トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
出かける前には、グラスに声をかけるようになった。配達先と、戻る時刻を伝える。すると大抵、彼女は手伝っていた仕事をきりのよいところで終え、手提げを持って玄関へ来る。
「ご一緒します」
いつもの返事が聞こえた。
車の中で、グラスはよく喋った。店の常連が飼っている犬のこと、隣家で教わった漬物のこと。配達の順番も覚え、次の家が見えると、荷台から渡す品物を確認してくれる。
ついてくるのは正直ありがたかった。荷物も運んでもらっているし、長い坂道を走る間、話し相手がいるのも悪くない。
ただ、配達へ行くために、彼女が自分の約束を動かそうとした時は気になった。
「午後は、お隣でお茶を飲むんじゃなかったか」
「はい。配達から戻りましたら」
「何時になるか分からないぞ。せっかく呼んでもらったんだから、行ってきてくれ」
グラスは壁の時計と、配達帳を交互に見た。
「3軒目のお宅で、長くなられるのでしょうか」
「注文が増えるかもしれない。外で会った人に呼び止められることもあるし」
「では、遅くなるようでしたらお電話を」
「ああ。ちゃんと持っていく」
携帯電話を見せると、ようやく頷いた。
その日の夕方、帰宅すると、グラスは母と一緒に、土産にもらった菓子を分けていた。
「間に合いましたね。トレーナーの分もございますよ」
見せられた皿には、切り分けた羊羹が載っている。隣で何を話したのか尋ねると、庭に植える花を選んでいたという。
「写真を見せていただきました。次は、苗を買いにご一緒する予定です」
「よかったな」
「はい」
楽しそうに頷く彼女を見て、夜中に袖をつかまれた時のことを思い出した。あれからも、時々、悪い夢を見るらしい。眠りながら呼ばれて顔を出すと、こちらを確かめるように手を伸ばしてくる。
離れている間に、思っていた以上につらい思いをさせていたのだろう。電話に出られない時でも、どこにいるか分かれば、少しは安心して過ごせるだろうか。
位置を共有できるものを探し始めたのは、その晩だった。
数日後、配達から戻ると、グラスが店の前を掃いていた。軽トラックに気づいて顔を上げ、こちらへ歩いてくる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。今日は遅くならなかっただろ」
「はい。お約束どおりでしたね」
褒められているのか、確認されているのか。運転席から降り、助手席に置いていた小さな袋を取った。
「それで、これを考えたんだが」
店を母に任せて居間へ上がると、袋から箱を出した。中には銀色の指輪が収まっている。
グラスの耳が立った。
「……指輪、ですか」
「GPSが入ってる。これを着けておけば、お前のスマホで俺がどこにいるか分かるんだ」
グラスが隣に座った。先ほどまでより近い。
「スマホでも位置は共有できますよね?」
「家に忘れることもあるだろ。これなら身に着けておける。配達中も、いちいち心配しなくて済む」
「それを、わざわざ探してくださったんですか」
「毎回、ついてこなくても大丈夫になるかと思ってな」
グラスは箱を見つめていたが、やがて両手で受け取った。
「ありがとうございます。設定は、私がしても?」
「ああ。頼む」
画面の案内に従い、位置の共有を設定する。自宅のある場所に印がついた。指輪を持つ手を動かして、グラスは地図を覗き込んでいる。
「こちらが、トレーナーなのですね」
「俺が着ければな」
「では、着けていただきましょう」
右手を出すと、グラスは指輪を持ったまま反対側の手を見た。
「左手をお願いします」
「利き手じゃない方がいいのか?」
「はい」
左手を出す。グラスはその手を取り、薬指をそっと支えた。
「待ってくれ」
「何でしょう?」
「そこなのか」
「はい。こちらに」
「他の指でも位置は分かるぞ」
「ええ。分かりますね」
返事をしてからも、グラスの手は離れなかった。
「……意味が変わってこないか」
「ご存じでいらしたんですね」
「さすがに知ってる」
「でしたら、説明は省けますね」
グラスが指輪を近づける。わずかに手を引くと、指輪も止まった。
彼女は顔を上げて、返事を待っていた。
「グラス。俺が買ってきたのは、居場所が分かれば安心できるかと思ったからで」
「はい。伺いました」
「だから、その……」
「ここに着けてくださったら、もっと嬉しいです」
指輪を持つ手は静かだった。押し込もうとはしない。かといって、別の指へ移す気もなさそうだった。
支えられたままの左手を見た。
「近所の人に見られたら、また色々言われるぞ」
「私は困りません」
「俺には聞いてないだろ」
「では、伺います。困りますか?」
すぐには答えられなかった。
この家に来たばかりの頃なら、困ると言えた。今は、グラスがそれを聞いて手を離すところを想像すると、口に出せなかった。
「……指輪を着けたら、配達は1人で行ってもいいんだよな」
「お帰りの時間を教えてくだされば」
「分かった」
左手を、彼女の方へ戻した。
グラスは薬指に指輪を通した。内側の留め具を調整し、きつくないかと尋ねる。大丈夫だと答えると、手を包んだまま、銀色の輪を眺めた。
「これで安心だろ」
「はい」
グラスが顔を上げる。目が合っても、いつものように何かを尋ねてはこなかった。ただ、包んでいた手を少しだけ握った。
「大切にしてくださいね」
「俺が買ってきたのにか」
「私が着けたんですから」
ようやく手が離れる。握り直した左手には、まだ彼女の指の温かさが残っていた。
グラスは携帯電話を取り、地図に映った印を見る。それから、こちらの指輪へ目を戻した。
「配達に出られた時、こちらで見ていてもよろしいですか?」
「そのために買ったんだから、構わないぞ」
「そうでしたね」
画面を閉じて膝の上に置くと、グラスはまた指輪を見た。
「そんなに見なくても、なくならないだろ」
「はい。今は、分かっています」
翌朝、店の前で声をかけてきたのは、隣家の女性だった。
「あら、ついに?」
視線は、こちらの左手に向いている。
「いや、これはGPSが入っていて」
「今はそんな指輪もあるのねえ。グラスちゃんも安心だね」
「はい。とても」
グラスが隣に並んだ。
「選んでくださったのは、この方なんです」
「そこだけ言うと誤解されるだろ」
「私がお願いして、左手に着けていただきました」
女性は、ますます嬉しそうに笑った。
「よかったねえ」
「はい」
説明を諦めて、店のシャッターを上げた。
配達の支度をしていると、グラスも帽子を持ってきた。
「今日はついてこなくても、位置が分かるだろ?」
「ええ」
「だったら――」
「今日は、一緒に行きたいので」
グラスは助手席の前で待っていた。運転席の鍵を開け、そのまま助手席の鍵も開けた。