大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
第7話 塗り替えない星
錆びた赤い星と、変えられない物語
1/
模擬戦が終わったあと、戦車道の履修者たちは学園艦の大浴場に集まっていた。
泥と油と汗にまみれた体を、熱い湯がじんわりとほどいていく。
「はあぁぁ……生き返るぅ……」
湯船の縁にあごを乗せて、こはるがとろけた声を出した。
「こはる、沈んでる」
「沈んでないよぉ……浮いてるよぉ……」
千紗に腕を引っ張られても、こはるは湯の中でだらりと伸びたままだった。すみれは髪をまとめ上げて、その隣で静かに目を閉じている。
伊里奈は、湯気の向こうに目をやった。
少し離れた湯船の端に、みほたち五人が並んで浸かっていた。沙織が身振り手振りで何かを話し、華が笑い、優花里が熱心に頷いている。その端で、麻子がまた、うとうとと船を漕いでいた。
五人。もう、五人だ。
「――まこ、戦車道、一緒にやらない?」
湯気越しに、沙織の声が聞こえてきた。
「……書道、取ってるから」
「でもさ、まこ、このままだと遅刻で単位足りなくなるよ? 留年なんてしたら、おばあ、絶対怒るよ?」
麻子の肩が、ぴくりと動いた。
「……おばあは、怖い」
「でしょ? 戦車道なら、単位もたくさんもらえるし」
麻子は、しばらく湯気の向こうを見ていた。それから、ぼそりと言った。
「……それに、西住さんには、借りがある」
みほが、きょとんと目を瞬かせる。麻子は口元まで湯に沈めて、短く続けた。
「……やる」
こはるが湯の中で吹き出しかけて、千紗に「しーっ」と口をふさがれる。
伊里奈も、思わず口元がゆるんだ。
画面で観たときも、ここは好きな場面だった。おばあに怒られたくなくて、それから、朝の通学路で受けた借りを返すために。ぶっきらぼうな言葉の裏に、ちゃんと義理堅さが見える。
それから五人は、湯船の中で役割を決め直し始めた。
「車長は、やっぱりみぽりんだよね」
「えっ、私?」
「当たり前でしょ。今日だって、最後はみぽりんが指示出してたじゃん」
車長、西住みほ。操縦手、冷泉麻子。砲手、五十鈴華。装填手、秋山優花里。通信手、武部沙織。
くじ引きでばらばらだった五人の席が、ひとつずつ、あるべき場所に収まっていく。伊里奈の知っている、あのIV号の乗員が、今まさにここで揃った。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。湯のせいだけではなかった。
「……伊里奈ちゃん、なんか嬉しそう」
いつの間にか復活していたこはるが、伊里奈の顔を覗き込んでいた。
「……気のせいです」
「ほんとかなー」
「ほんとです」
伊里奈は、顔の半分まで湯に沈めた。
2/
翌日の昼休み、伊里奈たち四人は、校舎の端にある自動車部のガレージを訪ねた。
シャッターの向こうから、工具の音と、軽快なラジオの音楽が聞こえてくる。
「失礼します。戦車道の履修者の、雪村です」
声をかけると、つなぎ姿の少女が、車の下から台車ごとするりと滑り出てきた。顔に油の筋をつけたまま、にこりと笑う。
「はいはーい。戦車道の人? 生徒会から話は聞いてるよ。自動車部のナカジマです」
その後ろから、三人の部員も顔を出した。みんな同じつなぎを着て、同じように手が黒い。
画面の向こうで、何度も大洗の戦車を蘇らせてきた人たちだ。伊里奈は、思わず背筋を伸ばした。
「実は、見ていただきたい戦車があって」
「あー、あの赤い星の? 昨日の模擬戦、見てたよ。最後、右に曲がりそこねてたやつだよね」
見られていた。伊里奈は、黙って頷いた。
「右の旋回が、負荷がかかると遅れるんです。始動のときの振動とも、関係があるかもしれません」
すみれが、記録帳を差し出す。ナカジマはぱらぱらとそれをめくって、目を丸くした。
「うわ、すごい。ちゃんと全部記録してあるんだ。これ、すごく助かるよ」
「三冊目です」
すみれが、少しだけ誇らしげに言った。
放課後、自動車部の四人は、倉庫のT-34を取り囲んでいた。
ナカジマが車体の下に潜り込み、別の部員が点検口を開け、もう一人が履帯を叩いて音を聞く。手際がいい、なんてものではなかった。四人がまるで一台の機械みたいに、無駄なく動いている。
「あー、これだ」
車体の下から、ナカジマの声がした。
「右の操向クラッチが、すり減ってるね。それと、ブレーキのバンドも。部品はうまく合わせてあるけど、ほんの少しだけ寸法がずれてる。ゆっくり走るぶんには平気だけど、急に曲がろうとすると、滑って力が伝わらないんだ」
「……直せますか」
伊里奈が聞くと、ナカジマは車体の下から顔を出して、あっさりと言った。
「うん。一晩あれば」
「ひ、一晩!?」
こはるが、目をむく。
「部品は削り出せばいいし。明日の朝には、動かせるようにしとくよ」
伊里奈は、思わず笑ってしまった。
知っていた。この人たちは、そういう人たちだ。何年も放っておかれた戦車も、水に沈んでいた戦車も、一晩で走れるようにしてしまう。画面の向こうでは、まるで魔法みたいに見えた。
けれど目の前の四人は、魔法使いではなかった。油まみれの手で、部品をひとつずつ確かめていく、ただの職人だった。
「……よろしくお願いします」
伊里奈は、深く頭を下げた。三人も、慌ててそれに続いた。
3/
その次の日の朝。
格納庫の前に出てみると、とんでもないことになっていた。
「……え」
こはるが、口を開けたまま固まった。
M3リーが、鮮やかなピンク色に塗られている。三号突撃砲には、色とりどりののぼりが何本も立ち、38(t)は金色にぎらぎらと輝いていた。八九式の車体には、白い文字で大きく、バレー部の復活を願う言葉が書かれている。
戦車たちが、それぞれのチームの好き勝手な色に染まっていた。
「かわいいでしょー!」
ピンクのM3の上で、一年生たちが手を振っている。
伊里奈は、こめかみを押さえた。
知ってはいた。知ってはいたけれど、実物は想像以上だった。
「わあ……」
声のしたほうを見ると、IV号の前で、みほが呆然と立ち尽くしていた。戦車道の名家で育った人にとって、この光景はなかなかの衝撃だろう。
けれど、その横顔は、どこか楽しそうにも見えた。
「ねえねえ、伊里奈ちゃん。私たちも塗ろうよ!」
こはるが、目を輝かせて振り返った。
「何色にする? ピンク? 金色?」
「……塗りません」
「えー!」
「私たちの戦車には、もう印がありますから」
伊里奈は、T-34の砲塔を見上げた。
自動車部が一晩で直してくれた車体は、朝の光の中で静かに佇んでいる。洗車のときに浮かび上がった赤い星は、色褪せたまま、それでも確かにそこにあった。
ソ連の星。プラウダの戦車とは違う、古い星。
本当は、塗りつぶしてしまおうかと考えたこともあった。あの星を見るたびに、雪の学園艦を思い出してしまうから。
けれど、洗車のとき、この星を見ていちばん喜んだのは、こはるだった。「あ、星だ」と、嬉しそうに声を上げて。
「……この星は、塗り替えたくないんです」
ぽつりと、そう言った。
こはるは、少しだけ首をかしげた。それから、にっと笑った。
「そっか。じゃあ、ちゃんときれいにしてあげよう。この星、私たちのだもんね」
「……はい」
私たちの、星。
その言葉が、思っていたよりもずっと、胸に響いた。
4/
その日の放課後、履修者全員が、倉庫の前に集められた。
「全員、聞け!」
桃が、声を張り上げた。
「今週末、練習試合を行うことが決まった。相手は――聖グロリアーナ女学院だ!」
ざわり、と空気が揺れた。
「聖グロリアーナって、強いの?」
「全国大会でも、毎年上位に名前が挙がる強豪校です!」
優花里が、半分悲鳴のような声を上げる。一年生たちが顔を見合わせ、バレー部の四人が「根性で!」と拳を握った。
伊里奈は、黙って列の後ろに立っていた。
聖グロリアーナ女学院。紅茶を愛し、優雅に戦う名門校。隊長はダージリン。チャーチル一輌と、マチルダ四輌。重い装甲で、じわじわと押し寄せてくるイギリス戦車の部隊。
そして、大洗が初めて負ける相手だ。
「詳しい作戦は、生徒会で詰める。以上、解散!」
桃の号令で、履修者たちはばらばらと散っていった。
伊里奈も、こはるたちと倉庫へ戻ろうとした。そのときだった。
「西住ちゃーん、作戦考えるから、ちょっと来てー」
干し芋をくわえた杏が、ひらひらと手を振っていた。みほが、戸惑ったように振り返る。
「あ、雪村ちゃんもね」
「……え」
足が止まった。
「わ、私もですか」
「うん。経験者でしょ?」
杏は、いつもどおりののんびりした顔で笑っていた。
経験者。プラウダ、とは言わなかった。それでも、知られているのだとわかった。転入の書類を見れば、前の学校で何をしていたかくらい、すぐにわかる。
喉の奥が、ひやりとした。
「伊里奈ちゃん、行ってきなよ。私たち、倉庫で待ってるから」
こはるに背中を押されて、伊里奈は小さく頷いた。
生徒会室には、大きな机がひとつと、黒板がひとつあった。窓際の椅子に杏が腰を下ろし、柚子がお茶を淹れ、桃が黒板の前に立つ。
みほと伊里奈は、並んで机の前に座らされた。
「作戦は、これだ!」
桃が、黒板に大きく図を描いた。
「一輌が囮になって敵を引きつけ、有利な地点に誘い込む。そこで、待ち伏せていた全車輌で一斉に叩く!」
伊里奈は、黒板の図をじっと見つめた。
覚えている。この作戦も、この部屋の空気も。けれど画面の中のこの場面に、自分の席はなかった。
隣で、みほが小さく息を吸った。
「……あの。聖グロリアーナは、たぶん、こちらが待ち伏せを狙ってくることは、想定していると思います」
桃の顔が、みるみる赤くなっていく。
「な……ならば、どうしろと言うんだ! 雪村、お前はどう思う!」
矛先が、急にこちらを向いた。
伊里奈は、一瞬だけ迷った。知っている。この作戦がどうなるのかも、試合がどう終わるのかも。けれど、それを口にすることはできない。
「……西住さんの言うとおりだと思います。相手は、待ち伏せには慣れているはずです」
それだけ答えた。嘘ではない。全部でもないけれど。
「ぐぬぬ……」
桃が唸ったところで、窓際の杏が干し芋をかじった。
「んじゃ、西住ちゃんが隊長ね」
「えっ」
「わかってる人がやったほうがいいでしょ。で、副隊長は、かーしまと雪村ちゃん」
「えっ」
今度は、伊里奈の声だった。
「か、会長! 私が副隊長なのはともかく、なぜ雪村まで!」
「経験者が二人いたほうが、心強いじゃん」
杏はけろりと言って、干し芋の先を、みほと伊里奈に順番に向けた。
「あ、そうそう。負けたら、西住ちゃんと雪村ちゃんには、あんこう踊りやってもらうから」
「あ、あんこう踊り……!?」
みほが、疑問を浮かべ困惑する。
伊里奈は、膝の上でそっと手を握りしめた。
原作では、この部屋に呼ばれたのはみほだけだった。副隊長に、自分の名前なんてなかった。
物語の真ん中に、いつの間にか一歩、足を踏み入れてしまっている。
生徒会室を出ると、廊下はもう夕暮れの色に染まっていた。
並んで歩きながら、みほがおずおずと口を開いた。
「雪村さんも、戦車道をやっていたんですね」
「……少しだけ、です」
「模擬戦のとき、なんとなく、そうなのかなって思っていました」
みほは、ほっとしたように微笑んだ。
「心強いです。……私ひとりじゃ、きっと不安だったから」
その笑顔を、伊里奈はまっすぐに見られなかった。
どこで戦車道をやっていたのか。去年の決勝の日、どこにいたのか。この人は、聞いてこない。だから、伊里奈も言わない。
「……私も、できることはします」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
昇降口では、沙織たちと、こはるたちが待っていた。みほが生徒会室での話を伝えると、沙織の悲鳴が響き渡った。
「あんこう踊り!? 負けたら、あれ踊るの!? みんなの前で!?」
「う、うん……会長が、そう言ってて……」
みほが、申し訳なさそうに肩をすくめている。その隣で華がおっとりと首をかしげ、優花里が「西住殿が、隊長……!」と目を潤ませていた。
「えっ、伊里奈ちゃん、副隊長になったの!?」
こはるが目を丸くし、千紗とすみれも顔を見合わせている。
「……河嶋さんと、二人でです」
あんこう踊りのことは、言わなかった。
伊里奈は、靴を履き替えながら、そっと息をついた。
ほとんど、知っているとおりだった。――ひとつを除いて。
そして週末の試合で、大洗は負ける。
――本当に、そうだろうか。
原作の聖グロリアーナ戦に、T-34はいなかった。大洗の戦車は五輌。けれど今は、六輌ある。
それで何かが変わるのかどうかは、まだわからない。
5/
同じ頃。聖グロリアーナ女学院の学園艦では、午後のお茶の時間が始まっていた。
「ダージリン様。大洗女子学園から、練習試合の申し込みが届いています」
オレンジペコが、一枚の書類を差し出した。ダージリンはティーカップを置いて、それを受け取る。
「大洗……。戦車道を、今年復活させたばかりの学校ね」
「はい。参加車輌は、IV号戦車、八九式、三号突撃砲、M3リー、38(t)、T-34/76の六輌です。国も型式も、ばらばらですね」
「寄せ集め、ということね」
ダージリンは書類に目を落とし、それからティーカップを持ち上げた。紅茶の湯気が、ゆるやかに立ちのぼる。
「こんな言葉を知っている? 『プディングの味は、食べてみなければわからない』」
「……イギリスのことわざですね」
「ええ。見た目や評判だけでは、中身はわからない、ということよ」
ダージリンはくすりと笑って、もう一度、書類に目を落とした。
「お受けしましょう。向こうが六輌なら、こちらも六輌でお相手するのが礼儀ね。マチルダを、もう一輌用意してちょうだい」
6/
その夜、伊里奈たち四人は、倉庫の前に集まっていた。
「こはる、右旋回」
「りょーかい!」
T-34が、倉庫前の空き地で、ゆっくりと右へ向きを変えた。
今度は、滑らない。履帯が地面を噛み、車体がなめらかに回っていく。
「……曲がった」
こはるが、操縦席で呟いた。
「曲がった! ちゃんと曲がったよ、伊里奈ちゃん!」
「振動もない。完璧ね」
すみれが、記録帳に大きな丸をつける。千紗が、ほっと肩の力を抜いた。
伊里奈はハッチから顔を出して、夜の空を見上げた。
週末、聖グロリアーナとの練習試合。
昼間、聖グロリアーナから返事が届いていた。向こうも六輌で応じる、と。チャーチル一輌に、マチルダが五輌。
原作より、一輌多い。
こちらが一輌増えたぶん、向こうも一輌増やしてきた。まるで物語が、帳尻を合わせようとしているみたいだった。
原作では、大洗は負ける。みほの指揮で善戦はするけれど、最後はダージリンのチャーチルに追い詰められて、IV号が撃破される。そして全員で、あんこう踊りを踊ることになる。
変えられない。何度も、そう思い知ってきた。
けれど、去年の自分には、なかったものがある。
一緒に戦車を直してくれた仲間。この星を「私たちの」と言ってくれた人。
「伊里奈ちゃん」
足元から、こはるの声がした。
「次は、勝とうね」
伊里奈は、小さく頷いた。
「……はい」
夜風が、砲塔の赤い星を撫でていった。