大洗にT-34がいたら   作:ouka23

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遅くなってすみません 


劇場で観たあのシーン

1/

温泉を出ると、外は、もう夕闇に沈みかけていた。

建物の前で、四つの学校の生徒たちが、それぞれの帰り支度をしていた。ほてった顔で、瓶の牛乳を飲み干している生徒もいる。さっきまで同じお湯に浸かっていた相手と、もう、あちこちで「またね」が交わされていた。

「――本日は、まことにありがとうございました!」

西が、大洗の一団に向かって、深々と頭を下げた。その後ろで、知波単の生徒たちが、いっせいに頭を下げる。福田が、いちばん最後に、あわててそれにならった。

「……こはる。居眠りしないでください」

「してないよ……ちょっとだけ、してた……」

湯あがりでふらふらしているこはるの肩を、すみれが支えている。千紗は、その様子を、ちゃっかりカメラに収めていた。

―――

「――イリーナ」

穏やかな声に振り向くと、ダージリンが立っていた。その後ろで、オレンジペコが、小さく会釈してくれた。

「今日の紅茶は、結局、こぼれなかったわね」

「……はい。今日は、そちらの勝ちです」

「ええ。……でも、あなたの目は、まだ、試合が終わっていない人の目をしているわ」

ダージリンは、それだけ言うと、何も尋ねずに微笑んだ。そして、自分たちの迎えの車の方へ、優雅に歩いていった。

―――

プラウダの一団は、駐車場の端に集まっていた。ニーナとアリーナが、瓶のフルーツ牛乳を抱えて、「うめえだべ!」と叫んでいる。その少し先では、短い髪の同級生が、一人で黙々と牛乳を飲んでいた。目が合うと、ふいとそっぽを向いて、それから、小さく顔をしかめたまま、未開封のもう一本を、こちらへ放ってよこした。

伊里奈は、それを両手で受け取った。まだ、冷たかった。

「――イリーナ! こっちに来なさい!」

ノンナの肩の上から、カチューシャが手招きしていた。その手には、飲みかけのコーヒー牛乳の瓶が、しっかりと握られている。

「……それ、何本目ですか」

「三本目よ。勝ったのはカチューシャたちなんだから、当然でしょう」

理屈になっていない。伊里奈は、笑った。

笑いながら、日が沈んだばかりの港の方を、何度も見ていた。

そこには、大洗の学園艦が、いつもどおりの大きな影になって浮かんでいる。甲板の町の灯りが、点々と、いつもより少なく見えた。

会長は、もう、あの艦の上にいる。

「……イリーナ」

カチューシャが、瓶をくわえたまま、目を細めた。

「さっきから、何を見てるのよ」

「……いえ。何も」

「嘘。あんた、砲手席で待ち伏せの相手を待ってるときと、同じ顔してるわよ。……あんたのところの会長が、お風呂から急に帰ったのと、関係あるの?」

伊里奈は、何も答えられなかった。

その視線を、まっすぐ受け止めることも、できなかった。

「……カチューシャさん。今日は、ありがとうございました。……おやすみなさい」

それだけ言って、伊里奈は、三人のもとへ走った。

背中の後ろで、カチューシャが、何かをノンナにつぶやく声がした。その言葉は、聞き取れなかった。

―――

戦車に乗ったまま、学園艦への連絡路を上った。T-34の砲塔のハッチから半身を出していると、夕闇の中に、甲板の町が近づいてきた。

町は、静かだった。いつもなら、この時間はまだ開いているはずの商店街の店が、半分ほどシャッターを下ろしている。その前で、町の人たちが、段ボールを積み上げていた。「送」と大きく書かれた箱が、次々と運び出されていく。

前を行くIV号の上から、沙織の声が聞こえてきた。

「……なんで、みんな荷造りしてるの?」

「廃品回収でしょうか?」

「……わからない」

華の問いに、みほが、小さく首を振った。

「……伊里奈ちゃん。あの箱、なんだろう」

操縦席から、こはるが、小声で尋ねた。

伊里奈は、答えなかった。答えを知っている問いに、答えなかったのは、たぶん、はじめてだった。

坂を上りきると、校舎が見えた。

校門は、閉ざされていた。

鉄の門に、黄色いテープが、何本も張り渡されている。街灯の光の下で、そこに並んだ文字だけが、やけにはっきりと読めた。

――KEEP OUT。

2/

校門の前で戦車を停めて、みんなが降りた。集まっているのは、戦車道を履修している生徒たちだけだった。

あんこう、カメ、アヒル、カバ、ウサギ、カモ、アリクイ、レオポン。そして、シロクマ。温泉から戻ってきたばかりの顔ぶれが、まだ湿った髪のまま、門の前に並んでいる。

「――誰よ、こんなことしたの!?」

真っ先に声を上げたのは、園だった。

「まさか……ただのいたずら、ですよね?」

「……キープアウトって、どういう意味だっけ?」

「体重をキープしてないじゃん」

「アウト~」

「ひど~い!」

「そんなこと言ってる場合じゃない!」

一年生たちの声が、夜の校門の前で、場違いなほど明るく響いた。けれど、その声も、すぐにしぼんでいった。

「……立入禁止って、意味だよ」

千紗が、かすれた声で言った。カメラを構えかけて、それから、そっと下ろした。

「――こんなもの、勝手に貼るなんて! 風紀が乱れるわ!」

園が、門のテープに手をかけた。べり、と、黄色いテープの端が、はがれかける。

「君たち、勝手に入っては困るよ」

門の内側の暗がりから、声がした。

暗い色のスーツを着た男が、ひとり、ゆっくりと歩み出てきた。細い眼鏡の奥の目は、集まった生徒たちの、どの顔にも止まらなかった。この甲板の上では、一度も見たことのない、よその大人だった。

「でも……私たち、ここの生徒です!」

「もう、違う」

男は、短くそう言った。

「……どういうことですか!?」

男は、それには答えなかった。門の内側に停められた戦車の影の方を、振り返りもせずに、言った。

「君から説明したまえ」

その暗がりから、小さな人影が、一歩前へ出た。

杏だった。ひとりで、そこに立っていた。

「……会長?」

「どういうことですか、会長」

「会長……!」

生徒たちの列の中で、柚子と桃が、息をのんだ。

杏は、集まった生徒たちを、端から端まで、ゆっくりと見渡した。いつもならその手にあるはずの干し芋の袋が、今日はなかった。杏は、少しだけ息を吸った。

「……大洗女子学園は、八月三十一日付けで、廃校が決定した。廃校に基づき、学園艦は解体される」

しん、と、音が消えた。

波の音も、風の音も、どこかへ行ってしまったようだった。

「……うそ」

こはるの声が、すぐ横で、小さく震えた。

「――優勝したら、廃校は免れるんじゃなかったの……?」

沙織だった。その声に、杏は、目をそらさずに答えた。

「……あの約束は、正式なものではなかったらしい」

「なにっ!?」

「廃校を検討し直す、という話だっただけだ。……正式に決まったことでは、なかったそうだ」

「そんな……」

「急すぎませんか!?」

「廃校になるとしても、来年の三月だって思ってたのに!」

アヒルさんチームの声が、次々に重なった。

「検討した結果、三月では遅い、ということになったらしい」

「なんで、早まるんですか!?」

レオポンさんチームから、声が飛んだ。

「じゃあ、私たち、何のために戦ったの……?」

「学校を守るために、戦ったのに……」

杏の後ろで、スーツの男は、手元の書類から、目を上げもしなかった。

伊里奈は、その男の顔を見ていた。

文部科学省、学園艦教育局長。辻廉太。――知っている。この顔も、この声も。画面の向こうで、何度も見た。そのたびに、この人のやり方に、画面のこちら側で腹を立てていた。

今は、腹が立たなかった。

ただ、寒かった。八月の終わりの夜なのに。

―――

「――納得できません! 抵抗しましょう!」

ざわめきが、少しずつ、怒りの声に変わっていった。

「抵抗って、どうするんですか?」

「学園艦に立て籠もるんだ!」

「バウンティ号の反乱だ!」

「ポチョムキン! ポチョムキン!」

「蟹工船!」

「ケイン号の叛乱!」

「……それ、全部フィクションじゃない?」

「――残念だが、本当に廃校なんだ!」

杏の声が、そのざわめきを、まとめて断ち切った。

いつもの、のんびりした口調ではなかった。この人の、こんな声を聞くのは、たぶん、誰もがはじめてだった。

「我々が抵抗すれば、艦内にいる一般の人達の再就職は、斡旋しない。……全員解雇にする、と言われた」

「ひどすぎる……!」

桃が、門の脇の柵にすがるように、崩れ落ちた。片眼鏡の奥の目から、もう、涙がこぼれていた。

「あっ、桃ちゃん……!」

柚子が、その肩を後ろからそっと抱いた。

「――じゃあ何? 学校がなくなるってことは、私たち風紀委員じゃなくなるわけ?」

園の声が、震えていた。

「……気にするのは、そこか」

麻子が、ぼそりと言った。

「大事なことよ!」

「じゃあ、部活もなくなっちゃう……」

「バレー部、もう復活できないじゃないですか!」

「自動車部も、なくなっちゃうのかー……」

「学園艦グランプリの夢が……」

「じゃあ、私たち、もう一年生じゃなくなるの?」

「一年生じゃなくなったら、どうなるの?」

「リアルニート……」

「素浪人か……」

「藩があるうちに、脱藩するぜよ!」

「もう脱藩してるだろう……」

「――みんな、静かに!」

その声で、ようやく、ざわめきが引いていった。

「とにかく、今は落ち着いて、指示に従ってほしい」

「……会長。本当に、これでいいんですか」

柚子の問いに、杏は、答えなかった。

「……みんな、もう聞いたと思う。悪いけど、寮に住んでいる者は、自分の部屋に戻って。家族と住んでいる者は、引っ越しの準備をしておいてほしい」

「――あの」

みほだった。

「戦車は……どうなるんですか」

「文科省の管理下に置かれる」

「戦車まで、取り上げられちゃうの……?」

「そんな……」

杏は、ほんの少しだけ、目を伏せた。

「……すまない」

いつものように笑わなかったことが、何よりもつらかった。

―――

あちこちで、すすり泣く声がしていた。

沙織が、華の肩に顔を埋めている。優花里は、拳を握ったまま、校舎を見上げて動かない。麻子が、誰にも聞こえないぐらいの声で、何かをつぶやいていた。

みほは、何も言わずに、テープの張られた門を見つめていた。

その横顔を、伊里奈は、まっすぐに見ることができなかった。

知っていた。この夜が来ることを。春にこの学校へ来たときから、ずっと。

そして、誰にも言わなかった。

左の手に、あたたかいものが触れた。

すみれだった。温泉の湯の中で握ったのと同じ手が、今度は、伊里奈の指を、強く握りしめていた。

「……伊里奈。これが、大変なこと?」

すみれの声は、震えていなかった。震えないようにしているのが、わかった。

「……はい」

「……そう」

それだけ言って、すみれは、テープの張られた門に目を戻した。その手は、離さなかった。

3/

生徒たちが、ひとり、またひとりと、校門の前から遠ざかっていった。

シロクマチームの四人は、誰が言い出したわけでもなく、甲板の端の手すりまで歩いていた。

そこからは、校舎の裏手が見える。フェンスの向こうに、戦車倉庫の屋根。その下に、T-34がいる。今日の試合のあと、白旗を下ろして、砂だらけのままで運び込まれた。まだ、洗ってもいない。

「……あの子、どうなるのかな」

こはるが、手すりにあごを乗せて、つぶやいた。その目は、もう泣きはらしていた。

「……文科省の管理下に置かれる、って。会長、そう言ってた」

千紗が、平らな声で答えた。それから、手すりを、ぎゅっと握った。

「……伊里奈。ひとつ、聞いていい?」

「……はい」

「さっき。廃校って聞いたとき、伊里奈だけ、驚いてなかった。……私、周囲確認だから。そういうの、見えちゃうんだよね」

こはるが、はっと顔を上げた。

すみれは、何も言わなかった。ただ、伊里奈の隣に、少しだけ近づいて立った。

伊里奈は、戦車倉庫の屋根を見つめたまま、しばらく黙っていた。

嘘をつくことは、できた。「経験です」とも、「そういう気がしただけです」とも。この夏、何度もそうやってきた。嘘ではないけれど、全部でもない言葉を。

けれど、今夜は、それをしたくなかった。

「……驚かなかったのは、本当です」

こはるが、息をのんだ。千紗は、まばたきもせずに、伊里奈を見ていた。

「……どうして」

「それは、今は、まだ言えません。……ごめんなさい。いつか、必ず話します。でも、今夜ではありません」

伊里奈は、三人の方を向いた。

「その代わりに、ひとつだけ、言えることがあります」

「……何?」

「これで、終わりではありません」

風が、甲板の上を吹き抜けていった。手すりの向こうに、陸の大洗の町の灯りが、小さく瞬いて見える。

「学校も。この艦も。……あの子とも。まだ、お別れではありません。このあと、もう一度だけ、あの子に乗って、戦う日が来ます」

「……それも、経験?」

千紗の声には、ほんの少しだけ、いつもの皮肉が戻っていた。

伊里奈は、首を横に振った。

「約束です」

―――

しばらく、誰も、何も言わなかった。

それから、こはるが、手の甲で、ごしごしと目をこすった。

「……じゃあ、信じる」

「こはる」

「だって、浜辺でも、伊里奈ちゃんのこと、信じて止まったもん。そしたら、ちゃんと引き分けになったもん」

それは、勝ったとは言わない。そう言いかけて、伊里奈は、口をつぐんだ。こはるの目が、また濡れはじめていたからだ。

千紗が、大きく、ひとつ息を吐いた。

「……いつか、ちゃんと話すんだよ。約束だからね」

「はい」

「……それまでは、周囲確認で、勝手に見てるから」

それは、千紗なりの、「待つ」という言葉だった。

すみれが、ポケットから、小さな記録帳を取り出した。試合中は開かない、あの記録帳だった。そのページを、何枚かめくって、三人に見せた。

一行だけ、書かれていた。

――待つ。いくらでも。

「……私は、もう、書いてあるわ」

すみれは、それだけ言って、記録帳を閉じた。

伊里奈は、何か言おうとして、何も言えなかった。ただ、深く、頭を下げた。

手すりの向こうで、戦車倉庫の屋根が、街灯に、ぼんやりと光っていた。

―――

その夜、伊里奈は、寮の机で、新しいノートを開いた。

表紙には、何も書かなかった。誰かに見られても、ただの雑記帳にしか見えないように。

一ページ目に、ペンを走らせる。

――大学選抜チーム。三十輌。

その下に、知っていることを、ひとつずつ書いていった。

M26パーシングの群れ。T28重戦車。そして、隊長の乗る、センチュリオン。隊長は、島田愛里寿。飛び級で大学へ進んだ、十三歳の天才。三輌で組んで、一輌ずつ確実に狩っていく、三人の中隊長。高地に立てこもったところを、遠くから叩きつぶす、巨大なカール自走臼砲。そして、最後の舞台になる、廃園になった遊園地。

次のページには、あの試合の途中で白旗を上げる戦車の名前を、覚えているかぎり、順番に書き出した。そのいくつかの横に、小さく丸をつけた。

書きながら、何度も、ペンが止まった。

これを、そのまま西住さんに見せればいい。そうすれば、あの人は、きっと、もっといい作戦を立てる。会長にも、「大学選抜に勝てばいいんです」と、一言だけ伝えればいい。

けれど。

会長は、これから、たったひとりで東京へ行く。何度も扉を叩いて、頭を下げ続けて、その果てに、あの試合をもぎ取ってくる。その道筋のどこかひとつでも、自分の一言で狂ったら。試合そのものが、なくなってしまうかもしれない。

この夏、何度も思い知った。止めようとした突撃は止まらなかった。逃がしたウサギさんたちは、結局、IS-2の前へ飛び出していった。大きな流れは、たぶん、どうやっても変わらない。変えようとすれば、いちばん大事なところまで、一緒に崩れてしまうかもしれない。

――けれど、その流れの中で、誰が最後まで走っていられるかは。

ウサギさんたちは、結局、やられた。でも、あの交差点で、一度は逃げられた。そのぶんだけ、自分たちの意志で、最後の一歩を踏み出せた。こはるは、そう言った。

伊里奈は、ページの下に、線を一本引いた。その下に、二行。

――大きな流れには、触れない。

――その中で、取りこぼすものを、ひとつでも減らす。

それから、ページをめくって、七つの学校の名前を書いた。

黒森峰。聖グロリアーナ。サンダース。プラウダ。アンツィオ。知波単。継続。

あの日、駆けつけてくる人たちだった。その人たちは、誰に頼まれなくても、きっと来る。それは、変えなくていい。けれど、その人たちが、少しだけ早く、少しだけ心の準備をして来られたら。

――声をかけておく。理由は言わずに。

最後に、もう一枚、ページをめくった。

そこには、三人の名前を書いた。

――こはる。止まれと言った場所で、一メートルもずらさずに止まる。それを、合図ひとつで、何度でも。

――すみれ。旋回の途中でも、揺れの中でも、二発目を、もう一秒早く。

――千紗。自分が見ていない方角を、自分より先に。

書き終えて、伊里奈は、しばらくそのページを見つめていた。

知っていることは、いくらでも書ける。けれど、知っていることを、撃てる形にしてきたのは、いつも、この三人だった。路地の出口で、石畳の継ぎ目の手前で、ぴたりと止まったのも。角の向こうの砲塔を、先に見つけたのも。白旗が上がる前に、もう次の弾を込め終えていたのも。

島田愛里寿は、強い。けれど、あのセンチュリオンが本当に怖いのは、あの子だけのせいではない。あの子の動きに、寸分の狂いもなくついていける乗員が、一緒に乗っているからだ。

それなら、こちらも。

――四人で、追いつく。

ノートを閉じたとき、窓の外は、もう、うっすらと白み始めていた。

4/

次の日は、一日じゅう、段ボールの音がしていた。

寮の廊下にも、甲板の町の通りにも、紐で縛られた箱が、少しずつ積み上がっていく。ガムテープを引き出す、びりびりという音。その合間に、どこかの部屋から、すすり泣く声。

体育館の方からは、ボールの音がしていた。「最後に、もう一試合しよう!」という、磯辺の声。正門の前では、風紀委員の三人が、校名の入った表札を、雑巾で丁寧に磨いていた。

「……毎朝、ここで遅刻者を取り締まってきたのに」

「これから、何を生きがいにすればいいのかしら」

「校門も、持っていく?」

「いいわね」

「……冗談よ」

三人の声は、どれも、少しだけかすれていた。

伊里奈の荷物は、少なかった。

春にこの艦へ来たときも、箱は三つしかなかった。それが、半年足らずで、四つになっていた。増えた一つには、千紗が撮った写真と、エリカからの請求書と、北の海でもらった鳥のミルクの空き箱が入っている。

その一番上に、伊里奈は、一冊のノートを置きかけて、やめた。

T-34の整備記録だった。このノートだけは、箱には入れたくなかった。

―――

その日のうちに、教室の黒板は、いつのまにか寄せ書きで埋まっていった。

『ありがとう』『忘れない』『また会おうね』。色とりどりのチョークで、大きな字も、小さな字も。その端の方には、きっちりとした字で、風紀委員の一文もあった。どんなときでも、あの人たちは、あの人たちだった。

こはるが、チョークで、小さな戦車の絵を描いた。砲塔には、赤い星。その横に、千紗が『また、ここで撮る』と書き、すみれが、何も言わずに『待つ』とだけ書き足した。

伊里奈は、チョークを持ったまま、しばらく黒板の前に立っていた。それから、三人の字の下に、一行だけ書いた。

――必ず、帰ってきます。

―――

日が暮れてから、荷物を運ぶ途中で、生徒会の三人とすれ違った。

柚子が、書類の詰まった段ボールを抱えている。その上には、『決議案』『予算案』と書かれたファイルが、何冊も積まれていた。

「……こんな形で、学校とお別れすることになるなんて、思わなかったな」

「……もう、決議案や予算案の書類……いらないのかな?」

「出来るだけ持っていくぞ」

桃が、自分の背丈ほどもある箱の山を抱えながら、きっぱりと言った。

「これは我々の……歴史だからな」

その後ろでは、杏が、生徒会室の大きな会長の椅子を、よいしょ、よいしょと引きずっていた。

「……会長、それも持っていくんですか」

「もちろん! ――椅子も持っていくぞー!」

杏は、いつものように笑った。そして、伊里奈の横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ、こちらを見た。

この人は、これから、たったひとりで戦いに行く。それを知っていて、伊里奈は、何も言わなかった。言わないと、昨日の夜に、決めたからだった。

ただ、椅子の脚を、黙って片方だけ持ち上げた。

「おっ、助かるねー」

―――

その夜、寮の部屋で、最後の箱に紐をかけていたときだった。

窓の外のスピーカーから、生徒会の放送が流れてきた。

『――明日、荷物はここに置いたまま、学園艦から下船します。くり返します……』

伊里奈は、紐を結ぶ手を止めた。それから、上着をつかんで、部屋を出た。

足は、まっすぐに戦車倉庫へ向かっていた。

倉庫の前の広場には、九輌の戦車が並んでいた。IV号、III号突撃砲、八九式、M3リー、ヘッツァー、ルノーB1bis、三式中戦車、ポルシェティーガー。そして、その列のいちばん端に、砂ぼこりをかぶったままのT-34。

その前に、こはるがいた。千紗も、すみれも。誰に呼ばれたわけでもないのに、三人とも、そこにいた。

「……伊里奈ちゃんも、来ると思ってた」

こはるが、泣きはらした目で笑った。

ほかのチームも、みんな、それぞれの戦車の前にいた。誰も、何も約束していなかった。それなのに、ひとりも欠けていなかった。

少しして、みほが、息を切らせて駆けてきた。

「やっぱり、隊長も来た!」

「みんな、揃ってます!」

ウサギさんチームの一年生たちが、ぱっと顔を輝かせた。

アヒルさんチームが、八九式の車体を、ひとりずつ撫でていく。

「小さいのに、よく戦ってくれたね……」

「短い間だったけど、ありがとう」

カバさんチームは、III号突撃砲の前に並んでいた。

「サンダース戦での一撃、見事だったぞ」

「プラウダ戦でも、よくやってくれたぜよ」

「――みぽりん、見っけ!」

沙織たちが、あとから追いついてきた。

「部屋に行ったら、もういなかったから。……先に、ここに来てたんだね」

「皆さん、お揃いのようですね」

華が、広場を見渡して、静かに言った。麻子は、もう、IV号の車体に寄りかかって、目を閉じかけていた。

「……麻子さん、ここで寝るつもり?」

「ああ。……これで、お別れかもしれないからな」

そのときだった。

広場の空気が、低く震え始めた。

―――

それは、飛行機の音だった。

それも、伊里奈がこれまでに聞いたどの飛行機よりも、重くて、大きかった。甲板の町の窓ガラスが、びりびりと鳴っている。

広場に立ち尽くす生徒たちの頭上を、巨大な影が、ゆっくりと横切っていった。翼の下に、星のマークが、ちらりと見えた。

「……C-5Mスーパーギャラクシーですっ!!」

優花里が、全身で叫んだ。

巨人のような輸送機は、艦尾の方へ旋回して、やがて、甲板のいちばん長い直線に、轟音とともに降り立った。甲板のあちこちから、サーチライトの光が、夜空へまっすぐに伸びていた。

「サンダースが、戦車を預かってくれることになった」

桃が、轟音に負けないように、声を張り上げた。

「……大丈夫なんですか?」

誰かの問いに、柚子が、一枚の書類を掲げてみせた。

「紛失届を、出しておいたの。うちの戦車は、なくなっちゃったことになってるから」

「――これで、処分されずに済むね」

杏が、にっと笑った。昨日の夜とは、違う顔だった。

輸送機の側面の扉が開いて、タラップを、小柄な少女が駆け下りてきた。アリサだった。

「お待たせ! ……まったく、手間かけさせるわね」

「ありがとう! ありがとう!」

沙織たちが、口々に叫ぶ。その後ろから、ケイが、大きく両手を振りながら姿を見せた。

「いいのよ! さあ、みんな、急いで!」

「はい!」

ケイの後ろには、ガムを噛んだナオミが続いていた。

―――

積み込みは、一輌ずつ、静かに進んだ。

こはるが、T-34を、扉の奥へと、ゆっくり進めていく。砂ぼこりのついた履帯が、金属の床の上で、きしりと鳴った。

エンジンが止まる。四人は、一人ずつ、ハッチから降りた。

最後に降りた伊里奈は、砲塔の横に、そっと手を当てた。赤い星の描かれた、その場所だった。

それから、胸に抱えていた整備記録のノートを開いた。

最初のページには、二行。

――いつでも、ここを出られるように。

――必ず、ここへ帰ってくるように。

伊里奈は、その下に、ペンで、一行だけ書き足した。

――行ってらっしゃい。

ノートを閉じて、操縦窓の内側に、そっと差し込む。

「――T-34の砲手」

振り返ると、ナオミが立っていた。ガムを噛む口元は、いつもどおり動いていた。けれど、その目は、笑っていなかった。

「……この子は、ちゃんと預かる。傷ひとつ、つけずに」

「……はい。お願いします」

「その代わり」

ナオミは、T-34の砲身を、ちらりと見上げた。

「返すときは、また、あんたが撃つところを見せてもらう」

伊里奈は、一瞬だけ目を見開いて、それから、ゆっくりと、深く頭を下げた。

「……はい。必ず」

ナオミが扉の奥へ戻っていく。その向こうで、ケイが、機内の乗員に、大きな声で指示を飛ばしていた。

伊里奈は、一瞬だけ迷った。それから、その背中に向かって、走った。

「――ケイさん。ひとつだけ、お願いがあります」

「What? なんでも言って!」

「この子たちを、届けてくださるとき。……その少しあとに、もう一度だけ、サンダースの皆さんの力をお借りしたい日が、来ると思います。そのときは、戦車を、できるだけすぐに動かせるようにしておいてください」

ケイは、目を丸くした。それから、伊里奈の顔を、じっと見た。

「……それ、今は理由を言えないやつ?」

「……はい」

「OK。理由は、そのとき聞くわ」

ケイは、あっさりと頷いた。そして、いつもの笑顔で、親指を立てた。

「フェアな戦いのためなら、サンダースは、いつでも行くわよ!」

その後ろで、アリサが「また勝手に……!」と頭を抱えていた。

―――

最後の一輌が積み込まれると、ギャラクシーの扉が、重い音を立てて閉じていった。

「――全部、積んだわ! 行き先が決まったら、連絡して。届けてあげるから!」

「……あんなに重いのを積んで、本当に飛べるんでしょうか」

華が、心配そうにつぶやいた。麻子が、眠そうな目のまま、「……計算上は、かなり苦しい」と言い、沙織が「ちょっと麻子! 縁起でもないこと言わないでよ!」と叫んだ。

ケイの声を残して、巨大な影は、甲板を走り、走り、それから、ようやく、夜空へと浮かび上がった。

大洗の生徒たちは、その光が、星に紛れて見えなくなるまで、ずっと空を見上げていた。エルヴィンが帽子を振っている。その横で、ももがーとねこにゃーが、震える手を、それでも精一杯に掲げていた。

「……学校は守れなかったけど、戦車は守ることが出来ました」

優花里が、そうつぶやいた。その声は、笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。

「……うん」

みほが、空を見上げたまま、小さく頷いた。

「……伊里奈ちゃん。このことも、知ってた?」

こはるが、小さな声で聞いた。

伊里奈は、空を見上げたまま、少しだけ笑った。

「……だから、言ったでしょう。まだ、お別れではありませんって」

5/

下船の朝は、よく晴れていた。

港の岸壁には、荷物を抱えた生徒たちと、甲板の町の人たちが、長い列を作っていた。その向こうに、何台ものバス。戦車道を履修している生徒たちの当面の住まいは、陸にある、木造の古い廃校舎だと、生徒会から知らされていた。

「……廃校になった学校の生徒が、廃校になった学校に住むんだね」

千紗が、カメラを首から下げたまま、つぶやいた。皮肉にしては、声が少しだけ湿っていた。

岸壁の端には、見覚えのある前掛け姿があった。

魚屋のおじさんだった。一昨日の大漁旗を、今日は折りたたんだまま、脇に抱えている。伊里奈に気づくと、おじさんは、何も言わずに、大きく一つ、頷いてみせた。

「来年も」と、一昨日、あの人は叫んでいた。

伊里奈は、深く、頭を下げた。

―――

バスを待つあいだに、携帯が鳴った。

画面には、二年間、いちばん多く見た名前が出ていた。

「……はい、伊里奈です」

「――ニュースで見たわよ」

カチューシャの声は、いつもより、ずっと小さかった。

「……一昨日の夜、あんたが港ばっかり見てたの、これだったのね」

「……はい」

「……ばか。そういうことは、早く言いなさいよ。……って、言いたいところだけど。あんたのことだから、言えない理由があったんでしょう」

電話の向こうで、少しだけ、間があった。

「……イリーナ。北の海の砲手席は、もう空いてないわよ。クラーラがいるから。……でも、あの艦には、あんたの寝る場所くらい、いつでもあるのよ」

それは、「戻ってきなさい」ではなかった。「帰る場所はある」という、あの人なりの、いちばん不器用な言い方だった。

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「……そう言うと思ったわ」

「まだ、終わっていませんから」

電話の向こうが、しんと静かになった。

それから、小さな、けれど、いつもの調子を取り戻した声がした。

「……ふん。じゃあ、そのうち、何を知ってるのか、全部聞かせてもらうわよ。――ノンナも、聞きたいって言ってるわ」

電話の奥で、もうひとりの、静かな声がした。「……イリーナ。ご飯は、ちゃんと食べてください」。

伊里奈は、笑った。笑ったつもりだったのに、目の奥が、少しだけ熱くなった。

それから、息をひとつ吸った。

「……カチューシャさん。ひとつ、お願いがあります」

「何よ」

「そう遠くないうちに、もう一度だけ、大洗が戦う日が来ます。……そのとき、もし来ていただけるなら。すぐに動ける戦車を、艦に積んだままにしておいてほしいんです」

電話の向こうが、黙った。

「……廃校になった学校が、戦う日?」

「はい」

「……あんた、本当に、何を知ってるのよ」

「……いつか、全部お話しします。その日に、必ず」

長い間があった。それから、電話の向こうで、小さな鼻を鳴らす音がした。

「……ふん。カチューシャを呼びつけるなら、それなりの試合を用意しておきなさいよ。――ノンナ。しばらく、戦車は降ろさないでおきなさい」

「はい。そうおっしゃると思っていました」

電話の奥の静かな声に、伊里奈は、今度こそ本当に、小さく笑った。

―――

電話を切ると、メールが一通、届いていた。

差出人の名前を見て、伊里奈は、少しだけ目を見開いた。

『請求書の支払い期限は、延ばさない。――逸見』

それだけだった。

伊里奈は、その短い一文を、二度、読み返した。そして、携帯を胸に当てた。

支払いは、次の試合で。正面から。

――その「次の試合」が、もうすぐ来ることを、あの人は、まだ知らない。

伊里奈は、少し考えてから、返信を打った。

『期限は守ります。その日は、西住まほさんの隣を、空けておいてください。――雪村』

送信して、一分もしないうちに、返事が来た。

『意味がわからない。』

それから、もう一通。

『……でも、空けておく。』

―――

「――全員、いる?」

柚子が、名簿を手に、ひとりずつ顔を確かめていった。

「はい」

返事の声は、どれも、小さかった。

汽笛が、鳴った。

長く、低く、港じゅうに響きわたる音だった。生徒も町の人たちも、すべて降ろした大洗の学園艦が、ゆっくりと岸壁を離れていく。解体される場所へ向かうのだと、誰かが、小さな声で言った。

見送りに残っていたのは、戦車道を履修する生徒たちだけだった。「……彼氏と別れるより、つらいよ」「付き合ったこともないくせに」。沙織と麻子の、いつものやりとりにも、今日は誰も笑わなかった。磯辺が、バレーボールを抱えたまま、唇をかみしめていた。桃は、泣いていた。杏は、その隣で、干し芋をくわえたまま、ただじっと、艦を見ていた。

「行かないで!」

「笑顔で見送ろうよ!」

「ありがとう!」

「元気でねー!」

「さよなら――!」

誰からともなく、声が上がった。手を振る腕が、いくつも、いくつも、岸壁の上で揺れていた。

みほは、列のいちばん前に立っていた。その背中は、まっすぐだった。

伊里奈は、三人と並んで、だんだん小さくなっていく艦を見ていた。

あの甲板の上に、寮があった。商店街があった。教室があって、戦車倉庫があって、倉庫の壁には、丸をつけたカレンダーが、そのまま掛かっている。

丸をつけた日は、過ぎた。

けれど、伊里奈は、その先にもう一つ、丸をつけるべき日があることを知っていた。

大学選抜チーム。三十輌。そして、その日、この港にも、あの北の海にも、黒森峰にも、あちこちに散らばった人たちが、みんな、ひとつの場所に集まってくる。

その日までに、自分にできることを。あのノートの、二行のとおりに。

伊里奈は、空っぽの左手を、そっと握った。

その手を、隣から、すみれが、黙って握り返した。

反対側の手を、こはるが。その向こうで、千紗が、ぶっきらぼうにこはるの手を握っていた。

四人は、艦の影が水平線の向こうに消えるまで、そこに立っていた。

―――

それから、バスに乗った。

最後に、自分たちのバスが、港を出た。町の通りを抜けるとき、窓の外に、あの古い旅館が見えた。一昨日の試合で戦車に突っ込まれたところに、青いシートが掛けられている。こはるが、小さく「あ」と言って、伊里奈を見た。伊里奈は、何も言わなかった。

港を離れてしばらく走ると、前を行くバスの列が、分かれ道で二つに分かれていった。前のバスが右へ、その次のバスが左へ。窓の向こうで手を振る、同じ教室にいた生徒たちの顔が、別々の方角へ遠ざかっていく。

「……また、バスが分かれていくね」

「生徒の数が多すぎるから、部活ごとに分けられたそうですよ」

「でも、戦車道選択の生徒は、皆一緒らしいけど」

前の席から、そんな声が聞こえてきた。

「……みんな、ばらばらになっちゃうんだね」

こはるが、小さくつぶやいた。

伊里奈は、分かれ道の向こうへ消えていくバスを、最後の一台まで見ていた。その一台一台に、知っている顔があった。

――あの人たちの帰る場所も、全部、取り戻す。

バスは、内陸へ向かって、走り続けた。

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