大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
次話から劇場版書きます!
1/
『月刊戦車道』の発売日は、取材の日から三週間後だった。
朝一番に学園艦の書店へ走ったのは、もちろん優花里だった。そして、二番目にこはるだった。
「……あった! 載ってるよ、伊里奈ちゃん!」
倉庫に飛び込んできたこはるは、息を切らしながら、作業台の上に雑誌を広げた。千紗とすみれが、左右からのぞき込む。伊里奈は、転輪を磨く手を止めて、少しだけ距離を置いて立っていた。
左右見開きの、特集の扉ページ。一時間ごとに区切られた、各校の写真が並んでいる。八九式の前で拳を突き上げるバレー部。白いテーブルでカップを傾けるダージリン。バーベキューの煙の向こうのケイ。ノンナの肩の上で胸を張るカチューシャ。山盛りのパスタ。黒い格納庫のまほ。
そして、その一番上に、大きな文字が躍っていた。
『本人に聞いてください。――全国・戦車女子の十三時間』
「……」
伊里奈は、しばらく何も言えなかった。
「……これ、伊里奈のことじゃない?」
千紗が、題を指でなぞった。
「……特集全体の題ですよ。私のことだけでは――」
「リード文、読んでみる?」
すみれが、題のすぐ下の小さな文字を、淀みなく読み上げた。
「『ある学校の、ある砲手について、この日、私たちは一日中尋ねて回った。そして、どの学校でも、同じ答えが返ってきた。「本人に聞いてください」。――その一言に、この夏の戦車道の、いちばんいいところが詰まっているように思えた』……だって」
こはるが、伊里奈の腕に、むぎゅっと抱きついた。
「……伊里奈ちゃん、よかったね」
「……はい」
伊里奈は、それだけ答えて、雑誌をめくった。
大洗のページの最後に、倉庫の裸電球の下で撮られた、T-34の写真があった。叩き直した前面装甲。赤い星と、白い熊。その前に、四人が並んでいる。
写真の横の記事は、短かった。元プラウダの砲手であること。去年の決勝で、撃たなかったこと。理由の残りは、「まず仲間に話したい」と本人が言ったこと。そして、最後の一行。
『ある人は、こう言った。――「彼女は、大洗の砲手です」。』
名前は、書かれていなかった。
―――
その日は、一日中、携帯が鳴りやまなかった。
最初に届いたのは、麻子の転送だった。いつものように、勢いだけで打った文。
『マコーシャ! 雑誌、見た? あの記者、カチューシャが言ったこと、全部書いてるじゃない! 工具箱の跡のところまで! ノンナは書かせないほうがいいって言ったのに! ――地吹雪のカチューシャ』
その下に、麻子の一行。
『……書けと言ったのはそっちだ。と、送った』
二通目は、華からだった。
『オレンジペコさんから、ご報告をいただきました。記事の格言は、オレンジペコさんがおっしゃった正しいほうで載っていたそうです。ダージリンさんは、しばらく紅茶に口をつけずに、窓の外を眺めていらっしたそうです』
三通目は、優花里から。ケイが、記事の写真を撮って、自分の言葉に赤い丸をつけて送ってきたのだという。『前にどこにいても、今は大洗の子でしょう』。その下に、ケイの字で『BIGに載ったわ!』。
四通目は、沙織から。アンツィオのページの、山盛りのパスタの写真に、一言だけ添えてあった。『記者さん、三皿いったって書いてある。仲間だ……』
そして、その日の夕方。みほから、一枚の写真が届いた。
黒森峰のページの、片隅だった。まほの写真の半歩後ろに、腕を組んだエリカが写っている。その写真の下には、『副隊長の逸見さんは、取材中ずっと何か言いたそうにしていた』とだけ書かれていた。
『お姉ちゃんからです。逸見さん、この一行を読んで、「言いたかったのは請求書のことなのに、なんで載ってないのよ」って、ずっと言ってるそうです』
伊里奈は、倉庫の作業台に突っ伏して、肩を震わせた。笑いをこらえるのに、しばらく時間がかかった。
すみれが、その背中を見ながら、新しい記録帳の最初のページに書き込んだ。
『発売日。題「本人に聞いてください」。各校より反響、十一通。うち苦情、二通(カチューシャさん、逸見さん)。伊里奈、笑いすぎて転輪を磨かない。』
2/
八月も半ばを過ぎたころ、学園艦が大洗港に寄港した。
「町、行こうよ! 四人で!」
言い出したのは、こはるだった。そして、それに反対する理由を、誰も持っていなかった。
商店街は、夏の日差しの中で、のんびりとしていた。軒先にぶら下がった風鈴。干物を並べた店先。そこかしこに、大洗の戦車のポスターが貼られている。優勝からもうひと月以上たつのに、一枚も、はがされていなかった。
「――おっ、赤い星の子たちじゃねえか!」
魚屋の前を通りかかると、日に焼けたおじさんが、前掛けで手を拭きながら出てきた。
「雑誌、見たぞ。うちのかみさんが、学園艦の本屋から取り寄せたんだ。……『大洗の砲手です』ってな。いいこと書いてもらったじゃねえか」
「……ありがとうございます」
「よし、これ持ってけ。あんこうの干物だ。優勝のお祝いの、後払いだ」
おじさんは、新聞紙に包んだ包みを、伊里奈の手に押しつけた。断る間もなかった。
「あの、お代を――」
「いらねえよ。その代わり、来年も勝てよな。町じゅうで応援してんだから」
来年も。
伊里奈は、包みを抱えたまま、深く頭を下げた。顔を上げるまでに、少しだけ時間がかかった。
―――
商店街を抜けたところで、伊里奈は、ふと足を止めた。
古い旅館の前だった。無骨な二階建て。よく磨かれた玄関の戸。日陰で、猫が一匹、丸くなって眠っている。
「……伊里奈ちゃん?」
「……いいえ。何でもありません」
伊里奈は、もう一度だけ、その旅館を見上げた。
知っている。この町の通りを、もうすぐ、戦車が走り抜ける。エキシビションマッチ。町の人たちが、歓声を上げてそれを見送る。そして、この旅館は――。
伊里奈は、思わず小さく笑ってしまった。そこだけは、変えられるなら変えてあげたい気もする。けれど、あの場面で笑っていた旅館の人たちの顔を思い出すと、それもまた、この町の、この物語の一部なのだと思えた。
―――
海岸は、大勢の人でにぎわっていた。
こはるは、砂浜に着くなり海へ駆けていって、五分後には、クラゲを見つけて悲鳴を上げて戻ってきた。千紗は、その一部始終を、波打ち際から連写で撮っていた。すみれは、パラソルの下で、麦わら帽子をかぶって、文庫本を開いている。記録帳は、さすがに今日は持ってきていなかった。――と思ったら、文庫本の下から、ちゃんと角がのぞいていた。
伊里奈は、砂の上に座って、海を見ていた。
港のほうに、大洗の学園艦が、大きな影になって浮かんでいる。その上に、自分たちの学校がある。倉庫がある。T-34がいる。
「……伊里奈ちゃんも、泳ごうよー!」
波打ち際から、こはるが大きく手を振った。さっきクラゲに泣かされたことは、もうすっかり忘れているらしい。
「……今、行きます」
伊里奈は、立ち上がって、砂を払った。
その夕方、千紗のカメラには、波打ち際で、四人がずぶ濡れで笑っている写真が、一枚だけ残っていた。通りがかりの観光客に、撮ってもらったものだった。
3/
その夜、伊里奈は、ひとりで倉庫に戻った。
裸電球をひとつだけつける。T-34の影が、倉庫の壁いっぱいに大きく伸びた。
作業台の横の壁には、小さなカレンダーが掛かっている。大洗の商店街でもらった、何の変哲もないカレンダーだ。八月の日付のいくつかには、鉛筆で、ごく小さな点が打たれていた。
誰も、その点の意味を尋ねたことはない。たぶん、気づかれてもいない。それでいいと、伊里奈は思っていた。
今日の日付に、点をひとつ。
その先には、まだ点のない日が、いくつか残っている。
―――
伊里奈は、作業台の前の椅子に腰を下ろした。
知っている。
この夏の終わりに、大洗の町で、エキシビションマッチがある。その試合のあと、みんなが風呂で汗を流しているあいだに、一枚の紙が届く。
廃校。
優勝すれば守られるはずだったものが、「口約束だった」という一言で、ひっくり返される。学園艦は解体され、生徒はばらばらになり、戦車は取り上げられる。
この倉庫も。この作業台も。このT-34も。
伊里奈は、作業台の上の工具箱に、そっと手を置いた。
二月にプラウダを出たとき、これだけは置いていけなかった。そのときも、自分は知っていた。大洗には、戦車道が復活することを。西住さんが来ることを。そして、その先に、何が待っているのかも。
知っていて、来た。
それは、まだ、誰にも言っていない。
―――
廃校の通知は、変えられない。
三度、止めようとして、三度とも、物語はそのとおりに進んだ。去年の雨の日も、そうだった。自分がいても、いなくても、大きな流れは、一度も曲がらなかった。
けれど、小さなものは、いくつも変わった。
この倉庫に、T-34がいる。その前面には、赤い星と白い熊がいる。北の海には、「おかえり」と言ってくれた人たちがいる。熊本には、請求書を書いた人がいる。そして、この倉庫には、三人がいる。
「……だから、できることだけは、しておきましょう」
伊里奈は、T-34に向かって、小さく言った。
それから、作業台の引き出しを開けて、一冊のノートを取り出した。
表紙には、何も書いていない。中には、この一か月、少しずつ書きためてきたものがある。T-34の整備の手順。転輪の癖。エンジンのかかり方。無線の周波数。重い砲弾を装填するときの、腰の落とし方。85ミリ砲の照準器の、わずかなずれ。
自分がいなくても、この子を動かせるように。
そう考えて書き始めたのかどうか、伊里奈には、自分でもよくわからなかった。ただ、もう一度何も言わずにいなくなるつもりは、なかった。それだけは、約束したのだから。
その日が来たら、言ってください。――ノンナ。
その日が来たら、私にも、聞かせてください。――西住さん。
――待つ。いくらでも。――すみれ。
伊里奈は、ノートの最後のページに、新しい項目を書き足した。
『燃料は、いつも満タンにしておくこと。工具箱は、すぐに積み込める場所に。――いつでも、ここを出られるように』
書いてから、しばらくその一行を見つめた。そして、その下に、もう一行。
『――そして、必ず、ここへ帰ってくるように』
裸電球の下で、T-34は、何も言わずにそれを見ていた。
4/
それから三日後の夕方。
練習が終わったあとの倉庫で、伊里奈は、T-34の燃料タンクに、給油缶から軽油を注ぎ足していた。
こはると千紗は、もう帰っている。倉庫に残っているのは、伊里奈と、作業台で記録帳を広げているすみれだけだった。
「……それ、今日で三日続けてよね」
すみれが、記録帳から目を上げずに言った。
伊里奈の手が、一瞬だけ止まった。
「……何がですか」
「練習のあとに、燃料を満タンにするの。前は、練習の前に入れてたでしょう。ここ三日は、練習が終わったら、すぐに入れてる」
すみれは、記録帳のページを、一枚だけめくった。
「それと、工具箱。前は作業台の真ん中に置いてたのに、今は入り口にいちばん近い端にあるわ。……あと、カレンダーの点」
伊里奈は、給油缶を下ろした。
「……気づいていたんですね」
「記録係だもの」
すみれは、ようやく顔を上げた。その目は、責めているようにも、心配しているようにも見えなかった。ただ、いつものように、まっすぐだった。
「何の日を数えてるのかは、聞かないわ」
「……」
「聞かないって、書いたから。待つって」
伊里奈は、何か言おうとして、やめた。
言えば、それは、約束を破ることになる気がした。「その日が来たら」と、自分で言ったのだ。その日は、まだ来ていない。
けれど、何も言わずにいるのも、また、二月の夜と同じだと思った。
「……すみれ」
「なに」
「ひとつだけ。ひとつだけ、言っておきます」
伊里奈は、燃料タンクの蓋を閉めて、すみれのほうへ向き直った。
「もうすぐ、大変なことが起きます。私には、それを止められません。……でも、そのとき、私は、どこにも行きません。黙っていなくなったり、しません」
すみれは、しばらく何も言わなかった。
それから、記録帳を閉じて、立ち上がった。作業台を回り込んで、伊里奈の前まで歩いてくる。
そして、伊里奈の額を、指で軽く弾いた。
「……っ」
「それだけ聞ければ、十分よ」
すみれは、少しだけ笑った。笑ったのを見るのは、久しぶりな気がした。
「大変なことが起きたら、そのときは、四人でどうにかすればいい。――だから、燃料は、これから私も入れるわ。練習のあとに。満タンで」
伊里奈は、額を押さえたまま、しばらく立ち尽くしていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい。お願いします」
―――
その夜、すみれの記録帳には、こう書かれた。
『八月 ――日。伊里奈より、「もうすぐ大変なことが起きる」。「どこにも行かない」。 以後、燃料は練習後に満タン。担当、伊里奈とすみれ。 ――こはると千紗には、まだ言わない。たぶん、もう気づいているけれど。』
倉庫の壁のカレンダーには、その日の日付に、点が二つ打たれていた。一つは鉛筆で、もう一つは、すみれの青いペンで。
5/
その知らせは、何の前触れもなく、ある朝の格納庫の前で告げられた。
「えー、またまたお知らせでーす」
杏が、干し芋を振りながら、全チームの前に立った。その後ろで、桃が大きな模造紙を広げている。
『戦車道エキシビションマッチ 会場:大洗町』
「優勝記念に、大洗の町で試合をやりまーす。町の人たちにも、ちゃんと見てもらおうってことでねー」
「町の中で、ですか?」
みほが、目を丸くした。優花里は、もう両手を握りしめて震えている。
「対戦相手を発表する!」
桃が、模造紙をばんと叩いた。
「聖グロリアーナ女学院、およびプラウダ高校の連合だ! そして、こちらは、大洗と――」
「知波単学園さんと組むことになったの。初めてご一緒する学校よ」
柚子が、にこにこと付け足した。
「知波単!」
優花里が、ついに叫んだ。
「九七式ですよ、西住殿! 日本の戦車です! それと一緒に、大洗の町を走るんですよ!」
「秋山さん、落ち着いて……」
格納庫の前が、一気にざわついた。アヒルさんたちは「根性です!」と叫び、カバさんたちは、もう何かの戦いの名前を並べ始めている。ウサギさんたちは、「町の中って、うちの前も通るのかな」と、楽しそうに言い合っていた。
そのざわめきの端で、伊里奈は、静かに模造紙の日付を見ていた。
知っていた日付だった。
倉庫のカレンダーで、点が打たれていない、最後の日。
「……伊里奈ちゃん、プラウダだよ! カチューシャさんたちと、試合だよ!」
こはるが、伊里奈の腕を揺さぶった。千紗は、もう模造紙を写真に収めている。そして、すみれが、伊里奈の横顔を、何も言わずに見ていた。
伊里奈は、小さく息を吸った。それから、こはるに向かって、笑ってみせた。
「……はい。約束の、試合ですね」
―――
その午後、麻子の携帯を経由して、一通が届いた。
『マコーシャ。イリーナに伝えなさい。――大洗の町で会いましょう。約束どおり、カチューシャがちゃんと粛清してあげるわ。手加減なんてしたら、許さないわよ。――地吹雪のカチューシャ』
その下に、もう一通。今度は、伊里奈の携帯に、直接届いていた。
『私も、楽しみにしています。――ノンナ』
伊里奈は、その二通を、しばらく並べて見つめていた。
それから、短く返信した。
『はい。手加減はしません。――大洗の、雪村伊里奈』
―――
その夜、倉庫のカレンダーの前で、伊里奈は、鉛筆を手に取った。
今日の日付に、点をひとつ。その隣には、すみれの青い点が、もう打たれていた。
そして、その先の、点のない最後の日付。
伊里奈は、その日付を、鉛筆で、丸く囲んだ。
「……その物語も、きっと、変えられない」
つぶやいてから、少しだけ笑った。
「でも、今度は、ひとりではありませんから」
裸電球を消すと、暗い倉庫の中で、T-34の赤い星だけが、窓から差し込む港の灯りを受けて、かすかに光っていた。
夏が、終わろうとしていた。