1/
木造校舎で迎える、二度目の朝だった。
点呼が終わると、伊里奈は、校長室の隣の小さな部屋をのぞいた。生徒会が、仮の事務室として使っている部屋だ。机の上には、もう、書類の山ができていた。
「――公道で、走行訓練、ですか?」
柚子が、書類から顔を上げた。
「はい。校庭だけでは、こはるの訓練になりません。舗装された道で、止まる練習がしたいんです。……ついでに、何か買ってくるものがあれば」
柚子は、少しだけ考えて、それから、引き出しから封筒の束を取り出した。
「じゃあ、切手と封筒を、多めにお願いできる? 転校の書類を、みんな、家に送らなきゃいけないから。……一番近いのは、山を下りたところのコンビニかな」
「わかりました」
「あ、それと」
柚子が、窓の外を指さした。校庭の端で、あんこうチームの五人が、IV号のまわりに集まっている。
「あんこうチームも、今朝、同じコンビニに行くって言ってたよ。一緒に行ったら?」
伊里奈は、窓の外のIV号を見た。
今日が、何の日なのかを、知っていた。
―――
「――えっ、雪村さんたちも来るの? やったー、戦車でお買い物ツアーだね!」
沙織が、IV号の上で、両手を上げた。
「ツアーではありません。訓練です」
「えー、固いなあ。……あ、そうだ、無線、つないどくね! 道に迷ったら困るし!」
それだけ言うと、沙織は、通信手席へ潜り込んでいった。
「……あの人、たぶん、切るの忘れるよ」
千紗が、ぼそりと言った。
―――
山を下りる道は、両側から、背の高い松の林が迫っていた。
IV号が先を行き、その後ろを、T-34が、少し距離を空けてついていく。こはるは、伊里奈が肩を叩くたびに、ブレーキを踏んだ。舗装の上では、校庭よりも、ずっと止まりやすいらしかった。
「――五十センチ。……いえ、四十です」
「ほんと!?」
「本当です」
操縦席で、こはるが、小さくガッツポーズをした。
そのとき、無線の向こうから、のんびりとした声が流れてきた。
『……まさか、コンビニに戦車で行くことになるなんてね』
沙織の声だった。千紗の予想どおり、無線は、つながったままだった。
『戦車の免許も、役に立つことがあるんだな』
麻子だった。
『せめて、免許の写真くらい、起きてる顔で撮りなよー』
『……沙織こそ、写真に気合いが入りすぎだ』
『いいでしょ! これ、お見合い写真にも使えるくらいの出来なんだから!』
『くだらないところに力を入れてるな……』
T-34の中で、こはるが、ぶっと吹き出した。すみれは、何も言わずに、口元を押さえていた。
「……伊里奈。教えてあげたほうが、いいんじゃない?」
「……いえ。もう少しだけ、このままで」
千紗が、あきれたように肩をすくめた。
2/
コンビニの駐車場は、二輌の戦車で、ほとんど埋まってしまった。
店員が、目を丸くして窓の外を見ている。伊里奈は、こはるに、端に寄せるように頼んだ。それから、柚子に頼まれた切手と封筒を買って、店を出た。
IV号の上では、あんこうチームが、買ってきたばかりのおにぎりを広げていた。
「――茨城行きのバス、お店の前から出てるみたいですね」
優花里が、店の前のバス停を指さした。
「時刻表を、確認しないといけませんね。……わたくしも、一度、実家に戻らないと」
華が、静かに言った。
「転校の書類に、保護者の署名が要るんですよね」
「……麻子も、おばあのところに戻らなきゃだね」
沙織が言うと、麻子は、おにぎりをかじったまま、露骨に顔をしかめた。
「……面倒だ。また、説教される」
「私も、帰らなきゃ」
沙織が、少しだけさみしそうに笑った。それから、華が、みほのほうを見た。
「……みほさんは?」
「一緒に行こうか?」
「西住流の本家、わたくし、一度見てみたいです!」
優花里が、身を乗り出した。みほは、少しだけ目を伏せて、それから、首を横に振った。
「……大丈夫。一人で、帰れるから」
「あ……」
優花里が、言葉を失った。その空気を、沙織の明るい声が、ふわりと包んだ。
「じゃあ、今度は、みんなで一緒に行こうね!」
「……わたくし、明日、帰ります」
「私もです」
伊里奈は、少し離れたT-34の砲塔の上で、そのやりとりを聞いていた。
一人で、帰れる。
あの人は、そう言う。そして、本当に、一人で帰る。あの家の門を、一人でくぐる。
――それも、変えなくていいことなのだろうか。
答えは、出なかった。
―――
「……私たちも、帰らなきゃいけないんだよね」
こはるが、操縦席から、ぽつりと言った。
「書類。お母さんに、はんこ押してもらわないと」
「私も。……一回、家に帰る」
千紗が、封筒の束をのぞき込みながら言った。すみれも、小さく頷いた。
「明日の午後のバスで、帰って、明後日には戻るわ」
「……伊里奈ちゃんは?」
「私は、書類を、郵送で済ませます」
それは、半分だけ本当だった。残りの半分は、ここを離れたくない、という理由だった。会長が帰ってくる日を、この校舎で迎えたかった。
伊里奈は、ポケットから携帯を取り出した。
「……少しだけ、電話をしてきます」
―――
駐車場の端、バス停の屋根の下で、伊里奈は、ひとつの番号を呼び出した。エキシビションの日、温泉の帰りに、向こうから教えてくれた番号だった。
『――はい! 知波単学園、西であります!』
電話の向こうの声は、驚くほど、元気だった。
「……大洗の、雪村です。突然、すみません」
『雪村殿! いえいえ、とんでもない! ……ニュースで、拝見しました。大洗が、廃校になると』
西の声が、そこで、少しだけ低くなった。
『何か、我らにできることがあれば、何なりと』
伊里奈は、息をひとつ吸った。
「……西さん。そう遠くないうちに、大洗が、もう一度だけ戦う日が来ます。理由は、今は言えません。……そのとき、もし、来ていただけるなら。戦車を、すぐに動かせるようにしておいてほしいんです」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。それから、まっすぐな声が返ってきた。
『――承知いたしました! 知波単は、いつでも突撃の用意ができております!』
「……あの、西さん。もうひとつだけ」
『はい!』
「その日は、突撃する前に、一度だけ、周りを見てください。……それだけです」
電話の向こうで、西が、何かを考えるように、黙った。
『……一度だけ、周りを、でありますか』
「はい」
『……心得ました。肝に銘じておきます!』
電話を切ると、IV号の上から、沙織が手を振っていた。
「雪村さーん! そろそろ帰るよー!」
3/
帰り道は、来た道と同じだった。
松の林の中を、IV号が先に行く。その砲塔のハッチから、みほが、ぼんやりと道の脇を眺めていた。
伊里奈は、T-34の砲塔の上から、同じ道の脇を見ていた。
もうすぐ、だった。
古い看板が、いくつか続く。民宿の看板。名物の看板。そして、色あせて、端の破れかけた、一枚の看板。片目に眼帯をした、包帯だらけのクマの絵。
その瞬間、無線から、みほの声が飛び込んできた。
『――麻子さん! バック!』
IV号が、急停止した。こはるが、あわててブレーキを踏む。
「わっ、わっ!?」
T-34は、IV号の後ろ、ちょうど五十センチのところで止まった。
「……今の、合図なかったよね!?」
「……ありませんでした。今のは、こはるの実力です」
こはるが、目を丸くした。
無線の向こうでは、沙織の声が、きょとんとしていた。
『みぽりん、どうしたの?』
IV号が、ゆっくりと後ずさりして、看板の前で止まる。みほが、ハッチから身を乗り出して、その看板を、食い入るように見つめていた。
――ボコミュージアム。五百メートル先、左折。
―――
ボコミュージアムは、山の中に、ぽつんと建っていた。
洋館のような建物の上に、大きなボコの像が載っている。ところどころ、壁が剥げていた。駐車場には、ほかに、車が一台もなかった。
「――こんなところがあったなんて、知らなかった……!」
みほの声が、いつもより、一段高かった。
「……みぽりんが、こんなに興奮してるの、はじめて見た」
沙織が、半分あきれたように、半分うれしそうに言った。
「……ここ、営業してるの?」
千紗が、カメラを構えながら、建物を見上げた。
「してますよ。……たぶん」
伊里奈は、そう答えた。知っている。この建物が、もうすぐ、なくなりかけていることも。
―――
入り口を抜けた先のホールで、ボコが待っていた。
着ぐるみのボコだった。包帯だらけの腕を振り上げて、こちらへ向かってくる。
「――おうおう、こんなところで会うとはな!」
「わあっ……!」
「相手してやるぜ! ボコボコにしてやる!」
「本物のボコだ……! かわいい……!」
みほが、両手を胸の前で握りしめた。ボコは、そのまま、のしのしと近づいてきて、沙織の肩に、どすんとぶつかった。
「――何すんだよ! やめろよ!」
「えっ、私、何もしてないんだけど……!?」
ボコは、ひとりで勝手によろめいて、ひとりで勝手に倒れた。
「……やられたー! 覚えてろよー!」
捨て台詞を残して、ボコは、ホールの奥へ、よろよろと去っていった。
「……意外と、弱いな」
「それが、ボコだから!」
麻子のつぶやきに、みほが、目を輝かせたまま答えた。
「イタリアの第十軍みたいですね……」
優花里が、しみじみと言った。
「……今の、何の話?」
こはるが、小声で伊里奈に尋ねた。伊里奈は、少しだけ考えた。
「……負けるのが、仕事の人の話です」
―――
館内は、どこも、がらんとしていた。
「……私たち以外、お客さん、いないみたいだね」
沙織が、きょろきょろとあたりを見回した。
ボコがひたすら殴られ続ける、ボートのアトラクション。ボコが殴られ続ける、お化け屋敷。ボコが宇宙で殴られ続ける、乗り物。どれも、名前からして、殴られることが前提だった。
お化け屋敷の暗がりで、麻子が、沙織の腕に、ぎゅっとしがみついていた。
「……麻子、さっきから、ずっと目、閉じてない?」
「……閉じてない」
すみれが、そのやりとりを、何も言わずに、じっと見ていた。たぶん、あとで記録帳に書かれる。
―――
最後に、小さな劇場に入った。
ボコショー、と、手書きの看板が出ている。客席は、木のベンチが、何列か並んでいるだけだった。
あんこうチームが、前のほうのベンチに並んで座る。シロクマチームの四人は、その二列後ろに座った。
幕が上がった。
緑の書き割りの前に、ボコが、のしのしと出てくる。そこへ、三匹の猫が通りかかった。
「――おい! ぶつかってきたのは、そっちだろ! 気をつけろ!」
「生意気な! やっちまえ!」
「おもしれえ、返り討ちにしてやる!」
猫たちに囲まれて、ボコは、あっという間に、ボコボコにされた。
「……口ほどにもないな」
ボコが、舞台の上に、ばったりと倒れる。それから、ゆっくりと、客席のほうを向いた。
「……みんな……オイラに、力を分けてくれ……!」
「――ボコ、がんばれー!」
みほが、真っ先に叫んだ。
そのときだった。
客席の、いちばん前。誰もいないと思っていたベンチの端から、もうひとつの声が上がった。
「――がんばれー!」
小さな声だった。けれど、劇場の天井まで、まっすぐに届いた。
伊里奈は、その背中を見た。
薄い色の、長い髪。小さな肩。両手を、ぎゅっと握りしめて、舞台を見上げている。
息が、止まった。
――島田愛里寿。
知っていた。ここで、この人に会うことを。画面の向こうで、何度も見た場面だった。
それなのに、その背中は、思っていたよりも、ずっと小さかった。
「もっと!」
「がんばれー!」
みほと、その子の声が、重なった。
「……ボコ、がんばれ……」
沙織が、小さな声で、それに続いた。
「ボコさん、がんばってくださーい!」
「が、がんばってくださいでありますー!」
華と優花里も、声を合わせる。
隣で、こはるが、伊里奈の袖を引いた。
「……伊里奈ちゃん。私たちも、言う?」
伊里奈は、答えられなかった。
前の席のあの子は、五日後、三十輌の戦車を率いて、自分たちの前に立つ。センチュリオンの砲塔の上から、表情ひとつ変えずに、仲間たちを、一輌ずつ狩っていく。
その子が、今、包帯だらけのクマのために、声を張り上げている。
「……がんばれ」
伊里奈は、小さく、本当に小さく、そう言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも、よくわからなかった。
―――
舞台の上で、ボコが、ふらふらと立ち上がった。
「――みんなの応援で、オイラは、強くなったぜ!」
「来るぞ!」
「今度こそ、ぶっ潰してやる!」
そして、また、ボコボコにされた。
「……『強くなった』って、これで?」
「……なにこれ」
沙織と千紗の声が、ほとんど同時だった。
「……結局、ボコボコにされたな」
「だって、それがボコだから!」
みほが、少しも曇りのない顔で、そう言った。
舞台の真ん中で、ボコが、ゆっくりと起き上がった。
「……また、負けちまった。……次は、もっと、がんばるぜ……」
幕が下りた。
客席のいちばん前で、あの子が、小さく、ぱちぱちと拍手をしていた。
4/
劇場を出たところに、お土産売り場があった。
棚には、ボコのぬいぐるみや、キーホルダーや、包帯の柄のハンカチが、ぎっしりと並んでいる。ほこりをかぶっているものも、少なくなかった。
「ボコ、すっごくがんばってたね!」
「……そう?」
沙織の言葉に、麻子が首をかしげた。
伊里奈は、売り場の入り口で、足を止めた。
知っている。このあと、ここで何が起きるのかを。
だから、中には入らなかった。ここは、あの二人の場所だった。
「――あっ……」
みほの声がした。
売り場の奥の、籠の中。ピンクの布の上に、小さなボコが、ひとつだけ置かれていた。包帯の巻き方が、ほかのボコと、少しだけ違う。その横の札に、手書きの字が並んでいた。
――残りひとつ! 激レアボコ。
「……これ、最後の一個なんだ……」
「どう見ても、商売の作戦じゃない?」
「でも、かわいい!」
みほが、その小さなボコに、手を伸ばした。
その手と、もうひとつの手が、ボコの上で、重なった。
みほが、顔を上げる。
籠の向こうに、あの子が立っていた。同じボコに、同じように、手を伸ばしたまま。
二人は、しばらく、何も言わずに、互いを見ていた。
伊里奈は、入り口の柱の陰で、息を殺していた。
あの子の手が、ほんの少しだけ、ボコを引き寄せかけて、止まった。その指先が、迷っているのが、ここからでも見えた。
みほが、そっと手を離した。
「……いいよ。どうぞ」
あの子の目が、わずかに見開かれた。
みほは、ボコを手に取ると、それを、あの子の小さな手のひらに、そっと載せた。
「大丈夫。……また、来るから」
あの子は、手のひらのボコを、じっと見つめた。それから、みほの顔を見上げた。
何か言いかけて、その唇が、少しだけ動いた。
けれど、言葉にはならなかった。
あの子は、ボコを胸に抱きしめると、くるりと背を向けて、売り場の外へ駆け出した。
入り口の柱の横を、小さな体が、風のように通り過ぎていく。
すれ違う、ほんの一瞬。
あの子の目が、伊里奈を見た。それから、入り口のガラス戸の向こう、駐車場に停まった、赤い星の戦車を。
ほんの、一瞬だけだった。
あの子は、何も言わずに、走り去っていった。
―――
「……みぽりんが、わざわざ譲ってあげたのに、お礼も言わないなんて」
沙織が、少しだけ頬をふくらませた。
「きっと、恥ずかしがり屋さんなんですよ」
華が、穏やかに笑った。
みほは、空っぽになった籠を見下ろして、それでも、うれしそうだった。
「……あの子も、ボコが好きなんだね」
伊里奈は、柱の陰から出て、みほの隣に立った。
「……西住さん」
「あ、雪村さん。……見てました?」
「少しだけ」
みほは、照れたように笑った。
「また、会えるといいな。……あの子と」
伊里奈は、少しだけ、黙った。
会える。五日後に。あの子のいちばん大事な場所で。
「……はい。きっと、また、会えますよ」
それは、嘘ではなかった。
―――
駐車場へ戻ると、千紗が、T-34の横で、カメラの画面をのぞき込んでいた。
千紗は、カメラから顔を上げた。
「ボコショーのとき。伊里奈、あの子の背中だけ、ずっと見てたよね。……照準器をのぞいてるときと、同じ顔で」
すみれが、T-34の車体に寄りかかって、こちらを見ていた。こはるも、操縦窓から、顔を出している。
伊里奈は、しばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「……あの子は、とても強い人です」
「……知ってる人?」
「いいえ。……でも、知っています」
千紗は、それ以上、何も聞かなかった。ただ、カメラを首に戻して、小さく息を吐いた。
「……そっか。じゃあ、あとで、聞く」
「はい。……いつか、必ず」
こはるが、操縦窓から、ぐっと身を乗り出した。
「――伊里奈ちゃん。帰り道も、訓練、する?」
伊里奈は、少しだけ驚いて、それから、笑った。
「はい。……お願いします」
5/
木造校舎に戻ると、生徒会の仮の事務室が、ちょっとした騒ぎになっていた。
「――虫除けスプレー、全部使い切っちゃいました!」
「わかった、すぐに手配するね」
「お米が、夕ご飯の分、足りないんですけど……!」
「わかりました。地元の農家さんに、お願いしてみます」
「廊下の電球、切れてます!」
「電器屋さんで、替えをもらってきます」
一年生たちが、次から次へと飛び込んでくる。そのひとつひとつに、柚子が、手帳に書き込みながら答えていく。その隣で、桃が、電話の受話器を握っていた。
伊里奈は、切手と封筒の袋を、そっと机の端に置いた。
そこへ、もうひとり、息を切らせた生徒が駆け込んできた。
「――大変です! 風紀委員の人たちが、地元の生徒と、言い合いになってます!」
「なにっ!?」
桃が、受話器を置いて、立ち上がった。
「その三人は、私が何とかする! 小山、ここは頼んだ!」
「うん、お願い」
桃は、そのまま、廊下へ飛び出していった。
伊里奈が、その背中を見送っていると、柚子が、ふっと笑った。
「……桃ちゃん、意外と、ちゃんとやってるでしょう」
「……はい」
「私ね、桃ちゃんは、『もうだめだ、廃校だ、終わりだ、柚子ちゃん!』って、泣いてばっかりだと思ってたんだ」
柚子は、手帳を閉じて、窓の外を見た。
「でも、昨日の夜、言ってたの。……『今やらなくて、いつやるんだ』って」
伊里奈は、何も言えなかった。
「……会長、どこにいるんだろうね」
柚子の声は、とても小さかった。
「会長にしかできないことを、きっと、してるんだと思う。……そう思うことにしてる」
伊里奈は、窓の外の、山の向こうの空を見た。
知っている。今、この時間、あの人が、どこにいるのかを。
東京の、窓の大きな部屋。机の向こうに座る、眼鏡の男。「口約束は、約束ではない」と言われて、それでも、あの人は、引き下がらない。
「……小山さん」
「なに?」
「会長は、ちゃんと、大きいのを釣ってきます」
柚子は、きょとんとした顔で、伊里奈を見た。それから、何かを思い出したように、くすりと笑った。
「……そういえば、会長、出ていく前に言ってたな。雪村ちゃんは、ときどき、全部わかってる人の顔をするって」
「……そうですか」
「うん。……今も、そういう顔してる」
―――
その夜、教室の布団の上で、伊里奈は、表紙のないノートを開いた。
三人の寝息が、すぐそばで聞こえる。こはるは、今日の帰り道、合図なしで、三回も五十センチを切った。千紗は、ボコミュージアムの写真を、寝る直前まで眺めていた。すみれは、記録帳に、何かを長々と書き込んでいた。
――二日目。
――こはる。合図なしで、五十センチ。
――千紗。ボコの写真、三十二枚。
――すみれ。記録帳、二ページ。
それから、少しだけ迷って、もう一行。
――島田愛里寿。ボコが好き。小さい。
書いてから、伊里奈は、その一行を、しばらく見つめていた。
あの子は、強い。センチュリオンの乗員と、ひとつの生き物のように動く。それは、知っている。
けれど、今日、知った。あの子は、包帯だらけのクマのために、劇場の天井まで届く声を出す子だった。
五日後、自分は、あの子に照準を合わせる。
それは、変わらない。変えるつもりもない。
ただ、その照準の向こうにいるのが、どんな子なのかを、もう、知らなかったことにはできなかった。
伊里奈は、ノートを閉じた。
窓の外で、虫の声がしていた。
明日、三人は、一度、家に帰る。
みほも、一人で、遠い家へ帰る。
伊里奈は、布団に横になって、暗い天井を見上げた。
――その全部が、ちゃんと、ここへ戻ってくるように。
目を閉じる前に、もう一度だけ、心の中で言った。
がんばれ。