大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
黒森峰女学園の学園艦は、記憶の中よりも、少しだけ大きく見えた。
西住みほは、タラップの下で、一度だけ深く息を吸った。
半年前、ここを、逃げるように降りた。誰にも何も言わずに。振り返りもせずに。
その同じタラップを、今日は、自分の足で上がっていく。
ひとりだけで来ることになったのは、会長の割り振りのせいだ。華は聖グロリアーナへ、沙織はアンツィオへ、優花里はサンダースへ。麻子は、雪村さんたちと一緒に、北の海へ。「西住ちゃんは、黒森峰ねー」と、干し芋をかじりながら事もなげに言われたとき、みほは、断る理由を探そうとして、ひとつも見つけられなかった。
見つけたくなかったのかもしれない。
甲板の上に、黒いパンツァージャケットが二人、並んで立っていた。
「……お姉ちゃん」
西住まほは、小さく頷いただけだった。その半歩後ろで、逸見エリカが、腕を組んだまま、ぷいと横を向いている。
「よく来たな、みほ」
「……うん。来たよ」
それだけの言葉を交わすのに、ずいぶん長い時間がかかった気がした。
「……副隊長が、案内してくれるそうだ」
「は!? 隊長、私は、そんなこと一言も――」
「頼んだぞ、エリカ」
「……っ、はい」
エリカは、みほを睨むように見て、それから、靴音を立てて歩き出した。
「ついてきなさい。迷子になられたら、黒森峰の恥だから」
「……迷子には、ならないよ。ここ、一年いたから」
「わかってるわよ! 言ってみただけ!」
みほは、少しだけ笑ってしまった。エリカの耳が、赤くなっていた。
廊下を歩きながら、エリカは、一度も振り返らなかった。けれど、みほが少し遅れると、その歩幅は、わずかに狭くなった。
「……あの、逸見さん」
「何よ」
「案内、ありがとう」
「……隊長の命令だからよ。勘違いしないで」
エリカは、前を向いたまま、そう言った。その声は、大会の前に、戦車喫茶で聞いたあの冷たい声とは、少しだけ違っていた。
2/
格納庫には、黒い戦車が、整然と並んでいた。
パンター。ヤークトパンター。ラング。そして、その奥に、ひときわ大きな一輌。
ティーガーII。その砲塔と車体の継ぎ目のあたりに、新しい鉄板が当てられているのが見えた。
「……まだ、直ってないの?」
「直ったわよ。昨日、ようやく」
エリカは、苦い顔でその継ぎ目を見上げた。
「あの赤い星のせいで、砲塔を一回、全部ばらす羽目になったんだから。整備班に、三日も文句言われたわ」
「……雪村さん、すごかったよね」
「すごくない」
エリカは、即座に言った。それから、少し間を置いて、低く付け足した。
「……あの一発は、効いたけど」
格納庫の奥で、作業をしていた何人かが、こちらに気づいた。手を止めて、みほを見ている。ひそひそと、何かを言い合う声がする。
その中から、一人の少女が、駆け寄ってきた。
「西住さん!」
決勝の日、試合前に、みほのもとへ礼を言いに来た子だった。去年の雨の日、川に落ちた戦車に乗っていた子。
「来てくれたんですね。……あの、決勝、おめでとうございます。負けたのは、悔しいですけど」
「……ありがとう」
「次は、負けませんから」
その子は、まっすぐに笑った。それにつられるように、格納庫のあちこちから、少しずつ声が上がり始めた。
「……西住さん、あの横滑り、どうやったんですか」
「IV号で、ティーガーの後ろを取るなんて」
「あの、川の中で全車を並べて、戦車の上を渡っていくやつ、うちでも練習しようって話になってて――」
「なってないわよ!」
エリカが、叫んだ。
「誰がそんな話をしたのよ! 黒森峰の戦車道に、あんな曲芸はいらないの!」
格納庫に、笑い声が上がった。みほも、気づけば一緒に笑っていた。
半年前、ここで、自分のことを見ないようにしていた目が、今は、まっすぐにこちらを向いている。
―――
笑い声が収まると、エリカは、わざとらしく咳払いをして、ティーガーIIの車体に手を当てた。
「……あの赤い星の砲手。今日は、来なかったのね」
「雪村さんは、プラウダに行ってるよ。前にいた学校だから」
「知ってるわよ。決勝のあと、調べたもの」
エリカは、継ぎ目の新しい鉄板を、指でなぞった。
「去年の決勝で、プラウダのT-34に乗ってた砲手。……あの雨の日、私たちの向かいにいた人間が、今年は、あんたの隣で撃ってたってわけ。なんなのよ、それ」
みほは、答えに詰まった。
「……別に、いいわ。理由なんか、知りたくもないし」
エリカは、そっぽを向いた。それから、みほには聞こえないくらいの声で、もう一度だけつぶやいた。
「……次は、正面から撃ち合ってやるんだから」
3/
夕方、まほは、みほを艦尾の甲板に連れていった。
海が、橙色に染まっていた。遠くに、熊本の山並みが、黒い影になって連なっている。
二人は、しばらく、何も言わずに並んで立っていた。
「……お母さんは」
みほが、ようやく口を開いた。
「何か、言ってた?」
「何も」
まほは、海を見たまま答えた。
「何も言わなかった。……それが、答えだと思う」
みほは、黙って頷いた。決勝のあと、関係者席で、母が小さく手を叩いていたことを、みほは知らない。まほも、それを口にはしなかった。
「……みほ」
「うん」
「大洗の、あの砲手は、今日はどこにいる」
みほは、少しだけ目を瞬かせた。さっき、エリカにも同じことを聞かれた。
「雪村さん? ……プラウダに行ってるよ。冷泉さんと一緒に」
「そうか」
まほは、それだけ言った。けれど、その口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「……戻る場所が、あったんだな。あの砲手にも」
「お姉ちゃん、雪村さんのこと、前から知ってたの?」
「去年の決勝のあとの、挨拶の列でな」
まほは、目を細めた。
「ひとりだけ、勝った顔をしていなかった。……おまえのために、ああいう顔をしてくれる人間が、相手の学校にもいた。それを、ずっと覚えていた」
みほは、何も言えなかった。
海からの風が、二人の髪を揺らした。
「次の大会も、来い。今度は、最初から、正面からだ」
「……うん。今度は、最初から」
まほは、もう一度だけ、小さく頷いた。
―――
帰りの連絡船を待つあいだ、みほは、携帯を取り出した。
グループには、もう、たくさんの写真が並んでいた。紅茶のカップ。巨大なハンバーガー。山盛りのパスタ。それから、プラウダの長椅子の上で、二人並んで丸くなって眠っている、麻子と、小さな隊長。撮ったのは、千紗だ。
みほは、思わず吹き出した。
それから、少しだけ考えて、一枚だけ写真を撮った。
夕焼けの甲板。黒いジャケットの背中が二つ。半歩前を歩く姉と、そのあとを、何か文句を言いながらついていく副隊長。
『黒森峰、少し久しぶりでした。――ちゃんと、来てよかったです』
送信してから、みほは、もう一度だけ、黒森峰の学園艦を振り返った。今度は、ちゃんと、振り返ることができた。
4/
二日後の夕方、格納庫の前に、全員が戻ってきた。
沙織は、大きな紙袋を両手に提げていた。中身は、ほとんどが乾燥パスタだった。
「……ただいま。三キロ太った。たぶん」
「沙織さん、お帰りなさい」
華は、綺麗な缶を大事そうに抱えていた。聖グロリアーナから持たされた、紅茶の葉だという。
「ダージリンさんが、『今度は、お花の活け方を教えていただきたいわ』と。約束してきました」
優花里は、サンダースのキャップをかぶって、ほくほくした顔で戦車雑誌を抱えている。
「ケイ殿に、格納庫を全部見せていただきました! 今回は、ちゃんと許可をいただいて! シャーマンが、あんなにたくさん……!」
その後ろで、みほが、少しだけ照れくさそうに笑っていた。手には、熊本の名産の箱。そして、なぜか、黒森峰の校章の入った小さな封筒。
麻子は、赤いクッションを小脇に抱えて、伊里奈の上着の裾をつかんだまま、立ったまま半分眠っていた。
「みぽりん、それ何?」
「えっと……逸見さんから。『あの赤い星に渡しなさい』って」
全員の目が、伊里奈に向いた。
伊里奈は、おそるおそるその封筒を受け取って、開けた。中から出てきたのは、一枚の紙だった。
ティーガーIIの砲塔修理の、請求書だった。金額の欄は空白で、下の余白に、勢いのある字で、こう書きなぐられていた。
『支払いは、次の試合で。正面から。――逸見』
「…………」
伊里奈は、しばらくその紙を見つめていた。それから、小さく吹き出して、丁寧にたたんで、胸ポケットにしまった。カードの隣に。
「……受け取りました、と、伝えてください」
―――
「で、麻子。プラウダはどうだったの?」
沙織が尋ねると、麻子は、いつもの眠そうな顔のまま、少しだけ考えた。
「……いい昼寝の場所があった」
「そこ!?」
「……あと、友達ができた」
沙織が、きょとんとした。それから、みるみる目を潤ませた。
「……麻子に、友達。私たち以外に。……うそ、ちょっと泣きそう」
「……大げさだ」
「で、誰?」
「……カチューシャ」
「えっ」
そのとき、麻子の携帯が鳴った。麻子は、画面をちらりと見て、そのまま沙織の顔の前に差し出した。
『マコーシャ。ちゃんと帰り着いたなら、報告しなさいよね! それと、次に来るときは、もっと早起きしてきなさい。――地吹雪のカチューシャ』
「……マコーシャ?」
「……そう呼ばれている」
麻子は、もう返信を打ち始めていた。指の動きが、いつもより少しだけ速い。
「……そっちこそ、次は昼寝しすぎないように。と、送った」
沙織が、伊里奈のほうを、信じられないものを見る目で振り返った。
「……雪村先輩、ちゃんと見ててくれたんじゃなかったんですか!?」
「……見ていました。見ているあいだに、こうなりました」
「三分で、二人とも寝てました」
こはるが、得意げに付け足した。すみれが、記録帳を開いてみせる。そこには、『午後二時十一分、就寝。二名とも。』と、きっちり書かれていた。その下に、もう一行。『帰りの船、二分三十秒。記録更新。』
格納庫の前に、笑い声が上がった。
―――
その夜、生徒会室では、杏が、干し芋をかじりながら、六枚の報告書を並べていた。
「……会長。どの学校も、来年の練習試合に前向きだそうです」
桃が、どこか誇らしげに言った。柚子が、報告書の一枚を手に取って、くすりと笑う。
「プラウダの報告、『昼寝。友達。ケーキ』しか書いてないよ、冷泉さん」
「いいんじゃない? それで十分だよ」
杏は、もう一枚の報告書に目を落とした。そちらは、小さな、整った字で、びっしりと埋められていた。末尾に、すみれの署名がある。
「……『プラウダ高校は、雪村伊里奈の帰りを、今も待っている。当方も、待たれていることを、そろそろ自覚すべきである』、か。……これ、報告書でいいのかなあ」
杏は、楽しそうに笑って、その一枚を、いちばん上に重ねた。
それから、窓の外に目をやった。夜の学園艦の上で、格納庫の灯りが、ひとつだけ、まだついている。
「……来年、か」
杏は、小さくつぶやいた。その声に混じったものに、桃も柚子も、気づかなかった。
5/
格納庫の灯りの下で、伊里奈は、T-34の転輪を磨いていた。
こはるは、操縦席で丸くなって眠っている。千紗は、砲塔の上で、プラウダで撮った写真を整理していて、すみれは、作業台で新しい記録帳に清書をしていた。
作業台の上には、使い込まれた金属の工具箱が、いつものように置かれている。
プラウダの整備場には、この箱の形の跡が、まだ残っていた。そして今は、この倉庫の作業台にも、同じ形の跡が、うっすらとつき始めている。
戻る場所が、二つある。
それは、半年前の自分には、想像もできなかったことだった。
―――
工具を片付けて、格納庫の外に出ると、夜の海の匂いがした。
学園艦の甲板の向こうに、大洗の町の灯りが、小さく広がっている。商店街のあたり。駅のあたり。魚屋のおじさんは、もう寝ているだろうか。
伊里奈は、手すりにもたれて、その灯りを見つめた。
知っている。
この夏の終わりに、この艦が、もう一度、守られなくなる日が来る。今度は、勝ったはずのものが、一枚の紙でひっくり返される。格納庫の戦車も、この作業台も、すべて。
その物語も、きっと、変えられない。
けれど、伊里奈は、今、その先も知っている。
黒森峰の姉が来ること。紅茶の人たちが来ること。太陽のような人たちも、パスタの人たちも。そして、雪の人たちも。
そのどの学校にも、この数日で、大洗の誰かが足を運んだ。画面の向こうでは、ただ「来てくれた」としか見えなかったものにも、ちゃんと、こういう日があったのだ。
それに、今度は、約束がある。
困ったら、ちゃんと言いなさい。――カチューシャ。
その日が来たら、言ってください。――ノンナ。
ひとりで抱えて、黙っていなくなるのだけは、やめて。――すみれ。
そして、胸ポケットの中の、一枚の請求書。支払いは、次の試合で。
「……次の試合、か」
伊里奈は、小さく笑った。
後ろで、格納庫の扉が開く音がした。
「……伊里奈ちゃん。まだ帰らないのー」
寝ぼけた声のこはるが、目をこすりながら立っていた。その後ろに、千紗と、すみれ。
「帰りますよ。今、行きます」
伊里奈は、手すりから身を離した。
その日が来たら、言おう。この三人にも。この学校の人たちにも。北の海の、あの二人にも。
助けてください、と。
でも、それは、今日ではない。
今日は、ただ、四人で帰る。温かい風呂に入って、アイスを食べて、それから――
「……明日も、戦車、乗りましょうか」
伊里奈が言うと、三人は、顔を見合わせて、それから、同じように笑った。
「――うん!」
格納庫の奥で、叩き直した前面装甲の上に、赤い星と白い熊が、灯りを受けて並んでいた。
錆びた赤い星は、もう、どこにもなかった。