1/
その知らせは、夕方に来た。
かまぼこ形の倉庫の屋根が西日で赤く染まるころ、校舎の前に黒い車が一台止まった。降りてきたのは眼鏡の男と、和服の老人だった。
伊里奈は男の顔を知っていた。
文科省の学園艦教育局長、辻廉太。そのあとから、帽子を手に持った戦車道連盟の理事長が、申し訳なさそうについてくる。
戦車道履修者は全員、一番広い教室に集められた。真ん中の机の上に地図が広げてある。二人は扉の前に立ったまま、中へは入ってこなかった。
「明日の試合ですが」
辻が眼鏡を指で押し上げた。
「形式は殲滅戦とさせていただきます」
教室が静かになった。
「……殲滅戦って?」
誰かが小さく聞いた。優花里が答えた。
「相手の戦車を全部倒したほうが、勝ちです。フラッグ戦とは違って……一輌残らず」
「――ただでさえ、三十対九なのに」
みほの声だった。胸の前で、手をぎゅっと握っている。
「殲滅戦だなんて……」
「今後のプロリーグでは、殲滅戦が標準になります。それに合わせていただきたい」
辻の声は平らだった。何かを読み上げているような声だった。
「……大学のほうは、もう殲滅戦の準備に入っているそうでして」
理事長が帽子のつばを握ったまま言った。
「辞退されるのでしたら、すぐにご連絡ください」
二人が出ていったあと、扉が閉まる音だけが教室に残った。
伊里奈は壁際で、その扉を見ていた。
知っていた。昨日の夜、会議室で新聞を見ながら口を開きかけて、閉じたのはこれだった。
知っていても、何ひとつ変わらなかった。
「……一輌残らず、って」
桃の声が震えていた。
「三十輌を全部、倒せというのか。九輌で……」
誰も答えなかった。こはるが伊里奈の袖をつかんでいた。指先が冷たかった。
伊里奈は一歩前へ出た。
「――逆です、河嶋さん」
桃が顔を上げた。
「殲滅戦なら、最後に一輌でも残っていれば、負けではありません。フラッグ車がやられても終わりにはならない。……白旗を上げなかった車輌が、そのまま、次の一手になります」
教室のあちこちで、顔が上がった。
「だから、明日は。……やられないことも、仕事です」
杏が干し芋をかじった。
「だってさ、かーしま」
「……わ、わかっている!」
桃が目元を袖でこすった。みほがこちらを見た。何か言いかけて、それから、小さく頷いた。
伊里奈は胸の中で、ノートの一ページを思い浮かべていた。白旗を上げる戦車の名前と、その横の小さな丸。
一輌でも多く、残す。
それなら、まだ自分の手が届く。
2/
日が落ちてから、伊里奈は校舎の裏手で携帯を取り出した。
呼び出し音が三回鳴って、止まった。
『――何よ』
不機嫌そうな声だった。後ろで機械の唸るような音がしている。
「……カチューシャさん。大洗の雪村です」
『わかってるわよ。番号、登録してあるんだから』
伊里奈は少しだけ言葉を探した。
「明日の試合が、決まりました。大学選抜と。三十対九の、殲滅戦です」
『それも知ってるわ』
「……え」
『カチューシャを誰だと思ってるの。そのくらい、とっくに耳に入ってるわよ』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。誰かが何かを読み上げている。ノンナの声だった。言葉までは聞き取れなかった。
「カチューシャさん、あの――」
『あんたは』
声が、伊里奈の言葉を遮った。
『あんたは自分の戦車のことだけ考えてなさい。あのT-34、カチューシャがわざわざ砲身を送ってあげたんだから。……明日、つまらない負け方したら許さないわよ』
「……はい」
『それから』
少しだけ間があった。
『ちゃんと寝なさい。あんた、試合の前の晩はいつも寝ないんだから』
それだけ言って、電話は切れた。
伊里奈は携帯を耳から離して、しばらく画面を見ていた。
知っていた。あの部屋で今、何が読み上げられているのかを。
秋の日の、ヴィオロンの。
伊里奈は誰もいない校舎の裏で、少しだけ笑った。それから、目元を手の甲でぬぐった。
3/
夜の木造校舎は、どの部屋にも明かりがついていた。
伊里奈は廊下を歩いた。
アヒルさんチームの部屋では、四人が机を囲んでいた。机の上にはバレーボールのコートを描いた板。赤と青の駒が並んでいる。
「ここでブロック! で、ここから速攻!」
磯辺の声が廊下まで聞こえた。
カバさんチームの部屋では、古いブラウン管のテレビの前に四人が座りこんでいた。画面には六角形のマス目と、小さな戦車の絵。カエサルがコントローラーを握っている。
「――ここは包囲殲滅だ。カンナエの再現といこう」
「いや、ここは長篠だろう」
「どちらでもない。桶狭間ぜよ」
アリクイさんチームの部屋からは、ルームランナーの回る音がしていた。一人が汗だくで走っていて、残りの二人がその横で体をほぐしていた。
「……明日は、ゲームじゃないから」
ねこにゃーの小さな声が聞こえた。
カモさんチームの部屋では、そど子が畳の上で制服を畳んでいた。ゴモヨとパゾ美が、その横で同じように畳んでいる。三枚とも、角がきっちりそろっていた。
ウサギさんチームの部屋は暗かった。壁に映写機の光が当たっている。古い戦争映画だった。六人が膝を抱えて、黙って画面を見ていた。
校庭の端の倉庫からは、工具の音がしていた。レオポンさんチームの四人が、ポルシェティーガーの横で分厚いマニュアルを広げている。ナカジマが顔を上げて、伊里奈に手を振った。
伊里奈は手を振り返して、それから校舎の外へ出た。
外の空気は少しだけ冷たかった。
裏の丘のほうから、足音が駆けてきた。
「――伊里奈さん! みぽりん、見なかった?」
沙織だった。その後ろに華と優花里と麻子が続いている。
伊里奈は丘の上を指さした。
星の明かりの下に、小さな人影が二つあった。一人は地図を手に持っていて、もう一人は少し離れたところに立っていた。
「……会長と、一緒です」
「会長と?」
「少しだけ、待ってあげてください」
沙織は丘の上を見上げて、それから、ぎゅっと唇を結んだ。四人はそこで足を止めた。
夜の丘は静かだった。声がこちらまで流れてきた。
「――無理させちゃうね」
杏の声だった。
「気にしないでください」
「明日の試合さ。……どのくらい、いけそう?」
みほは答えなかった。答えのかわりに、地図をめくる音がした。
「……辞退するって手も、あるんだよ」
「それは、ないです」
みほの声は小さかった。けれど、迷っていなかった。
「辞退したら、本当に終わりですから」
風が吹いて、草が鳴った。
「……大変な試合になるね」
「私たちの試合は、いつもそうでした」
伊里奈は目を閉じた。
いつもそうだった。少ない数で始まって、一輌ずつ減って、それでも最後に一輌が残った。
明日もそうなる。そうなることを、伊里奈は知っている。
「――みぽりん!」
沙織が丘を駆け上がっていった。華と優花里が続いた。麻子が面倒くさそうに、けれど一番まっすぐに続いた。
「私たちには、仲間がいるよ!」
丘の上で、沙織が大きく手を振っていた。
みほが振り返った。星明かりの下で、その顔が少しだけゆるんだのが、ここからでも見えた。
杏が丘を下りてきた。伊里奈の横を通りすぎるとき、足を止めずに言った。
「……雪村ちゃんも、寝なよー」
「会長こそ」
「あたしは、いいの」
杏の背中が校舎の中へ消えていった。
4/
同じ夜。
聖グロリアーナの学園艦の、無線室。
「――秋の日の ヴィオロンの ためいきの」
ダージリンが紅茶のカップを片手に、目を閉じて口ずさんでいた。オレンジペコが一枚の紙を持って、無線機の前に座っている。
「身にしみて ひたぶるに うら悲し」
「……送信、完了しました」
「よろしい」
ダージリンはカップを置いて、窓の外の暗い海を見た。
さらに北の、プラウダの学園艦。
計器の明かりの中で、ノンナがヘッドホンを外した。
「聖グロリアーナから、返信を求めています」
「決まってるじゃない」
カチューシャが椅子の上で、ふんぞり返った。
「北の国で、この杯を飲み干すのみ。……煮えたぎった紅茶をね」
ノンナがかすかに笑って、キーを叩き始めた。
「カチューシャ。先ほどの電話の方は」
「うるさいわね。……さっさと送りなさい」
カチューシャは窓の外を見た。
「あの子、まだ寝てないわよ、きっと」
夜の海沿いを、汽車が一本走っていた。
窓際の席で、西絹代が一枚の紙を読んでいた。月の光が、紙の上の文字を照らしていた。
「……紅茶は、飲んだことがありません」
西は紙をたたんで、胸の内ポケットにしまった。それから窓に映った自分の顔を見て、小さくつぶやいた。
「――一度だけ、周りを見る。……心得ております、雪村殿」
森の奥で、焚き火がはぜていた。
「お茶会、楽しそう!」
アキが紙を掲げて言った。ミッコは丸太の上で寝転がっている。ミカがカンテレの弦を一本、はじいた。
「享楽は、あまり好ましくないけれど……」
弦の音が、夜の森に溶けていった。
5/
T-34は校庭の端で、月の光を浴びていた。
伊里奈が戻ると、三人はもうそこにいた。
こはるは操縦席のハッチから顔だけ出していた。千紗は砲塔の上でカメラをいじっていた。すみれは履帯の横にしゃがんで、記録帳に何かを書きこんでいた。
「……遅い」
千紗が言った。
「部屋にいなかったから、ここだと思ったの」
すみれが顔を上げずに言った。
「伊里奈ちゃん、寝ないの?」
「……皆さんこそ」
「眠れるわけないじゃん」
こはるが笑った。笑いながら、ハッチの縁を指でなぞっていた。
伊里奈は車体によじ登って、砲塔の上に腰を下ろした。千紗の隣だった。
「……殲滅戦って、さ」
こはるが言った。
「さっき伊里奈ちゃんが言ったこと。最後に一輌残ってれば、負けじゃないって」
「はい」
「じゃあ、私たちが残ればいいんだよね。最後まで」
伊里奈は返事をするのを、少しだけ遅らせた。
最後まで残る戦車の名前を、伊里奈は知っている。その中に、この戦車の名前はない。原作には、そもそもこの戦車がいない。
だから、わからない。
「……はい。四人で、最後まで」
すみれが記録帳を閉じた。
「書いたわ。――三十対九。殲滅戦。四人で、最後まで」
「すみれ、それ毎回書いてない?」
「毎回、本当のことだから」
千紗が小さく吹き出した。それからカメラを構えて、ファインダーをのぞいた。
「……ちょっと。三人とも、こっち見て」
「え、今?」
「今。……明日、撮れるかわからないから」
シャッターの音が一回だけ鳴った。
伊里奈はその音を聞きながら、空を見上げた。
月が出ていた。ずっと北のほうで、誰かが紅茶を飲みながら、同じ月を見ているかもしれなかった。
明日、あの人たちが来る。
それも、伊里奈は知っていた。
知っていて、言わなかった。
知っていることが、今夜だけは、少しだけ心強かった。
「――寝ましょう」
伊里奈は砲塔から立ち上がった。
「カチューシャさんに、怒られますから」
「え、なんでカチューシャ?」
「……内緒です」
こはるが首をかしげた。すみれが記録帳を胸に抱えた。千紗がカメラのレンズにキャップをはめた。
四人の影が、T-34の横に並んで伸びていた。