1/
試合会場は、どこまでも続く草原だった。
なだらかな丘がいくつも重なって、その向こうに森が黒く沈んでいる。空は高く、雲が速かった。
大洗の九輌は、草原の端に一列に並んでいた。
その向こう、ずっと遠くに、大学選抜の戦車が並んでいるのが見えた。数える気にもならない数だった。
「――丘に誘いこんで、敵の戦力を分断します」
みほが地図を手に言った。
「それから、各個撃破。……そうすれば、勝機はあるかもしれません」
誰も何も言わなかった。
「でも、相手は経験も装備も上です。今回ばかりは……」
みほはそこで言葉を切った。
伊里奈はT-34の横で、その声を聞いていた。
こはるが操縦席のハッチの縁に座っていた。千紗は砲塔の上でカメラを胸に抱えていた。すみれは記録帳を開いたまま、何も書いていなかった。
伊里奈は草原の向こうの、誰もいない地平線を見ていた。
来る。
来るはずだ。
それでも、喉の奥が乾いていた。もし来なかったら。もし、自分がどこかで何かを変えてしまっていたら。
「……伊里奈ちゃん?」
こはるが小さく呼んだ。
「大丈夫です」
伊里奈は答えた。自分に言い聞かせるような声になった。
それから、T-34を離れて、みほの横へ歩いていった。
「……西住さん」
「雪村さん?」
「試合が始まるまで、少しだけ。……地平線のほうを、見ていてください」
みほが目をまたたいた。
「地平線、ですか」
「はい。理由は、今は言えません」
言ってしまえば楽になる。そう思った。けれど、もし来なかったら。この人に二度、同じ絶望を味わわせることになる。
だから、それ以上は言わなかった。
みほは伊里奈の顔をしばらく見ていた。それから、何も聞かずに草原の向こうへ目を向けた。
―――
試合前の挨拶のために、両チームの隊長と副隊長が草原の真ん中へ歩いていった。
みほの後ろに、杏と桃と伊里奈が並んだ。
向かい合ったのは、四人だった。三人の大人びた選手と、その真ん中に、ひとりだけ背の低い少女。
島田愛里寿は、黒いベレー帽をかぶっていた。灰色がかった長い髪が、風に揺れていた。
ボコミュージアムで、包帯だらけのクマに声を張り上げていた子だった。今は、何の表情も浮かべていなかった。
みほが小さく息をのむのが聞こえた。
伊里奈は愛里寿の顔から、目をそらさなかった。
この子が、あと何時間かのうちに、どこまでやるのかを知っている。そして最後に、どんな顔をするのかも。
審判長が、両者のあいだに立った。
「これより、大洗女子学園対大学選抜チームの試合を始めます。一同――」
そのときだった。
地面の奥から、低い音が響いてきた。
「――ちょっと待ったーっ!」
2/
丘の稜線の向こうから、戦車が現れた。
灰色の大きな車体。長い砲身。伊里奈はその形を、一瞬で見分けた。
ティーガーI。その横にティーガーII。後ろにパンターが二輌。
ティーガーIのキューポラから、一人の少女が身を乗り出していた。大洗の制服を着ていた。
「……あ。お姉ちゃん?」
みほの声がかすれた。
ティーガーIが挨拶の列の横で止まった。西住まほは車上から、審判長のほうへ向き直った。
「大洗女子学園、西住まほ」
その隣のティーガーIIから、銀色の髪の少女が顔を出した。
「同じく、大洗女子学園、逸見エリカ。……以下、計十八名。短期転校の手続きを済ませ、本試合に参加します。連盟への手続きも、済んでいます」
エリカはそう言って、ぷいと横を向いた。
みほはしばらく、何も言えないでいた。それから、少しだけうつむいて、小さく言った。
「……お姉ちゃん。ありがとう」
まほは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ頷いた。
みほが振り返った。伊里奈と目が合った。
「……雪村さん。知って、いたんですか」
伊里奈は少しだけ迷ってから、首を横に振った。
「信じていただけです」
半分は、嘘だった。
みほはそれ以上聞かなかった。ただ、目元を指でぬぐって、小さく笑った。
会場の端の大きな掲示板に、係員が車輌名の札を掛けていく。
――県立大洗女子学園。IV号戦車H型。ヘッツァー。八九式中戦車甲型。III号突撃砲F型。M3リー。ルノーB1bis。ポルシェティーガー。三式中戦車。T-34/85。
その下に、新しい札が掛かった。
――ティーガーI。ティーガーII。パンターG型。パンターG型。
観覧席の天幕の下で、辻局長が立ち上がっていた。
「試合直前に戦車ごと転校など、認められるわけがないでしょう! ルール違反です!」
隣の理事長が、扇子を胸にあてて、ゆっくりと言った。
「あの戦車は、私物じゃないんですか?」
「……は?」
「私物の持ちこみを禁ずる規則は、ありましたかな」
辻が言葉に詰まった。
その間にも、地平線の向こうから次々と砂煙が上がっていた。
「――Hey! 私たちも転校してきたよー!」
シャーマンの砲塔の上で、ケイが大きく手を振っていた。その後ろにファイアフライと、アリサのシャーマン。ナオミがガムを噛みながら、片手を上げた。
「今日から、チームメイトだからね!」
「覚悟しなさい! サンダースが来たからには――」
アリサの声は、大洗の歓声にかき消された。
「黒森峰とサンダースの援軍……!」
「鬼に金棒です!」
優花里が両手を握りしめていた。
伊里奈は動けなかった。
来た。
本当に来た。
知っていたはずなのに、胸の奥が熱くて、うまく息ができなかった。こはるが伊里奈の腕をつかんで、何か叫んでいた。何を言っているのか、よく聞こえなかった。
3/
次に丘を越えてきたのは、緑色の戦車だった。
IS-2。KV-2。
それから、T-34/85が二輌。先頭の車体には、白い字で「015」と書かれていた。
伊里奈の目が、その二輌に吸いついた。
自分の戦車と、同じ形だった。同じ砲。同じ砲塔。三輌が草原の上に並ぶと、どれが大洗の戦車なのか、一瞬わからなくなった。
無線に、聞き覚えのある声が飛びこんできた。
『――ちょっと! 誰よ、先に着いてるのは!』
『カチューシャがずっと寝ていたからです』
ノンナの静かな声が続いた。
『べ、別に来たかったわけじゃないんだからね!』
『一番乗りして、格好をつけたかったのでは』
『うるさいっ!』
大洗の何人かが、思わず吹き出した。
先頭のT-34/85のハッチが開いて、小さな少女が顔を出した。カチューシャは砲塔の上から、伊里奈を見下ろした。
伊里奈はT-34の横で、まっすぐに立った。
「……カチューシャさん」
「ちゃんと寝た?」
「……少しだけ」
「ふん。少しだけ、ね」
カチューシャはそっぽを向いた。けれど、口の端が少しだけ上がっていた。
もう一輌のT-34/85から、クラーラが顔を出した。伊里奈のT-34を見て、それから伊里奈を見て、ロシア語で何かを言った。
ノンナが小さく訳した。
「――よく手入れされている、と」
伊里奈は頭を下げた。
すみれが記録帳を開いて、何かを書いていた。こはるが目を丸くしていた。
「……伊里奈ちゃん、同じ戦車が三つ」
「はい」
「どれが私たちのか、わかんなくなりそう」
「錆びているのが、私たちのです」
千紗がぶっと吹き出した。
聖グロリアーナのチャーチルとマチルダとクルセイダーが、その後ろに続いた。チャーチルの車内で、オレンジペコが紅茶のカップを手にしたまま首をかしげていた。
「試合用の服に、着替えるのではなかったのですか。……どうして皆さん、大洗の制服を」
「皆さんが、一度着てみたいとおっしゃったから」
ダージリンは涼しい顔でカップを傾けた。
小さな戦車が一輌、草原を跳ねるように走ってきた。CV33だった。
「大洗の諸君! 情熱とスタイルとパスタの国から、ドゥーチェ参上だ!」
アンチョビがマイクを握って叫んだ。狭い車内で、ペパロニとカルパッチョが肩を寄せ合っていた。
「驚いた?」
「間に合ってよかった……」
カルパッチョが身を乗り出した。
「カバさんチームのたかちゃーん! 来たよー!」
「ひなちゃん!? ……いや、私はカエサルだ!」
カバさんチームのほうで、カエサルが赤いマフラーに顔をうずめていた。
その後ろから、BT-42が一輌、ゆっくりと現れた。
「みんな、継続高校から転校してきたよー!」
アキが砲塔から手を振った。
「結局、手伝いに来たんじゃん」
「いや」
ミカがカンテレの弦を一本、はじいた。
「風に流されて、ここへ来ただけさ」
4/
最後に現れたのは、地平線を埋めるほどの戦車だった。
九七式中戦車。九五式軽戦車。数えきれないほどの砲塔が、草原の稜線に並んでいた。
「――お待たせいたしました!」
先頭の戦車の上で、西絹代が片手を高く掲げた。
「昨日の敵は今日の友! 勇敢なる鉄獅子二十二輌、ただいま推参!」
無線から、ダージリンの声が流れた。
『……西さん。援軍は総数で二十一輌、とお伝えしたはずだけれど』
「はい!」
『……つまり、知波単は五輌』
一瞬、間があった。
「――申し訳ありません! 間違えました!」
西は少しも悪びれずに振り返った。
「残り十七輌は、待機!」
後ろの十七輌が、一斉に止まった。
伊里奈は思わず、こめかみを押さえた。
九輌。
大洗に、一輌多い。だから、知波単の数が一輌減った。
自分がここにいることで、ほんの少しだけ、何かが変わっている。
掲示板の札が、次々と増えていった。M4。M4A1。ファイアフライ。チャーチル。マチルダ。クルセイダー。IS-2。KV-2。T-34/85。T-34/85。CV33。BT-42。九七式中戦車。九五式軽戦車。
三十。
大洗の欄の数字が、向かいの大学選抜と同じになった。
「……これなら」
ウサギさんチームの梓が、両手を胸の前で握った。
「勝てるかもしれない……!」
天幕の下で、辻が携帯を耳に当てたまま立ち上がっていた。
「試合開始の時点で参加車輌を増やすのは、規則に反するのでは」
理事長が扇子をゆっくりとあおいだ。
「異議を申し立てられるのは、相手チームだけですなあ」
辻が、大学選抜のほうを見た。
挨拶の列の真ん中で、愛里寿が顔を上げた。三人の選手が、その小さな背中を見下ろしていた。
「――構いません」
その声は小さかった。けれど、草原の端まで届いた。
「受けて立ちます」
―――
挨拶が終わると、西が戦車から飛び降りて、伊里奈のほうへ駆けてきた。
「雪村殿!」
「……西さん」
「先日のお電話は、このことでありましたか!」
西の目は、まっすぐだった。
「理由は今は言えぬ、と。……しかと、来ましたぞ」
「……ありがとうございます」
「それから」
西は声をひそめた。
「一度だけ、周りを見る。……忘れておりません」
伊里奈は返事をするかわりに、頭を下げた。
これで、何かが変わるのかどうかは、わからない。
それでも、言っておいてよかった。
5/
天幕の中に、各校の隊長が集まった。
黒板に、みほの字で編成が書かれていく。
――一、IV号、チャーチル、マチルダ、クルセイダー、BT-42、CV33、B1bis、ポルシェティーガー、三式、八九式。
――二、ティーガー、ティーガーII、パンター×2、T-34/85×2、IS-2、KV-2、III突、ヘッツァー。
――三、M4、M4A1、ファイアフライ、M3、九七式×4、九五式。
「三つの中隊に分けたいと思います。中隊長は……」
みほがチョークを持ったまま、少しだけ言いよどんだ。
「お姉ちゃ――西住まほさんと、ケイさんと、私です」
「ちょっと! 西側ばっかりじゃない!」
カチューシャがノンナの肩の上で、拳を振り上げた。
「……隊長、やりたいですか?」
「当然でしょ! カチューシャ以外に誰がふさわしいっていうのよ!」
「じゃあ、また今度……」
みほはにこりともせずに言った。
「カチューシャさんには、副隊長をお願いします」
「……ほんと? し、しょうがないわね。やってあげるわ!」
「ダージリンさんと西さんにも、副隊長を」
「結構よ」
「全力を尽くします!」
まほが手元の書類から顔を上げた。
「……では、大隊長はみほだな」
「私たちは、ミホの指示に従うよ!」
ケイが親指を立てた。
「大隊長、中隊の名前を決めてください!」
「え。……じゃあ」
みほは少し考えてから、黒板に書いた。
「お姉ちゃんの中隊が、ひまわり。ケイさんの中隊が、あさがお。私たちが、たんぽぽ。……どうですか」
伊里奈は天幕の端で、その黒板を見ていた。
ひまわりの欄に、黒森峰の四輌とプラウダの四輌。大洗からは、カメさんチームとカバさんチーム。
ひまわりは、あの丘へ向かう。
あの丘で、空から何かが降ってくる。
伊里奈は一歩前へ出た。
「……西住さん。T-34は、ひまわりに入れてもらえませんか」
みほがこちらを向いた。
「同じ戦車が三輌そろっていれば、プラウダの皆さんと同じ動きができます。……それに」
伊里奈は言葉を探した。全部は言えない。
「あちらの隊は、重い戦車が多いです。足の速いのが、一輌いたほうがいいと思います」
みほは黒板を見て、それから伊里奈を見た。
「……お姉ちゃん、いい?」
まほは短く答えた。
「構わない」
「当然でしょ。カチューシャの元砲手なんだから」
カチューシャがノンナの頭の上で腕を組んだ。
みほはチョークで、ひまわりの欄にもう一行書き足した。
――T-34/85(大洗)。
「作戦は?」
ダージリンがカップを置いて言った。その一言で、天幕の中が一気に騒がしくなった。
「行進間射撃しかないでしょう」
「止まらずに、撃ち続ける!」
「敵の戦線を突破すべきよ!」
エリカが机に手をついた。
「火力優勢ドクトリンでいこうよ! 敵一輌に、こっち十輌!」
ケイが人差し指を立てた。
「両翼包囲に決まってるだろう!」
「冬将軍が味方につくまで待つのよ! 殲滅戦には時間制限がないんだから!」
カチューシャが胸を張った。
「いろいろと考えましたが、やはり突撃が一番かと!」
「まあ、パスタを一杯食べてから考えようじゃないか」
アンチョビが指を振った。
「――ミホの指示に従うって言ったでしょ!」
ケイが両手を叩いた。天幕が静かになった。
「……ひとつだけ、いいですか」
伊里奈が手を上げた。天幕じゅうの目がこちらを向いた。
「大学選抜は、三輌一組で動きます。一輌を三輌で囲んで、確実に仕留める。社会人チームとの試合も、そうやって崩していました」
「三輌一組……」
ダージリンがカップを持つ手を止めた。
「だから、一輌だけで追わないでください。はぐれた一輌から狩られます。……それから、隊長車は後ろにいます。最後まで、ほとんど前に出てきません。前に出てきたときは、もう勝負が決まりかけているときです」
天幕が静まり返った。
ケイが口笛を吹いた。
「よく見てるねー」
「同感だ」
まほが短く言った。エリカが腕を組んだまま、伊里奈を横目で見た。
「……元プラウダの砲手って、伊達じゃないのね」
「当然でしょ。カチューシャが育てたんだから」
カチューシャが胸を張った。ノンナが何も言わずに、少しだけ目を細めた。
みほが伊里奈を見て、小さく頷いた。それから、もう一度黒板に向き直った。
「ひまわりが主力です。あさがおとたんぽぽは両翼を固めてください。各中隊は互いに支え合えるように距離を保って、はぐれないように……」
それから、少しだけ困った顔をした。
「……それで、一番大事なことですけど」
「作戦名は?」
「三方向から攻めるんだから、三種のチーズピザ作戦だ!」
アンチョビが身を乗り出した。
「ビーフストロガノフ作戦が一番よ! 玉ねぎと牛肉とサワークリームの組み合わせに勝るものはないわ!」
「フィッシュ・アンド・チップス・ビネガー作戦にしましょう」
ダージリンが微笑んだ。
「グリューワイン・ウント・アイスワイン作戦!」
「フライドチキンステーキ・グレイビーソース作戦!」
ケイが拳を突き上げた。
「あんこう鍋と干し芋と――」
「会長、混ざらないでください!」
柚子が杏の袖を引っぱった。
「間を取りまして、すき焼き作戦はいかがでしょう」
西が穏やかに言った。
「好物は作戦と関係ないだろう」
まほが眉ひとつ動かさずに言った。
「では、何がいいというのですか」
「マイスタージンガー・フォン・ニュルンベルク作戦はどうだ」
「長いっ!」
「――大隊長、決めてください!」
天幕じゅうの目が、みほに集まった。
みほはチョークを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、目を閉じて言った。
「……こっつん作戦、は」
「こっつん?」
「敵を見つけたら、こっつんとぶつかって……」
「なにそれ。ぜんぜん強そうじゃない」
エリカが眉をひそめた。
まほが言った。
「それでいこう」
「……こっつん。わ、わかったわよ」
エリカがそっぽを向いた。
伊里奈の隣で、すみれが記録帳にペンを走らせていた。
――こっつん作戦。
その字が、いつもより少しだけ丸かった。
6/
天幕を出ると、伊里奈は三人をT-34の前に集めた。
「今日の役目を、決めておきます」
こはるが背筋を伸ばした。千紗がカメラを下ろした。すみれが記録帳を開いた。
「こはるさん。なるべく止まらないでください。撃つときも、撃たれそうなときも。止まった戦車から狙われます」
「うん。……止まらない」
「千紗さん」
伊里奈は少しだけ間を置いた。
「……空を、見ていてください」
「空?」
千紗が眉を寄せた。
「敵は地面にいるでしょ」
「地面は私が見ます。千紗さんは空を。何か光ったら、何か落ちてきたら、すぐに教えてください」
千紗はしばらく伊里奈の顔を見ていた。それから、カメラのストラップを首にかけ直した。
「……わかった。空ね」
「すみれさん。白旗の数を記録してください。敵も、味方も」
すみれはペンを持ったまま、少しだけ黙った。
「……味方の欄は、なるべく空けておくわ」
「伊里奈ちゃんは?」
こはるが聞いた。
伊里奈はキューポラの縁に手をかけた。
「私は。――全員を、連れて帰ります」
この戦車の三人だけではなかった。ひまわりの全員。あの丘に向かう全員。
三人は、それ以上何も聞かなかった。
「たんぽぽは右翼へ。あさがおは左翼へ。ひまわりは中央へ」
みほの声が無線に乗った。
「――こっつん作戦、開始!」
「パンツァー・フォー!」
三十輌のエンジンが、一斉に吠えた。
T-34がゆっくりと動き出した。左にカチューシャのT-34/85。右にクラーラのT-34/85。三輌の同じ戦車が、並んで草原を進んでいく。
「……変な感じ」
千紗が砲塔の上でつぶやいた。
「ずっと、敵だった戦車と並んでる」
「今日は、味方です」
伊里奈は答えた。
7/
草原の反対側。
センチュリオンの砲塔の上で、愛里寿が双眼鏡を下ろした。
「隊長、ご指示を」
メグミが無線機を手に言った。
「高校生とはいえ、侮れない」
愛里寿は前を向いたまま言った。
「まず、プラウダと黒森峰の重戦車を叩く。アズミとメグミの中隊は、私の中隊と横一列で前進。敵の側面攻撃に注意。……偵察車は、敵を見つけても撃たないで」
「全車、前へ」
『ルミ、了解!』
『アズミ、了解。前進します』
「メグミ、前進」
二十四輌のパーシングが、草を踏みしだいて動き出した。
8/
草原の上を、CV33が一輌だけ先行していた。
「……あの、ドゥーチェ。ツインテールで前が見えないっす」
「二人乗りなんだから、しょうがないだろう!」
「じゃあ降りてくださいよ」
「降りるならお前だ、ペパロニ!」
「嫌っす」
「なら文句を言うな!」
「……それ、ウィッグじゃないんすか」
「痛っ! 引っぱるな! 地毛だ!」
無線から流れてくる声に、こはるが操縦席で肩を震わせていた。
『――見えた!』
アンチョビの声が、急に真面目になった。
『敵発見! 横一列で、ゆっくり前進中!』
『了解しました』
みほの声が返った。
『大隊長、ひまわりは現在、丘のふもとです』
まほの落ち着いた声が続いた。
伊里奈は双眼鏡を上げた。
目の前に、草原でいちばん高い丘があった。斜面の途中に白い岩肌がのぞいていて、頂上はなだらかに開けている。
『前衛、前進!』
エリカのティーガーIIが斜面に取りついた。
しばらくして、無線が鳴った。
『丘の上に、敵影なし!』
『なら、すぐに占領しなさい!』
カチューシャの声が、無線から飛びこんできた。
『大隊長、指示を』
『……慎重に』
みほの声が、少しだけ硬くなった。
『全車がそろったのを確かめてから、散開して前進してください。敵を見つけても、無理に交戦しないで。ひまわりが突出しすぎると、側面を突かれて分断されるかもしれません。そうなると、ほかの中隊と連携が取れなくなります』
『M26は登るのが苦手よ。大丈夫だって!』
『高地を取れば、戦術的に有利になります』
エリカが言った。
『有利、か。……だが、罠かもしれない』
まほの声だった。
伊里奈の手が、双眼鏡を握りしめた。
罠だ。
その一言が、喉まで出かかった。
『大丈夫よ!』
カチューシャの声が、まほの声にかぶさった。
『結局、妹のこと信用してないんじゃない?』
『…………』
『その点、ノンナはカチューシャのこと完全に信頼してるわよ! カチューシャが雪は黒いって言ったら、白いなんて絶対に言わないんだから!』
『それ、ただの個人崇拝じゃない』
エリカがぼそりと言った。
『……高所の取り合いは、経験のある側に有利だ。今のうちに、少しでも前へ出ておこう』
まほが言った。
伊里奈は無線のスイッチに指をかけた。
「――カチューシャさん」
『何よ』
「頂上に、固まらないでください。……一か所に、集まらないでください」
一瞬、無線が静かになった。
『……わかってるわよ。あんた、誰に言ってるの』
それだけ返ってきた。
全部は言えない。空から何が来るのかは、言えない。言ったところで、なぜ知っているのかを説明できない。
それでも、言える分だけは言った。
『行くわよ、みんな! 二〇三高地!』
カチューシャの声が無線に響いた。
右翼のどこかで、ダージリンの声がした。
『二〇三高地? ……プラウダは、あれがどういう戦いだったか、ご存じなのかしら』
『負けるつもりなのでしょうか』
オレンジペコの声が続いた。
伊里奈は双眼鏡を下ろした。
知っている。旅順の丘が、どれだけの血を吸ったのかを。
そして、この丘で今日、何が起きるのかを。
「千紗さん」
「わかってる」
千紗はもう、空を見上げていた。
「……今のところ、雲しかない」
雲は速かった。
その向こうのどこかに、まだ誰も知らない大砲が一門、口を開けて待っている。
それを知っているのは、ここで自分ひとりだけだった。