大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
青森の港には、灰色の海が広がっていた。
その沖に、見覚えのある学園艦が浮かんでいた。艦橋の上に、ひるがえる旗。冷たい風に乗って、遠くから、聞き慣れた歌が流れてくる。
伊里奈は、連絡船の手すりを、知らないうちに強く握っていた。
「……あれが、プラウダ」
こはるが、冷たい海風に首をすくめながら言った。
「大きいね。大洗より、ずっと」
「中も、広いですよ。迷うくらいに」
「伊里奈ちゃん、迷ったの?」
「……何度も」
千紗が吹き出し、すみれが記録帳に何かを書き込んだ。麻子は、伊里奈の上着の裾をつかんで、立ったまま半分眠っていた。
―――
タラップを上がりきったところで、声が飛んできた。
「遅いわよ!」
振り返らなくても、わかった。
背の高い黒髪の少女の肩の上で、小さな隊長が、腕を組んでこちらを見下ろしていた。その後ろに、揃いの制服を着たプラウダの生徒たちが、ずらりと並んでいる。
「カチューシャを、何分待たせたと思ってるの! 連絡船が遅れたなんて言い訳、聞かないわよ!」
「……時刻どおりに着きました」
「カチューシャが早く来すぎたのよ! 文句ある!?」
「ありません」
伊里奈が頭を下げると、カチューシャは、ふん、と鼻を鳴らした。ノンナが、その下で、ほんのわずかに口元を緩めている。
「ようこそ、プラウダ高校へ」
ノンナは、伊里奈の後ろの四人に目をやって、静かに会釈した。
「大洗の皆さんも。遠いところを、ありがとうございます」
「は、はじめまして! 朝倉こはるです! T-34の、操縦をしてます!」
こはるが、勢いよく頭を下げた。千紗とすみれも、それに続く。
カチューシャの大きな目が、三人を順番に見た。それから、ゆっくりと細くなった。
「……ふうん。あんたたちが、イリーナの戦車の」
「はい!」
「カチューシャが育てた砲手を、勝手に使ってる人たちね」
「えっ」
「カチューシャ」
ノンナが、たしなめるように名前を呼んだ。カチューシャは、ぷいとそっぽを向いた。
「……でも、まあ。あの砲身を、ちゃんと最後まで動かしてたのは、認めてあげるわ。操縦も、悪くなかったし」
こはるが、ぱっと顔を輝かせた。
「ほんとですか!?」
「調子に乗らないの!」
それから、カチューシャの目が、伊里奈の上着の裾をつかんだまま、こくりこくりと舟を漕いでいる小柄な少女の上で止まった。
「……で。それは何」
「大洗の、IV号の操縦手です。冷泉麻子さんです」
伊里奈が答えると、麻子が、薄く目を開けた。ノンナの肩の上の、小さな隊長を見上げる。
「……冷泉麻子。大洗代表で、来た」
「代表? あんたが? ……ちっちゃいわね」
「……そっちに言われたくない」
空気が、凍った。
プラウダの列の誰かが、ひっ、と息をのむ音がした。こはるが、伊里奈の袖をぎゅっとつかむ。
カチューシャの顔が、みるみる赤くなっていく。
「な……っ、なんですってえ!? カチューシャは、ちっちゃくなんかないわよ! ノンナ!」
ノンナが、黙ってカチューシャを肩から降ろした。
甲板の上に、小さな二人が、向かい合って立った。
誰も、何も言わなかった。
カチューシャが、つま先立ちになった。麻子は、立ったまま、また目を閉じかけていた。
「……どっちが大きいかしら」
ノンナが、ひとりごとのように呟いた。
「……測るまでもないわよ! カチューシャのほうが――」
「……私のほうが、少しだけ大きい」
「つま先立ちしてないほうが、勝ちよ!」
「……つま先立ちしてるのは、そっちだ」
こはるが、たまらず吹き出しかけて、千紗に口をふさがれた。
カチューシャは、しばらく麻子をにらみつけていた。それから、ふいに、腕を組み直した。
「……あんた、あのIV号を動かしてた子ね。準決勝の雪の中で。あと、決勝の、最後の横滑りも」
「……そうだ」
「ふうん」
カチューシャは、麻子の周りを、くるりと一周した。
「眠そうな顔して、ずいぶん無茶な動かし方するじゃない」
「……眠いのは、朝だからだ。朝は嫌いだ」
カチューシャの足が、ぴたりと止まった。
「……あんたも?」
「……も?」
「カチューシャも、朝は嫌いよ。昼寝は好きだけど」
「……昼寝は、いい」
「でしょう? 三時間くらい寝ると、ちょうどいいのよ」
「……三時間は、少し短い」
「わかってるじゃない!」
小さな二人が、甲板の真ん中で、急に意気投合し始めた。
こはるが、ぽかんと口を開けている。伊里奈も、思わず目を瞬かせた。ノンナだけが、少しも驚いていない顔で、二人を見下ろしていた。
「――いいわ。気に入った。あんたのこと、マコーシャって呼んであげる」
「……マコーシャ」
「光栄に思いなさい。カチューシャがあだ名をつけてあげるのは、特別なんだから」
麻子は、少しだけ考えるような顔をして、それから、ぼそりと言った。
「……悪くない」
ノンナが、静かに口を開いた。
「カチューシャ。お客様を、そろそろ中へ」
「わかってるわよ! ――マコーシャ、ついてきなさい。いい昼寝の場所、教えてあげるから」
「……行く」
小さな二人が、並んで歩き出す。その後ろを、ノンナが、いつもどおりの歩幅でついていった。
伊里奈は、その背中を、しばらく見送っていた。
「……伊里奈ちゃん。今の、何?」
「……私にも、わかりません」
画面の向こうで、こんな場面を観た覚えはなかった。それなのに、なぜか、ずっと前からこうなると決まっていたような気がした。
2/
プラウダの艦内は、伊里奈の記憶とほとんど変わっていなかった。
石造りの廊下。窓の外の、白く煙る海。壁に貼られた、カチューシャの大きな肖像画。補習の教室へ続く、陽の当たらない階段。
すれ違う生徒たちが、何人も、ちらりと伊里奈を見た。小声で何かを言い交わしている。聞こえなくても、何を言っているのかは、なんとなくわかった。
あれが、イリーナ。黙って出ていった砲手。大洗の、赤い星の。
伊里奈は、背筋を伸ばして歩いた。隣で、こはるが、少しだけ伊里奈に肩を寄せた。何も言わなかったけれど、それで十分だった。
整備場の手前で、ひとりの生徒が、足を止めた。
「……イリーナ」
同じ学年の、短い髪の少女だった。一年のとき、同じ補習の教室で、同じ照準器を覗いた子。準決勝の雪原で、曲がる前に必ず一拍止まる、その癖ごと、伊里奈に撃ち抜かれた車長。
「……お久しぶりです」
伊里奈が言うと、その子は、しばらく黙って伊里奈を見ていた。それから、むすっとした顔のまま言った。
「準決勝。あの一発、ずるいと思った」
「……すみません」
「謝るな。癖を直さなかった私が悪い」
その子は、ふいと顔をそむけた。
「……直したから。今は、もう止まらないから。今度やったら、私が勝つ」
「……はい。楽しみにしています」
その子は、何か言いかけて、やめた。それから、伊里奈の横をすり抜けていく。すれ違いざまに、小さな声が聞こえた。
「……おかえり」
伊里奈が振り返ったときには、その背中は、もう廊下の角を曲がっていた。
―――
整備場の奥に、T-34/85が並んでいた。
伊里奈は、その一輌の前で、足を止めた。
砲塔の横に描かれた番号。何度も手を入れた、覚えのある転輪。二年間、自分が座っていた砲手席のある車輌だった。
「……これが、伊里奈ちゃんの」
「前に、乗っていた戦車です。今は、別の人が砲手をしています」
こはるが、そっとその車体に手を当てた。
「……うちの子と、同じ匂いがする」
「同じ国の戦車ですから」
「そうじゃなくて」
こはるは、首を横に振った。
「大事にされてる匂い」
伊里奈は、何も言えなかった。
整備場の隅に、使い込まれた作業台があった。その端に、工具箱を置いていたぶんの、四角く色の違う跡が残っている。
「……ここに、置いていたんです。先輩から譲ってもらった工具箱を」
「今、倉庫にある、あの?」
すみれが尋ねる。伊里奈は頷いた。
「プラウダを出るとき、それだけは、置いていけませんでした」
すみれは、作業台の四角い跡と、伊里奈の横顔を見比べて、記録帳にひとこと書き込んだ。何と書いたのかは、見せてくれなかった。
「――あの」
後ろから、遠慮がちな声がした。
振り返ると、まだ制服の新しい一年生が二人、整備場の入口から、こちらを覗き込んでいた。ひとりは、おどおどと肩をすくめていて、もうひとりは、そのうしろに半分隠れている。
「も、もしかして……イリーナ先輩、だべか」
伊里奈は、少しだけ目を見開いた。
伊里奈がプラウダを出たのは二月で、この子たちが入ってきたのは、その春だ。顔を合わせたことは、一度もない。
「……はい。雪村伊里奈です。あなたたちは」
「ニ、ニーナです! こっちは、アリーナ!」
「ど、どうも……」
二人は、緊張した顔で、ぺこぺこと頭を下げた。準決勝で、フラッグ車の護衛についていたKV-2の、一年生の乗員だという。
「カチューシャ様が、ときどき言うだ。『イリーナなら、ここで外さなかったわ』って。補習のときとか、射撃訓練のときとか」
「ノンナ様も、言うだよ。日記に書くことが増えた、って」
伊里奈は、言葉を失った。
いなくなったあとも、自分の名前は、ここにあったのだ。
「そ、それと……」
アリーナが、手に持っていた箱を、おずおずと差し出した。
「おらが、アルバイトしてる店のケーキだべ。『鳥のミルク』っていうだ。カチューシャ様が、お客さんが来るから買ってこいって」
白い箱のふたの下から、チョコレートの艶がのぞいていた。
「……懐かしい」
伊里奈は、思わずつぶやいていた。一年のとき、初めてカチューシャにお茶会に呼ばれた日に、出てきたケーキだった。
3/
お茶会の部屋に入ると、そこは、もう静かだった。
窓際の長椅子の上で、カチューシャが、毛布にくるまって丸くなっていた。その隣で、麻子も、同じように丸くなっている。二人とも、ぴくりとも動かない。
ノンナが、唇に人差し指を当てた。
「……さっき、昼寝の場所を案内すると言って、そのまま二人とも」
「……もう寝ちゃったんですか」
こはるが、小声で聞いた。
「はい。三分ほどで」
長椅子の上の二人は、まるで姉妹のように、同じ角度で首を傾けていた。千紗が、声を殺して肩を震わせている。すみれは、記録帳を開いて、ものすごい勢いで何かを書き始めた。
ノンナが、四人分の紅茶を淹れた。小皿に、苺のジャム。伊里奈は、それを紅茶に入れずに、スプーンですくって口に運んだ。
こはるが、目を丸くした。
「……入れないの?」
「ジャムはなめながら、紅茶を飲むんです。それが、正しいロシアンティーだそうです」
言ってから、伊里奈は、思わずノンナを見た。ノンナは、少しだけ目を細めていた。
「カチューシャの言い方ですね」
「……二年間、毎日聞いていたので」
アリーナが買ってきた『鳥のミルク』を、ノンナが切り分けた。チョコレートの下の、白くて軽いスフレの層。ひと口食べたこはるが、目を閉じて、しばらく動かなくなった。
「……伊里奈ちゃん。これ、毎日食べてたの」
「毎日ではありません。お茶会のときだけです」
「お茶会、毎日だったんじゃないの」
「……ほとんど、毎日でした」
千紗が、こらえきれずに吹き出した。長椅子の上で、カチューシャが「うるさいわね……」と寝言を言って、寝返りを打った。麻子も、ほぼ同時に、同じ方向へ寝返りを打った。
すみれのペンが、また速くなった。
―――
ケーキを食べ終えたころ、ノンナが、伊里奈にだけ聞こえる声で言った。
「少し、外の空気を吸いませんか」
甲板に出ると、風が冷たかった。灰色の海の向こうに、陸の影がかすんでいる。
ノンナは、しばらく何も言わずに、海を見ていた。伊里奈も、その隣に立った。一年の春、食堂の向かいの席で、黙って座っていたときのように。
「決勝の夜、あなたは、大洗がもう一度困るかもしれないと言いました」
「……はい」
「カチューシャは、あのあと、三回『バカね』と言いました。それから、眠る前に、もう一回だけ言いました」
ノンナは、少しだけ間を置いた。
「『あの子が言うなら、本当に来るのよ』と」
伊里奈は、息をのんだ。
「私も、そう思っています。あなたが、ああいう顔で言うことは、いつも、本当になるので」
ノンナは、伊里奈のほうを向いた。
「いつ、とは聞きません。何が、とも聞きません。ただ――その日が来たら、言ってください。今度は、黙っていなくならずに」
「……はい」
「私たちは、行きます。雪がなくても」
その声は、いつもどおり静かだった。けれど、伊里奈には、雪原で聞いたどの砲声よりも、まっすぐに届いた。
知っている。その日が、本当に来ることを。そして、そのとき、この人たちが、本当に来てくれることも。
画面の向こうで観たとき、自分はただ、胸を熱くしていただけだった。
今は、違う。その約束を、自分の耳で聞いている。
「……ありがとうございます、ノンナさん」
「お礼は、その日に聞きます」
ノンナは、また海のほうへ目を戻した。
「それと、もうひとつ」
「はい」
「冷泉さんは、カチューシャのいい友達になりそうです。……日記に、書くことが、また増えました」
伊里奈は、思わず笑った。ノンナの口元も、ほんの少しだけ、緩んでいた。
4/
夕食は、食堂の長いテーブルだった。
深い皿に、赤いボルシチ。籠に山盛りの黒パンと、揚げたてのピロシキ。サワークリームの壺が、テーブルの端から端まで、等間隔に並んでいる。
「……すごい量」
千紗が、カメラを構えたまま固まった。
「プラウダの食堂は、いつもこうです。寒いところでは、食べないと動けませんから」
「今、夏だよ?」
「……夏でも、こうです」
昼寝から起きたカチューシャは、テーブルの真ん中に、当然のように座っていた。その隣に麻子。反対側の隣にノンナ。カチューシャは、ピロシキを両手で持って、麻子のほうへ身を乗り出した。
「マコーシャ、これはキャベツ。こっちは肉。こっちはジャガイモ。全部食べなさい。大きくなれないわよ」
「……そっちこそ」
「なんですって!?」
食堂のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れた。カチューシャが睨むと、笑い声はぴたりと止む。けれど、睨んだ当のカチューシャの口元が、少しだけ緩んでいるのを、伊里奈は見逃さなかった。
こはるは、ボルシチをひと口食べて、それから、黙ってふた口、三口と続けた。
「……伊里奈ちゃんの作るのと、同じ味がする」
「ここで覚えたので」
「えっ、伊里奈、ボルシチ作れるの?」
「倉庫で、一度だけ。皆さんが、寝ていたときに」
「ずるい!」
千紗が声を上げると、カチューシャが、ふふんと鼻を鳴らした。
「当然よ。イリーナは、カチューシャの隣で二年間、ノンナのボルシチを食べてたんだから。舌が、プラウダなのよ」
「……舌が、プラウダ」
すみれが、真顔で記録帳に書き写した。
―――
食事が終わるころ、誰かが、歌い始めた。
最初は、隅のテーブルの、ひとりの小さな声だった。それが、隣のテーブルに移り、その隣に移り、気づけば食堂じゅうが、同じ旋律を口ずさんでいた。
プラウダの生徒なら、誰でも知っている歌だった。勝った日も、負けた日も、補習の帰りにも、雪の甲板でも歌った。川辺の少女が、遠い国境にいる誰かを想う、古い歌。
ニーナとアリーナは、肩を組んで、少し調子はずれに声を張り上げている。ノンナの低くて澄んだ声が、その下を支えるように流れていた。カチューシャは、ノンナの肩の上で、得意げに指揮をしている。いつの間に乗ったのかは、誰にもわからなかった。
伊里奈は、歌わなかった。
歌えなかったのではない。声を出したら、何かがあふれてしまいそうだったからだ。
二月の夜、誰にも言わずに出ていった。この歌を、もう一度ここで聞くことは、ないと思っていた。
隣で、こはるが、小さく鼻歌を合わせ始めた。言葉はわからない。けれど、旋律だけを、何度か聞いて覚えたのだろう。たどたどしく、それでも、ちゃんと同じ歌を歌おうとしていた。
千紗も、すみれも、それに続いた。麻子は、目を閉じたまま、指先で机を小さく叩いて、拍子をとっている。
大洗の四人の、知らない言葉の鼻歌が、プラウダの歌の中に、溶けていった。
伊里奈は、うつむいた。それから、小さく息を吸って、最後の一節だけ、声を合わせた。
歌が終わると、食堂じゅうから拍手が起きた。カチューシャが、ノンナの肩の上から、こはるを指さした。
「そこの操縦手! あんた、なかなかやるじゃない。今度来るときは、ちゃんと歌詞も覚えてきなさい!」
「は、はいっ!」
こはるは、真っ赤になって背筋を伸ばした。
―――
夜、寮へ戻る途中で、伊里奈は、ひとりで整備場に寄った。
灯りの落ちた整備場の奥で、T-34/85が、月明かりを受けて並んでいた。その一輌の前に、小さな影が、ちょこんと座っていた。
「……遅いわよ、イリーナ」
「カチューシャさん。……眠ったのでは」
「これから寝るのよ。その前に、言っておくことがあるの」
カチューシャは、隣の床を、ぽんぽんと叩いた。伊里奈は、黙ってそこに座った。
一年の冬、ここで、同じように並んで座ったことがある。補習で、照準の癖を直せと言われて、居残りをした夜だった。あのときも、カチューシャは、何も言わずに隣にいた。
「……あの子の85ミリ、ちゃんと撃ててる?」
「はい。決勝でも、ちゃんと」
「知ってるわよ。観てたもの」
カチューシャは、膝を抱えて、目の前のT-34/85を見上げた。
「あんたの席は、もう別の子が座ってるわ。空けて待ってたりなんか、してないんだから」
「……はい。わかっています」
「わかってないわね」
カチューシャは、ぷいと横を向いた。
「補習の教室で、あんたの座ってた席だけ、なぜか誰も座らないのよ。カチューシャが何も言ってないのに。……それだけよ」
伊里奈は、何も言えなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。整備場の高い窓から、北の海の、ひんやりとした夜風が入ってくる。
「前にも言ったけど、もう一回だけ言ってあげる」
カチューシャは、まっすぐ前を向いたまま言った。
「困ったら、ちゃんと言いなさい。カチューシャは、地吹雪のカチューシャなんだから。どこへだって、行ってあげるわ」
「……はい」
「それと」
カチューシャは、大きなあくびをひとつした。
「……マコーシャ、また連れてきなさい。あの子、なかなか見どころがあるわ。昼寝の才能が」
伊里奈は、小さく吹き出した。
「伝えておきます」
「ふん。……ノンナ、もういいわよ」
整備場の入口の暗がりから、ノンナが、音もなく姿を現した。最初から、そこにいたのだろう。カチューシャは、立ち上がって、ノンナのほうへ歩きかけて、それから、一度だけ振り返った。
「おやすみ、イリーナ。……おかえり」
その言葉は、昼間、廊下ですれ違ったあの子と、同じだった。
伊里奈は、二人の背中が見えなくなるまで、整備場の床に座ったままでいた。
5/
その夜、ノンナは、寮の机で日記帳を開いた。
隣のベッドからは、規則正しい寝息が聞こえている。昼寝をしたはずなのに、カチューシャは、整備場から戻るなり、いつもどおりに眠ってしまった。眠る前に、「マコーシャ、また来るといいわね」と、二回言った。
ノンナは、今日の日付の下に、ゆっくりとペンを走らせた。
『イリーナ、来訪。大洗の仲間を三人と、大洗の操縦手をひとり連れてきた。整備場で、少し泣きそうな顔をしていた』
少し考えてから、もう一行。
『夕食のあと、最後の一節だけ、一緒に歌った。二月から、ずっと聞きたかった声だった』
ペンが、少し止まった。それから、また動き出す。
『カチューシャ、マコーシャと昼寝。三分で寝た。新記録。――あの子が言う「その日」が来たら、私たちは行く。カチューシャも、きっとそう言う』
ノンナは、日記帳を閉じて、隣のベッドの毛布を、そっとかけ直した。
―――
翌朝の岸壁は、うっすらと霧につつまれていた。
連絡船のタラップの前に、大洗の五人が並んだ。――正確には、四人と、伊里奈の上着の裾にぶら下がっている、半分だけ起きた麻子が。
見送りの列の真ん中では、カチューシャが、ノンナの肩の上で、こっくり、こっくりと船を漕いでいた。
「……起こしますか」
伊里奈が小声で尋ねると、ノンナは、首を横に振った。
「自分で起きると言っていましたので」
その言葉のとおりだった。汽笛が短く鳴った瞬間、カチューシャは、ばっと顔を上げた。それから、何事もなかったように胸を張って、麻子を指さした。
「マコーシャ!」
「……ん」
「これ、持っていきなさい」
カチューシャが、ノンナの肩の上から差し出したのは、小さなクッションだった。赤い布に、不格好な白い星の刺繍がしてある。
「プラウダの昼寝用よ。これがあれば、どこでだって三分で寝られるわ」
麻子は、しばらくそのクッションを見つめてから、両手で受け取った。
「……もとから、三分で寝られる」
「知ってるわよ! だから二分になるのよ!」
「……それは、いい」
麻子は、クッションを胸に抱えた。それから、少しだけ考えて、付け足した。
「……次は、大洗に来い。いい昼寝の場所が、ある」
カチューシャは、一瞬、目を丸くした。それから、みるみる頬を赤くして、そっぽを向いた。
「……気が向いたら、行ってあげてもいいわ」
ノンナが、小さく、本当に小さく、笑ったような気がした。
―――
列の端で、ニーナとアリーナが、大きく手を振っていた。
「イリーナ先輩ー! また来てくださいだべー!」
「『鳥のミルク』、また用意しておくだよー!」
こはるが、両手で大きく手を振り返した。千紗は、二人に向けてシャッターを切っている。
そのもう少し後ろ、倉庫の壁にもたれて、短い髪の少女が立っていた。見送りの列には、加わらない。けれど、伊里奈と目が合うと、ぶっきらぼうに片手を上げた。
伊里奈も、片手を上げ返した。
「イリーナ」
カチューシャの声がした。ノンナの肩の上から、まっすぐにこちらを見下ろしている。
「次は、試合で会いましょ。――大洗のイリーナ。そのときは、粛清してあげるわ」
「……はい。大洗の雪村伊里奈として、お相手します」
伊里奈は、深く頭を下げた。二月の夜、誰にも下げられなかった頭だった。
顔を上げると、カチューシャは、もう横を向いていた。その耳が、少しだけ赤かった。
―――
連絡船が、岸壁を離れた。
プラウダの学園艦が、霧の向こうで、少しずつ小さくなっていく。甲板の端に、肩車をした影がひとつ、いつまでも残っていた。
麻子は、船室の長椅子で、もらったばかりのクッションを枕にして、もう寝息を立てていた。寝入る直前に、ひとことだけ、つぶやいた。
「……やっぱり、夜行列車は通ってないのか」
「船ですよ、冷泉さん」
伊里奈が答えたときには、もう返事はなかった。すみれが、記録帳に時刻を書き込んだ。二分三十秒。
「……本当に、二分になってる」
千紗が、感心したような、あきれたような声を出した。
伊里奈は、窓の外に目を戻した。
二月に、この海を、ひとりで南へ渡った。振り返ることも、手を振ることもなく。
今は、三人と、ひとりと、クッションひとつぶん、荷物が増えている。
「……伊里奈ちゃん」
こはるが、隣に座って、伊里奈の肩にこつんと頭を乗せた。
「また、来ようね。今度は、歌詞、覚えてくるから」
「……はい。教えますよ」
伊里奈は、小さく笑った。
それから、胸の奥で、もう一度だけ、あの歌の最後の一節を口ずさんだ。今度は、声は震えなかった。