大洗にT-34がいたら(旧題眠れる鉄騎と、春の大洗) 作:ouka23
第8話 一輌ぶんの差
錆びた赤い星と、変えられない物語
1/
試合当日の朝。大洗の港に、とんでもなく大きな学園艦が入ってきた。
「うわぁ……」
こはるが、口を開けたまま見上げている。岸壁には、町の人たちがちらほらと集まり始めていた。戦車道の試合が、この町で開かれるのは久しぶりらしい。
聖グロリアーナ女学院の学園艦から、戦車が一輌ずつ降りてくる。先頭に、分厚い装甲のチャーチル。その後ろに、丸みを帯びたマチルダが、五輌。
「……六輌、だね」
千紗が、小さく数えた。
伊里奈は、黙ってその列を見つめていた。画面で観たときよりも、一輌だけ多い。その一輌ぶんの差が、妙に重たく感じられた。
試合前の挨拶には、隊長と副隊長が並んだ。みほと、桃と、伊里奈。
向かい合うのは、金色の髪を結い上げた、穏やかな笑みの少女だった。その斜め後ろに、小柄な後輩が控えている。
ダージリンと、オレンジペコ。
「本日は、申し込みを受けてくださって、ありがとうございます!」
桃が、いつもより一段高い声で頭を下げる。ダージリンは優雅に会釈を返した。
「構いませんわ。こちらこそ、よい試合にしましょう」
その間、穏やかな目が、みほ、桃、伊里奈の順に、ゆっくりと三人を見ていく。ただそれだけなのに、伊里奈は、自然と背筋を伸ばしていた。
この人は、画面の向こうよりもずっと、余裕がある。
2/
試合は、殲滅戦だった。どちらかの戦車が全部動けなくなったら、その時点で終わり。
開始地点の林の中で、みほが地図を広げた。
「作戦は……こそこそ作戦です」
「こそこそ?」
沙織が首をかしげる。みほは少しだけ照れたように笑って、地図の上を指でなぞった。
「私たちIV号が先に出て、相手を見つけたら、ここまで引っ張ってきます。みなさんはこの稜線の陰に隠れていて、相手が射程に入ったところで、一斉に攻撃してください」
それから、伊里奈のほうを振り向いた。
「待ち伏せの指揮は、河嶋さんと雪村さんにお願いします」
「……わかりました」
伊里奈は、頷きながら、地図の稜線をじっと見つめた。
この待ち伏せがどうなるのか、伊里奈は知っている。初めての実戦で焦ったみんなが、IV号が戻ってくるなり撃ち始めてしまう。弾は当たらず、逆に聖グロリアーナに囲まれる。
せめて、そこだけでも。
稜線の陰に戦車を並べ終えると、伊里奈は無線のスイッチを押した。
「待ち伏せ班の皆さん。IV号が戻ってきても、すぐには撃たないでください。IV号が稜線を越えて、相手の先頭があの一本杉を越えてから、です」
「りょ、了解です!」
「根性で耐えます!」
あちこちから、元気な返事が返ってくる。けれど、その声はどれも、少しだけ上ずっていた。
3/
遠くで、砲声が響いた。
「IV号、戻ってきます!」
千紗の声と同時に、丘の向こうからIV号が飛び出してきた。そのすぐ後ろを、聖グロリアーナの戦車が、きれいな横一列で追ってくる。少しも乱れない。まるで、紅茶のカップを片手に行進しているような落ち着きだった。
「まだです。まだ、撃たないで」
伊里奈は、無線に向かって繰り返した。
IV号が、稜線を越えてくる。その瞬間だった。
「撃てぇっ!」
桃の叫びと一緒に、38(t)の砲が火を吹いた。砲弾は、戻ってきたばかりのIV号のすぐ脇を掠めていく。
「ちょっと、味方だから!」
無線の向こうで、沙織の悲鳴が上がる。それが合図になったように、稜線のあちこちから砲声が上がった。八九式も、三突も、M3も。狙いも定めないまま、とにかく前へ、前へ。
「落ち着いて! 狙ってください!」
伊里奈の声は、砲声にかき消された。
やはり、止められなかった。
ならば、せめて。
伊里奈は、照準器を覗いた。横一列の真ん中。ひときわ分厚い車体の、隊長車。
チャーチル。
あれを止めれば、相手の足並みは崩れる。今なら、まだこちらを狙ってもいない。
「こはる、停車。千紗、装填を」
「入った!」
伊里奈は、息を止めた。
「――撃ちます」
T-34の砲が吼えた。砲弾は、まっすぐチャーチルの正面へ吸い込まれていき――甲高い音を立てて、弾かれた。
火花が散っただけだった。チャーチルは、速度ひとつ落とさない。
「……抜けない」
すみれが、呟いた。
分かっていた。分かっていたはずだった。チャーチルの正面装甲は、この砲で正面から抜ける厚さではない。それでも、撃たずにはいられなかった。
チャーチルの砲塔が、ゆっくりとこちらへ回り始める。
「こはる、後退! 稜線の裏まで下がって、車体を隠して!」
「りょ、りょーかい!」
T-34が、がくんと後ろへ下がった。車体が稜線の陰に沈み、直後、すぐ頭上を、砲弾が唸りを上げて飛び越えていく。
去年まで、雪原で何度もやった動きだった。
稜線の向こうでは、聖グロリアーナの列が、少しも乱れずに左右へ広がっていく。待ち伏せていたはずの大洗が、気づけば、逆に囲まれようとしていた。
4/
無線からは、次々と報告が飛び込んできた。
「M3、乗員が……逃げたって」
「えっ」
「戦車を置いて、走って逃げたみたい」
こはるが、目を丸くする。伊里奈は、黙って無線に耳を傾けていた。それも、知っている。
「38(t)、履帯が外れて行動不能……」
無線の向こうで、桃が何かを叫んでいる。その声を遮るように、みほの落ち着いた声が入ってきた。
『全車、市街地へ移動してください。――もっとこそこそ作戦を始めます』
大洗の町は、迷路のようだった。
細い路地。商店街のアーケード。古い旅館の塀。
伊里奈は、地図を見なくても、この町の道をおおよそ知っていた。前の人生で、実際にこの町を歩いたことがある。好きなアニメの舞台を、自分の足でなぞりたくて。
まさかその道を、戦車で走ることになるとは思っていなかったけれど。
「こはる、二つ先の角を右。その先の路地の奥で止めて」
「りょーかい!」
T-34は、細い路地の奥で息を潜めた。目の前には、表通りへ抜ける角。そこを通る戦車の、側面だけが見える位置だ。
正面からでは、抜けなかった。なら、側面を、至近距離から。
無線からは、ほかのチームの声が途切れ途切れに聞こえてくる。三突が待ち伏せで一輌仕留めた、と歓声が上がり、八九式が立体駐車場の上から一輌に砲弾を浴びせた、と続く。
「……来た」
千紗が、囁いた。
エンジン音が近づいてくる。角の向こうから、マチルダの丸い車体が、ゆっくりと姿を現した。こちらには、気づいていない。
「――撃ちます」
至近距離からの一発が、マチルダの側面に突き刺さった。車体が大きく揺れ、ぱたりと、白旗が上がる。
「当たった! 伊里奈ちゃん、倒したよ!」
「こはる、すぐに後退。この路地は、もう知られました」
T-34が、路地を後ろ向きに抜けていく。その直後、さっきまでいた角の向こうから、もう一輌のマチルダが鼻先をのぞかせた。装甲に、新しい焦げ跡がある。八九式が浴びせた砲弾の跡だ。
向こうは、こちらの正面を探して、ゆっくりと向きを変えていく。
その一瞬、側面がこちらを向いた。
「千紗!」
「入ってる!」
「――撃ちます」
二発目も、側面に吸い込まれた。マチルダの上で、白旗が上がる。
「……二輌目」
すみれが記録帳に書きつける声が、少しだけ震えていた。
けれど、喜ぶ間はなかった。
無線から、三突と八九式の白旗の報告が、続けざまに入ってくる。残っているのは、IV号と、このT-34だけ。
「こはる、表通りへ。IV号と合流します」
路地を抜け、表通りに出た、その瞬間だった。
通りの先に、チャーチルがいた。
分厚い車体が、ゆっくりと砲塔をこちらに向けている。まるで、ここに出てくるのを待っていたかのように。
――読まれていた。
「こはる、右へ――」
指示より先に、チャーチルの砲が火を吹いた。
衝撃が、車体を揺らした。車内の灯りがちかちかと瞬き、頭上で、ぱたりと白旗が上がる音がした。
走行不能になったT-34の中で、四人は、しばらく黙っていた。
「……二輌、倒したよね」
千紗が、小さく言った。
「はい。倒しました」
それから先は、無線で聞くことしかできなかった。町に残ったのは、IV号一輌だけ。みほは、追ってくるマチルダを一輌ずつ仕留め、最後はチャーチルと向き合うことになる。そして、負ける。
大洗は、負ける。
二輌倒しても、結末は変わらない。物語は、そのくらいの差など、あっという間に飲み込んでしまう。
「伊里奈ちゃん」
操縦席から、こはるが振り返った。
「さっきの、すごかったね。マチルダ、二輌もだよ」
それは、何の飾りもない声だった。
伊里奈は、少しだけ笑った。
「……こはるが、ちゃんと路地を抜けてくれたからです」
結果は変わらない。それでも、あの二発だけは、確かに自分たちのものだった。
5/
試合が始まる前、ダージリンはオレンジペコに、こう言ったばかりだった。
「どんな走りをしようとも、我が校の戦車は一滴たりとも紅茶をこぼしたりはしないわ」
その言葉どおり、チャーチルの車内で、カップの紅茶はいつも静かに凪いでいた。
大洗のIV号が、こちらを誘うように砲撃してきたときも、そうだった。
「こんな安直なおとり作戦、わたくし達には通用しないわ」
そう言って、ダージリンは隊列を崩さずにIV号を追わせた。
稜線の上で、T-34の砲弾が正面に当たったときも、そうだった。甲高い音と、火花。それだけだ。チャーチルの正面装甲は、あの程度の砲で抜けるものではない。紅茶の表面には、さざ波ひとつ立たなかった。
大洗の残りの戦車は、市街地へ逃げ込んでいた。ダージリンは、車輌を散らして捜索させた。数でも装甲でも、こちらが上だ。一輌ずつ見つけて、確実に仕留めればいい。
その報告が入ったのは、紅茶をもう一口、と思ったときだった。
『マチルダ、二輌撃破されました! もう一輌も被弾、損傷!』
カップが、指先から滑り落ちた。
床で、陶器の割れる乾いた音がした。
オレンジペコが、目を丸くしてこちらを見ている。ダージリンは、しばらく足元の破片を見つめていた。
「……おやりになるわね…撃ったのは?」
「一輌は、三号突撃砲の待ち伏せです。損傷は、立体駐車場の上からの八九式。それから、もう一輌は……T-34です。路地の奥から、至近距離で側面を。稜線で、こちらに撃ってきた車輌です」
正面からでは抜けないと知って、町へ下がり、側面を撃てる場所で待っていた。
「車長の名前は?」
「大洗の副隊長、雪村伊里奈さんです」
「そう。……覚えておきましょう」
それでも、数の差は埋まらない。路地から飛び出してきた八九式も三突も、待ち構えていたマチルダに、次々と白旗に変えられていった。
そのとき、また無線が入った。
『マチルダ、もう一輌撃破! さきほど八九式に撃たれた車輌です。……またT-34です!』
オレンジペコが、息をのむ。
ダージリンは、割れたカップの破片から目を上げた。
「……チャーチル、前進。表通りへ」
「ダージリン様?」
「あのT-34は、路地を抜けたら、必ずIV号と合流しようとするわ。出てくる場所は、ひとつしかない」
チャーチルが、表通りの先で砲塔を回す。待つほどもなかった。路地から、赤い星の戦車が飛び出してくる。
「――撃て」
白旗が上がるのを見届けて、ダージリンは、小さく息をついた。
「さあ。残りは、IV号一輌よ」
散っていた車輌を集め直し、IV号を細い路地へと追い込んでいく。
それでも、IV号は止まらなかった。角を曲がり、路地を抜け、旅館の塀を突き破り、決して正面からは撃たせない。
「こんな戦い方をする学校だとは、思いませんでした」
新しいカップに紅茶を注ぎ直しながら、オレンジペコが呟いた。
「そうね。寄せ集めの戦車と、初めての実戦。それでも、あの隊長は最後まで諦めない」
IV号は、追ってくるマチルダを、一輌、また一輌と仕留めていった。路地の出口で、角の陰で、こちらの隊列が伸びきった、その一瞬に。気づけば、チャーチルのそばに残っていたマチルダは、一輌もいなかった。
最後は、一対一になった。
IV号は、チャーチルの砲塔の側面を、同じ一点だけを狙って撃ってきた。一発で抜けないなら、同じ場所に何度でも。
ダージリンは、その狙いを読んでいた。
「旋回。正面を向けて」
チャーチルは車体を止めたまま、砲塔だけをゆっくりと回した。IV号の次の一発は、厚い正面装甲に弾かれた。
「――撃て」
煙が晴れたとき、白旗を掲げていたのは、IV号のほうだった。
ダージリンは、注ぎ直されたカップを、そっと持ち上げた。紅茶は、もう揺れていなかった。
6/
負けた。
分かっていたことなのに、伊里奈の胸には、思っていたよりもずっと重いものが残っていた。
試合のあと、ダージリンは、オレンジペコを連れてみほのもとへ歩み寄った。
「あなたが、隊長さん? お名前は?」
「に、西住みほです」
「西住……もしかして、西住流の?」
ダージリンは少しだけ目を見開いて、それから、ふっと笑った。
「随分、まほさんとは違うのね。――今日はありがとう。あなたのお姉様との試合より、面白かったわ。また、公式戦で戦いましょう」
オレンジペコが、ティーセットの箱をみほに差し出す。みほは戸惑いながら、それを両手で受け取った。
それから、ダージリンの目が、一歩後ろに立っていた伊里奈に向いた。
「それから、あなた。あなたの一発で、カップをひとつ割ってしまったわ」
「……すみません」
「謝ることはないわ。いい音だったもの」
オレンジペコが、もうひとつティーセットの箱を取り出して、伊里奈に差し出した。
「聖グロリアーナでは、健闘した相手にティーセットを贈る習わしなの。割れたカップのお代、というわけではないけれど」
伊里奈は、両手でそれを受け取った。箱の中で、カップがかちりと小さく鳴った。
みほが、沙織たちのところへ戻っていく。その背中が十分に離れたのを見計らったように、ダージリンが、一歩だけ伊里奈に近づいた。
「……あら。やっぱり、そうだわ」
紅茶の香りがするほどの距離で、彼女は小さく首をかしげた。
「あなた、プラウダにいた子ね。二年前の全国大会で、わたくしたちと当たったとき。アールグレイ様のクロムウェルを、最後まで照準に捉えていた一年生の砲手」
心臓が、止まりそうになった。
二年前。カチューシャもノンナも、まだただの一年生だった頃。聖グロリアーナに翻弄されて負けた、あの試合。試合のあと、アールグレイがカチューシャにティーセットを贈ったことまで、伊里奈は覚えている。
「……人違い、です」
「そう?」
ダージリンは、穏やかに微笑んだ。否定も肯定もしない、あの笑みで。
「では、人違いということにしておきましょう。――でも、ひとつだけ。カチューシャは、あなたがここにいることをご存じなのかしら」
答えられなかった。
ダージリンはそれ以上何も聞かず、「ごきげんよう」とだけ言って、オレンジペコを伴って去っていった。
伊里奈は、その背中を黙って見送った。原作では、ダージリンが声をかけたのは、みほだけだった。
そしてダージリンは、カチューシャと紅茶を飲む仲だ。準決勝の前、二人がお茶会をする場面を、伊里奈は画面の向こうで観ている。
手の中のティーセットの箱が、急に重たく感じられた。
試合のあと、集合した履修者たちの前で、杏はいつもどおりのんびりと言った。
「んじゃ、約束どおり、あんこう踊りね。あ、私たちもやるよー」
「わ、我々もですか!?」
桃の悲鳴が響き、柚子が困ったように笑う。みほの隣では、沙織たちが、覚悟を決めたような顔で頷き合っていた。
伊里奈は、その輪の少し外で、黙って三人の顔を見た。こはるも千紗もすみれも、何も知らずに、気の毒そうにみほたちを見ている。
伊里奈は、何も言わなかった。
そして約束どおり、その日の午後、大洗の町に、あの音楽が流れた。
「あんこう踊り、ほんとにやるんだ……」
人ごみの中で、こはるがごくりと唾をのんだ。千紗とすみれも、その隣で背伸びをしている。
ピンク色の全身タイツに、あんこうの飾り。あんこうチームの五人と、生徒会の三人が、町の真ん中に並んでいた。
そして、その列の一番端に、もう一人。
「……え」
こはるの声が、裏返った。
「伊里奈ちゃん!?」
伊里奈は、聞こえないふりをした。
顔が熱い。全身タイツが、恐ろしく心もとない。音楽が鳴り出し、隣のみほが真っ赤な顔で腰を振り始める。伊里奈も、それに合わせて手を動かした。
負けたら、あんこう踊り。生徒会室で杏にそう言われたのは、みほと自分の二人だった。そのことを、伊里奈は三人に伝えていなかった。
伝えれば、きっと三人とも「一緒にやる」と言う。こはるなら、迷いもせずに。
だから、言わなかった。
待ち伏せの指揮を任されたのは、自分だ。「まだ撃たないで」と言いながら、止められなかったのも、自分だ。知っていたのに、変えられなかった。その罰を、何も知らない三人に背負わせるわけにはいかない。
「雪村殿、振り付け、完璧です……!」
隣の列から、優花里の小声が飛んでくる。
「……練習、しましたから」
昨夜、部屋で一人、こっそりと。とは、さすがに言わなかった。
音楽が終わると、町の人たちから、温かい拍手と笑い声が起きた。
伊里奈は、そそくさと人ごみの裏へ回った。着替えようとした、そのときだった。
「伊里奈ちゃん!」
こはるが、息を切らして立っていた。その後ろに、千紗とすみれ。
「なんで言わなかったの!」
「……罰は、指揮を執った人のものですから」
「そんなの関係ないよ! 私たち、同じ戦車に乗ってたんだよ!?」
こはるの目が、少しだけ潤んでいた。
伊里奈は、言葉に詰まった。
「……副隊長の責任です。待ち伏せを、止められなかったので」
「伊里奈」
静かな声で、すみれが言った。
「あなた、ずっと『まだ撃たないで』って言ってたわ。私、全部記録してる」
記録帳が、伊里奈の前に差し出される。そこには、試合中の無線のやりとりが、時刻と一緒に並んでいた。伊里奈の指示も、ひとつ残らず。
「止められなかったのは、あなた一人のせいじゃない」
千紗も、小さく頷いた。
「次からは、ちゃんと言ってね。罰も、四人で受けるから」
伊里奈は、しばらく何も言えなかった。
去年は、一人だった。止められなかったことを、誰にも言えずに、一人で抱えて、一人で船に乗った。
今は、違う。
「……はい」
ようやく、それだけ言えた。
こはるが、ぐしぐしと目元をこすって、それから笑った。
「でも、伊里奈ちゃんのあんこう踊り、すっごく上手だった」
「……忘れてください」
「やだ。一生忘れない」
千紗が吹き出し、すみれが記録帳に何かを書き足した。
「すみれ、何を書いて……」
「伊里奈のあんこう踊り。完成度、高し」
「消してください」
「やだ」
四人の笑い声が、夕暮れの路地に響いた。
同じ頃、町のどこかでは、華が母親に戦車道のことを知られているはずだった。伊里奈は、それも知っている。知っていて、そこに行くことはできなかった。
こはるが、そっと伊里奈の袖を引いた。
「次は、勝とうね。四人で」
「……はい」
もうすぐ、全国大会の組み合わせ抽選がある。一回戦の相手は、サンダース大学付属高校。大洗の倍の戦車を抱えた、優勝候補の強豪だ。
そしてその先には、あの雪の学園艦が待っている。