トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた   作:Lagavulin

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暮らしていけます

 翌朝、居間に入ると、グラスが母と並んで朝食を運んでいた。

 

「おはようございます」

「おはよう。早いな」

「走ってきましたので。海沿いに、よい道がありました」

 

 膝も足首も、歩き方に気になるところはない。思わず見ていると、グラスが味噌汁を置きながら首を傾けた。

 

「何か?」

「いや。走った後で痛むところはないかと思って」

「ありません。ご覧になりますか?」

「……朝飯の後でな」

 

 答えてから、母と目が合った。母は何も言わず、箸を並べていた。

 

 食後、父が通院へ出かけた。母が付き添うため、午前中は店を休みにしてある。戸締まりを確認し、居間へ戻ると、グラスが食卓の向かいに座って待っていた。

 

「お待たせしました」

 

 こちらが言うつもりだった言葉を、彼女が先に口にした。

 

「長く、お時間が取れなかったようですから」

「……すまなかった」

 

 グラスは返事をせず、続きを待った。

 

「父さんが入院して、店をどうするか決めないといけなくなった。配達を頼んでくれる人もいるし、母さん1人で続けるのは無理だったんだ」

「はい」

「グラスの練習を、いつまでも代わりに見てもらうわけにもいかない。俺が戻れる見込みも立たなかった」

「退職の理由は、分かりました」

 

 彼女は静かに頷いた。

 

「お父様が倒れたことも、お店を続けるために戻られたことも、責めるつもりはありません」

「ありがとう」

「それで、どうして連絡を絶ったのですか?」

 

 礼を言った口が、そのまま止まった。

 

「……新しいトレーナーとの練習が始まっているのに、俺がいつまでも口を出すのは、よくないと思った」

「練習のご相談だけでしたか? 私がお送りしていたのは」

 

 違った。

 

 父の体調を気遣う言葉。自分が食事を取れているかという質問。休日に、短い電話だけでもできないかという誘いもあった。

 

「違うな」

「はい」

「会ったら、戻りたくなると思ったんだ」

 

 口に出すと、ここへ帰ってから何度も考えていたことが続いた。

 

「店を継ぐって決めたのに、またお前のレースを近くで見たくなる。練習にも付き合いたくなる。少しだけ戻れないかって、家族に頼むかもしれない。それが分かってたから、会わなかった」

 

 グラスは食卓の縁に置いた自分の手を見た。しばらくして、その手を膝へ戻す。

 

「そう、お話ししてくださればよかったのに」

「引き止めないでくれって、頼むのか」

「引き止めたかもしれません。寂しいとも申し上げたと思います」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「それも聞きたくなかったのですか?」

 

 頷くことも、否定することもできず、結局、小さく息を吐いた。

 

「……ちゃんと聞くべきだった」

「はい」

「お前が納得してるかも確かめずに、終わったことにした。悪かった」

 

 グラスは一度、目を伏せた。すぐには顔を上げず、食卓の上にあった湯呑みを両手で包む。

 

「謝ってくださったことは、受け取ります」

「ああ」

「ですが、まだ許してはいません」

 

 はっきりした声だった。

 

「また、私の知らないところで全部決めて、いなくなられては困ります。これからは、きちんとお話ししてください」

「分かった」

「私も、お話しします。こちらに来たのも、しばらくお傍にいたいと思ったからです」

 

 昨夜から聞けずにいたことを、ようやく尋ねた。

 

「しばらくって、どれくらいだ」

「まだ決めていません」

「長くいるなら、金はどうするんだ。生活費もかかるぞ」

「はい。もちろん、お渡しします」

「そういう意味じゃなくて。レースにも出ずに暮らしていたら、いずれ――」

「トレーナー」

 

 グラスは脇に置いていた鞄から手帳を取り出し、開く前にこちらを見た。

 

「あなたが私をGⅠで何度勝たせてくださったか、覚えていますか?」

「……覚えてる」

「でしたら、私がこちらで暮らすお金にも困ると、本当にお思いですか?」

 

 彼女と勝ったレースの数も、その後の取材や仕事のことも知っている。貯蓄についてまで聞いたことはないが、遠征先で衝動買いを繰り返すような相手ではなかった。

 

「……困らないな」

「ええ」

 

 グラスは手帳を開いた。家へ入れる生活費、交通費、日用品。項目の横に、計算した数字が並んでいる。

 

「必要なものは自分で揃えます。長くお世話になるのでしたら、食費以外もご相談したいと思っておりました」

「ずいぶん、用意してきたんだな」

「はい。見つけてから帰されるのは、嫌でしたので」

 

 昨夜の旅行鞄が、頭に浮かんだ。

 

「当分、働かなくても大丈夫なのか」

「そのご心配もいりません。安心して、一緒に暮らしていただけますよ」

「俺が安心する話なのか」

 

 グラスが少しだけ口元を緩めた。昨夜の食事中を除けば、再会してから初めて見る、楽しそうな顔だった。

 

 昼前に両親が戻ると、グラスは生活費について自分から話した。母は最初こそ遠慮したが、食費を負担させてほしいと頼まれ、月ごとに受け取ることで落ち着いた。

 

「お店を手伝ってくれるっていうのに、そこまでしなくても」

「お手伝いは、私がしたいんです。分からないことが多いので、教えていただくことにもなりますし」

 

 そう答えるグラスを見て、母は嬉しそうに頷いた。

 

 午後、客間の前を通ると、開いた旅行鞄を避けながらグラスが服を探していた。少し取り出すたび、奥の服を畳み直している。

 

「それ、全部鞄に入れておくつもりか?」

「お部屋をお借りしていますので。あまり広げない方がよいかと」

「毎回、そんなことをしてたら面倒だろ。そこの箪笥、下は空いてるから使ってくれ」

 

 グラスの手が止まった。

 

「使っても、よろしいのですか?」

「ああ。ずっと鞄を開けておくより、その方が暮らしやすい」

 

 言い終えたところで、グラスが服を抱えて箪笥へ向かった。引き出しを開け、一枚ずつ収めていく。

 

 薄手の上着の下から、厚いニットが出てきた。

 

「……それも持ってきたのか」

「夜は冷えるかもしれませんし」

「今はもう、そんなに寒くないぞ」

「では、しまっておきますね」

 

 ニットは奥に収まった。代わりに出された普段着が、手前へ並ぶ。

 

 服が片づくと、グラスは空になった旅行鞄を閉じた。立てて置いてみてから、部屋の押し入れを見る。

 

「こちらも、少しお借りしてよろしいですか?」

「上の段なら空いてる」

 

 グラスが鞄を持ち上げる。奥へ押し込む前に、持ち手につけていた名札を外した。

 

「どうしたんだ?」

「すぐに使う予定も、ありませんので」

 

 名札は机の引き出しへしまわれた。

 

「お買い物に出たいのですが、日用品は、お店のものを買ってもよろしいでしょうか」

「ああ。歯ブラシとかか?」

「はい。それから、お茶碗を」

「食器なら、家のものを使えばいいだろ」

 

 グラスは戸口に立ったまま、こちらを見た。

 

「自分のお茶碗も、置かせていただきたいです」

 

 少し考えてから、店の隣の雑貨屋を教えた。

 

「気に入るのがあるかは分からないが。昔から、食器も置いてる」

「では、ご一緒していただけますか?」

「すぐそこだぞ」

「はい。近くてよかったです」

 

 グラスは手提げ鞄を持ち、こちらが廊下へ出るのを待った。

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