大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
履修者が集められたのは、新学期が始まって数日後の放課後だった。
校庭の端に、二十人ほどの生徒がばらばらに立っている。
戦車道を取った生徒たち、らしい。
バレー部のジャージ姿の四人組。歴史の話で盛り上がっている四人組。小柄な一年生のかたまり。
伊里奈は、その一番後ろに立っていた。隣には、こはると千紗とすみれ。
(……全員、いる)
画面で見たとおりの顔ぶれだった。
右手の端。癖のある茶色の髪の少女と、その両脇にいる二人。
武部沙織。五十鈴華。
そして、そのすぐ横で、そわそわと目を輝かせている、もじゃもじゃ頭の少女。
(秋山優花里)
名前は、口の中だけで呼んだ。
知っている。全員、知っている。
知っているのに、誰とも話したことがない。
不思議な感覚だった。
「はーい、みんな集まったねー」
前に出てきたのは、三人の生徒会役員だった。
小柄な会長の角谷杏は、干し芋をかじりながら手を振る。後ろでは、副会長の小山柚子が心配そうに眉を下げ、片眼鏡の広報・河嶋桃が腕を組んで仁王立ちしていた。
「では、戦車道の履修者に、最初の任務を言い渡す!」
桃の声が、校庭に響く。
「戦車を探せ」
ざわり、と空気が揺れた。
「探せ、って……」
「どこに?」
「学校のどっかにあるから。見つけたら教えてねー」
杏が、干し芋の先を空に向けて言った。
「会長! 説明が足りません!」
「えー? 戦車を探すんだよ?」
「だから、どこにあるのかと聞いているんです!」
生徒たちが、不安そうに顔を見合わせる。
伊里奈の隣で、こはるが小声で言った。
「……ねえ、伊里奈ちゃん」
「はい」
「私たち、もう持ってるよね?」
三人の視線が、伊里奈に集まった。
(……そうだ)
原作どおりなら、ここで全員が学校中を走り回る。
戦車を見つけるのは、そのあと。
でも、自分たちには、もう戦車がある。
伊里奈は、一歩前へ出た。
「あの」
杏の視線が、こちらを向いた。
「戦車なら、もう一輌あります」
干し芋をくわえたまま、杏の動きが止まる。
「……え、なに?」
「倉庫に古い戦車がありました。私たちで直して、動くようにしてあります」
「は!?」
桃が目を剥いた。
「勝手に直したのか!?」
「先生の許可は、いただいています」
千紗が、小声で補足する。
「危ないことはしない、という条件で」
杏が、じっと伊里奈を見た。
そして、にんまりと笑う。
「いいじゃん。動くなら、使っちゃおう」
「会長!」
「だって、探す手間が省けるでしょ。あんた、名前は?」
「雪村伊里奈です。三年生で、転入生です」
「雪村ちゃんね。じゃあ、雪村ちゃんたちは、その戦車の担当ってことで」
あまりにあっさりしていた。
伊里奈は、何を言えばいいのか分からなかった。
(……こんなに簡単に)
取り上げられるかもしれない、と思っていた。
何日も、そのことを考えていた。
それが、たった一言で。
「……ありがとうございます」
「うん。じゃ、よろしくねー」
杏は、ひらひらと手を振った。
桃が何か言いかけて、柚子に「桃ちゃん、落ち着いて」となだめられ、「桃ちゃんと呼ぶな!」と叫んでいる。
こはるが、伊里奈の袖を引いた。
「ねえ、よかったね!」
「……はい」
胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
守れた。
少なくとも、今は。
*
生徒たちが一斉に散っていく。
「戦車、戦車!」
「どこだろう?」
賑やかな声が、校庭から校舎の向こうへ流れていった。
伊里奈たちは、そのままT-34のもとへ向かった。
「せっかくだから、校庭まで持ってきちゃおうよ」
こはるが、拳を握る。
「前進と停止しか、まだ練習していませんよ」
「歩くくらいの速さなら、大丈夫でしょ?」
「……ゆっくり、ですよ」
「了解!」
こはるが操縦席に潜り込み、千紗が後ろで外を確認する。
「前方、よし」
「すみれ、時間は?」
「十五時十二分。出発」
T-34が、ゆっくりと倉庫を出た。
履帯が土を踏む音。
重いエンジンの唸り。
校庭のほうから、声が上がる。
「え、戦車が動いてる!」
「うそ、あれ動くの!?」
ざわめきが、一気に広がった。
伊里奈は車長席から、顔を出した。
たくさんの視線が、こちらに集まっている。
(……目立ってる)
頬が、少しだけ熱くなった。
*
校庭の端に、戦車が並び始めていた。
遠くで歓声が上がるたびに、一輌、また一輌と戦車が見つかっていく。
伊里奈たちのT-34は、ようやく校庭の端に停まった。
「ふう、無事に着いた!」
こはるが、操縦席から顔を出して笑う。
「よくやりました」
「えへへ」
そのときだった。
「T-34!?」
誰かの叫び声が、校庭に響いた。
振り返ると、もじゃもじゃ頭の少女が、猛然と駆け寄ってくるところだった。
「T-34! T-34ですよね!? しかも、動いている!?」
「ゆ、優花里さん、待って!」
後ろから、沙織の声が追いかけてくる。
優花里は、止まらなかった。T-34の前でぴたりと足を止め、車体を上から下まで食い入るように見つめる。
「この砲塔の形……初期型ですね!? T-34/76の、それも初期の!?」
「あの」
「しかも、ここまでちゃんと動く状態に整備されている! これは、いったい誰が!?」
優花里の視線が、勢いよく伊里奈に向いた。
伊里奈は、思わず一歩下がった。
「えっと……私たち、四人で」
「四人で!? 直したんですか!?」
「は、はい」
「すごい……! すごいです!」
優花里は、両手で顔を覆って震えていた。
沙織が追いついて、息を切らしながら優花里の肩を叩く。
「優花里、落ち着いて! ほら、ご迷惑でしょ」
「す、すみません! つい興奮して!」
「ほんと、戦車のことになると止まらないんだから」
華が、おっとりと微笑んで後から来る。
そして、その少し後ろ。
遠慮がちに、一歩下がった場所に、みほが立っていた。
伊里奈の心臓が、どくんと跳ねた。
(……来た)
「あの……」
みほが、おずおずと口を開いた。
画面越しに何度も聞いた声。
少し高くて、遠慮がちで、でも、やさしい声。
本物だった。
「この戦車、本当に、自分たちで直したんですか?」
「……はい」
声が、少し裏返った。
「四人で、一か月半ほどかけて」
「すごい、ですね」
みほは、T-34の足回りを見つめた。
「履修したばかりで、こんなに状態のいい戦車を用意できるなんて。履帯の張りも、転輪の取り付けも、丁寧に整備されていて」
言葉が、どんどん熱を帯びていく。
「ここの部品、わざわざ加工して合わせたんですか? すごく丁寧に――あ」
みほが、はっと口を押さえた。
「ご、ごめんなさい。急に、いろいろ言って」
「いえ」
伊里奈は、首を振った。
「……見ていただけて、嬉しいです」
嘘ではなかった。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
(この人は、戦車を見る目がある)
分かっていた。
分かっていたことなのに、実際に目の前で見ると、全然違った。
「あの、お名前を伺ってもいいですか?」
「雪村伊里奈です。三年生で、転入生です」
「三年生の方でしたか。すみません、失礼しました」
みほは慌てて頭を下げた。
「私は、西住みほです。二年生で……あの、私も転校してきたばかりで」
「知っています」
言ってしまってから、口をふさぎたくなった。
「……あの、噂で。戦車道の経験者の方が、転校してきたと」
「あ……」
みほの表情が、ほんの少しだけ曇った。
けれど、すぐに、小さく微笑んだ。
「噂、広がっているんですね」
「すみません」
「いえ。大丈夫です」
それ以上、みほは何も言わなかった。
沈黙が、少しだけ落ちる。
「ねえねえ!」
こはるが、その空気を一気に破った。
「せっかくだから、洗おうよ! みんなで!」
「洗う?」
「戦車! このまま汚れてたら、かわいそうでしょ?」
「……こはる、バケツ持ってきました?」
「持ってきてる!」
こはるは、どこからか大きなバケツを取り出して、自慢げに掲げた。
沙織が、思わず吹き出す。
「面白い子だね。いいなあ、私たちも洗おうよ、みほ!」
「うん……!」
みほが、頷いた。
「優花里さん、一緒に洗いましょう」
「はいっ! 喜んでお手伝いします!」
優花里は、勢いよく敬礼した。
*
校庭の端に、水の音が響いていた。
「せーのっ!」
こはるが、バケツの水をT-34の車体にかける。
ざあっと泥が流れ、錆びた鉄の下から、うっすらと赤い塗料が顔を出した。
「あ、星だ!」
こはるが声を上げる。
「これ、赤い星のマークだよね?」
「……はい」
伊里奈は、布を握りながら頷いた。
砲塔の側面。
洗い流されて、少しだけくっきりと浮かび上がった、赤い星の名残。
(……こんなふうに、見えるんだ)
倉庫の暗がりで見るのとは、まるで違った。
日の光の下では、色褪せた赤が、思ったより鮮やかだった。
「ソ連の戦車だから、ですか?」
ふいに、隣から声がした。
みほだった。
いつの間にか、スポンジを持って、T-34の反対側から回ってきたらしい。
「赤い星のマーク。ソ連の戦車、ですよね」
「……はい」
「プラウダ高校の戦車とは、マークが違うんですね」
心臓が、止まりそうになった。
「……そう、ですね」
声が、かすれた。
みほは、何も気づいていない様子で、T-34の車体を優しく拭いている。
「きれいにしてあげると、戦車も喜んでいるみたいですね」
「……喜んで、いますか?」
「はい。なんとなく、ですけど」
みほは、くすっと笑った。
その笑顔を、伊里奈は直視できなかった。
(……この人は、知らない)
去年の決勝で、自分が何をしていたか。
あの泥の中で、誰の声を聞いていたのか。
何も、知らない。
知らないままで、いい。
「……そうだと、いいです」
それだけ答えて、伊里奈は車体を拭き続けた。
手が、少しだけ震えていた。
*
洗車が終わるころには、夕日が校庭を橙色に染めていた。
沙織たちは、自分たちの戦車の前で、満足そうに頷き合っている。
「きれいになったね!」
「ええ。見違えるようです」
「これから、一緒に頑張りましょうね、西住殿!」
「うん。よろしくね」
楽しそうな声が、夕空に溶けていく。
そのすぐそばで、T-34も、すっかり汚れを洗い流されていた。
赤い星が、夕日を受けて、鈍く光っている。
「……伊里奈ちゃん」
こはるが、横から顔を覗き込んできた。
「顔、赤いよ?」
「夕日のせいです」
「でも、それ、さっきから赤くない?」
「……こはる」
「はーい、黙りまーす」
こはるが、にやにやしながら下がっていく。
千紗が、くすりと笑った。
「いい子たちだったね。あの人たち」
「……はい」
「西住さんも、思ったより話しやすかった」
「……そうですね」
伊里奈は、校庭の向こうを見た。
沙織と華と優花里に囲まれて、みほが笑っている。
少し困ったように。でも、確かに、楽しそうに。
(……変えられない)
本当に、そう思う。
この物語は、きっと、予定どおりに進む。
でも。
(今日だけは、少しだけ違う)
原作の洗車の場面に、T-34はいなかった。
画面の隅に、赤い星なんて映っていなかった。
それだけのことが。
なぜか、少しだけ、嬉しかった。
伊里奈は、そっと砲塔に手を置いた。
洗い立ての鉄が、夕日で、温かかった