トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
店のガラス戸に貼られた祭りの案内を、グラスは品出しのたびに見ていた。港へ続く通りを使った、小さな夏祭りだ。店も飲み物を少し出すので、母は例年より多く仕入れる品物を帳面へ書き出していた。
「行ってみるか」
そう声をかけると、グラスが振り返った。
「ご一緒してくださいますか?」
「ああ。店の手伝いが済んでからになるが」
「ぜひ。楽しみにしております」
その話を、隣家の女性が聞いていたらしい。
祭りの前日、買い物へ来た女性が、グラスに浴衣は持っているかと尋ねた。ないと答えると、娘が以前着ていたものを見ていかないかと誘われた。娘はウマ娘で、背丈もグラスと同じくらいだという。
そして当日、店の仕事を早めに終えたグラスは、着替えを持って隣家へ行った。
母から解放された時には、もう通りに灯りがついていた。冷蔵庫から補充する飲み物を運び、空になった箱を片づける。
「そろそろ行っておいで。グラスさんを待たせるよ」
「まだ客がいるだろ」
「お父さんも座っていればお会計くらいできるから。あんたたちが戻るまで、2人でやるわ」
父はレジの前の椅子に座り、こちらへ手を振った。
礼を言って家へ上がり、仕事着を着替える。隣家を訪ねると、声をかける前にグラスが玄関へ出てきた。
「お待たせしました」
白地に藍色の朝顔が咲いた浴衣だった。普段は背中へ流している髪をまとめ、ウマ耳の後ろに小さな髪飾りを留めている。首元に沿った襟から、いつもより長くうなじが見えた。
「……ああ」
それだけ答えて、次の言葉が出なかった。
グラスが自分の帯を確かめ、浴衣の袖へ目を落とす。
「何か、おかしいでしょうか」
「いや。似合ってる」
顔を上げた彼女と、目が合った。
「髪も。いつもと違うから、少し驚いた」
グラスは髪飾りへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……ありがとうございます」
隣家の女性が、奥から笑いながら出てくる。
「ほら、よかったでしょう。鏡の前で、随分悩んでたんだから」
「あまり、おっしゃらないでください」
グラスが女性を振り返った。声は穏やかだが、普段より少し早口だった。
「髪を上げるか、そのままにするかって」
「そろそろ、参りましょうか。トレーナー」
こちらの袖を、そっと引かれる。女性に礼を言って通りへ出ると、グラスは数歩進んでから手を離した。
「お借りしたものですが、サイズもちょうどよかったので」
「ああ。よく似合ってるよ」
「……それは、先ほども伺いました」
言われて口を閉じる。グラスは顔を前へ向け、いつもよりゆっくり歩いた。
祭りの通りは、思っていたより人が多かった。屋台の前に列ができ、港へ近づくほど道が狭くなる。子供が走ってくるので端へ寄ると、グラスとの間に、向かいから来た人が入った。
一度立ち止まり、通り過ぎるのを待つ。
「この先、もっと混んでそうだな」
「はい。賑やかですね」
「はぐれると面倒だから、手を――」
差し出した左手に、グラスが自分の右手を重ねた。指が掌を滑り、そのまま指の間へ入ってくる。
「……普通につなげばいいだろ」
「この方が、離れにくいですよ?」
軽く握られた。強くはないのに、こちらの指も自然に曲がる。
「歩きにくくないか」
「少しも」
グラスは、つないだ手を一度見てから、こちらの隣へ並んだ。
途中、いつもの配達先の人に声をかけられた。会釈をすると、相手の視線が2人の手へ落ちる。
「楽しんでいってね」
「はい。ありがとうございます」
グラスは笑顔で答え、手を離さずに歩き出した。
屋台の前で立ち止まると、焼き団子と、冷たい果物の入った菓子が並んでいた。グラスの視線が両方へ向く。
「どっちにする?」
「迷いますね。こちらのお団子、よい香りです」
「じゃあ、俺がこっちを買う。半分食べればいいだろ」
果物の入った方を指すと、グラスは頷いた。
「では、両方いただけますね」
会計の時に、ようやく手が離れた。品物を受け取り、人の流れから外れた場所へ移る。
グラスは団子を一つ食べてから、串をこちらへ差し出した。
「どうぞ」
「ああ。こっちも食べていいぞ」
それぞれ持っていたものを交換する。グラスは果物をすくって口へ運び、嬉しそうに目を細めた。
「こちらも美味しいです」
「昔はこんなの、なかったな。冷たいうちに食べ切った方がよさそうだ」
手元の団子を食べていると、目の前を通りかけた2人のウマ娘が足を止めた。制服ではないが、近くの学校へ通っているくらいの年頃に見える。
「あの、グラスワンダーさん、ですよね?」
グラスが顔を上げる。
「はい」
「やっぱり! お店にいるって聞いたんですけど、本当だったんだ……」
2人は顔を見合わせ、こちらの存在に気づいて少し声を落とした。
「お休み中に、すみません」
「いえ。お会いできて嬉しいです」
レースを見ていたという話に、グラスが礼を言う。少女の片方が部活動で走っていると話すと、普段はどんな練習をしているのかと聞いた。
話し方が、少し変わった。相手を急かさず、返事を待ち、楽しんで走れているかを確かめる。学園で後輩と話していた時に、よく見た姿だった。
食べかけの菓子を預かって少し離れた。
「一緒に写真を撮っていただいても、いいですか?」
「もちろんです」
携帯電話を向けようとした少女へ、こちらから声をかけた。
「撮ろうか。3人で並べば」
礼を言われ、電話を受け取る。画面の中央へグラス、その両脇へ少女たちが並んだ。
「はい。もう少し近づいて……撮るぞ」
何枚か撮り、確認してもらった。2人は何度も礼を言ってから、通りの方へ戻っていった。
「ありがとうございます」
グラスが隣へ戻り、預けていた菓子を受け取る。
「久しぶりに、撮っていただきましたね」
「レースの後は、よく撮ったな」
「はい。あなたは、いつも撮る側でした」
そう言われて、自分が写っている写真を思い出そうとした。表彰の場で並んだものはある。遠征先で、誰かに頼んで撮ってもらったこともあったはずだ。
グラスは菓子を食べ終え、空の容器を袋に入れた。
「今日は、一緒に写っていただけますか?」
写真を撮る場所を探していると、ちょうど隣家の女性が通りかかった。2人の様子を見て、提灯の並ぶ方を指さす。
「あそこが綺麗よ。撮ってあげるから、並んで」
グラスが自分の携帯電話を渡した。言われた場所へ並ぶと、画面を覗いた女性から声が飛ぶ。
「もう少し寄って。せっかく浴衣を着たんだから」
グラスが半歩近づく。袖が腕に触れ、その下で手が重なった。
「写真を撮るだけだぞ」
小声で言うと、グラスもこちらへ顔を寄せた。
「嫌でしたら、離しますが」
手は離れなかった。返事を待たれている間に、向こうから声がかかる。
「撮るわよ。こっち見て」
顔を上げると、シャッターが切られた。
電話を返され、グラスが画面を確かめる。覗き込むと、自分は少し硬い顔をしていた。隣のグラスは、肩が触れるほど近くに立ち、よく笑っている。
「もう一度撮ってもらえばよかったか」
「どうしてですか?」
「俺が、ちょっと変な顔をしてる」
グラスは写真を拡大してから、首を振った。
「私は、こちらがよいです」
「そうか?」
「はい。私とお話ししていたのが分かりますから」
もう一度見ると、確かに顔が僅かに彼女の方へ傾いていた。写真の下には、つないだままの手も写っている。
グラスは画面を閉じ、携帯電話を鞄へしまった。
「そろそろ、お店に戻りますか?」
「ああ。母さんたちに、何か買っていこう」
屋台へ戻ろうとすると、グラスが隣へ来た。何も言わず、右手が差し出される。
今度は、先にその手を取った。
数日後、母が買い物のついでに、祭りの写真をプリントしてきた。グラスは隣の雑貨屋で写真立てを選び、夕方の居間で、入れ方を確かめていた。包装を片づけている母に、飾ってもよいかと尋ねる。
「もちろん。好きなところへ置いて」
母が店へ戻ってからも、グラスは写真立てを持ったまま、棚の前に立っていた。
「どこに置くか、決まらないのか?」
「こちらでも、よろしいでしょうか」
指されたのは、両親の旅行写真や、自分の卒業写真が並んだ棚だった。
「ああ。そこなら、倒したりもしないだろ」
グラスが写真立てを置く。隣の古い写真に気づき、少し屈んだ。
「こちらは、トレーナーですか?」
「小学校の時のだな」
海で浮き輪を持って立っている写真だった。日に焼けた顔で、カメラへ向かって何か叫んでいる。
「元気そうですね」
「昔はな。そんなの、わざわざ見るなよ」
「初めて拝見しましたので」
グラスはしばらく眺めてから、その隣の写真立ても見た。運動会、卒業式、家族で行った旅行。順に視線を動かし、自分たちの写真へ戻ってくる。
「やはり、こちらに置かせてください」
「だから、構わないって」
グラスが、置いたばかりの写真立ての角度を少し直した。
「トレーナーからも、よく見えますか?」
いつも座っている場所から棚を見る。提灯の灯りの下で、グラスがこちらの手を握って笑っていた。
「ああ。よく見える」
彼女は満足そうに頷き、棚の前からこちらへ戻ってきた。