大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
朝の道は、いつもより少しだけ眠かった。
伊里奈は、通学路を一人で歩いていた。校舎が見え始める坂の途中。
前方に、見覚えのある背中があった。
癖のある茶色の髪。肩に掛けた鞄を抱え直しながら、誰かの腕を支えて歩いている。
(……あ)
足が、止まった。
支えられているのは、小柄な少女だった。長い黒髪が、顔の半分を隠している。足元はふらふらで、今にも道端に座り込みそうだ。
「あの、冷泉さん、あと少しですから」
「……眠い」
「学校に着いてからにしてくださいね」
「……努力する」
聞き覚えのあるやりとりだった。
画面の向こうで、何度も見た。
(冷泉麻子)
名前を呟きかけて、口を閉じた。
(……ここ、だったんだ)
あの朝の通学路は、これだったんだ。
画面で見た景色と、今、足元に広がる景色。同じアスファルト。同じ坂。同じ朝の光。
違うのは、自分がここにいること。
声をかけようとして、やめた。
何を言うつもりだったのだろう。「手伝います」と? 「大丈夫ですか」と?
そのひとことで、何かが変わってしまうかもしれない。
麻子が、がくりと膝を折りかけた。
「わっ、冷泉さん!」
みほが慌てて抱え込む。鞄が肩から滑り落ちて、道に転がった。
伊里奈の足が、勝手に動いた。
「……どうぞ」
気づけば、麻子の鞄を拾い上げて、みほに差し出していた。
「えっ、あ……雪村さん?」
「通り道でしたので」
自分でも、ぎこちない言い訳だと思った。
みほは、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます! 助かりました」
「いえ」
麻子が、薄く目を開けた。眠そうな目が、伊里奈を一度だけ見て、また閉じる。
「……だれ」
「三年の雪村さん。戦車の」
「……ふーん」
それきり、麻子はみほに寄りかかったまま、また歩き出した。
伊里奈は、二人の後ろに並んで歩いた。
話しかけない。追い越さない。ただ、一定の距離を保ったまま。
(……これくらいなら)
いいだろうか。
物語の外にいる自分が、鞄を拾うくらいなら。
そう自分に言い聞かせながら、校門をくぐった。
*
昼休み。
校庭の端では、T-34が日向ぼっこをしていた。
「じゃあ、午後の練習は、前進と旋回から」
「了解!」
こはるが、操縦席のハッチから顔を出して、元気に敬礼する。
伊里奈は、すみれの記録帳に目を通していた。
「昨日の始動時の振動は、午前の点検では出ていないわ。ただ、念のため、旋回のときに注意したほうがいいと思う」
「分かりました。千紗、外の様子は?」
「大丈夫。誰も来てな——」
「T-34~~!」
千紗の言葉は、遠くから響いた声にかき消された。
校庭の向こうから、もじゃもじゃ頭の少女が、一直線に駆けてくる。
「ゆ、優花里さん、待って!」
「走らないでください、危ないですよ!」
後ろから、沙織と華が追いかけてきた。
そして、少し遅れて、みほ。
優花里は、T-34の前でぴたりと止まり、直立不動で敬礼した。
「お昼休みに失礼します! 西住殿のお許しをいただいて、お邪魔しました!」
「許可したつもりは……」
みほが小さく言いかけたが、優花里の耳には入っていないようだった。
「雪村殿! お願いがあります!」
「と、殿……?」
「T-34の内部を、見せていただけないでしょうか!」
伊里奈は、思わず目を瞬かせた。
(……殿、って)
画面の向こうで聞き慣れた呼び方が、自分に向けられている。
不思議な感覚だった。
「優花里、いきなりすぎ」
沙織が呆れた声で言う。
「でも、気になるじゃないですか! 初期型のT-34の車内ですよ! 一生に一度あるかないかの機会で——」
「……いいですよ」
伊里奈が言うと、優花里の動きが止まった。
「え、ほんとうですか!?」
「はい。ただ、狭いので、一人ずつです」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
優花里は、地面に額がつきそうなほど頭を下げた。
こはるが、ぷっと吹き出す。
「面白い子だね」
「えっ、あ、あなたは」
「朝倉こはる! 操縦手! よろしくね!」
「私は秋山優花里です! 戦車が好きなだけの普通の女子高生です!」
「普通……?」
千紗が、小さくつっこんだ。
優花里は、ハッチから車内へ身を滑り込ませた。
数秒後。
「うわあああっ……!」
車内から、感極まった声が響いた。
「これが、T-34の操縦席! この狭さ! この配置! しかも手入れが完璧です! 計器の位置も、レバーの動きも、ちゃんと整備されている!」
「優花里、うるさい」
沙織が、ハッチ越しに声をかける。
「だって! すごいんですよ!」
車体のそばでは、華が静かに戦車を見上げていた。
「私も、拝見してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。順番に」
「ありがとうございます」
華は、お辞儀をして、ゆっくり車体に登っていく。
その動作が、あまりにも落ち着いていて、伊里奈は思わず見入った。
(……五十鈴さんの、姿勢)
何か、芯のあるものを感じた。
画面の向こうでは気づかなかったけれど、実際に目の前で見ると、立っているだけで空気が変わる人だった。
車内から出てきた華は、ふわりと微笑んだ。
「素敵ですね。大切にされているのが、よく分かります」
「……ありがとうございます」
「次は、沙織さんも」
「えっ、私も?」
「どうぞ!」
沙織は、少し戸惑いながら車体に登った。
しばらくして、ハッチの向こうから、くぐもった声がする。
「せまっ! なにこれ、暑い! 髪の毛が崩れるー!」
「沙織さん、崩れる髪型でしたっけ?」
「そういう問題じゃないの!」
こはるが、腹を抱えて笑っている。
千紗とすみれも、肩を震わせて笑いをこらえていた。
伊里奈は、その様子を、少し離れた場所から見ていた。
賑やかだ。
不思議なくらい、賑やかだった。
この光景は、画面にはなかった。
洗車のシーンの隅にも、昼休みの校庭にも、T-34は映っていなかったから。
自分たちは、本来、ここにいないはずの人間だ。
それなのに、みほたちは、当たり前のように笑っている。
その輪の中に、いつの間にか、自分たちがいる。
(……変なの)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
「雪村さん」
後ろから、声がした。
振り向くと、みほが立っていた。
「あの……ありがとうございます。みんなを、中に入れてくれて」
「いえ。優花里さんが、あまりにも熱心でしたので」
「優花里さん、戦車のことになると、止まらなくて」
みほは、小さく笑った。
それから、少しだけ目を伏せた。
「雪村さんは、どうして戦車道を取ったんですか?」
唐突な質問だった。
伊里奈は、少しだけ考えた。
「……戦車を、守りたかったからです」
「戦車を?」
「あの戦車は、私たちが直したものですから。戦車道が始まるなら、一緒にいたいと思って」
嘘ではなかった。
全部でもなかった。
みほは、しばらく黙っていた。
「……いいですね」
ぽつりと、そう言った。
「私は、戦車道をやるつもりは、なかったんです」
心臓が、一度だけ強く鳴った。
「転校してきたばかりで、もう関わらないって決めていたのに。でも、気づいたら、ここに立っていて」
「……」
「だから、雪村さんみたいに、自分の意思で選べた人が、少し羨ましいです」
伊里奈は、答えに迷った。
知っている。
みほが、なぜ戦車道を避けていたのか。
どんな夜を過ごして、この学校に来たのか。
言うことはできない。
言ってしまえば、何かが壊れる。
だから、伊里奈は、ほんの少しだけ、言葉を選んだ。
「……分からなくて、いいと思います」
みほが、顔を上げた。
「やってみて、分かることもありますから」
自分でも、驚くほど静かな声だった。
「私も、全部を決めて、ここにいるわけではありません。ただ、目の前の戦車が気になって、手を伸ばしただけです」
「……それだけで」
「それだけで、いいんです」
風が、二人の間を通り抜けた。
みほは、小さく息を吐いて、微笑んだ。
「ありがとうございます。少し、楽になりました」
「いえ」
伊里奈は、視線を逸らした。
これ以上、見つめていたら、何かを言ってしまいそうだった。
(……私は、何を言おうとしているんだろう)
「雪村殿ー! 次は、旋回のメカニズムについて!」
車内から、優花里の声が響く。
「優花里、まだ入ってたの!?」
沙織の悲鳴が重なって、校庭に笑い声が弾けた。
*
放課後の練習が終わるころには、空は薄いオレンジ色に染まっていた。
「ふー、疲れた!」
こはるが、ハッチから顔を出して、大きく伸びをする。
「今日は、旋回の練習を、ちゃんとやりましたからね」
「でも、前より、車体が安定してる気がする」
千紗が、手元の記録を覗き込んだ。
「すみれ、振動は?」
「落ち着いてる。昨日より、右側の揺れが小さいわ」
「よかった」
三人の声を聞きながら、伊里奈は、校庭の向こうを見た。
みほたちが、戦車のそばで、何かを話している。
優花里が熱弁をふるい、沙織が茶々を入れ、華がそっと微笑んで、みほが小さく笑っている。
夕日が、四人の背中を、柔らかく照らしていた。
(……あの輪の中に)
自分は、入らない。
入らないと、決めている。
でも、完全に外にいるわけでもない。
その中途半端な距離が、少しだけ、心地よかった。
「伊里奈ちゃん」
こはるが、横から顔を覗き込んできた。
「西住さんと話してたとき、いつもと違ったね」
「……そう、ですか?」
「うん。なんか、やわらかかった」
「気のせいです」
「ほんとかなー」
こはるは、にやにやしながら、先に歩き出した。
千紗が、くすりと笑って、すみれがノートを閉じる。
三人の背中を、伊里奈はゆっくりと追いかけた。
歩きながら、ふと、空を見上げる。
春の空。薄い雲。遠くを渡る鳥。
(……そろそろ、のはず)
原作の流れでは、近いうちに、あれが来る。
空から、戦車が降ってくる、あの日が。
思い出すだけで、頭が痛くなる。
画面で見たときは、笑った。笑ったけれど、実際にその場にいるとなると——
(……避難しないと)
伊里奈は、小さく頭を振った。
「伊里奈ちゃん、置いてくよー」
「……今、行きます」
夕暮れの道を、四人で歩く。
その先で、あの日が待っている。
空から戦車が降ってくるなんて、誰も、まだ知らない。
伊里奈以外は。