大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
新学期の朝は、よく晴れていた。
校門の桜は、満開には少し早い。風が吹くたびに、薄紅色の花びらが何枚か舞い落ちる。
伊里奈は、校舎三階の窓から校門を見下ろしていた。
(……三年生、か)
クラス替えの名簿に、自分の名前を見つけた。知らない顔ばかりの教室で、窓際の席を選んだ。
理由は、ひとつしかなかった。
校門が、見えるから。
始業式前の、ざわついた廊下。誰かが笑い、誰かが走り、誰かが「おはよう」と叫ぶ。
その喧騒の向こうで、ひとりの少女が、校門の前で足を止めた。
癖のある茶色の髪。少し大きく見える制服。胸の前で、鞍を両手で抱えている。
見上げた先に、満開前の桜。
(……あ)
息が止まった。
画面の向こうで、何度も見た景色。台詞を覚えるほど見たはずの、あのシーンの――
いや、違う。
画面の向こうじゃない。
あそこに、本当にいる。
「……西住みほ」
唇だけで、名前をなぞった。
声には出せなかった。出したら、何かが壊れてしまいそうだった。
みほは、しばらく校門の前で立ち尽くしていた。
迷っているようにも、怖がっているようにも見えた。
やがて、小さく息を吸って、一歩を踏み出す。
その背中が、校舎の中へ消えていく。
伊里奈は、窓ガラスに額をつけた。
(……本当に、来た)
予定どおりに。一分の狂いもなく。
「……変えられない」
そう呟いた声は、自分で思っていたより、静かだった。
*
昼休み。
「ねえねえ! 聞いた!?」
こはるが、弁当を抱えて教室に駆け込んできた。
三年生の教室。他学年の生徒が入ってくることは珍しいのに、こはるは遠慮という言葉を知らない。
「こはる、ここ三年の教室ですよ」
「知ってる! でもニュースがあるの!」
千紗とすみれも、後ろから顔を出した。
「ごめんなさい、止められなかった」
「止める気、なかったでしょう」
「……少しは」
三人は、空いていた席を勝手に寄せて、伊里奈の机を囲んだ。
「で、ニュースって」
「転校生! 私たちと同じ学年に、転校生が来たんだって!」
箸が、止まった。
「へえ。この時期に?」
千紗が首を傾げる。
「それがね、すごいの。なんと――」
こはるは、声を潜めた。
「戦車道の経験者、らしい」
「……え」
すみれのペンが、ノートの上で止まった。
「本当に?」
「みんな噂してた! 名前は、えーと……西住さん?」
「西住」
千紗が呟く。
「どこかで聞いた気が……」
「戦車道の家系の名前じゃない?」
すみれが、静かに言った。
「確か、すごく有名な流派の」
「そうなんだ!」
こはるの目が輝く。
「戦車道を知ってる子なら、きっと教えてくれるよ!」
三人の会話を、伊里奈は黙って聴いていた。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
(……そう、なる)
筋書きのとおりに。
噂が広がって。生徒会の耳に入って。
「ねえ、伊里奈ちゃんも気になるでしょ?」
「え」
「その転校生!」
伊里奈は、少しだけ視線を落とした。
「……そうですね。気になります」
嘘ではなかった。
気になるどころの話ではなかった。
*
放課後、掲示板の前には人だかりができていた。
『戦車道、復活! 履修者募集』
大きな文字。見慣れない字体。
誰かが貼り替えたばかりなのか、紙の端が、まだ少し湿っていた。
「戦車道って、あの戦車道?」
「前は、この学校にもあったんだって」
「ちょっと、かっこよくない?」
ざわめきが、廊下に満ちている。
「……生徒会が、動いたみたいね」
すみれが小声で言った。
「うちの倉庫の戦車と、関係あるのかな」
千紗が眉を寄せる。
「どうなんだろう。生徒会に聞いてみる?」
「それは、ちょっと」
伊里奈は、思わず口を挟んだ。
「……まだ、聞かないほうがいいです」
「どうして?」
「あの戦車は、私たちが勝手に直したものですから。戦車道が復活するなら、学校の備品として回収されるかもしれません」
三人の顔が、一斉に曇った。
「それは……やだ」
こはるが、はっきり言った。
「せっかく動いたのに」
「でも、先生は好きにしなさいって」
「それは、戦車道がなかったときの話でしょう」
すみれが、冷静に言った。
「戦車道が復活するなら、戦車は、そのための道具になる。そのとき、私たちの戦車がどうなるかは――」
言葉が、途切れた。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、伊里奈は、掲示板の文字を見つめていた。
(取り上げられる、か)
原作では、生徒会が戦車を集めさせた。
けれど、その中に――T-34は、なかった。
(いないはずの戦車)
それが、物語の中に入っていったら。
どうなるのか。
自分には、分からなかった。
「……履修、しましょう」
気づけば、口が動いていた。
「え」
「戦車道を、取るんです。私たち四人で」
三人が、目を丸くした。
「伊里奈ちゃん、いいの?」
「戦車を守りたいなら、それが一番確実だと思います。履修者として登録されれば、あの戦車は、私たちの戦車として扱ってもらえるかもしれない」
「やった!」
こはるが、飛び跳ねた。
「でも、無理してない?」
千紗が、心配そうに伊里奈を見る。
「無理は、していません」
嘘ではなかった。
ただ、全部でもなかった。
(……関わらないつもりだったのに)
物語の中心から離れるために、この学校を選んだはずなのに。
結局、自分は、また戦車の前に立っている。
「じゃあ、決まりね」
すみれが、ノートを閉じた。
「履修届は、明日提出。今日は、戦車の最終確認をしましょう」
「うん!」
*
夕方の倉庫。
エンジンの唸りが、静まった空気を揺らしていた。
「前進、ゆっくり」
「ゆっくり、ゆっくり……」
こはるが、操縦席で祈るように呯く。
T-34が、わずかに前へ出た。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
「止まって、止まって!」
「止まってるよ!」
「ほんとだ!」
こはるが笑って、千紗が肩を落とし、すみれが記録帳に小さくチェックを入れる。
「前進と停止、確認。異常なし」
「ねえ、伊里奈ちゃん! 私、戦車運転してるよ!」
「はい」
「うれしい!」
「前を見てください」
「見てる、見てる!」
こはるの声は、いつもどおり明るかった。
けれど、伊里奈には、少しだけ違って聞こえた。
(……この人たちを、守りたい)
そう思った。
強く、はっきりと。
でも、守るためには――自分が、物語の中に入らなければならない。
筋書きを知っている自分が。
何も知らない三人と一緒に。
(……私に、できるの?)
答えは、まだ出なかった。
ただ、掌に残った鉄の冷たさだけが、確かだった。
*
翌朝。
履修届に、名前を書く。
『雪村伊里奈』
字が、少しだけ震えていた。
職員室へ向かう廊下で、ふと、窓の外が気になった。
中庭のベンチ。
癖のある茶色の髪の少女が、二人の友達と並んで座っている。
明るい声で話す、一人の少女。穏やかに微笑む、もう一人。
その真ん中で、みほは、少し困ったように笑っていた。
(……楽しそう)
胸が、きゅっと締めつけられた。
あの笑顔が、これから、どんなふうに変わっていくのかを。
自分は、知っている。
知っているのに、何もできない。
いや。
何もしないと、決めたのだ。
伊里奈は、履修届を握り直した。
(……私は、物語の外から来た)
だから――
ほんの少しだけでも、中を揺らせるかもしれない。
そう思ってしまう自分が、怖かった。
窓の外のみほが、ふと顔を上げた。
視線が、一瞬だけ、こちらへ向いた気がした。
伊里奈は、慌てて身を引いた。
心臓が、うるさかった。
廊下の向こうから、チャイムの音が響く。
新しい日が、動き出す音だった。