トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
いつもより買い物に時間がかかっていると気づいたのは、夕方の配達から戻った時だった。
グラスの靴がない。母に尋ねると、雑貨屋へ買い物に出たという。
「どれくらい前?」
「1時間くらいかしら。すぐ戻るって言ってたけど」
店の隣の雑貨屋だ。歩いても1分かからない。
電話をかけると、グラスはすぐに出た。向こうで、誰かの笑い声がする。
『はい。どうなさいました?』
「買い物、まだ終わらないのか」
『……あら。もう、そのようなお時間でしたか』
買い物の後、店主に見せてもらった古い写真を眺めていたという。祭りの写真から、昔の商店街の話になったらしい。
『すぐに戻りますね』
数分後、紙袋を持ったグラスが玄関から入ってきた。
「ただいま戻りました。遅くなってしまって、すみません」
「遅くなるなら、一言くれ」
口に出してから、居間までの短い廊下で立ち止まった。
グラスも足を止め、こちらを見る。
「……ご心配を?」
「するだろ。すぐそこへ行っただけなのに、帰ってこないんだから」
グラスの口元が、ゆっくり緩んだ。
「そうでしたか」
「笑うところじゃないぞ」
「はい。ごめんなさい。次から、きちんと連絡します」
そう答える声は、隠しきれないほど嬉しそうだった。
夕食の後、グラスが手帳を持って隣へ座った。
「来週、東京へ戻ろうと思います」
反射的に顔を向けた。
「戻る?」
「はい。今後の練習と、出走についてご相談を。それから、お部屋の荷物も整理しておきたいので」
グラスが手帳を開いた。月曜の欄に移動、火曜と水曜にそれぞれ予定が書いてある。
「木曜の夕方には、こちらへ帰るつもりです」
「ああ……じゃあ3泊か」
「はい。乗る列車が決まったら、お知らせしますね」
彼女が説明を続ける。こちらで続けている練習の記録を見てもらうこと、東京の部屋に置いたままの書類を揃えること。どれも必要な用事だった。
「分かった。気をつけて行ってきてくれ」
答えると、グラスは少しだけこちらの顔を見てから、手帳を閉じた。
「毎晩、お電話してもよろしいですか?」
「ああ。店を閉めた後なら、いつでも」
「では、楽しみにしています」
月曜の朝、最寄りの駅まで車で送った。
持っていく鞄は、最初に来た時のものより小さい。大きな旅行鞄は押し入れに残ったままで、客間の箪笥にも服が入っている。
駅前に車を停め、鞄を渡した。グラスは切符を確かめてから、こちらへ向き直る。
「行ってまいります」
「行ってらっしゃい。着いたら連絡してくれ」
「はい。トレーナーも、お忘れにならずに」
彼女の視線が左手へ向く。指輪を見せると、ようやく笑って改札へ向かった。
帰りの車では、つい助手席の方を見てしまった。信号で停まっても、話しかけてくる声はない。
店へ戻ると、母に仕入れの確認を頼まれた。普段どおりに棚を見て、足りないものを書き出し、配達の支度をする。
何かを忘れている気がしたまま、夕方になった。
夕食の皿を並べていると、母が一つを取り、棚へ戻した。
「今日は3人よ」
「……ああ」
グラスが選んだ茶碗も、棚に残っていた。
食事が済み、いつもの時間になると電話がかかってきた。
『こんばんは。お店は、もう閉められましたか?』
「ああ。さっき閉めた。そっちは?」
『お食事を済ませたところです』
無事に着いたことは、昼にも連絡をもらっていた。グラスは、東京の自室から電話をしているようだった。
移動で疲れていないかと尋ねる。グラスは大丈夫だと答え、買ってきた菓子の箱を見せてくれた。
『お土産にしようと思いまして。こちらでよろしいですか?』
「お前が好きなのでいいぞ」
『トレーナーにも、召し上がっていただきたいので』
そんな話をしていると、いつもと同じような気もした。
電話を切る時、グラスがこちらを見た。
『明日も、同じ時間でよろしいですか?』
「ああ。また明日」
画面が暗くなった。顔を上げると、隣の座布団は空いていた。
火曜には、配達先で渡された夏野菜を見せようとして、携帯電話を取り出した。写真を送ると、今度一緒に料理をしたいと返ってくる。
水曜には、店で出た新しい菓子の袋を残しておいた。帰ってきたら味を見てもらおうと、母に頼んで取り分ける。
その晩、電話で木曜の予定を確かめた。
『夕方の列車で、そちらの駅へ着きます。お店がお忙しいようでしたら、バスで戻れますので』
「迎えに行くよ」
グラスが、画面の向こうで目を瞬いた。
『よろしいのですか?』
「ああ。母さんに頼んでおく」
『ありがとうございます。では、お待ちしていますね』
次の日、車を出す前に母へ声をかけた。
「迎えに行ってくる。6時までには戻るから」
「はいはい。お父さんにも言っておくわ」
どこへとは、聞かれなかった。
列車が着く少し前に駅へ着いた。改札が見える場所で待っていると、降りてきた人たちの中に、グラスの姿があった。
前を向いて歩いてきた彼女が、こちらを見つけて足を速める。
「トレーナー」
旅行鞄のほかに、大きな紙袋を持っていた。受け取ろうと手を伸ばすと、グラスは紙袋を渡してから、空いた手でこちらの腕に触れた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
近くで顔を見ると、画面越しでは気づかなかった小さな疲れが分かった。
「移動、長かっただろ。帰ろう」
「はい」
並んで歩き始める。駐車場までの間に、話すことがいくつも浮かんだ。
「新しい菓子、取り分けてあるんだ。あと、一昨日も野菜をもらってな」
「お写真の?」
「ああ。あれも、まだある」
グラスは頷きながら聞き、腕に添えていた手を、こちらの手へ移した。
「では、帰ったら一緒に見ましょう」
握り返すと、彼女は安心したように肩を下げた。