1/
三人を見送ったのは次の日の昼過ぎだった。
山を下りたところのバス停で、こはるは何度も振り返った。
「……伊里奈ちゃん、ほんとに一人で大丈夫?」
「大丈夫です。一人ではありませんから。ここには、みんながいます」
「そういう意味じゃなくて……」
こはるは言いかけて、ぎゅっと唇を結んだ。
「……すぐ戻るから。明日の夕方には、絶対」
「はい。待っています」
千紗はカメラを首から下げたまま、ぶっきらぼうに片手を上げた。
「……変なこと、しないでよ。私が見てないところで」
「しません」
「……どうだか」
すみれは何も言わなかった。ただ、バスに乗る前に伊里奈の手の中へ小さく畳んだ紙を一枚押し込んでいった。
バスがカーブの向こうへ見えなくなってから、伊里奈はその紙を開いた。
――待つ、と書いたのは、私。だから、伊里奈も待っていて。
すみれのきっちりとした字だった。
伊里奈はその紙をもう一度畳んで胸のポケットにしまった。
―――
同じバス停にもうひとつ、小さな荷物を持った人影があった。
みほだった。
あんこうチームの四人は朝のうちにそれぞれの家へ帰っていった。みほはひとりだけ遅いバスを選んだらしかった。
「……雪村さん」
「西住さんも今日なんですね」
「はい。……熊本まで、遠いので」
みほは小さなボストンバッグを両手で持ち直した。その中に転校の書類が入っているのだろう。保護者の署名と印鑑が要る書類が。
伊里奈は知っていた。あの家の門の前でこの人を待っている人がいることを。その人が書類のどこに何を押すのかを。
それは、言わなかった。
「……西住さん」
「はい」
「いってらっしゃい」
みほは少しだけ目を丸くした。それから、ふっと笑った。
「……いってきます」
バスが来た。みほは一番後ろの席に座って、窓越しに小さく手を振った。
伊里奈はそのバスが見えなくなるまでバス停の屋根の下に立っていた。
一人で帰れる。
あの人はそう言った。けれど、たぶん、あの家で一人ではなくなる。
2/
三人のいない木造校舎は思っていたよりも広かった。
教室の床に布団が一組だけ。夜になると虫の声がやけに大きく聞こえた。
伊里奈はほとんどの時間を校庭の端のT-34のそばで過ごした。
履帯のピンを一本ずつ確かめる。転輪のゴムの減り方を見る。エンジンのオイルを抜いて新しいものに入れ替える。こはるがいれば横から「それ、私がやる!」と手を出してくるはずの作業を、一人で黙々と続けた。
「――雪村さん、それ、一人じゃ大変でしょ」
声をかけてきたのはナカジマだった。つなぎの袖をまくって工具箱を提げている。その後ろではホシノとスズキとツチヤが、ポルシェティーガーのエンジンルームに上半身ごと潜り込んでいた。
「……いえ。大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃないなあ。……ほら、そっち持って」
ナカジマは返事を待たずに転輪の反対側にしゃがみこんだ。
しばらく二人で黙って作業をした。
「……ねえ、雪村さん」
「はい」
「うちの子、さ」
ナカジマはポルシェティーガーのほうを顎で示した。
「エンジン、本当はもっと回せるんだよ。回しすぎると壊れるけどね。……いざってときに、どこまで回していいか、ずっと計算してるんだ。ここに来てから、ずっと」
伊里奈は手を止めた。
知っている。その「いざってとき」がいつ来るのかを。遊園地のあの坂道で。
「……どうして、今、それを計算しているんですか」
「さあ。なんとなく」
ナカジマはいつものようにのんびりと笑った。
「……雪村さんと同じだよ。なんか、待ってる顔してるから。会長が帰ってくるの待ってるんでしょ?」
伊里奈は少しだけ迷ってから頷いた。
「……はい」
「だよねえ。……うちらもだよ」
スパナがボルトを締める乾いた音がした。
―――
その日の夕方、伊里奈は生徒会の仮の事務室の扉を叩いた。
「――砲弾と、燃料の在庫?」
柚子が書類の山から顔を上げた。
「はい。戦車はサンダースから戻ってきましたが、弾は学園艦の倉庫に置いてきたものもあるはずです。燃料も、ここに来てから訓練で減っています」
「でも……試合の予定は、今は、ないよ?」
「予定がないうちに揃えておきたいんです。何かあったとき、九輌が全部すぐに動けるように」
柚子はしばらく伊里奈の顔を見ていた。それから手帳を開いてペンを走らせた。
「……わかった。連盟に問い合わせてみるね」
「ありがとうございます」
「雪村さんって」
柚子は手帳から目を上げずに少しだけ笑った。
「会長と同じこと言うんだね。……出ていく前に、会長も『戦車だけは、いつでも動けるようにしといて』って」
―――
次の日の夕方、三人は約束どおり戻ってきた。
「――ただいま!」
こはるが坂の下から大きく手を振りながら駆け上がってくる。その後ろを千紗とすみれが少し遅れて歩いてきた。
「……おかえりなさい」
「ちゃんと、はんこ押してもらってきたよ! お母さん、『戦車道、まだ続けるの?』って言ってたけど、『続けるに決まってるでしょ』って言っといた!」
「……私は、何も言われなかった。写真、見せたら、黙った」
千紗がどこか誇らしげに言った。たぶん、ボコミュージアムの写真ではないほうだ。
すみれは伊里奈の胸ポケットのあたりをちらりと見た。そこにあの紙が入っていることを確かめるように。
「……待っていたのね」
「はい。待っていました」
すみれはほんの少しだけ口元をゆるめた。
その夜遅く、最後のバスでみほも戻ってきた。
小さなボストンバッグを抱えて校舎の玄関をくぐるみほの横顔は、出ていったときよりほんの少しだけやわらかかった。
伊里奈は何も尋ねなかった。
3/
会長が戻ってきたのは、その次の日の夕方だった。
最初に気づいたのは、たぶん桃だった。
伊里奈は校舎の裏手からそれを見ていた。
校門の脇、寄せ集めた古い机と椅子の山の陰で、桃が一人で膝を抱えて座っていた。会長がいなくなってから、桃は毎日のように夕方になるとそこに座っていた。誰にも言わずに。仕事を全部終えたあとで。
その校門を小さな人影がくぐった。
制服の上に薄い上着。手には小さな鞄ひとつ。
「――ただいま」
桃が顔を上げた。
一瞬何が起きたのかわからないという顔だった。それから、その顔がくしゃくしゃに崩れた。
「――会長っ!」
桃は立ち上がろうとして、つんのめった。それでも走った。杏の前で膝から崩れ落ちるようにして、その場にへたりこんだ。
伊里奈は校舎の角の陰でそっと目を伏せた。
あそこは、自分が行く場所ではなかった。
しばらくして、泣きじゃくる桃の頭をぽんぽんと二度叩いてから、杏が校舎のほうへ歩いてきた。
角を曲がったところで杏は伊里奈に気づいた。
「……おや」
伊里奈は一歩前へ出た。
「――おかえりなさい、会長」
「ただいま、雪村ちゃん」
杏は伊里奈の顔を少しだけのぞき込んだ。
「……泣いてないね」
「泣くのは、河嶋さんのお仕事ですから」
杏は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「違いないねー」
その笑い声の向こうで、校門の脇の桃がまだしゃくり上げていた。
―――
それから、すぐだった。
校舎じゅうのスピーカーががりがりと音を立てた。
『――特別放送! 特別放送! 会長が戻られた! 戦車道履修者は、全員、講堂に集合!』
桃の声だった。泣きすぎて、ところどころひっくり返っている。
『くり返す! 特別放送! 特別放送!』
校庭の端でレオポンさんチームがエンジンルームから顔を上げた。III号突撃砲の上ではカバさんチームが互いに顔を見合わせている。
「……とりあえず、行こっか」
裏の小川からはウサギさんチームが、釣った魚をぶら下げたままぞろぞろと上がってきた。
「……ねえ、後ろで、なんか変な声しない?」
「こわーい……」
スピーカーの向こうで柚子の声が遠慮がちに割り込んだ。
『……桃ちゃん、ちょっとだけ、静かにしてようか』
こはるがぶっと吹き出した。
伊里奈はT-34の砲塔から飛び降りた。
「――行きましょう」
―――
講堂にはあっという間に全員が集まった。
――いや、全員ではなかった。
「……全員、いる?」
「カモさんチームが、いません!」
「なにっ!?」
ざわめきの中で、麻子がひとりだけ黙って講堂の出口へ向かった。
「……麻子、どこ行くの?」
「遅刻者の取り締まりだ」
「……冷泉さん。裏のウサギ小屋です」
伊里奈が小声で言うと、麻子は振り返りもせずに答えた。
「知ってる」
それだけ言って、麻子は講堂を出ていった。
伊里奈は窓からその背中を目で追った。麻子は迷わずに校舎の裏のウサギ小屋へ歩いていく。その前に三つの小さな背中がしゃがみこんでいた。
窓は少しだけ開いていた。声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「……何してる」
「あんたには、関係ないでしょ」
「集合だ」
「……ほら、来い」
「ちょっと、何するのよ! 離して!」
「私たちのことなんか、ほっといてよ!」
麻子が園の手首をつかんだまま立ち止まった。
「――そど子がいないと、学校の風紀が、なくなっちゃうだろ」
それから、少しだけ声が小さくなった。
「……それに、ちょっと、さみしい」
園の肩が震えた。その両脇で後輩の二人がぽろぽろと泣き出していた。
「――さ、さみしくなんか、ないわよ!」
園が泣きながら笑った。
伊里奈は窓から目をそらした。こはるが隣で鼻をすすっていた。
―――
麻子に引きずられるようにして風紀委員の三人が講堂に入ってくると、壇上で杏がいつものように笑った。
その手には干し芋の袋が戻っていた。
「――みんな。試合が、決まった」
講堂の空気がぴたりと止まった。
「……試合?」
「大学強化チームと、だよ」
ざわ、と声が広がる。その中で優花里が身を乗り出した。
「もしかして……その相手に勝てば……!」
杏はゆっくりと頷いた。
「今度こそ、廃校を撤回してくれる。……文科省の念書も、取ってきた」
杏が一枚の紙を高く掲げた。いくつもの署名と赤い印が並んでいる。
「戦車道連盟と、大学戦車道連盟と、高校戦車道連盟の承認付きでね」
講堂が一瞬静まり返った。
それから、柚子が杏に飛びついた。
「――さすが会長!」
「ずっと、交渉してくださってたんですね……!」
桃はもう何も言えないくらいに泣いていた。
「会長、今度は、何も隠してないですよね!?」
「勝ったら、本当に、廃校にならないんですか!?」
あちこちから声が飛ぶ。杏はそのひとつひとつに短く答えた。
「――うん」
それから、杏は少しだけ真面目な顔になった。
「厳しい戦いになるのは、わかってる。……でも、勝たなきゃいけない」
講堂じゅうが杏を見ていた。
「そうすれば、みんなで、また大洗に帰れる。……あの学園艦に、帰れるんだ」
「――おおーっ!」
真っ先に拳を突き上げたのはレオポンさんチームだった。それに続いて講堂じゅうから声が上がる。
「がんばろうね!」
「……麻子も応援しなよ!」
「……はいはい」
伊里奈は講堂の後ろのほうでその声を聞いていた。
隣で、こはるも千紗もすみれも拳を上げていた。
伊里奈も少しだけ遅れて拳を上げた。
壇上の杏と目が合った。
杏はほんの一瞬だけこちらを見て、片目をつぶってみせた。
――大きいの釣ってきたよ。
声には出していなかった。けれど、伊里奈にははっきりとそう聞こえた。
4/
その夜、生徒会の仮の事務室に各チームの代表が集められた。
伊里奈は副隊長として、桃と並んで壁際に立っていた。
机の上に一枚の新聞が広げられている。戦車道の専門紙だった。
――大学選抜、社会人チーム撃破。まるで下克上。
大きな見出しの下に黒煙の上がる演習場の写真。その横に小さな顔写真がひとつ。
島田愛里寿選手。
伊里奈はその写真から目を離せなかった。
三日前、劇場の天井まで届く声で包帯だらけのクマを応援していた子だった。
「……社会人チームに、勝ったの!?」
「これは、さすがに……厳しくないですか」
「だから、厳しいって言ったじゃん……」
杏が干し芋をかじりながら、のんびりと言った。それから、みほのほうを向いた。
「……西住ちゃんは、どう思う?」
みほは新聞の写真をじっと見つめていた。
「……この隊長さん、どこかで、見たことがあるような……」
伊里奈の指先がわずかに動いた。
優花里が新聞をのぞき込んだ。
「飛び級で大学に進んだ、天才少女だそうです。……それに、島田流の家元のお嬢さんだとか」
「じゃあ、この試合は、西住流と、島田流の対決でもあるってこと……?」
誰かが小さくつぶやいた。みほは何も言わなかった。
「……それで、向こうは、何輌出してくるんですか」
ナカジマの問いに柚子が手元の資料を見た。
「……三十輌」
「――えっ」
部屋じゅうが凍りついた。
「――もう、おしまいだ!」
桃が頭を抱えた。
「西住! 勝てないって、会長に言ってくれ!」
みほは少しだけ目を伏せた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……今の状況で考えれば、勝つのは、無理だと思います」
桃が言葉を失った。
「でも……この機会を、もらえたこと自体が、すごいことだと思うんです。たとえ、勝てないとしても……」
みほはそこで言葉を探すように少しだけ間を置いた。
「……戦車が通れない道は、ありません」
「――砲火の中でも、戦車は、前に進みます」
誰かがその言葉を引き取った。ねこにゃーだったのか梓だったのか、伊里奈にはわからなかった。
杏が目を閉じて小さく頷いた。
「……どんなに厳しくても、乗り越える方法を、考えなきゃね」
「――わかりました!」
あちこちから声が返ってきた。
杏が壁際のほうへ目を向けた。
「……雪村ちゃんは?」
部屋じゅうの目が伊里奈に集まった。
伊里奈は机の前へ出て新聞を引き寄せた。試合の記事を指でなぞる。
「……この試合、最初は社会人チームのほうが押していました。でも途中から、三輌ずつ、同じ動きで横から崩されています」
「三輌ずつ?」
優花里が身を乗り出した。
「はい。記事の地図を見ると、三輌一組の小隊が三つ。それぞれが相手を一輌ずつ確実に狩っています。……それから、隊長車は最後までほとんど撃っていません」
「撃ってないのに、勝ったの?」
「撃たなくても勝てるように動かしているんです。後ろから」
部屋が静かになった。
「三十輌も怖いです。でも、本当に怖いのは数じゃありません。三輌一組の連携と、それを後ろから動かしている隊長です」
伊里奈は新聞から顔を上げた。
「だから、こちらも一輌で戦わないことです。九輌が九輌として動けば、すぐには崩れません」
「……ふーん」
ナカジマが感心したように腕を組んだ。
「さすが、元プラウダの砲手だねー。新聞から、そこまで読めるんだ」
「……雪村。それで、勝てるのか」
桃が赤い目のまま伊里奈をにらむように見た。
「勝てるかどうかは、わかりません」
伊里奈はまっすぐに桃を見返した。
「でも、簡単には負けません。……そのための準備なら、もう始めています」
柚子が手帳を開いた。
「雪村さんに言われて、砲弾と燃料、連盟に問い合わせておいたの。……ぎりぎりだけど、全車分揃いそう」
「――えっ」
桃が目を丸くして、柚子と伊里奈を交互に見た。
杏が干し芋をかじりながら、にっと笑った。
みほが伊里奈を見ていた。何も言わずに小さく頭を下げた。伊里奈も同じように頭を下げ返した。
伊里奈は壁際で新聞の写真をもう一度見た。
三十輌。パーシングの群れ。T28。カール。そして、センチュリオン。
全部、知っている。
けれど、この部屋にいる誰もまだ知らない。明日、もうひとつ条件が変わることを。
伊里奈は口を開きかけて、閉じた。
――大きな流れには、触れない。
―――
会議が終わってみんなが部屋を出ていくとき、杏が伊里奈を呼び止めた。
「――雪村ちゃん」
「はい」
杏は干し芋の袋をひとつ、伊里奈の手に押しつけた。
「……釣ってきたよ。大きいの」
伊里奈は袋を両手で受け取った。
「……はい。大きいですね」
「でしょー」
杏はいつものように笑った。それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「……でもさ。思ってたより、ずっと大きくて、重いんだよね。これ」
その声は、講堂で拳を上げさせた人の声ではなかった。
一人で東京を歩き回って、何度も門前払いされて、それでも頭を下げ続けた人の声だった。
伊里奈は袋を握りしめた。
「……会長。一人で、持たないでください」
杏の目がわずかに見開かれた。
「この学校には、三十人以上、いますから。……全員で、持ちます」
杏はしばらく伊里奈の顔を見ていた。
それから、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「……雪村ちゃんってさ。やっぱり、ときどき、全部わかってる人の顔するよねー」
「……よく、言われます」
「誰に?」
「会長と小山さんにです」
杏は声を立てて笑った。その笑い声は木造の廊下にやけに明るく響いた。
5/
教室に戻ると、三人が布団の上で待っていた。
「……三十輌、だって」
こはるが膝を抱えたまま言った。
「こっちは、九輌。……ほんとに、勝てるのかな」
「……勝てるかどうかは、わかりません」
伊里奈は布団の上に座った。三人の顔をひとりずつ見た。
「でも、相手が三十輌でも、撃つのは一発ずつです。止まるのも一回ずつ。弾を込めるのも一発ずつ。……周りを見るのも、一回ずつです」
千紗が小さく鼻を鳴らした。
「……それ、慰めになってる?」
「なっていませんか」
「……ちょっとだけ、なってる」
すみれが記録帳を開いた。そのページに何かを書きつけてから三人に見せた。
――三十対九。一発ずつ。
「……書いておくわ。あとで読み返せるように」
「あとで、って?」
こはるの問いに、すみれは当たり前のように答えた。
「勝ったあとで、よ」
こはるが目を丸くした。千紗が吹き出した。伊里奈も笑った。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
明日、この人たちはもうひとつ重い知らせを聞く。そして、その次の日、本当の戦いが始まる。
―――
三人が眠ったあと、伊里奈は懐中電灯をつけて表紙のないノートを開いた。
――五日目。
――会長、帰還。
――三十輌。センチュリオン、島田愛里寿。
――すみれ。「勝ったあとで読み返す」。
それから、ページをめくった。あの夜、白旗を上げる戦車の名前を書き出したページだった。いくつかの名前の横に小さな丸がついている。
伊里奈はペンを持ったまま、そのページを見つめていた。
あと、二日。
その丸のひとつでも、消せるように。
伊里奈はノートを閉じて胸の上に置いた。
ポケットの中で、すみれの紙がかさりと鳴った。
――待つ、と書いたのは、私。
伊里奈は目を閉じた。
待っていてください。もう少しだけ。