大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
1/
駐車場へ向かう途中だった。
「――伊里奈。ウサギさんが、追われてる。すぐ先の通り。プラウダのT-34/85が、二輌」
千紗の声と同時に、前の交差点を、M3リーの背の高い車体が、横切っていった。そのすぐ後ろを、二輌のT-34/85が、ぴたりと追いかけてくる。
「こはる、交差点の手前で止めてください。――すみれ、徹甲弾を」
「入ったわ!」
先頭のT-34/85が、交差点の真ん中に差しかかった。伊里奈は、十字線を、その車体ではなく、足もとの履帯に合わせた。
「――発射」
履帯が、弾けるように外れた。T-34/85は、片側の足を失って、交差点の真ん中で、ぐるりと半回転して止まった。白旗は上がらない。けれど、狭い通りは、その車体で、すっかりふさがれていた。後ろの一輌が、つんのめるように止まる。
無線から、梓の声が飛び込んできた。
「――雪村先輩!? ありがとうございます!」
「澤さん。そのまま、まっすぐ抜けてください。……それと、IS-2には、近づかないで」
「えっ……IS-2、ですか?」
「はい。あの車輌に乗っている人は、近づいてくる相手を、いちばんよく見ています」
「……わかりました! 桂利奈ちゃん、まっすぐ!」
「あいー!」
M3リーの背中が、通りの向こうへ遠ざかっていく。伊里奈は、それを照準器の端で見送った。
知っている。ウサギさんチームは、この試合で、IS-2に挑んで、やられる。だから、言った。言えることは、言った。
交差点では、履帯の外れたT-34/85の乗員が、ハッチから飛び出して、修理に取りかかっていた。後ろの一輌が、砲塔をこちらへ回し始める。
「こはる、離れます。駐車場へ」
「了解!」
―――
駐車場まで、あと少しというところで、無線が鳴った。
「――こちらウサギ! IS-2が、こっちの路地の前を通ります! 今なら、横から行けます!」
「澤さん、待ってください。その車輌は――」
「すみません、雪村先輩。……でも、ここで行かなかったら、重戦車キラーの名前が泣きます! 桂利奈ちゃん、前へ!」
「あいー!」
無線の向こうで、エンジンの音が跳ね上がった。それから、金属同士がぶつかる、鈍い音。
「――砲が、砲塔に当たって……向けられない!?」
誰かの悲鳴のような声を、重い砲声が、まるごとかき消した。
しばらく、雑音だけが続いた。
「……すみません。近づきすぎて、こっちの砲が、IS-2の砲塔にぶつかって……撃てませんでした。……ウサギ、行動不能です。雪村先輩、せっかく助けてもらったのに……」
千紗が、そっと伊里奈を振り返った。
伊里奈は、前を見たまま、答えなかった。
近づかないで、と言った。それでも、ウサギさんたちは、行った。重戦車キラーと呼ばれるようになった、あの子たちだから。行くだろうということも、本当は、わかっていた。
――変わらない。
わかっていた。それでも、手のひらに、爪が食い込んでいた。
「……伊里奈ちゃん」
こはるが、操縦席から、前を向いたまま言った。
「ウサギさん、さっきは、ちゃんと逃げられたよ。伊里奈ちゃんが、逃がしたんだよ。……だから、最後に、自分たちで挑めたんだよ」
「……はい」
「ウサギさんの分も、駐車場で、ね」
伊里奈は、ゆっくりと手のひらを開いた。それから、無線に向かって言った。
「……澤さん。最後まで、向かっていきましたね。あとは、任せてください」
―――
駐車場は、思っていたよりも広かった。
白い線で区切られたアスファルトが、夕方の日差しを、ちらちらと照り返している。入り口は、一つだけ。そこを通って入ってくれば、周りのどこからでも、狙うことができる。
「――ここが、待ち伏せの場所なんだね」
こはるが、T-34を駐車場の端の建物の陰に滑り込ませながら言った。反対側の陰には、ポルシェティーガーの巨体が、もう身を潜めている。そのほかの場所にも、大洗の何輌かが、息を殺して待っていた。
伊里奈は、照準器をのぞき込んだまま、入り口を見つめていた。
知っている。ここで、何が起きるのかを。
レオポンさんのポルシェティーガーは、ここで、動けなくなる。
「――ナカジマさん」
伊里奈は、無線に向かって言った。
「もし、IS-2が先頭で入ってきたら。……その後ろに、カチューシャさんが隠れています。IS-2の正面は、こちらの砲では抜けません。無理に撃ち合わないでください」
「……へえ。そういうこと、する人なんだ」
「します。あの人は、勝つためなら、何でも使います」
「了解ー。……まあ、うちの子、動かないで撃ち合うのは得意なんだけどねー」
ナカジマの声は、いつもどおりのんびりしていた。
伊里奈は、それ以上、何も言えなかった。言えることは、言った。それでも、たぶん、結果は変わらない。
―――
最初に聞こえてきたのは、重い履帯の音だった。
入り口から、IS-2が、ゆっくりと姿を現した。
そのすぐ後ろに、まるで影のようにぴたりと寄り添って、T-34/85が続いている。その砲塔の上で、小さな人影が、胸を張っていた。
「――待ち伏せなんて、お見通しよ! ノンナ、前!」
「はい」
駐車場のあちこちから、大洗の砲がいっせいに火を吹いた。
けれど、そのほとんどは、IS-2の分厚い前面で、火花になって散った。IS-2は、ほんの少しも速度を落とさなかった。その後ろのT-34/85には、一発も届かない。
「……うそ、本当に盾にしてる」
千紗が、低くつぶやいた。
そして、IS-2の長い砲身が、ほんのわずかに向きを変えた。
その先に、ポルシェティーガーがいた。
重い音が、駐車場じゅうに響いた。ポルシェティーガーの巨体が、大きく揺れて、それから、動かなくなった。
「……あー、やられちゃった」
無線の向こうで、ナカジマの声がした。悪びれた様子はなかった。
「雪村さんの言ったとおりだったなあ。ごめんねー、あとはよろしく」
「……はい」
伊里奈は、唇を引き結んだ。
―――
そのとき、入り口から、もう一輌のT-34/85が踏み込んできた。
その砲塔の上で、長い金髪が、風になびいていた。
「――クラーラさんです」
伊里奈は、照準器の十字線を、そのT-34/85に合わせた。
クラーラの砲塔は、IS-2の盾の外にあった。狙える。そう思った瞬間、その砲塔が、こちらを向いた。
速い。
「――こはる、後退!」
「了解!」
T-34が建物の陰へ引っ込んだのと、クラーラの弾が、さっきまで砲塔のあった場所の壁を削ったのは、ほとんど同時だった。コンクリートの粉が、ハッチの上に、ぱらぱらと降ってきた。
「……今の、本当に、この夏から来た人?」
すみれが、砲弾を抱えたまま、息をのんだ。
「……だから、言ったでしょう。強い人ですって」
伊里奈は、少しだけ笑った。笑うしかなかった。
無線から、みほの声が届いた。
「――駐車場の皆さん、待ち伏せはもう十分です。各自、分かれて離脱してください」
「シロクマ、了解。――こはる、裏の道へ。海のほうへ出ます」
「わかった!」
駐車場を抜けるとき、伊里奈は、一度だけ振り返った。
動かなくなったポルシェティーガーの砲塔から、ナカジマが顔を出して、のんびりと手を振っていた。
2/
海へ抜ける裏の道は、古い商店街を通っていた。
その入り口で、伊里奈は、ふと照準器から顔を上げた。
「――こはる、止まってください」
「えっ?」
T-34が、商店街の手前で、ぎしりと止まった。
石畳の通りが、まっすぐに伸びている。両側には、古い店が軒を連ねていた。さっきまで、どの通りにも、応援の町の人たちがいた。旗を振り、声を上げ、二階の窓から身を乗り出していた。
この通りには、誰もいなかった。
「……静かすぎます」
伊里奈は、小さくつぶやいた。
町の人たちは、戦車が通る道を、試合の前に知らされている。そして、戦車が待ち伏せをしている場所には、近づかないように言われている。
人のいない町は、何かが待っている町だ。
――そのことを、伊里奈は、一本の映画で知った。
この世界には、ない映画だった。前の人生で、何度も繰り返して観た。捕虜になったソビエトの戦車兵が、T-34で敵の真ん中を駆け抜けていく物語。その中で、主人公は、無人の町の静けさに気づいて、戦車を止めた。
「こはる、後退です。この通りには入らずに、一本手前の路地から回ります」
「……わかった」
こはるは、理由を聞かずに、T-34をそっと後ろへ下げた。
路地を回り込んだ先で、こはるが、店と店のあいだの細い隙間の手前に、T-34を止めた。
伊里奈は、砲塔のハッチから、そっと顔を出した。隙間の向こうに、さっきの通りの突き当たりが、斜めにのぞいている。
石積みの低い塀の後ろに、細長い車体が、二輌。
クルセイダーだった。塀に車体を隠して、砲塔だけをのぞかせている。その砲口は、まっすぐに、さっき自分たちが入ろうとしていた通りの入り口を向いていた。
「――クルセイダーが二輌です。通りの突き当たりの、低い塀の後ろに」
伊里奈は、ハッチの縁から目を離さずに、車内へ言った。
「あのまま入っていたら、通りの真ん中で、二方向から撃たれていました」
「……うそ」
千紗が、青い顔でつぶやいた。
「でも、塀の後ろじゃ、車体には当たらないんじゃない?」
「はい。正面からは、砲塔しか見えません」
伊里奈は、照準器をのぞき込んだ。
路地の出口から、通りを斜めに見通せる場所が、一つだけあった。そこからなら、塀の手前の石畳が、ちょうど叩ける。
――正面から抜けないなら、下から。
あの映画で、砲手は、石畳に弾を跳ねさせて、敵の車体の底を撃ち抜いた。観ていたときは、そんなことが本当にできるのかと、笑ったものだった。
今は、笑っていない。
「すみれ。徹甲弾をお願いします」
「……入ったわ」
「こはる。路地の出口まで、一気に出てください。出たら、すぐに止まって」
「了解!」
T-34が、路地の出口へ飛び出した。そして、そこで、ぴたりと止まった。
塀の後ろの砲塔が、こちらの音に気づいて、ゆっくりと向きを変え始める。
伊里奈は、十字線を、クルセイダーではなく、その手前の石畳に合わせた。
「……伊里奈ちゃん、そこ、地面だよ!?」
「はい」
角度。距離。石畳の硬さ。
二年間、北の雪原で、凍った地面に弾を取られたことは、何度もある。そのたびに、弾がどう跳ねるのかを、体で覚えてきた。
「――発射」
85ミリの弾が、石畳を叩いた。
火花が散る。弾が、低く、鋭い角度で跳ね上がる。そして――低い塀をかすめて、その向こうのクルセイダーの、車体の底を、下から突き上げた。
鳴り響くような轟音。それから、白旗が、ぱたんと上がった。
「…………え?」
こはると千紗の声が、きれいにそろった。
―――
もう一輌のクルセイダーが、塀の後ろから、勢いよく飛び出した。
速い。通りを斜めに横切って、建物の角の向こうへ回り込もうとしている。その角を曲がれば、T-34のすぐ横に出る。
「――砲塔、右へ九十度。角に向けてください!」
砲塔が、重たい音を立てて回り始める。建物の角の向こうでも、同じように、砲塔が回る音が聞こえていた。
どちらが先に、向きを合わせるか。
あの映画でも、こうだった。壁の向こうの敵と、砲塔を回す速さだけの勝負をして、ほんの一瞬だけ、T-34が先に向いた。
伊里奈は、旋回ハンドルを回しながら、角の一点だけを見つめていた。
クルセイダーの鼻先が、角から現れる。その砲塔は、まだ、こちらを向ききっていない。
「――発射」
砲弾は、砲塔と車体の、継ぎ目を捉えていた。
クルセイダーが、角を曲がりきれずに、そのまま止まる。白旗が、もう一つ。
無線の向こうで、聞き覚えのない声が、悲鳴のように叫んでいた。
――待ち伏せが、待ち伏せされていましたわ!
―――
しばらく、車内の誰も、何も言わなかった。
それから、千紗が、かすれた声で言った。
「……伊里奈。今の、地面に当てたやつ。どこで覚えたの」
「……昔、何かで見たんです。本だったか、何だったか」
それは、嘘ではなかった。ただ、その「何か」は、この世界のどこを探しても、見つからない。
「……すごいよ、伊里奈ちゃん! 伊里奈ちゃん、やっぱり世界一だよ!」
こはるが、操縦席で小躍りしそうな声を上げた。
「……世界一は、やめてください」
その後ろで、すみれだけが、何も言わずに、次弾を抱えたまま、伊里奈の横顔を見つめていた。
試合が終わったら、たぶん、記録帳に何かが書かれる。伊里奈には、それがわかっていた。
―――
町のあちこちで、砲声が上がっていた。
周囲確認の千紗は、無線に耳を澄ませながら、届く知らせを、ひとつずつ口に出していった。
「――どこかの戦車が、旅館に突っ込んだって。どこの学校のかは、わからないけど」
操縦席で、こはるが、ぶっと吹き出した。
「……伊里奈ちゃん、さっき『大変なことが起きる気がする』って言ってたよね!?」
「……気がしただけです」
すみれが、装填手席で、何かを覚えておくように、小さく唇を動かした。
「――それと、プラウダの金髪の人のT-34が、曲がり角で滑って、お店に突っ込んだって」
「……クラーラさんが、ですか」
伊里奈は、少しだけ目を瞬かせた。それから、小さく息を吐いた。
さっき、駐車場で、あれほど速く正確だった人だ。その人でも、この町の曲がり角には、まだ慣れていない。北の海の雪原と、大洗の商店街は、まるで違う。
「……伊里奈、嬉しそう」
「……そんなことは、ありませんよ」
千紗は、何も言わずに、無線に耳を戻した。
―――
裏の道を抜けると、海の匂いがした。
そのとき、千紗が、急に無線に耳を寄せた。
「――伊里奈。カバさんとカメさんが、浜辺で追われてる。T-34/76に」
3/
浜辺に出ると、砂の上を、三輌の戦車が走っていた。
先頭を逃げているのは、カメさんのヘッツァーと、カバさんのIII号突撃砲。その後ろを、一輌のT-34/76が、砂を蹴立てて追いかけている。
「――今だ、回れ!」
無線から、カエサルの声が聞こえた。
その瞬間、III号突撃砲が、砂の上でぐるりと向きを変えた。回りながら、砲口を追ってくる相手に向ける。砲塔のない戦車ならではの、思い切った動きだった。
砲声。
弾は、T-34/76のすぐ脇の砂を、大きく吹き上げただけだった。
「……外したか!」
「砂で滑ったぜよ!」
無線の向こうで、歴女たちの悲鳴が重なった。
伊里奈は、そのT-34/76の砲塔を見ていた。
砲塔の横に描かれた番号を、知っている。そのハッチから半身を出している、短い髪の少女も。
今度やったら、私が勝つ。
「――西住さん。シロクマです。浜辺のT-34/76、引き受けます。カメさんとカバさんは、そのまま町のほうへ」
「……わかりました。お願いします」
みほの声は、一瞬も迷わなかった。
―――
「――こはる、砂の上です。急な旋回は、しないでください」
「わかってる。……この子の足なら、砂でも大丈夫」
こはるが、T-34を砂浜へ下ろした。幅の広い履帯が、砂をしっかりととらえる。
「――それと、こはる。距離を詰めるあいだは、まっすぐ走らないでください。右、左、右。小さく、ジグザグに」
「……わかった。狙いを、ずらすんだね」
あの映画の最後で、T-34は、橋の上で待ち構える敵に向かって、そうやって走った。まっすぐ近づけば、ただの的になるからだ。
その音に、T-34/76の砲塔が、こちらを向いた。
ハッチの上の少女が、伊里奈を見つけて、その口元を、わずかにゆがめた。
笑ったのか、しかめたのか、この距離ではわからなかった。
「……伊里奈。あの人って」
「一年のとき、同じ補習の教室にいた人です」
伊里奈は、照準器をのぞき込んだ。
準決勝の雪原で、あの人は、曲がる前に必ず一拍止まった。その一拍を、自分は狙った。
――直したから。今は、もう止まらないから。
「こはる。相手は、曲がるとき、止まりません。そのつもりで、動いてください」
「了解!」
―――
二輌のT-34が、波打ち際を並んで走り始めた。
同じ国の、同じ形の戦車だった。砲の太さだけが、少し違う。こちらは、カチューシャとノンナが贈ってくれた85ミリ。向こうは、もとのままの76ミリ。
「――向こうが曲がる!」
千紗が叫んだ。
伊里奈は、照準器の中で、そのT-34/76を追った。
曲がる。――止まらない。
本当に、止まらなかった。砂を蹴立てて、そのままなめらかに向きを変えていく。あの雪原で、一拍ごと撃ち抜かれた人の動きでは、もうなかった。
――直したんだ。本当に。
そのことが、なぜだか、うれしかった。
「――発射」
85ミリの弾が、T-34/76の砲塔の、すぐ後ろをかすめて、砂を吹き上げた。
「……外した」
「次弾、入ったわ!」
すみれの声と同時に、向こうの砲が火を吹いた。
ガツン、と、車体のどこかが叩かれた。砲塔の中に、響きが伝わってくる。白旗は、上がらない。
「……大丈夫! 弾いた!」
「……叩き直した前面ですね」
伊里奈は、小さくつぶやいた。決勝のあとの夜、自動車部にジャッキを借りて、四人で一晩かけて叩き直した装甲だった。
――この子には、まだ次がありますから。
―――
波打ち際を、二輌の戦車が、何度もすれ違った。
撃っては外し、外しては撃ち返される。弾が砂を吹き上げ、波を割り、一度は、堤防の上で見ていた観客から、大きな歓声が上がった。
「――伊里奈ちゃん! 向こう、だんだんこっちの動き、読んできてる!」
「わかっています。……一年のときから、そういう人でしたから」
補習の教室で、同じ照準器をのぞいていた。自分がどこを狙うかを、いちばんよく知っているのは、たぶん、あの人だ。
だから、狙わない。
「――こはる。次の一発で、止まってください」
「えっ……止まるの? 今、ここで?」
「はい。一拍だけです」
こはるが、息をのんだ。それから、小さく頷いた。
「……わかった。伊里奈ちゃんを、信じる」
―――
一拍。
T-34が、砂の上で、ぴたりと止まった。
止まらないと、相手は思っていたはずだ。自分が、相手のことをそう思っていたように。
その一拍のあいだに、T-34/76の砲塔が、わずかに行き過ぎた。
「――発射」
けれど、向こうも、同じだった。
行き過ぎた砲塔が、すぐに戻ってくる。そして、こちらの砲声と、ほとんど同じ瞬間に、向こうの砲も、火を吹いた。
二つの砲声が、ひとつに重なって、浜辺に響いた。
衝撃が、車体ごと、伊里奈の体を揺らした。
そして、静かになった。
砲塔の上で、白旗が、ぱたんと立ち上がる音がした。
「……やられた」
こはるが、操縦窓に額をこつんとつけた。
伊里奈は、砲塔のハッチを開けて、外へ身を乗り出した。
波打ち際の向こうで、T-34/76からも、白旗が上がっていた。
そのハッチから、短い髪の少女が、同じように身を乗り出して、こちらを見ていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから、向こうが、先に口を開いた。
「……止まったな、今」
「……はい。一拍だけ」
「ずるい」
「……すみません」
「謝るな。……私も、直したつもりで、一拍待ったから」
短い髪の少女は、むすっとした顔のまま、そっぽを向いた。
「……引き分けだ。勝ったことには、しない」
「……はい」
「次は、私が勝つ」
「……はい。楽しみにしています」
北の海でも、同じことを言った気がする。伊里奈がそう思って笑うと、向こうも、ようやく、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
堤防の上の観客から、拍手が起きていた。
伊里奈は、白旗を上げた二輌のT-34を見比べて、ふと、気づいた。
――あの映画の、最初の戦いも、こうだった。
村の外れで、主人公のT-34と、宿敵の戦車が、同じ瞬間に撃ち合って、どちらも動けなくなった。そして、そこから、二人の長い物語が始まった。
伊里奈は、波打ち際の向こうの短い髪の少女を見て、小さく笑った。
こちらの物語は、たぶん、もう少し穏やかなものになるだろう。次は、私が勝つ。その言葉の続きを、何度でも、繰り返せるような。
4/
白旗を上げた戦車の中でも、無線は聞こえる。
四人は、砲塔の上と操縦席で、無線に耳を澄ませていた。浜辺の向こう、海沿いの大きな建物のほうから、砲声が、小さく、けれど途切れなく聞こえてくる。
千紗が、届く知らせを、ひとつずつ口にしていく。
「――KV-2が、水辺で横倒しになったって。水の中から撃って、外して、砲塔を回したら、そのまま岩の上で……」
操縦席で、こはるが、ぶっと吹き出した。
伊里奈は、思わず額を押さえた。ニーナとアリーナが、ずぶ濡れで「だべ」を連発している姿が、見てもいないのに、はっきりと目に浮かんだ。
「――それと、カメさんが、チャーチルを撃ったけど、外れたって。……でも、その弾が、通りかかったクルセイダーに当たったって」
「……河嶋さんらしいですね」
無線の向こうで、桃が「狙いどおりだ!」と叫んで、杏に「うそだねー」と笑われているのが、かすかに聞こえていた。
そのあいだにも、砲声は、少しずつ一か所に集まっていく。
水族館だった。
「――あんこう、チャーチルを追ってる。……でも、チャーチルの周りに、まだプラウダがいるって」
千紗の声が、少しずつ早口になっていく。
伊里奈は、砲塔のハッチに腰を下ろしたまま、水族館のほうを見つめていた。
知っている。この試合が、どう終わるのかを。
そして、その終わりに、あの人が、何をするのかも。
「――IV号が、チャーチルを正面に捉えたって!」
千紗の声が、少しだけ上ずった。
そのあとに、千紗は、一瞬だけ言葉を失った。
「……カチューシャさんのT-34/85が、割り込んだって。IV号と、チャーチルのあいだに。……チャーチルの盾になって――」
遠くで、一発の砲声がした。
「――白旗。カチューシャさんの、白旗」
こはるも、すみれも、何も言わなかった。三人とも、砲塔の上の伊里奈を見ていた。
伊里奈は、水族館のほうを見つめたまま、動かなかった。
あの人は、勝つためなら、何でも使う。ノンナのIS-2を盾にもする。そして、そのときが来れば、自分自身も、盾にする。
二年間、ずっとそうだった。
あの砲手席から、何度も、その小さな姿を見上げてきた。
「……伊里奈ちゃん」
こはるが、操縦席から、小さく呼んだ。
「……大丈夫です。あの人らしいと、思っただけです」
それは、本当のことだった。
―――
それから、ほんの少しだけ、間があった。
そして、もう一発。
重い砲声が、水族館のほうから、海の上を渡ってきた。
千紗が、無線に耳を押し当てた。その手が、少しだけ震えていた。
「……IV号。白旗」
無線の向こうで、アナウンスが流れた。
――大洗女子学園、フラッグ車、行動不能。よって、聖グロリアーナ女学院・プラウダ高校チームの勝利。
堤防の上の観客から、大きな拍手が起きた。町のあちこちからも、同じ拍手が、波のように広がっていく。
「……負けちゃった」
こはるが、つぶやいた。けれど、その声は、不思議と暗くはなかった。
「……楽しかったね」
千紗が、カメラを構えて、白旗を上げたままのT-34と、波打ち際の向こうのT-34/76を、一枚に収めた。
「……記録することが、多すぎるわ」
すみれが、装填手席で、大きく伸びをした。
伊里奈は、砲塔の上で、夕焼けに染まり始めた空を見上げた。
試合は、知っているとおりに終わった。
けれど、その中に、知らないことが、いくつもあった。あの人の「それでいいのよ」。北の海の同級生の、止まらない曲がり方。「後は、お願いします」と笑った、知波単の生徒。
そして、砂の上で、一拍だけ止まってくれた、この三人。
「……楽しかったですね」
伊里奈は、そう言って、小さく笑った。
5/
試合のあと、四つの学校の生徒たちは、そろって海沿いの温泉に向かった。
大きな湯船に、湯気がたちこめている。窓の外には、夕焼けの海。さっきまで砲弾を撃ち合っていた相手と、今は同じお湯に肩まで浸かっている。それが、なんだか不思議だった。
「――本日は、まことに申し訳ありませんでした!」
湯船の端で、西が、お湯に浸かったまま、深々と頭を下げていた。その後ろで、知波単の生徒たちが、いっせいに頭を下げる。お湯が、ざぶんと波打った。
「いえ、そんな……一緒に戦ってくれて、ありがとうございました」
みほが、あわてて頭を下げ返す。それを見て、西は、ほっとしたように笑った。
「……次は、もう少し、待つことも覚えます」
その言葉を聞いて、伊里奈は、湯船の反対側で、小さく笑った。
この人は、いつか、本当にそうなる。それも、知っている。
―――
「――イリーナ!」
湯気の向こうから、よく通る声がした。
カチューシャが、ノンナに抱えられたまま、お湯の中をこちらへやってきた。その後ろに、クラーラが、ゆったりとした足取りで続いている。
「あんた、浜で、あの子と相打ちだったそうじゃない」
「……はい。引き分けでした」
「ふん。カチューシャの同級生と引き分けなんて、まだまだね」
そう言いながら、カチューシャの口元は、緩んでいた。
「……カチューシャさんも、最後、ダージリンさんを庇って、白旗だったと聞きました」
「庇ったんじゃないわよ! 勝つために、いちばんいいところにいただけよ!」
カチューシャは、ノンナの腕の中で、ぷいとそっぽを向いた。
「……それに。あんた、約束どおり、手加減しなかったでしょう。町役場で、ちゃんとカチューシャを狙った。……だから、今日は、それでいいのよ」
伊里奈は、何も言えなかった。ただ、お湯の中で、深く頭を下げた。
ノンナが、少しだけ目を細めていた。クラーラは、何かをノンナにロシア語でささやいて、カチューシャに「日本語で話しなさいよ!」と叱られていた。
その後ろから、二つの顔が、おそるおそるのぞいた。
「……イリーナ先輩。水辺のこと、聞いただべか……?」
ニーナとアリーナだった。さっきまで水の中にいたはずなのに、またお湯の中で、肌まで真っ赤になっている。
「……無線で、少しだけ」
「――見なかったことにしてほしいだべー!」
「……はい。見ていませんよ」
それは、本当のことだった。伊里奈は、笑いをこらえながら、そう答えた。
―――
湯船のあちこちで、会話が、湯気のように立ちのぼっていた。
ダージリンとオレンジペコが、華と、紅茶と花の話をしている。その少し先では、沙織が、「そろそろ夏休みも終わりだよねぇ……」と、しみじみとため息をついていた。
「……宿題、まだ終わってないんだけど。どうしよう」
こはるが、お湯の中で、ぶくぶくと泡を立てた。千紗が、「私も」と付け足して、すみれが、何も言わずに二人の頭を、つんと突いた。
伊里奈は、それを見て、笑っていた。
そして、笑いながら、湯船の入り口のほうを、そっと見ていた。
―――
そのときだった。
脱衣所のほうから、携帯の着信音が、かすかに聞こえてきた。
「……会長、お電話です」
柚子の声だった。
杏が、お湯から上がる。いつものように、のんびりとした動きで。けれど、脱衣所へ向かうその背中は、少しだけ、急いでいるようにも見えた。
しばらくして、脱衣所から、杏が顔だけをのぞかせた。
「――みんな、ごめんねー。ちょっと、先に艦に戻るよ。用事できちゃった」
いつもの、軽い口調だった。桃と柚子が、あわててその後を追う。
誰も、特に気にしなかった。会長に用事ができるのは、いつものことだ。湯船のあちこちでは、また、笑い声と会話が続いている。
伊里奈だけが、その背中が見えなくなるまで、目を離せなかった。
――倉庫のカレンダーで、丸をつけた日。
それが、今日だった。
「……伊里奈」
隣で、すみれが、小さく呼んだ。その声は、他の誰にも聞こえないくらい、静かだった。
「……今日なの?」
伊里奈は、すぐには答えなかった。
窓の外では、夕焼けが、ゆっくりと夜の色に変わり始めていた。その向こうの港には、大洗の学園艦が、いつもどおりの大きな影になって浮かんでいる。
「……はい」
伊里奈は、お湯の中で、そっと、すみれの手を握った。
すみれは、何も言わずに、その手を握り返した。