トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
グラスが来てから、5日が経った。
店の冷蔵棚に何があるかは、母より先に答えるようになった。まだ値段を覚えていない商品は、必ず札を確かめてからレジへ運ぶ。釣り銭も一度数え直すので、母は安心してレジを任せていた。
昼前、豆腐を買いに来た隣家の女性が、レジのグラスを見つけた。
「もう、お店に出てるの?」
「はい。少しずつ教えていただいております」
「助かるねえ。あの子、まだどこに何があるか分からなくなるでしょう」
奥で空き箱をまとめていると、女性の視線がこちらへ向いた。
「分からなくなるんじゃなくて、母さんが置き場所を変えるんだよ」
「お菓子は今朝、窓際の棚へ移されていましたよ」
グラスに教えられ、思わず店先を見る。確かに、昨日まで奥にあった菓子箱が並んでいた。
「ほら。もうグラスちゃんの方が詳しい」
女性は笑い、買い物袋から小さな容器を出した。
「これ、うちで漬けたの。よかったら食べて」
「ありがとうございます。昨日いただいたものも、美味しかったです」
「あら、嬉しい。今度、漬ける時においでよ」
「ぜひ。教えていただきたいです」
女性を見送ってから、グラスが容器の蓋を少し開けた。中には薄く切ったきゅうりと生姜が入っている。
「昨日とは違う漬け方ですね」
「あの人、色々作るんだ。余ると店に持ってきてくれる」
「お返しには、何がよいでしょうか」
「そんなに気にしなくてもいい。空いた容器を返せば」
「でしたら、容器をお返しする時に伺ってみます」
グラスは蓋を閉め、家の冷蔵庫へしまいに行った。戻ってきたところへ、今度は母が声をかける。
「ごめんね。お昼の分、お魚屋さんで受け取ってきてもらえる? お願いしてあるから」
「はい。お向かいの角を曲がった先でしたね」
「そうそう。今日は私、お店を離れられないから」
グラスが手提げを取るのを見て、立ち上がった。
「俺が行くよ」
「場所は分かります。すぐ戻りますので」
「いや、そろそろ配達に出る。母さんが接客してたら、家の方の鍵を開けてもらえないかもしれない」
店と住居の出入り口は別だった。品出しで店の奥へ入っていると、家の玄関を叩かれても聞こえないことがある。
グラスが手提げから携帯電話を出した。
「お電話すれば、よろしいですか?」
「いや。何度もそんなことをするのも面倒だろ」
レジの引き出しから予備の鍵を取り、グラスへ渡す。父が店へ出ていた頃、配達用に持ち歩いていたものだ。
「家の鍵。持っておいてくれ」
グラスは、受け取った鍵を掌に置いて見つめた。
「……お借りします」
「家にいる間は、その方が楽だろ。なくさないようにな」
「はい。大切にします」
彼女は手提げから鍵束を出した。自宅のものらしい鍵の隣へ、今渡した鍵を通す。金具が固かったのか、爪の先で少し押さえながら、丁寧に輪を回していた。
「返す時、外すのが面倒じゃないか?」
何気なく言うと、鍵束を持った手が止まった。
「しばらく使わせていただくのですから、こちらで構いません」
通し終えた鍵を、鞄の内側の金具へ留める。グラスはそのまま鞄を抱え、店の扉へ向かった。
「行ってまいります」
昼過ぎの配達は、グラスも一緒だった。魚屋で近所の集まりについて聞き、届け物を頼まれてきたという。
軽トラックの助手席には、魚の代わりに、紙袋に入った乾物が置かれていた。
「もう頼まれたのか」
「こちらから、何か運ぶものはないかと伺いました。配達のついでで、よいそうです」
「そうか。重いものなら、店の荷物と一緒に荷台へ積んだんだが」
「こちらは軽いので。道を覚えたいですし、ご一緒させてください」
最初の配達先で、紙袋を受け取った女性が、グラスと運転席にいるこちらを見比べた。
「東京から来たっていうのは、あなたね。ずいぶん遠いところまで」
「はい。グラスワンダーと申します」
「いいところでしょう。何もないけど、魚は美味しいし。ここへお嫁に来ると、最初は道が分からなくてねえ」
「いや、まだ、そういう話じゃなくて」
荷台から降ろしていた箱を抱え直す。グラスは女性の方を向いたまま、穏やかに頷いた。
「お魚、とても美味しくいただいております。皆様にもよくしていただいて」
「よかったねえ。お母さんも喜んでるでしょう」
「お世話になってばかりです」
箱を渡す間に、次に魚を買うなら何曜日がよいかという話になった。グラスは熱心に聞き、礼を言って助手席へ戻った。
車を出してから、横を見る。
「違うって言っても、よかっただろ」
「お魚の話をしていらしたので」
「その前だ」
グラスは膝に置いた鞄の持ち手を揃えた。
「訂正なさっていましたよね」
「聞いてたか、怪しかったぞ」
「では、もう一度戻りますか?」
バックミラーを見る。相手は家へ入り、戸を閉めたところだった。
「……わざわざ戻ってまで言うことじゃない」
「はい」
グラスは窓の外へ顔を向けたが、窓に映った口元が少し上がっていた。
夕方、家へ戻ったグラスが、電話の脇に貼ってある連絡先の紙を見ていた。病院、仕入れ先、近所の親戚。店で何かあった時に連絡する番号をまとめたものだ。
「お店のお電話も、登録させていただいてよろしいですか?」
「ああ。俺の携帯につながらなければ、そっちへかけてくれ」
グラスは携帯電話に番号を入力し、今度は紙の空いているところを指さした。
「こちらに、私の番号も書いておきますね」
「俺が知ってるから、大丈夫だろ」
「あなたに何かあった時、お母様が私へ連絡なさることもあると思います」
否定する理由が見つからず、電話台のペンを渡した。
グラスは、母の携帯電話の番号の下に、自分の名前と番号を書いた。数字を確かめてから、ペンを戻す。
「これで、お互いにつながりますね」
「そうだな。店にかければ、大抵は誰かいる」
「ええ。今度は助かります」
紙に並んだ番号を見て、返事が遅れた。
グラスは追及せず、携帯電話を持って縁側へ向かった。家族に連絡をするというので、店の売り上げを帳面へ移しながら、その声を聞いていた。
「はい。こちらでも、よくしていただいています。今日はお魚屋さんへ行って……ええ。お母様に頼まれたものを」
グラスが笑う。電話の向こうから何かを聞かれたらしく、先ほど受け取った鍵を鞄から出して見せた。映像をつないで話しているようだった。
「家の鍵も、お借りしました」
少し迷ってから、帳面を閉じた。
「グラス。よかったら、挨拶させてもらえるか」
彼女がこちらを振り返る。
「よろしいのですか?」
「泊まってもらってるのに、何も言わないのもな。親御さんも心配するだろ」
グラスは画面へ顔を戻し、こちらを隣に招いた。
「母です」
画面の中で、グラスによく似た女性が微笑んでいた。以前、レースの後に何度か挨拶をしたことがある。
「ご無沙汰しております。急なことで、ご心配をおかけしてしまって」
『こちらこそ、娘がお世話になっています。お父様のお加減はいかがですか?』
「ありがとうございます。退院して、今は家で休んでいます」
父の様子と、家のことを説明する。グラスの母は丁寧に聞き、店を手伝っていると娘から聞いたと言った。
「こちらからお願いしたわけではないんですが、随分助けてもらっています。負担をかけないようにはしますので」
『本人が楽しんでいるようですから。昔から、日本で暮らすお話を聞くのが好きでしたし』
母親に言われ、グラスが少し身を寄せて画面を覗いた。
「今も、教えていただくことが沢山あります」
『そうね。昨日はお魚の話で、今日は合鍵ね』
何か勘違いさせている気がして、隣を見た。グラスは画面へ向いたままだ。
『あなたの話をする時は、いつもよく喋るんですよ』
「……そうでしたか」
「母様」
グラスの声が、少しだけ小さくなった。
『はいはい。では、また連絡をくださいね』
通話が終わるまで、姿勢を正したまま座っていた。画面が暗くなってから、ようやく肩の力を抜く。
「俺のこと、どう話してたんだ」
「ご一緒したことを、そのまま。以前から、お出かけの後にはよく話していました」
「そんなに話すことがあったか?」
「沢山ありましたよ」
グラスは携帯電話を伏せた。先ほど母親に呼びかけた時の照れが、まだ少し残っている。
「ただ、急に連絡が取れなくなってしまったので。その時は、何と話せばよいのか困りました」
「……すまなかった」
「はい。ですから今日は、鍵をいただいたと話せて、嬉しかったです」
店の方から母に呼ばれ、グラスが立った。頼まれていた容器を隣家へ返してくるという。
「夕飯前には戻りますね」
「ああ。家の方から入ってくれ。店は先に閉めるから」
グラスが出ていった後、売り上げの続きを帳面につけた。
*
店のシャッターを下ろし、居間で茶を飲んでいると、玄関で鍵の回る音がした。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
グラスが居間の戸口へ顔を出す。帰る時に何かあったのかと思うほど、嬉しそうだった。
「どうした?」
「いえ」
彼女は、借りた鍵を鞄の内側へ留めた。
「もう一度、聞いてもよろしいですか?」
「何を」
グラスは戸口から半歩だけ下がり、こちらを見た。
「ただいま、トレーナー」
湯呑みを置いて、向き直る。
「……おかえり、グラス」