トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
朝の配達を終えて戻ると、グラスが玄関の前に立っていた。
髪を結んでいない。薄い上着を羽織っただけで、両手には携帯電話と、こちらが残した書き置きを持っている。
軽トラックを停め、時計を見た。戻ると書いた7時まで、まだ少しあった。
「おはよう。どうした?」
「おはようございます。配達だったのですね」
「ああ。そこに書いておいたんだが」
グラスは手元の紙へ目を落とした。
「拝見しました」
「何か、足りなかったか?」
彼女は答える前に、こちらの顔を見た。運転席から降りると、車の中へも視線を向ける。助手席には空の買い物籠しかない。
「……起こしていただきたかったです」
「まだ早かったし、寝てるところを起こすのも悪いだろ」
「お隣にいらっしゃらなかったので、少し驚いてしまいました」
出発する前、客間から物音はしなかった。昨日は早朝に走った後、夕方も店を手伝っていたので、今朝くらいはゆっくり寝かせておこうと思ったのだ。
「7時には帰るって、書いただろ」
「はい」
グラスは頷いたが、紙を持つ指は緩まなかった。
「以前も、落ち着いたらお話ししてくださるはずでした」
言われて、紙に書いた時間から目を上げた。
グラスが、携帯電話を差し出す。
「お電話も、鳴っていましたので」
自分の携帯電話だった。昨夜、充電につないだまま台所へ置いていたものだ。画面に、グラスからの着信が残っている。
「……忘れてた」
「お母様に、いつもの配達だと伺いました。それで、こちらでお待ちしていました」
グラスは携帯電話を渡し、上着の袖口へ手を引っ込めた。朝の海風がまだ冷たい。
「次から声をかける。寝てても、起こしていいんだな?」
「はい。お願いします」
「分かった。今朝は、すまなかった」
返された書き置きを携帯電話と一緒にポケットへ入れる。グラスは車から離れ、玄関の脇へ寄った。
「冷えるだろ。中に入ってくれ」
「もうお出かけの用事は、ありませんか?」
「朝の分は終わった。次は昼過ぎだ」
そう答えると、彼女も家へ入った。
朝食の後、居間で配達帳を確かめていると、グラスが隣に座った。今度は髪を整え、いつもの服に着替えている。
「お昼の配達、ご一緒してもよろしいですか」
「ああ。午後は3軒だから、そんなに時間はかからない」
「でしたら、その後、お買い物にもお付き合いいただきたいのですが」
「何を買うんだ?」
「敷布団を。お借りしているものでは、少し腰が痛くなってしまって」
帳面を閉じて、グラスを見る。
「痛いのか?」
「起きた直後だけです。動いていれば気になりません」
「そういうのは、早く言ってくれ」
客間へ行って布団を見ると、敷布団が随分薄くなっていた。帰省した親戚が使う程度で、毎日寝ることを考えていなかったのだろう。
「これじゃ、寝づらかったな。悪い」
「ご用意していただいたものなので、申し上げにくくて」
「服は箪笥を使ってくれって言ったくせに、布団は見てなかった」
家のことは、まだ母に任せきりだった。
「配達を済ませたら、寝具店へ行こう。車で少し走ればある」
「はい」
グラスは、畳んだ布団を押し入れへ戻した。
「長く使うものですから、きちんと選びたいですね」
その言葉に返事をする前に、彼女が部屋から出てきた。どの店へ行くのかと聞かれ、道順の説明を始めることになった。
寝具店で、グラスは何枚も布団を試した。厚ければよいというわけではないらしい。腰を下ろし、掌で押し、店員に勧められて横になってみる。普段は見られない姿を売り場で見ていると、どこへ目を向けてよいのか分からなくなった。
「こちらが、よさそうです」
選ばれたのは、適度に厚みのある敷布団だった。グラスが起き上がり、乱れた髪を背中へ払う。
「これなら、あのお部屋にも収まりますし」
「よかった。カバーも一緒に見ていくか」
「はい。トレーナーは、どちらがお好きですか?」
淡い緑と、細かい柄の入った青を並べて尋ねられた。
「俺か? お前が使うんだから、好きな方でいいぞ」
「ええ。ですが、そちらからも見えるかと思いまして」
「隣の部屋からは見えないだろ」
「お部屋にいらした時です」
グラスは青い方を自分の膝へ広げ、顔を上げた。
「お隣に座っていただくなら、こちらの色も落ち着きますね」
「布団の隣に俺の席を作るな」
「では、いつもどちらにお座りに?」
「そういう話をしてるんじゃない」
結局、青いカバーを買った。会計を済ませたグラスが、布団を抱えて荷台へ載せる。固定を手伝っていると、彼女が売り場の方を振り返った。
「トレーナーの分も、買い替えなくてよろしかったですか?」
「俺のは、まだ新しいから」
「そうでしたか。今度、どのようなものか見せてくださいね」
グラスは助手席へ回り、こちらが鍵を開けるのを待った。
*
その夜は、店の帳面をつけているうちに遅くなった。
水を飲もうと台所へ向かうと、客間から呼ばれた。
「……トレーナー」
足を止める。もう休んでいると思っていたが、買った布団が合わなかったのだろうか。
「どうした、グラス」
返事がない。少し待ってから、戸の向こうへ声をかけた。
「入ってもいいか?」
また名前を呼ぶような声がした。戸を少し開けると、グラスは布団の中で横を向いていた。目は閉じている。
枕元に膝をつき、顔を覗く。苦しそうではないが、眉の間に僅かに皺が寄っていた。
「グラス?」
寝返りを打った拍子に、掛布団から手が出てきた。寝具店で選んだカバーの上を探り、こちらの袖に触れる。
布をつかまれた。
「……待って、ください」
引き抜こうとしていた手を止める。
「ここにいる。大丈夫だ」
眠ったままのグラスが、小さく息を吐いた。眉間の皺がほどける。袖を握る力も少し弱まったが、指は離れなかった。
顔を見ているうちに、立つ機会を逃した。壁際の座布団を引き寄せ、布団の脇に腰を落ち着ける。
しばらくすると、グラスの手が緩んだ。起こさないよう袖を抜き、掛布団の中へ手を戻す。客間を出て、静かに戸を閉めた。
翌朝、食卓でグラスが布団の礼を言った。
「よく眠れました。ありがとうございます」
「それならよかった。夜中に呼ばれたから、何かあったのかと思ったんだが」
味噌汁を持ち上げていたグラスの手が止まった。
「……私が、ですか?」
「ああ。寝言だったみたいだな」
「お部屋に、いらしたのですか」
「具合が悪いのかと思って。声をかけても返事がなかったから」
グラスが椀を置く。袖をつかまれたことまで話すと、こちらの腕へ目を向けた。
「強く、握りませんでしたか?」
「袖だけだったぞ。痛くもなかったし」
「腕には、何も?」
「何ともない。ほら」
袖をまくると、グラスは手首から肘まで確かめ、ようやく息をついた。
「眠っていて、力を加減できていなかったらと思って……」
「大丈夫だ。服は、なかなか離してくれなかったけどな」
グラスが自分の両手を見て、膝の上へ引き寄せた。
「申し訳ありません」
「いや、怪我もしてないし、よく眠れたならいい」
グラスは食卓の端へ目を向けた。母は店へ出ていて、今は2人しかいない。
「その……どれくらい、いらしたのでしょう」
「時計を見てなかった。そんなに長くはないと思うが」
「そうでしたか」
いつもなら、こちらが何か言うまで顔を見て待つのに、今朝は目が合わなかった。顔が赤くなっている。
「眠っている時のお話は、あまりなさらないでください」
「分かった。母さんにも言わない」
頷いてから、グラスは箸を取り直した。漬物を一つ食べ、少し間を置いてこちらを見る。
「今夜も、お呼びしたら来てくださいますか?」
「何かあればな」
「何もなければ?」
返事に迷っていると、グラスはようやく、いつもの微笑みに戻った。
「お休みになる前に、少しだけお話しできればと思いまして」
「……それなら、居間でな」
グラスは、向かいにあったこちらの座布団を引き寄せ、隣に並べた。