっさりしていた。

「危ないことはしないこと。怪我をしないこと。それだけ守れるなら、好きにしなさい、って」

千紗が持ち帰った返事に、こはるが拳を突き上げた。

「やった!」

伊里奈は、少しだけ呆れた。

(……軽い)

でも、その軽さが、ありがたくもあった。

     *

作業の日々は、思ったよりも静かに過ぎていった。

放課後、倉庫に集まる。埃を払い、錆を落とし、外せる部品から順に外していく。

伊里奈が手順を決め、すみれが記録を取る。こはるが力仕事を引き受けて、千紗が細かいところに気づく。

役割は、いつの間にか決まっていた。

「雪村さん、ここのボルト、一本だけ色が違う」

「本当だ。後から交換したのかな」

「記録しておくわね。位置は、右側の三番目」

「ありがとうございます」

そんなやりとりが、少しずつ当たり前になっていく。

こはるは、とにかく手が早い。千紗は、見逃さない。すみれは、忘れない。

(……いい三人だ)

口には出さなかった。

     *

最初の壁は、足回りだった。

「外れない!」

こはるが全体重をかけても、履帯はびくともしない。

「待って。無理に外さないで」

「でも、固まってるよ!」

「だから、油を差して、時間を置きます」

伊里奈は浸透油を吹きかけて、布で拭った。

「焦らないで。急がなくても、逃げませんから」

「戦車が?」

「戦車は、逃げません」

こはるが吹き出した。

「そりゃそうだ!」

笑い声が倉庫に響く。

その横で、伊里奈は黙って履帯の隙間を見つめていた。

(……こういう作業、好きだったな)

何も考えずに済む。

手を動かしている間は、原作のことも、去年の決勝のことも、頭から消える。

ただ、目の前の鉄と向き合っていればいい。

直している間だけ、伊里奈は少しだけ楽に息ができた。

     *

足りない部品は、艦内を探し回って集めた。

資材置き場の奥。廃材の山。使われなくなった機械の残骸。

「これ、使えない?」

こはるが差し出した金属片を、伊里奈は光にかざした。

「……形は近いです。削れば、合うかもしれません」

「やった!」

「でも、そのまま付けると危ないので、すみれ、記録をお願いします」

「どの部品を、どこに使うかも書いておくわね」

「お願いします」

千紗が少し離れた場所から呼んだ。

「雪村さん、こっちの転輪、まだ使えそうだよ」

「本当? 見せてください」

四人で顔を寄せ合って、部品を調べる。

誰かが何かを見つけるたびに、小さな歓声が上がった。

夕日が倉庫に差し込むころには、四人とも油と埃だらけになっていた。

「……汚れたね」

千紗が自分の手を見つめて、苦笑する。

「うん。真っ黒」

こはるが、嬉しそうに笑った。

「でも、楽しい!」

伊里奈は、その言葉に何も返さなかった。

返せなかった。

楽しい、と素直に言える人のそばにいるのは、思っていたより胸に響く。

     *

三週間が過ぎた。

車体の外側は、見違えるほどきれいになった。錆は落ち、傷んだ部分は補修され、すみれの記録帳は、もう三冊目に入っている。

その夜、伊里奈は一人で倉庫にいた。

作業をするつもりではなかった。ただ、帰っても落ち着かなかった。

灯りをひとつだけ点けて、戦車の隣に座り込む。

雨の音が、屋根を叩いていた。

「……いた」

入口から声がして、顔を上げる。

傘を差したこはるが、立っていた。

「こはるさん」

「やっぱりここだ。帰り道にいないから、もしかしてって」

「……ごめんなさい。心配をかけました」

「いいよ。入っていい?」

こはるは、返事も待たずに隣へ腰を下ろした。

しばらく、二人とも黙っていた。

雨の音。

遠くで鳴る船の汽笛。

戦車の装甲が、灯りを鈍く返している。

「ねえ、伊里奈ちゃん」

「はい」

「なんで、直したいの?」

唐突だった。

伊里奈は、少しだけ考えた。

「……動くところが、見たいから」

「それだけ?」

「たぶん」

「たぶん、なんだ」

「たぶん、です」

こはるは、膝を抱えて笑った。

「私もね、それだけ」

「え」

「動くところが見たい。それだけ。でも、それだけで十分だと思う」

雨の音が、少しだけ弱まった。

「だからさ、伊里奈ちゃんが何か隠してても、私は気にしないよ」

心臓が、跳ねた。

「……隠して、いません」

「そう?」

「はい」

「じゃあ、そういうことにしとく」

こはるは、あっさりと言った。

追及はしない。そのかわり、立ち上がって、伊里奈に手を差し出した。

「帰ろ。風邪引くよ」

伊里奈は、その手を見つめた。

差し出された手は、油で少し黒くなっていた。

(……私は、この人たちを巻き込んでいる)

何も知らない三人を、知っている自分が、物語の中へ引きずり込んでいる。

その事実が、急に重く感じられた。

けれど、同時に思った。

(巻き込まれてもいいと、言ってくれる人がいる)

伊里奈は、その手を取った。

「……ありがとう、こはるさん」

「さん、いらないよ。こはるでいい」

「じゃあ、こはる」

「うん!」

雨はまだ降っていたが、傘の下は温かかった。

     *

四月の最初の週。

倉庫には、四人が揃っていた。

車体は、見違えるほど整っている。履帯も、転輪も、すみれの記録帳に並ぶ修理の跡も。

「……準備、できました」

伊里奈が告げると、三人が息を呑んだ。

「ほんとに?」

「やってみないと分かりませんけど、確認できることは、全部確認しました」

「じゃあ、動くかな」

千紗が、緊張した顔で戦車を見上げる。

「動いたら、ご褒美に何か奢ってもらおうかな」

「千紗、そんなこと言ってる場合?」

すみれが、ペンを握り直した。

「始動の時刻は、記録しておくわ」

伊里奈は、車体に登って、ハッチを開けた。

中は、思ったより狭い。

油と鉄の匂い。冷えた金属の感触。

(……ひさしぶり)

操縦席には、こはるを座らせた。

「こはる、ここです。右のレバーは、まだ触らないで」

「了解!」

「千紗、外の様子をお願いします。異常があれば、すぐに」

「分かった」

「すみれ、時間を」

「十六時四分」

伊里奈は、最後にもう一度、確認した。

油圧。配線。ハッチ。

「……始めます」

指先に、わずかな震えが走った。

エンジンが唸る。

一度、二度。不規則な振動。金属の悲鳴。

倉庫の空気が、震えた。

「動いて……!」

こはるが、祈るような声を出す。

やがて。

不規則な音が、少しずつ揃っていく。

ひとつの鼓動のように。

低く、重く、安定した唸りになった。

「……動いた」

伊里奈の口から、声が漏れた。

「動いた! 動いた!」

こはるが叫んで、操縦席から飛び出しそうになる。

「こはる、危ない!」

千紗が慌てて止める。

「だって! 動いたんだよ!」

すみれは、ペンを握ったまま、固まっていた。

それから、ゆっくりと、記録帳に書いた。

『十六時四分。エンジン始動、成功』

その文字が、少しだけ滲んでいた。

「……雪村さん」

すみれが、顔を上げる。

「ありがとう」

「いえ。皆さんのおかげです」

「違うよ」

千紗が首を振った。

「伊里奈がいなかったら、始まってない」

呼び捨てだった。

伊里奈は、思わず千紗を見た。

「……今、なんて」

「え? あ、ごめん。なんとなく」

「ううん」

伊里奈は、小さく笑った。

「呼び捨てで、いいです」

胸の奥が、じんわりと温かかった。

     *

その夜。

伊里奈は一人、窓の外の海を見ていた。

エンジンの唸りが、まだ耳に残っている。

(動いた)

何度でも、噛み締めた。

動いた。自分たちの手で、動かした。

この戦車は、私の知っている物語にはいなかった。

もしかしたら——。

その先の言葉は、心の中でも言えなかった。

カレンダーを見る。

来週には、新学期が始まる。

西住みほが、この学校に来る。

(……来るんだ)

怖いのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。

ただ、掌がまだ熱かった。

エンジンの振動が、掌の奥に、残っていた。

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