1/
バスは、海からどんどん遠ざかっていった。
窓の外の景色から、潮の匂いが消えていく。田んぼの緑が続き、やがて、道の両側に山が迫ってきた。カーブを曲がるたびに、こはるの頭が、伊里奈の肩にこつんと当たる。寝ているのではなかった。ただ、頭を上げている気力が、ないようだった。
山あいの小さな集落を抜けた先で、バスは、ゆっくりと止まった。
「……ここ?」
千紗が、窓に額を寄せた。
そこにあったのは、木造の校舎だった。
平屋ではない。二階建ての、古い、けれど、どこか丁寧に手入れされてきた建物。色あせた壁の板。窓枠の白いペンキ。校庭には、夏の草が、ちらほらと伸びている。誰もいない、もう何年も前に、子どもたちの声が消えた学校だった。
―――
バスを降りると、蝉の声が、山じゅうから降ってきた。
ここに来たのは、戦車道を履修している生徒たちだけだった。ほかの生徒たちは、今朝、港の先のあの分かれ道で、それぞれの場所へ運ばれていった。
「――転校手続きが完了するまで、皆さんには、ここで生活してもらいます!」
柚子が、メガホンを手に、校庭じゅうに声を響かせた。
杏が、校庭の真ん中に立って、校舎をぐるりと見回した。その手には、いつもの干し芋の袋が戻っていた。
杏は、何も言わなかった。ただ、校舎の古い板壁を、小さな手で、ぽんと一度だけ叩いた。
―――
部屋割りは、あっという間に決まった。
杏は、迷わず校長室に入った。あの大きな会長の椅子を、昨日と同じように、よいしょ、よいしょと運び込んでいく。また一端を持ち上げた伊里奈に、杏は「おっ、また助かるねー」と笑った。
風紀委員の三人は、なぜか放送室を選んだ。三人で横になるには、どう見ても狭い。それでも、園は「ここがいちばん、全体を見渡せるのよ」と言って、譲らなかった。
あんこうチームは、後ろの校舎の階段の踊り場、音楽室の横に、テントを張り始めていた。建物の中に、である。優花里が、どこから取り出したのか、本格的なキャンプ道具を並べながら、目を輝かせている。
「……こういうときこそ、しっかりしなきゃね」
沙織が、自分に言い聞かせるように、そう言った。
「それに、会長が、きっと何とかしてくれるよ。……たぶん」
「野営です! 演習です! 西住殿、これはもう、完全に野営演習です!」
「食料も、レーションがいろいろありますから! 少々お待ちください!」
「……うん。そうだね」
みほが、少しだけ笑った。その笑顔が、ここに着いてからの、最初の笑顔だった。
「……元気ですね」
「たくましいな」
「……見習いたい」
華と麻子と沙織が、テントと活き活きと動き回る優花里を、並んで眺めていた。
―――
シロクマチームの四人は、二階のいちばん端の教室をもらった。
小さな机と、小さな椅子。床の板は、歩くたびにきしりと鳴る。黒板の端には、誰がいつ書いたのか、とても古い日付が、うっすらと残っていた。
「……小学校の机って、こんなに小さかったんだね」
こはるが、小さな椅子に腰を下ろして、膝を抱えた。千紗が、その姿を、何も言わずに一枚撮った。
すみれが、窓を開けた。山の風が、教室の後ろまで、さあっと抜けていった。
「……風が通るなら、寝られるわ」
それが、すみれの、この教室への評価だった。
伊里奈は、荷物のいちばん上から、あの表紙のないノートを取り出して、教室のいちばん前の机に置いた。
ここからだ。ここから、四人で。
2/
夕方、校舎の中に、湯気といい匂いが漂い始めた。
あんこうチームのテントの前で、優花里が、大きな鍋でソーセージを茹でている。その横で、沙織が、もうひとつの鍋の色を、真剣な顔でのぞき込んでいた。
あちこちの教室から、生徒たちが、匂いに引かれるように出てきた。こはるも、そのひとりだった。昼間は、あれほど膝を抱えていたのに。
「……おなかは、空くんだね」
こはるは、自分でも不思議そうに、そうつぶやいた。
「空きますよ。……それでいいんです」
伊里奈は、優花里から受け取った紙皿を、こはるに渡した。
―――
日が傾きはじめたころ、伊里奈は、校舎の外の石段に腰を下ろしていた。少し離れた木の下で、あんこうチームの五人が、夕焼けを眺めている。
「……もう、海の上じゃないんだね」
「波の音も、聞こえませんね」
「潮の匂いも……」
「山もいいじゃないですか。緑がいっぱいで」
「それは、そうだけど……」
そのときだった。
山の向こうから、低いうなりが、近づいてきた。
蝉の声が、ぴたりと止んだ。校舎の窓ガラスが、かたかたと震え始める。
昨日の夜に、一度聞いた音だった。
夕焼けの空を、巨大な影が、校舎の屋根すれすれに横切っていった。翼の下に、星のマーク。C-5Mスーパーギャラクシーだった。
「――来ました!」
優花里が、背負った無線機を揺らしながら、真っ先に駆け出した。校舎のあちこちから、生徒たちが飛び出してくる。廊下を走る足音。階段を駆け下りる音。誰もが、校庭を横切って、坂の下の道路へ向かって走っていた。
坂を下りきったところに、道路をまたぐ、赤い手すりの歩道橋があった。下の道路は、真ん中に植え込みのある、まっすぐな道だった。車は、一台も通っていなかった。
みんなが、歩道橋の上に駆け上がった。優花里が、手すりから身を乗り出す。その隣で、みほも、手すりを握りしめている。頭上では、輸送機が、大きく旋回して、こちらへ戻ってくるところだった。
けれど、今度は、降りてこなかった。
車輪を出したまま、歩道橋の向こうの道路すれすれを、低く、まっすぐに飛んでくる。その後部の扉が、大きく口を開けていた。
「――LAPESです! 低高度パラシュート抽出です! 本物をこの目で見られるなんて……!」
優花里の叫びを、轟音がかき消した。
扉の奥で、いくつもの丸いパラシュートが、いっせいに開いた。それに引きずり出されるようにして、台座に載った戦車が、一輌、また一輌と、道路の上へ滑り出してくる。アスファルトの上に、土煙を長く引きながら。
IV号。III号突撃砲。八九式。M3リー。ヘッツァー。ルノーB1bis。三式中戦車。ポルシェティーガー。
そして、最後に。
砂ぼこりをかぶったままの、赤い星の戦車が、道路の上を台座ごと長く滑って、ようやく止まった。
「――約束どおり、届けてくれました!」
歩道橋の上を、飛び去る輸送機を追いかけるように走りながら、優花里が叫んだ。その隣で、みほも、風に髪を乱しながら、笑っていた。
「よかったぁ!」
「……これで、戦車も安心ですね」
手すりに並んだみんなの口から、ようやく、ほっとした声がこぼれた。
優花里の背負った無線機から、甲高い声が飛び込んできた。アリサだった。
「――西住みほ! 聞こえてる? ちゃんと届けたわよ!」
優花里が、あわてて受話器をみほに差し出した。
「……はい。ありがとうございます」
「この借りは、高くつくわよ。……この借りを返すために、戦車道を続けなさい!」
「今度は、あたし達がコテンパンにするんだから!」
「――はい!」と、みほが答えた。それを待っていたかのように、無線は、そこで切れた。みほは、受話器を握ったまま、少しだけ笑っていた。それは、「諦めるな」という、あの人なりの、いちばん不器用な言い方だった。
―――
こはるが、歩道橋の階段を、転げるように駆け下りていた。
その後ろを、千紗が、カメラを揺らしながら追いかける。すみれは走らなかった。けれど、いつもよりずっと速い足どりだった。
頭上を、ギャラクシーが、大きく旋回して、夕焼けの山の向こうへ、小さくなっていった。
―――
T-34は、最後に見たときと、何も変わっていなかった。砂ぼこりも、前面の叩き直した跡も、砲塔の横の赤い星も。
「……傷ひとつ、つけずに。本当だった」
すみれが、履帯を、そっと指でなぞった。
こはるが、操縦手のハッチから、頭を突っ込んだ。そして、すぐに、一冊のノートを掲げて出てきた。
「――伊里奈ちゃん! これ、まだ入ってた!」
整備記録のノートだった。操縦窓の内側に、差し込んだままの。
伊里奈は、それを受け取って、最初のページを開いた。三行。そのいちばん下に、自分の字で『行ってらっしゃい』。
伊里奈は、ペンを取り出して、その下に、もう一行だけ書き足した。
――おかえりなさい。
それから、砲塔の横の赤い星に、そっと、手を当てた。
夕焼けの中で、鉄の背中は、まだ、あたたかかった。
―――
日が沈んでから、伊里奈は、T-34の無事を伝えに、校長室へ向かった。
扉は、少しだけ開いていた。中から、杏の声が聞こえてくる。あの大きな会長の椅子に、もう、すっかり収まっているらしかった。
「――とりあえず当面は、ここで生活できそうだな」
「……いいんでしょうか。このまま、ここにいて」
柚子の声だった。
「こんな場所だが、学園艦にいる時と同じように、朝は出席を取って。……全員無事なのを確認するように」
「わかりました」
桃が、短く答えた。
「ところでさー。風紀委員は、どうしてる?」
伊里奈は、ノックしかけた手を、そっと下ろした。
―――
放送室の前を通りかかったのは、そのすぐあとだった。
「おい! 風紀委員が、だらしないぞ! しゃんとしろ!」
桃の声が、廊下まで響いていた。開いた扉の向こうで、園たち三人が、狭い放送室の床に、布団を敷いたまま転がっている。
「……もう学校もないのに、きちんとしたからって、どうなるっていうんですか?」
園は、起き上がりもしなかった。
「意味ないじゃないですか。……私達がいる意味すら……」
「よさないか! 転校の手続きが完了するまでは、ちゃんと自分の仕事をしろ!」
桃は、それだけ言い捨てると、足早に放送室を出ていった。すれ違いざまに見えたその顔は、怒っているというより、泣き出しそうだった。
伊里奈は、少しだけ、放送室の前で立ち止まった。園は、こちらに背中を向けたまま、動かなかった。
3/
次の朝、伊里奈は、まだ空が紺色のうちに目を覚ました。
教室の床に敷いた布団の上で、三人はまだ眠っている。伊里奈は、音を立てないように廊下に出て、きしむ階段をゆっくりと降りた。
知っていたからだ。このあたりで、あの人が、いなくなることを。
校門のところに、小さな人影があった。
制服の上に、薄い上着。手には、小さな鞄ひとつ。そして、いつもの干し芋の袋。
「……おや。早いねー、雪村ちゃん」
杏は、振り返らずに言った。足音だけで、誰かわかったのかもしれない。
「……会長もですよ」
「ちょっと、釣りにねー。大きいの、釣れるかもしれないんだよね」
それが、嘘だということを、伊里奈は知っていた。そして、その嘘の中に、何もかもが入っていることも。
この人は、これから、ひとりで東京へ行く。何度も門前払いされて、それでも、頭を下げ続ける。
「……会長」
「んー?」
言いたいことは、いくらでもあった。あの人を頼ってください。あの条件を取ってきてください。口約束ではなく、書類で。
けれど、伊里奈は、そのどれも、言わなかった。あのノートに、自分で書いた一行がある。
――大きな流れには、触れない。
この人は、自分が何も言わなくても、ちゃんとそこにたどり着く。たどり着ける人だ。だから、自分が言うべきことは、ひとつだけだった。
「……いってらっしゃい。大きいの、釣ってきてください」
杏が、はじめて振り返った。その目が、ほんの一瞬だけ、伊里奈の顔をじっと見た。
「……雪村ちゃんってさ。ときどき、全部わかってる人の顔するよねー」
「……そうですか」
「そうだよ。……じゃあ、小山と河嶋のこと、よろしくねー」
杏は、ひらひらと手を振って、朝もやの中へ歩いていった。
その小さな背中が、山道の曲がり角に消えるまで、伊里奈は、ずっと頭を下げていた。
―――
朝。校舎じゅうのスピーカーから、少しだけ眠そうな声が流れてきた。
『……皆さん、集合してください』
放送室の三人のうちの、ひとりの声だった。
校庭へ出ていくと、あんこうチームの方から、言い合う声が聞こえてきた。
「……学校がないんだから、早起きしなくてもいいだろう」
麻子だった。その前で、園が、寝ぐせのついた頭のまま、ふてくされたように立っている。
「……せめて、顔くらい洗え。そど子」
「はいはい。どうせ私は、そど子ですよ」
いつもとは、まるで逆だった。
「――点呼の時間です!」
その声で、校庭に集まった生徒たちが、のろのろと列を作りはじめた。昨日の夜、杏が言ったとおりに。
会長がいないことに、みんなが気づいたのは、朝ご飯のあとだった。
「――会長が不在のあいだは、生徒会が、責任を持って皆をまとめる! 以上だ!」
桃が、校庭の真ん中で、胸を張って宣言した。その声は、いつもより少しだけ大きかった。その後ろで、柚子が、小さく笑っていた。
「……桃ちゃん、強がってるのよ。一番、会長にいてほしいのは、桃ちゃんなのに」
すれ違うとき、柚子が、伊里奈にだけ聞こえる声で、そう言った。
―――
それからの一日は、不思議な一日だった。
授業はない。試合もない。学校は、もうない。それなのに、木造の校舎のあちこちで、それぞれのチームが、それぞれのやり方で、一日を過ごしていた。
校庭では、アヒルさんチームが、ネットもないのにバレーボールを打ち上げていた。「根性です!」という磯辺の声が、山にこだまする。
裏の小川では、ウサギさんチームが、M3リーの砲塔に、とんでもなく長い釣り竿をくくりつけていた。どうやって思いついたのかは、誰にもわからない。そのうえ、校舎の裏の小屋にいた元気なウサギたちの世話まで、いつのまにか始めていた。
教室のひとつでは、カバさんチームが、大きなボードゲームを広げて、戦国時代と古代ローマと第二次大戦の、どれがいちばん強いかでもめていた。
校舎の裏では、アリクイさんチームが、なぜか筋力トレーニングを始めていた。「砲弾が重いなら、こっちが強くなればいいのだよ」と、ねこにゃーが、ぷるぷると震えながら言っている。
校庭では、レオポンさんチームが、届いたばかりの戦車を、一輌ずつ見て回っていた。「空から落とされた後は、一応、全部見ておかないとねー」。ナカジマの声は、いつもどおりのんびりしていた。けれど、工具を持つ手が、ときどき、止まっていた。あの艦の中の、自動車部のガレージは、もうない。
朝の点呼が終わると、放送室の三人は、また部屋に引っ込んでしまった。昼近くになって、ようやく出てきたと思ったら、裏のウサギ小屋の前にしゃがみこんで、きゅうりをかじっている。「……学校がないのに、風紀もなにもないでしょ」。園の声は、怒っているというより、どこか投げやりだった。
そして、テントの前では、華が、小さな袋に、向日葵の種を、ひとつひとつ集めていた。
「……華さん、それ、食べるんですか?」
こはるが、おそるおそる尋ねた。
「いいえ。……どこに行っても、咲かせられるようにです」
華は、穏やかに微笑んだ。
「どこでも、花は咲きます。……心さえ、生きていれば」
その言葉を、伊里奈は、胸の中で、一度だけ繰り返した。
心さえ、生きていれば。――それなら、ここからだ。
4/
「――訓練、ですか?」
校庭の端、T-34の前に集まった三人のうち、最初に声を上げたのは、こはるだった。
「はい。……試合の予定は、今は、ありません。でも、約束したでしょう。もう一度だけ、この子に乗って戦う日が来るって」
伊里奈は、表紙のないノートを開いた。最後のページ。三人の名前が書いてある、あのページだった。
それを、三人には見せなかった。ただ、そこに書いたことを、ひとつずつ口にした。
「その日の相手は、たぶん、今まででいちばん強いです。私ひとりがどれだけ狙っても、勝てないと思います。……でも、四人なら」
千紗が、腕を組んだ。
「……それも、約束?」
「いいえ。これは、お願いです」
伊里奈は、深く頭を下げた。
こはると千紗が、顔を見合わせた。すみれは、何も言わずに、もう袖をまくり始めていた。
―――
最初は、こはるだった。
校庭のあちこちに、千紗が拾ってきた木の枝を立てていく。そのうちのどれかひとつの前で、伊里奈が、操縦手の肩を軽く叩く。その瞬間に、止まる。
ただそれだけのことが、思っていたより、ずっと難しかった。
「……三メートル、行き過ぎました」
「うそっ!?」
「叩かれてから、ブレーキを踏むまで、一秒近くかかっています。……浜辺では、もっと速かったですよね」
「あのときは、叩かれる前から、止まるってわかってたから……」
こはるが、操縦窓に額をこつんとつけた。それから、すぐに顔を上げた。
「……もう一回」
二回目は、二メートル。三回目は、二メートル半。十回目で、ようやく一メートルを切った。
そこから先は、なかなか縮まらなかった。
「――こはる。叩かれてから、考えないでください」
「考えないでって……」
「私の手が、肩に触れたら、足が勝手に動くように。……考える前に。そうなるまで、何百回でもやります」
こはるは、しばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。
「……わかった。何百回でも」
それから、日が傾くまで、T-34は、校庭を何度も往復した。
夕方、最後の一回。木の枝から、五十センチ。
「……やったぁ……」
操縦席で、こはるが、ぐったりとした声を上げた。伊里奈は、その肩を、今度は止まれという合図ではなく、ただ、そっと叩いた。
―――
すみれの訓練は、もっと地味だった。
砲塔の中で、模擬弾を、込めては抜き、込めては抜く。千紗が、ストップウォッチを構えて、その秒数を記録していく。
「……七秒」
「……遅いわね」
すみれは、積んだ模擬弾の山を見下ろして、眉をひそめた。
「……ノンナさんのところの装填手は、もっと速いんでしょう?」
「……はい。でも、あの人たちは、それだけを二年間やっていましたから」
「……私には、二年もないわね」
すみれは、それだけ言うと、砲塔から這い出して、校舎の裏へ歩いていった。
しばらくして戻ってきたとき、その後ろには、アリクイさんチームの三人が、なぜかぞろぞろと続いていた。
「……砲弾を込めるのに必要なのは、腕だけじゃない。背中と、足と、腰。……だそうよ」
すみれは、真面目な顔でそう言った。その後ろで、ねこにゃーが、なぜか得意そうに眼鏡を押し上げていた。
―――
千紗の訓練は、いちばん不思議だった。
砲塔のハッチから半身を出して、五秒ごとに、周りで動いたものを、全部口にする。ただ、それだけ。
「――右後方、アヒルさんのボール。左、ウサギさんの一人、小川の方。正面、風で草」
「――右、窓。風紀委員の人が、放送室からこっち見てる。左後方、レオポンさん、工具を落とした」
最初は、つっかえつっかえだった千紗の声が、だんだん、山の風のように、立ち止まらなくなっていく。
そして、夕方。
「――左、林の縁。何かいる。……鹿!」
伊里奈は、その方角を振り返った。林の奥で、茶色い背中が、ちらりと跳ねて消えた。
自分は、気づいていなかった。
「……千紗」
「何?」
「今の、私は、見えていませんでした」
千紗は、一瞬だけきょとんとした。それから、口元を、ほんの少しだけゆるめた。
「……それを見るのが、私の仕事でしょう」
―――
その日の終わり、校庭の端に、みほが立っていた。
いつからそこにいたのか、伊里奈にはわからなかった。
「……雪村さんたち、一日じゅう、何かをしていましたね」
「……はい。少しだけ」
みほは、空になった模擬弾の箱と、校庭に立てられた木の枝の列を、ゆっくりと見渡した。それから、何も尋ねずに、少しだけ笑った。
「……楽しそうでした」
そう言って、みほは、テントの方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、伊里奈は、思った。あの人は、たぶん、全部わかっている。わかっていて、何も尋ねない。
それが、西住みほという人の、優しさだった。
5/
夜の山は、思っていたより、ずっとにぎやかだった。
蝉の代わりに、虫の声が、教室の開け放した窓から、ひっきりなしに流れ込んでくる。床に並べた四つの布団の上を、山の風が、ゆっくりと渡っていった。
「……足、筋肉痛になりそう」
こはるが、布団にうつ伏せになったまま、うめくように言った。
「私は、もうなってるわ。背中」
すみれが、天井を見上げたまま答えた。アリクイさんチームの「特訓」は、どうやら、想像以上に本格的だったらしい。
「……私は、喋りすぎて、のどが痛い」
千紗が、かすれた声で付け足した。
伊里奈は、小さく笑った。そして、笑いながら、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
この三人は、理由も聞かずに、一日じゅう、自分の「お願い」に付き合ってくれた。
―――
「……ねえ、伊里奈ちゃん」
電気を消してしばらくしてから、こはるの声がした。
「はい」
「会長、どこ行ったんだろうね」
暗い天井を見上げたまま、伊里奈は、しばらく黙っていた。
言えることと、言えないことがある。その境目を、伊里奈は、今は、自分で決めなければならなかった。
「……会長は、釣りに行くと言っていました」
「……釣り?」
「はい。大きいのが、釣れるかもしれないって」
暗闇の向こうで、千紗が、小さく鼻を鳴らした。
「……それ、嘘だよね」
「はい。たぶん。……でも、大きいのを釣ってくるところは、本当だと思います」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、すみれの布団が、小さく衣擦れの音を立てた。
「……その大きいのが、伊里奈の言ってた、「戦う日」なのね」
伊里奈は、答えなかった。
答えなかったことが、たぶん、答えになっていた。
「……そう。なら、明日も、やるわよ。七秒は、遅すぎるから」
「……私も。五十センチも、まだ、だめだよね」
「……鹿の次は、何を見つければいいのかな」
三人の声が、闇の中で、ゆっくりと、眠そうになっていく。
伊里奈は、暗い天井に向かって、そっと、「ありがとうございます」とだけ、言った。
返事は、なかった。もう、三人とも、眠っていた。
―――
三人の寝息を確かめてから、伊里奈は、懐中電灯をつけて、表紙のないノートを開いた。
三人の名前のページ。その横に、小さな字で、書き足していく。
――一日目。
――こはる。三メートルから、五十センチ。
――すみれ。七秒。アリクイさんに弟子入り。
――千紗。鹿。私より先に。
書き終えて、伊里奈は、しばらくそのページを見つめていた。
あの映画の戦車は、四人で、敵の真ん中を駆け抜けた。砲手も、操縦手も、装填手も、誰かひとりが欠けていたら、あの物語は、最初の村で終わっていた。
自分の物語も、たぶん、同じだ。
懐中電灯を消すと、窓の外に、山の星が、びっしりと光っていた。海の上で見る星とは、少しだけ、違う色をしていた。
この星の下のどこかで、会長は、ひとりで東京へ向かっている。
伊里奈は、目を閉じた。
明日も、四人で。