トレーナーを辞めたらグラスワンダーが実家まで追ってきた 作:Lagavulin
家へ着くと、グラスは母に土産を渡し、父にも帰ったと挨拶をした。
夕食の席で、向こうで会った人や、今後の練習について話す。母は土産の菓子の箱を眺め、父は、次のレースが決まったら教えてくれと言った。
「はい。その時は、ぜひご覧いただきたいです」
グラスが答えてから、こちらを見た。
「詳しい予定は、後ほどご相談してもよろしいですか?」
「もちろん。俺も、話したいことがある」
箸を置きかけた彼女が、一度頷く。
「はい。伺います」
両親が休んだ後、居間で向かい合った。グラスの手元には、いつもの手帳がある。東京で相談した内容をまとめてきたらしい。開こうとした彼女に、少しだけ待ってもらった。
「先に、俺の話からいいか」
「はい」
手帳が、膝の上へ戻された。
「東京の荷物、まだ向こうに残ってるんだろ」
「はい。今回は、必要なものだけ持ってまいりました」
「こっちに置きたいものがあれば、送ればいいよ。箪笥も、もう少し空けられるし」
「ありがとうございます」
「あと、いつまでも客間って呼ぶのも、変だと思って。もう、お前の部屋でいいんじゃないか」
グラスが、膝の上の手帳から顔を上げた。
「トレーナー。お部屋の使い方のお話を、なさりたいのですか?」
「……そういうわけじゃない」
「では、私にどうしてほしいのでしょう?」
穏やかな声のまま、返事を待たれた。空いている引き出しや、荷物の置き場所を考えるのをやめ、彼女の顔を見る。
「グラス。これからも、ここで暮らしてほしい」
グラスは目を見開き、手帳の角を指先で押さえた。
「私が心配して来たので、帰ってほしいとは言いづらくなっていませんか?」
そう聞かれるとは思っていなかった。
ここを探し当て、泊まると決めて荷物を運び込み、いつの間にか家族にも近所にも馴染み、生活に溶け込んでいた。それでも、こちらが断るかもしれないと不安になっていたのか。
「最初は、どうすれば納得して帰ってくれるか、考えてた」
グラスが静かに頷く。
「分かっていました」
「でも、今は帰ってほしくない。お前がいない間、買って帰るものも話したいことも、どんどん増えた。電話を切った後に、隣にいないことに違和感を覚えるようになっていた」
グラスは、こちらから目を逸らさずに聞いていた。
「木曜になったら、早く迎えに行きたくなった。顔を見たら、話したかったことが一気に出てきて……一緒に帰れるのが嬉しかった」
言いながら、駅で彼女を見つけた時のことを思い出した。こちらへ歩いてくる姿に、鞄を受け取る前から手を伸ばしていた。
「今はもう、お前がいない生活に戻りたくない。帰ってきたら一緒に飯を食って、今日あったことを話して……そういう毎日を、これからも一緒に過ごしていきたいんだ」
手帳を押さえていた指が止まった。
しばらくして、グラスが手帳を脇へ置く。両手を膝の上で重ねてから、深く頷いた。
「はい」
答えた後で、ようやく笑った。笑おうとして、少し困ったような顔にもなった。
「私も、あなたがいない生活には戻りたくありません。学園にいた頃から、そう思っていましたけれど」
「……そんなに前から?」
「はい。練習の後にお話をして、お休みの日には一緒に出かけて。レースを離れても、そういう時間は続くものだと思っていました」
彼女は一度、唇を結んだ。
「その先も、あなたと過ごすつもりだったんです。ですから、探しました」
見覚えのある土産を調べ、知らない町を歩き、写真の端にこちらの姿を見つけるまで。
「来てくれて、ありがとう」
そう伝えると、グラスの目が潤んだ。
「もう少し、お近くにいらしていただけますか」
食卓を回り、隣へ座る。肩が触れる前に、グラスがこちらを向いた。
「今度は、掴んでもよろしいですか?」
「ああ」
服の脇を、彼女の指がつまんだ。袖ではなく、背中へ手を回すような位置だったので、こちらもグラスの肩を抱く。
グラスが胸元へ額を寄せた。
「起きていますので、きちんと加減できます」
「分かってる」
背中へ添えた手に、彼女の髪が触れる。顔を見ようと少し身体を離すと、グラスが上を向いた。
「今は、離れないでくださいね」
「離れないよ」
額に触れていた髪を避け、頬に手を添える。グラスが少し目を閉じたので、そのまま唇を重ねた。
短い口づけの後、彼女は顔を赤くして、こちらの服をもう一度つまみ直した。
「……もう少し、こうしていても?」
「ああ」
手帳は脇へ置かれたままで、予定の話は、しばらく始まらなかった。
翌朝、グラスは普段どおりに起きて走り、母と朝食を用意した。
ただ、食卓に着く時、グラスは自分の座布団を、こちらの席の隣へ移した。
「今日は、そっちなの?」
母に聞かれ、グラスは笑顔で頷いた。
「はい。こちらで」
いつもの席に座る。何か言われるかと構えたが、母は味噌汁を置き、父に茶を渡しただけだった。
食後、母が店へ出てから、グラスがこちらの指輪に触れた。
「私だけ、何もないのは寂しいですね」
「何も?」
「はい。こちらのようなものが、私にもあればと」
彼女が薬指の輪を指先でなぞる。
「お前の居場所まで確認する必要はないだろ」
「指輪のお話です」
指が止まり、顔を見られた。
「お揃いが、欲しいです」
今度は、グラスがどの指に着けたいのか、考えるまでもなかった。
「……どんなのがいいんだ?」
「選んでくださるのですか?」
「欲しいって言われたら、考えるだろ」
グラスは口元を隠すように手を寄せたが、笑っているのは分かった。
「では、楽しみにしております」
その晩、携帯電話で指輪を見ていると、グラスが茶を持ってきた。
隠すのも妙な気がして、画面を開いたまま茶を受け取る。彼女は何を見ているのかに気づき、黙って隣へ座った。
「……何か意見があるか?」
「いいえ。お邪魔をしないようにと思いまして」
「そんなに近くで見られる方が、選びにくいんだが」
「では、もう少し離れて」
腰を浮かせかけた彼女の手を取った。
「いや、ここにいてくれ。せっかくだから、好みを聞きたい」
グラスが座り直す。画面を2人の間へ向けると、彼女は左手を、こちらの左手の隣へ置いた。
「この指輪と、並んだ時に綺麗なものがよいです」