トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
配達から戻ると、実家の玄関にグラスワンダーがいた。
軽トラックの窓越しに目が合う。彼女は足元に置いていた旅行鞄から手を離し、両手を前に揃えた。
「お久しぶりです、トレーナー」
エンジンを切っても、すぐには降りられなかった。
最後に話した時と、声は変わっていない。学園の廊下で会うたびに聞いていた、穏やかな声だった。
ただ、ここは東京から遠く離れた四国の港町で、彼女に住所を教えた覚えはない。
「……グラス?」
「はい」
降りて近づくと、彼女はようやく少し笑った。
「見つけました」
旅行鞄は、遠征に使っていたものより大きかった。その持ち手に、もう一つ布の鞄が掛かっている。
「どうして、ここが」
「商店街の記事を拝見しました。お店の前で、お父様と写っていらしたでしょう?」
先月、退院した父が少しだけ店へ顔を出した日に、写真を撮られた。店を継いだ息子も一緒にと頼まれ、断る理由もなく隣に立ったのだった。
「あれを見たのか」
「ええ。それまでは、隣の県を探していました」
「隣の県?」
「以前いただいたお菓子が、そちらのお店のものでしたので。ご実家も近いのかと思って」
数年前、帰省した時に買った土産だ。乗り換えの駅で選んだものまで覚えているとは思わなかった。
「それで、わざわざ行ったのか」
「はい。海の近くでお店をなさっていると、伺っていましたから」
彼女の靴へ目が落ちた。歩きやすそうな低い靴に、乾いた土がついていた。
「先に連絡をくれれば――」
言ってから、口を閉じた。
グラスは返事をしなかった。こちらを見たまま、続きを待っている。
古い携帯電話を解約したのは、自分だ。新しい番号は知らせていない。
「……すまん。今のは、俺が言うことじゃなかった」
「お店の番号は、記事に載っていました」
「なら」
「また電話だけで済まされるのは、嫌でしたので」
「……ここまで探してくるとは思わなかった」
「私をここまで育てておいて、逃げ切れるとお思いでしたか?」
玄関の向こうで、引き戸の開く音がした。
「帰ってたの? 配達、全部済んだ?」
顔を出した母が、グラスを見て足を止める。
「あら。お客さん?」
「ご挨拶が遅くなりました。グラスワンダーと申します。以前、息子さんに担当していただいておりました」
「まあ、グラスさん! 写真で見るより、ずっと綺麗ねえ。いつ着いたの?」
「先ほどです」
「こんなところに立たせて。入りなさいよ」
母は旅行鞄を見て、玄関を大きく開けた。
「重かったでしょう。持てる?」
「はい。大丈夫です」
その大きさの鞄を、グラスは片手で持ち上げた。段差で引っかけることもなく運び入れ、靴を脱ぐ前にこちらを振り返る。
「お邪魔いたします」
客間へ案内しようとする母を止めて、まず居間に座ってもらった。冷たい麦茶を出す間、グラスは壁に掛かった店のカレンダーや、窓の外の狭い庭を見ていた。
「お父様は、もう退院されたのですね」
「ああ。今は奥で休んでる。店には、たまに顔を出すくらいだ」
「それは、よかったです」
声が少し和らいだ。
向かいに座り、何から話すべきか考える。母は店番に戻った。居間に残ったグラスは、麦茶に手をつけず待っていた。
「来てくれたのは、嬉しいんだが」
「はい」
「レースは、どうしたんだ」
「次に予定していたものは、見送りました」
思わず身を乗り出した。
「見送った? 療養か?」
「いいえ。身体に問題はありません」
「じゃあ、どうして」
「あなたに会うことを、優先しました」
グラスは膝の上で指を重ねた。
「今は、あなたとお話をしています。レースを理由に帰るようおっしゃるのは、お待ちいただけますか」
彼女はもう、学園の寮で暮らす生徒ではない。卒業後も現役を続け、遠征も取材も自分で判断してきた。その相手に、予定を確認するふりをして帰り道を示そうとしていた。
「……分かった」
麦茶の氷が鳴った。
春、父が倒れたと連絡を受けた時、帰省は数日のつもりだった。ところが、入院が長引き、母だけでは店も配達も回せなくなった。
グラスの練習は、以前から面識のあったトレーナーに頼んだ。最初は代行だった仕事が引き継ぎに変わり、自分は帰郷したまま退職を決めた。
電話で伝えた時、グラスは長い間、黙っていた。
『一度、お会いできませんか』
『今は難しい。落ち着いたら、ちゃんと話そう』
自分が言った。その後、彼女から届いた連絡には、忙しいという短い返事ばかりを返した。
「お店は、まだお忙しいですか?」
目の前のグラスに尋ねられ、顔を上げた。
「いや。最初よりは、だいぶ慣れた」
「では、落ち着かれたのですね」
「……ああ」
「お話を伺いに来て、よかったです」
約束を忘れていたわけではなかった。忙しさを理由にしなくても済むようになってからも、こちらから電話しなかっただけだ。
グラスがようやく麦茶を飲む。その間に、母が店の方から声をかけてきた。
「グラスさん、お夕飯は食べていくでしょう?」
「いただいてもよろしいのですか?」
「もちろん。お父さんにも会っていって」
母へ向けたグラスの笑顔は、昔、こちらの弁当からおかずを分けた時のものと同じだった。腹が減っているだろうと思うと、ひとまず食べてもらいたくなる。
夕飯の席で、父は何度もグラスに礼を言った。息子の都合で急に迷惑をかけたと頭を下げる父に、グラスは困った顔で首を振った。
「どうぞ、お気になさらないでください。お元気そうで安心しました」
煮魚を勧められれば喜び、母に作り方を尋ねる。父が出した店の古い写真を眺め、昔は港の前に市場があったという話にも耳を傾ける。
両親とグラスが話している間、居間の端に置かれた大きな旅行鞄を見ていた。
食事が終わってから、ようやく尋ねる。
「今日は、どこに泊まるんだ」
グラスが答える前に、母が食器を重ねる手を止めた。
「グラスさん、今日は泊まっていきなさいよ。もう遅いし、客間も空いてるから」
「よろしいのですか?」
「もちろん。遠くから来てくれたんだから」
窓の外は、もう暗かった。グラスが乗ってきた路線バスは、夕方に最終便が出ている。
「そうだな。明日の朝飯も、一緒に食べていってくれ」
父にも勧められ、グラスは両親へ頭を下げた。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
顔を上げたグラスが、こちらへ向き直った。
「トレーナー。お話、今日だけでは終わりませんよね?」
食卓には、父が出した写真がまだ残っている。家族の話は沢山した。2人で話したかったことは、ほとんど進んでいない。
「……ああ。明日、ちゃんと時間を取る」
「お願いします」
客間へ運び込まれた旅行鞄から、グラスは洗面道具と寝間着を出した。必要なものがすぐに取り出せるよう、きちんと分けられている。
「タオルは洗面所にある。風呂は、母さんの後でいいか?」
「はい。トレーナーのお部屋は、どちらですか?」
「隣だが」
グラスは壁を見てから、こちらへ向き直った。
「でしたら、声が届きますね」
「何かあれば呼んでくれ」
「ええ。今度は、聞いてくださいね」
返事をする前に、グラスが自分の携帯電話を差し出した。
「まず、新しい番号を教えていただけますか」