トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた   作:Lagavulin

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帰りに何か買おうか

 店の裏で棚を組み直していると、グラスが冷たいお茶を持ってきた。

 

「少し、お休みになりませんか」

「ありがとう。ちょうど、ひと区切りついたところだ」

 

 工具を置き、差し出されたコップを受け取る。中身を半分ほど飲んだところで、彼女がこちらの左手を見ていることに気づいた。

 

「どうした?」

 

 グラスは顔を上げたが、すぐには答えなかった。もう一度、指へ目を落とす。

 

 薬指に、指輪がなかった。

 

「ああ。作業中だから、外してるんだ」

 

 そう言ってから、彼女が握っていた盆の縁を見た。両手の指が揃い、動かなくなっている。

 

「工具で傷がつくと困るだろ。あと、引っかけて落とすのも嫌だったから」

 

 襟元へ手を入れ、細い鎖を引き出した。その先で、銀色の指輪が揺れる。

 

 グラスの目が、指輪を追った。

 

「そちらに、通していらしたのですか」

「ポケットに入れるだけじゃ、なくしそうでな。作業する時は、こうしておけばいいかと思って」

 

 指輪をつまんで見せると、グラスは盆を空いた棚へ置いた。こちらへ近づき、手を伸ばしかける。

 

「触っても?」

「ああ」

 

 鎖の先にある指輪を、彼女が掌で受けた。

 

「鎖も、買ってくださったんですね」

「つけ外しするたび、お前に外した場所を聞かれるのも困るし」

「伺ったことは、ありませんが」

「これから聞かれそうだから」

 

 グラスが指輪からこちらへ視線を移す。先ほどまで動かなかった口元に、ようやく笑みが戻った。

 

「では、大切にしていただけるよう、時々伺いましょうか」

「そこまでしなくても、大切にはする」

 

 答えると、グラスは指輪を握り込まず、指先でそっと撫でた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

 作業を終えて手を洗い、鎖から外した指輪を左手へ戻した。夕方の配達へ出る時、グラスは店で接客をしていた。

 

「5時半くらいには帰る。今日は仕入れ先にも寄るから」

「はい。お気をつけて」

 

 商品を袋へ入れながら、彼女が顔を上げる。

 

「遅くなるようでしたら――」

「連絡する」

 

 先に答えると、グラスは嬉しそうに頷いた。

 

 配達が済んだのは、予定より少し早かった。仕入れ先で荷物を受け取り、帰る前に携帯電話を開く。

 

 何時に戻るかを打ちかけてから、店先に並ぶ菓子へ目を向けた。グラスが先日、ここの焼き菓子を気に入っていたのを思い出す。

 

『今から帰る。何か食べたいものはあるか』

 

 返事は、車に乗る前に届いた。

 

『お店に、何か美味しそうなものがございますか?』

 

 菓子の写真を撮って送る。少し間を置き、また画面が光った。

 

『一緒に選びたかったです』

 

 どれを選ぶか聞いたつもりが、そう返ってくるとは思わなかった。

 

『じゃあ明日行こう。今日は、前に食べてたものを買って帰る』

『はい。明日、楽しみにしております』

 

 明日の配達帳を頭の中で確かめる。午後は時間が取れそうだった。

 

 家へ帰ると、グラスが玄関を開けた。

 

「お帰りなさいませ」

「ただいま。今日は、食べる方もちゃんと選んでくれよ」

「はい。こちらをいただきながら、明日の分を考えますね」

 

 菓子袋を受け取った彼女に、配達帳も渡す。2人で食卓へ広げ、どの時間なら一緒に出られるかを決めた。

 

 翌日は、午後から雨になった。菓子を選びに出た時は降っていなかったのに、店へ戻る頃には、道路へ細かな水玉が増えていた。夕方、近くの家から追加の注文が入り、箱を抱えて歩いて出た。

 

 傘を持とうとすると、母が玄関から声をかけてきた。

 

「先方で卵も欲しいって。持てる?」

「ああ。すぐそこだから、上に載せてくれ」

 

 小雨ならすぐ戻れると、荷物を抱え直した。届け先で注文を聞き直しているうち、窓の外の雨音が強くなる。

 

 帳面を袋に入れてもらい、軒先へ出た。家までは近いが、走れば済む降り方でもなくなっている。

 

 グラスへ連絡しようとすると、通りの向こうから傘が近づいてきた。

 

「トレーナー」

 

 グラスが軒下へ入り、こちらを見上げた。

 

「やはり、傘をお持ちではなかったんですね」

「最初は、そんなに降ってなかったからな。持ってきてくれたのか」

「はい。お帰りが遅いので、雨宿りなさっているのかと」

 

 彼女の傘は、大きめのものが1本だけだった。

 

「2本持ってくればよかっただろ」

「こちらで十分ですよ」

 

 グラスが少し傘を傾け、隣を空ける。入ってみると、肩を寄せなければ、どちらかが濡れる広さだった。

 

「俺が持つよ」

 

 柄を受け取り、雨の中へ出る。グラスがこちらを濡らすまいと端へ寄ったので、空いた手を彼女の肩へ回した。

 

「もう少し、こっちへ。そっちが濡れるだろ」

 

 腕の中で、グラスが小さく息をのんだ。

 

「……はい」

 

 肩が触れる位置へ寄ってから、彼女は黙って歩いた。話さないので顔を見ると、視線がこちらの胸元と、傘の柄を行き来している。

 

「どうした?」

「いえ。傘を1本にして、よかったと思いまして」

「わざとか」

 

 グラスが顔を上げた。

 

「一緒に帰りたかったのは、本当です」

 

 雨が傘を打つ。少し風が吹いたので持つ手を低くすると、彼女がさらに近づいた。

 

「肩まで、寄せていただけるとは思っておりませんでしたが」

 

 そう言った顔が赤くなっていた。普段なら、こちらの返事を待ちながら見つめてくるのに、今は目が合うたびに逸れる。

 

 角を曲がると、店の灯りが見えた。玄関まで傘を差しかけ、グラスに先に入ってもらう。

 

 母がタオルを持ってきた。

 

「あら、傘が足りなかった?」

「2本持ってくればよかったんだよ」

 

 答えてグラスを見ると、彼女は濡れてもいない頬へタオルを当てていた。

 

「次も、こちらで大丈夫です」

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