トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
復帰戦の前日、学園へ挨拶に行った。
グラスは練習の後で、着替えてくるという。待つ間に、今の担当と話す時間をもらった。退職の際、練習を引き継いでくれた相手だ。電話では何度か話していたが、顔を合わせるのは久しぶりだった。
「お父さん、だいぶよくなったんだって?」
「ああ。店にも少しずつ出てる。今回は定休日と合わせて3日休みにしてきた」
「そうか。なら、ゆっくり見ていけるな」
近況を話し終えてから、改めて礼を言った。急な引き継ぎになったのに、グラスの練習を見続けてもらっていた。
「本人が真面目に取り組んでくれるから。こちらも助かってるよ」
「そう言ってもらえると、ありがたい」
「結婚の話も聞いた。おめでとう」
「ありがとう。そっちから先に話しておくべきだったな」
「いや。ずいぶん嬉しそうに報告してくれたから、十分だよ」
何と話したのか気になったが、尋ねる前に、彼が机の予定表をこちらへ向けた。
練習と移動の日程の隣に、自分の名前が書かれている。明日の欄には、観戦に来る予定まで入っていた。
「書いておかなくても、来るって言ったんだが」
「次の週の、その下も見て」
指されたところに、実家の店の定休日が書かれていた。
「……それも聞いてるのか」
「帰る日を相談する時にね。迎えに来てもらえる日だって」
「ああ。できるだけ行くようにしてる」
「そうらしいね」
彼は予定表を戻し、明日の出走時刻を確かめた。
「引き継いだばかりの頃、グラスはどんな様子だった?」
「練習は最初からきちんとしてくれたよ。身体のことも、気になるところは話してくれた」
「……それ以外は?」
「終わると、よく携帯を見てたな。着信がないか確かめてたんだと思う」
机の端へ目を落とした。
「君の連絡先を知らないかとも聞かれた。住所も」
「知らせてなかった。俺が」
「知らないと答えたら、お礼を言って、それきりだったよ」
グラスから届いていた、短い連絡を思い出す。返事を後回しにしている間も、練習は続いていた。その合間に、連絡が来ていないか確かめていたのだ。
「今は、こちらから聞かなくても話してくれるけどね」
「家のことを?」
「そう。走ってる道の写真を見せてもらった時には、途中の配達先まで教えてもらった」
「そっちは、覚えなくていいだろ」
「本人が楽しそうだったから、聞いてたんだよ」
彼が穏やかに笑ったので、こちらも少し肩の力が抜けた。
その後、明日の予定を確認した。グラスの仕上がりについて話してもらい、礼を言って部屋を出る。
廊下の椅子で待っていると、向こうから大きな声がした。
「あっ! トレーナーさん!」
顔を上げる。鮮やかなマスクをつけたエルコンドルパサーが、こちらへ歩いてきた。グラスと親しく、学園にいた頃から何度も顔を合わせていたウマ娘だ。
「エル。久しぶりだな」
「お久しぶりデース! 本当に来ていたんデスね!」
「グラスから聞いてたのか」
「はい。明日は見に来てくださるんですって、って」
グラスの口調を真似たつもりなのか、途中だけ急に声が柔らかくなった。
「今日は、どちらに?」
「グラスを待ってる。着替えてくるって」
「着替え……なら、少し時間がありマスね」
エルが隣に座った。先ほどまでの声を落とし、こちらへ身を寄せる。
「トレーナーさん。グラスから、何か聞いてマスか?」
「何をだ?」
「いなくなってからのことデス」
鞄を膝へ置き直した。
「探してくれたことは聞いた。土産の菓子を覚えてて、隣の県まで行ったって」
「そうデス。そのお菓子、エルも一緒に調べたんデスよ」
「お前も?」
エルは大きく頷いた。
「グラスが、どこで買えるか分かりますかって。写真を見せてくれたので、お店を探したんデス」
「……そうだったのか」
「見つかったので、よかったデスねって言ったら、翌日には、『行ってみようと思います』って」
「翌日?」
「はい。エルは、お取り寄せでもするのかと思ってマシタ!」
エルが両手を広げる。その片方がこちらの顔の近くまで来て、慌てて膝へ戻された。
「すみマセン。でも、驚きマシタ。どのくらい行くんデスかって聞いても、まだ分かりません、って」
「それは、俺にも同じことを言ってた」
「でしょうネ!」
妙に力のこもった返事だった。
「最初の頃は、大丈夫デスよ、そのうち連絡が来るデースって言ったんデス。エルも、そう思ってましたから」
「ああ」
「そうしたら、笑って、『そのうち、とはいつでしょう?』って」
「……答えられないな」
「答えられマセン! なのに、ずっとエルを見てるんデス。あの、にこってする顔で!」
グラスが返事を待つ時の顔は、よく知っている。こちらが言葉を探している間も、目を逸らさない。
エルは廊下の奥を確かめてから、もう一度声を落とした。
「トレーナーさんがいなくなってからのグラス、めちゃくちゃ怖かったんデスよ」
「そんなにか」
「般若のようでした!」
声が元の大きさに戻っていた。
「エル」
エルの肩が跳ねた。
廊下の角に、グラスが立っていた。着替えを済ませ、手には鞄を持っている。
「何のお話ですか?」
「グ、グラスが、どれだけ探していたか、正確に説明していたところデース!」
「そのご説明に、般若は必要でしょうか」
「……聞こえていたんデスね」
グラスが近づいてくる。エルは椅子の上で背筋を伸ばした。
「エル。そのようなお顔を、した覚えはありませんが」
「してマシタ! 笑っていたから、余計に怖かったんデス!」
思ったより、はっきり言い返した。
グラスも少し目を開いた。エルは膝の上で拳を握り、言葉を続ける。
「どこに行くか分からないのに、見つかるまで探すつもりだったでしょう?」
「会って、お話ししたかったので」
「それは聞きマシタ。だから、ちゃんと見つかったって聞くまでは、エルも心配してたんデスよ」
グラスは返事をせず、エルを見た。それから、少し頭を下げる。
「その節は、お世話になりました」
「本当デスよ。お店の場所しか調べていないのに、いつ帰ってくるのかも分からない旅行の準備が始まるんデスから」
「エルにも、礼を言わないとな」
口を挟むと、2人がこちらを向いた。
「グラスを気にかけてくれて、ありがとう。何も知らせなかった俺が悪かった」
「……もう、ちゃんとお話ししたんデスよね?」
「ああ。これからも、相談して決める」
グラスの顔を見ると、彼女も頷いた。
「はい。お約束しております」
「なら、いいデス」
エルが息を吐き、椅子の背へ身体を預ける。
グラスはその隣に鞄を置いた。こちらとエルの顔を見てから、空いている椅子へ腰を下ろす。
「ですが、般若は言いすぎではありませんか?」
「今は違いマスよ。今は!」
エルがこちらを見た。
「トレーナーさん。最近のグラスから、電話が来たことありマスか?」
「あるが」
「エルにも来るんデス。今日、何してたんデスかって聞くと、トレーナーさんの一日が返ってくるんデスよ」
「……俺の?」
「朝、どこへ配達に行ったとか、お店で何を食べたとか。次の日のお休みは何を買いに行くとか!」
グラスが膝の上で手を重ねた。
「ご一緒していましたので」
「グラスの様子を聞いたんデス!」
「ですから、一緒にお出かけをしたお話を」
「分かりましたけど、電話のたびに一緒じゃないデスか!」
返す言葉が見つからず、グラスを見る。彼女は穏やかな顔のまま、エルへ向いていた。
「楽しく過ごしておりますので」
「ハイハイ。それは、よーく分かってマス」
エルが両手を上げた。
「お茶碗も買ったんデスよね」
「……それも聞いてるのか」
「はい。お隣のお店で、一緒に選んでいただきましたって」
グラスが、ようやくこちらを向いた。
「大切なお買い物でしたので」
「別に、話すなとは言ってないが」
「はい」
返事をしてから、グラスはエルへ顔を戻した。
「お店のお写真も、お送りしましたよね」
「いただきマシタ。お祭りのお写真も」
「お祭りのも?」
「はい。仲よく手をつないでマシタね!」
今度こそ、こちらまで顔が熱くなった。
グラスは口元へ手を寄せたが、否定しなかった。
「……綺麗に撮っていただけましたので」
エルは少しの間、こちらとグラスを見比べていた。やがて、先ほどまでとは違う、小さな笑みを浮かべる。
「また、一緒に遊びに行きまショウね。グラス」
「はい。ぜひ」
「その時は、エルの一日の話も聞いてくださいヨ」
「いつも伺っているでしょう?」
そうでした、とエルが笑った。
廊下を通りかかった現担当が、3人に声をかけた。明日は早いから、グラスはそろそろ帰って休むようにという。
椅子から立つと、エルが手を振った。
「エルも明日は応援に行きマス。グラス、頑張るんデスよ!」
「ええ。楽しみにしていてくださいね」
*
翌日、エルと並んで客席に座った。
出走表を渡され、グラスの番号を確かめる。エルは自分の分を畳み、コースへ目を向けた。
レースが始まると、昨日の話をする暇はなくなった。グラスが直線で前へ出た時には、2人とも立ち上がっていた。
『グラスワンダー、先頭に立った!』
声を張り上げる隣で、エルが何度も友人の名を呼ぶ。グラスが先頭でゴールを駆け抜けると、伸びてきた掌へ、こちらも手を打ち合わせた。
レースとウイニングライブが終わってから、グラスと合流した。
「お疲れ。いい走りだった」
「ありがとうございます」
「グラス! おめでとうございマース!」
エルが近づき、グラスの両手を取った。グラスも笑顔で礼を言い、しばらくレースの話をする。
現担当にも声をかけ、次の日程は帰宅後に連絡をもらうことになった。グラスは鞄から手帳を出し、聞いたことを確かめてからしまった。
「では、行きましょうか」
こちらへ向き直ったグラスを、エルが呼び止める。
「これから、ご飯デスか?」
「はい。ご馳走していただくお約束ですので」
「勝ったからな」
「負けていても、連れていってくださるのでは?」
「そう言ったが、今日は勝ったんだから、それでいいだろ」
グラスが頷き、こちらの隣へ来る。
エルはその様子を見てから、少し声を落とした。
「明日は、2人で帰るんデスよね」
「ああ。切符も2人分取ってある。隣の席だ」
答えると、エルが大きく頷いた。
「それなら、安心デース!」
「お前も、今度うちの店に来てくれ。グラスが世話になった分、お茶くらい出させてくれ」
「本当デスか?」
エルがグラスを見る。グラスも、こちらへ顔を向けていた。
「何だよ。呼んでもいいだろ」
「ええ。ぜひ。お母様にも、お話ししておきます」
「では、楽しみにしてマス!」
帰る時刻や、何泊するかという話になる前に、グラスが日程は後で相談しましょうと声をかけた。
エルと別れ、予約した店へ向かう。通りを曲がってから、隣へ顔を向けた。
「ずいぶん、色々話してたんだな」
「エルに、ですか?」
「ああ。茶碗も写真も、知ってるとは思わなかった」
「以前から、ご一緒したことはお話ししていましたよ」
言われてみれば、彼女の母にも同じことを言われた。学園にいた頃、出かけた後はよく家族へ話していたらしい。
「……そうだったな」
グラスがこちらの左手を取り、歩きながら指を絡めた。
「今度は、お家へお招きできますね」
「まず、母さんたちの予定を聞かないとな」
「はい。お泊まりになるのでしたら、お布団も確かめておきたいです」
家へ戻ったら、客用の布団を出してみようと答えた。グラスは、土産に何を持たせたら喜ぶかと考え始める。
予約していた料理屋が見えてきたところで、携帯電話が鳴った。エルから、短い連絡が来ている。
『今日は楽しかったデース! グラスにもよろしくお伝えください!』
グラスへ画面を見せ、店の看板の前で足を止めた。
「返事に、写真でも送ろうか」
「今、ですか?」
「ああ。さっき、送ってたって聞いたから」
グラスは髪へ手を添え、すぐにこちらの隣へ並んだ。携帯電話を持つ手を伸ばし、画面へ2人の顔を収める。
「このくらいで写るか?」
「もう少し、お近くへ」
肩が触れた。グラスは画面を見てから、こちらへ顔を向ける。
「トレーナー、笑ってください」
「お前も、こっちを見てくれ。撮れないだろ」
グラスが笑い、こちらもつられて口元が緩んだ。そのまま撮り、2人で確かめる。
「こちらで、お願いします」
頷いて写真を送る。店へ入ろうとしたところで、もう返事が来た。
『グラス、よかったデスね!』
グラスは差し出した画面をしばらく見つめていたが、やがて携帯電話を受け取った。
『はい。ありがとうございます、エル』
丁寧に打ってから送信し、こちらへ返す。
「……お待たせしました、トレーナー」
「ああ」
携帯電話をしまいながら、ふと気付く。
「なあ。その呼び方、そろそろ変えてもいいんじゃないか?」
「トレーナー、ですか?」
「もう辞めてるし、これから結婚もするんだろ。いつまでもトレーナーっていうのも、変じゃないかと思って」
グラスは口を開きかけ、それから視線を落とした。
「……では」
「ああ」
「……あなた」
小さな声だった。聞き取れたのに、返事が少し遅れた。
グラスがこちらを窺う。その顔が赤くなっているのを見て、ようやく口を開いた。
「婚約までしたのに、呼び方を変えるのは恥ずかしいのか」
「……あなたは、恥ずかしくないんですか?」
もう1度呼ばれると、思ったより困った。
「……いや。結構、照れるな」
「でしたら、からかわないでください」
そう言いながらも、グラスは少し嬉しそうに口元を緩めた。こちらの左手に触れ、その指を取る。
「でも、慣れていただかなくてはいけませんね」
「お互いにな」
「はい。これから、毎日お呼びしますから」
握られた手を握り返すと、グラスが顔を上げた。
「あなた。入りましょうか」
「ああ。入ろう」
グラスは嬉しそうに目を細めた。