トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
グラスが東京で話し合ってきた予定を、2人で居間のカレンダーへ写した。しばらくはこちらで練習を続け、次に東京へ行く時には、復帰へ向けた練習の期間を長く取る。出走するレースが決まれば、滞在先や移動の予定も変わる。
「この日から、1週間ほど留守にします。その後、またこちらへ」
グラスが指で示す日付へ、小さく印をつけた。
「帰る列車は、まだ決めてないんだな」
「はい。練習の予定が変わるかもしれませんので。決まり次第、お知らせします」
「分かった。迎えは、なるべく行くよ」
次のページを開こうとした彼女が、手を止めた。
「あの、レースにも、来ていただけますか?」
「行く」
すぐに答えると、グラスは驚いた顔をした。
「お店のご都合もあるでしょう?」
「だから、決まったら早めに教えてくれ。休むなら、配達先にも知らせないといけないし、母さんたちとも相談しておく」
昨日、父と母には話していた。以前のように学園へ通うことはできなくても、グラスのレースを見に行きたいと。
父は、日程を決めて店に貼っておけばいいと言った。母には、何日空けるつもりなのか、分かったらすぐに教えるよう頼まれた。
「帰ってきて店を継ぐって言った時、もう行けないものだと思い込んでた。ちゃんと相談して、できるようにすればよかったんだな」
グラスはカレンダーを見てから、こちらへ顔を向けた。
「今、お話ししていただけて嬉しいです」
「ああ。次は、応援に行く。仕事としてじゃなくて」
少し迷ってから、彼女の手へ自分の手を重ねる。
「終わったら、一緒に飯を食おう。勝っても、負けても」
グラスの指が、こちらの手を握った。
「はい。では、勝って、ご馳走していただきますね」
「負けたら、飯抜きにするつもりはないぞ」
「それは承知しております。私が、勝ちたいんです」
こちらを見上げる目に、懐かしい強さがあった。
「ご覧になっていてください」
「ああ。見てるよ」
その数日後、2人で町を出た。
指輪の好みを聞いた時、画面だけではよく分からないものもあると、グラスが言った。実際に見て選ぼうと約束し、店の休みに合わせて出かけることにしたのだ。
売り場で何種類かを見せてもらうと、グラスは一つずつ、こちらの左手の隣へ置いて眺めた。
選んだのは、銀色の細い輪だった。飾りは小さく、角度を変えると光を受ける。こちらが着けているものとは形が違ったが、並べるとよく合った。
「こちらが好きです」
グラスがそう言ったので、もう迷わず決めた。
サイズを合わせ、受け取れる日を聞く。店を出るまで、グラスは何度もこちらを見た。
「どうした?」
「いえ。お願いして、よかったと思いまして」
歩いている間に手が差し出され、握った。顔を見ずに手をつなぐことに、少しだけ慣れてきた。
指輪を受け取った日、夕食の後にグラスを居間へ呼んだ。
店で渡してもらった小さな箱を置くと、彼女は背筋を伸ばした。
「受け取ってきてくださったんですね」
「ああ。着けてみてくれ」
箱を開け、指輪を取り出す。グラスが左手を出した。こちらは迷わず、その薬指へ触れる。
指輪を通そうとしたところで、彼女が尋ねた。
「こちらにも、GPSが?」
「入ってない」
「では、何のために?」
見上げてくる顔は、初めてこちらに指輪を着けた時と同じだった。
「……分かってて聞いてるだろ」
「あなたから、伺いたいです」
手を取ったまま、一度息をつく。
「最初は、この話を持ち出すのは早いかと思ったんだ」
グラスは口を挟まず、こちらを見ていた。
「でも、一緒に住んで、これからもこうやって暮らしていきたいって考えてたら……それはもう、お前と結婚したいってことなんだろうなって」
取っていた彼女の手を、そっと握り直す。
「だから、グラス。結婚してほしい」
彼女の唇が、わずかに開いた。
「レースに行っても、帰ってくる家はここにしてほしい。俺も、出かけたらここへ帰る。これからも、お前と暮らしていきたい」
グラスはしばらく、こちらを見たままだった。冗談を返すことも、先回りして手を引くこともしない。
やがて、取られていた左手を少し持ち上げた。
「……はい。喜んで」
指輪を薬指へ通す。根元に収まると、グラスが手を返し、こちらの指輪へ自分の指輪を並べた。
銀色の輪が、2つ並んでいる。
「ようやく、私にも」
声が少し震えていた。こちらを見上げたグラスが笑い、その目元を指で押さえる。
「嬉しいです。とても」
肩を抱くと、彼女も背中へ腕を回した。しばらくそうしてから、少し顔を離す。
「また、どこかへ行ってしまうことはありませんか」
最後の言葉は、いつもより小さかった。
「黙っていなくなったりしない。何かあったら、お前と話して決める」
「はい。私も、そうします」
背中へ回されていた手が、服を軽くつまんだ。
「またどちらかへ行かれるのでしたら、今度は2人分の荷造りをいたしましょうね」
「……ああ。2人分な」
グラスが左手を上げ、指輪を見た。
「ですが、そちらも着けていてくださいね」
「俺のか?」
「ええ。見えていると、やはり安心しますので」
グラスがこちらの左手を両手で包み、指輪に口を寄せて、そっと触れた。
「お揃いになりましたし」
そんなふうに見られると、なおさら、この先もずっと着けていたくなった。
「大切にするよ」
答えてから、今度はこちらが彼女へ口づけた。
翌朝、両親に婚約を伝えた。
母はグラスの左手を見せてもらい、父は、グラスの家族にもきちんと挨拶をするようにと言った。画面越しではなく、今度は会いに行って話そうと、グラスと相談する。
店の支度を始めると、いつものように隣家の女性が顔を出した。
「おはよう。今日は、グラスちゃんもお店?」
「ああ。もう来るよ」
答えたところへ、グラスが家から出てきた。こちらの隣へ並び、挨拶をする。その左手へ、女性の視線が落ちた。
「あら、今度はあなたも?」
「はい。いただきました」
グラスが手を上げる前に、隣へ寄った。
「結婚することにしたんだ」
女性が目を丸くし、次に顔を輝かせた。
「まあ! おめでとう。そう、やっとねえ」
「ありがとう」
お祝いを言う相手へ、今度はそのまま礼を返せた。
グラスは、こちらを見ていた。声をかけようとすると、袖を小さく引く。
「……ご自分から、おっしゃってくださったんですね」
「言うだろ。決めたんだから」
彼女は頷いたが、まだ何か言いたそうだった。隣家の女性が、気を利かせたように店の奥へ入っていく。
「あとで、お茶碗も見せて。前に2人で買ってたでしょう」
「はい。ぜひ」
グラスが返事をし、店の戸口でこちらを向いた。
「お茶の時は、トレーナーもご一緒に」
「俺の話ばかりになりそうだな」
「はい。まだ伺っていないことが、沢山ございますので」
「……その間、店番に戻っててもいいか?」
グラスが左手を差し出した。受け取ると、いつものように指が絡む。
「逃げたトレーナーを差し切って、ようやくゴールインできたところです。もう、逃がしませんよ」
「そんな勝ち方まで教えた覚えはないぞ」
「応用です」
即答されて、思わず笑いが漏れた。
「……グラスには敵わないな」
グラスは満足そうに微笑んだ。引かれる手を握り返し、一緒に店の奥へ入っていった。