タイトルが主旨です。
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競馬場の空気は、いつだって少しばかり浮ついている。
芝生を渡る風には土の匂いが混じり、売店からは焼きそばのソースが焦げる香りが漂っていた。頭上を覆う空は秋晴れで、雲ひとつない青色をしている。けれど、そんな爽やかな天気とは裏腹に、場内にいる人々の顔は悲喜こもごもだった。
馬券を握りしめて天を仰ぐ者。払い戻し窓口へ駆け込む者。隣の人間に向かって、今のレースはどう考えてもおかしいと力説する者。
その中に一人だけ、少し変わった雰囲気の男がいた。
伏黒甚爾。
長身に鍛え上げられた体。無造作に撫でつけられた黒髪と、どこか人を食ったような目つき。黙って立っているだけなら競馬場という場所には少々不似合いなほど、目を引く男だった。
ただし、手元にある馬券は見事に紙屑と化していた。
「……あ?」
ゴール板を駆け抜けた馬を見つめ、甚爾は低く唸った。
予想していた馬は最後の直線で失速した。
代わりに一着へ飛び込んできたのは、彼が真っ先に切り捨てた人気薄の馬だった。
甚爾はしばらく黙っていた。
それから手元の馬券を二つに折った。
「クソが」
吐き捨てた声は、風に紛れるほど小さかった。甚爾は仕事仲間に向いていないとまで言われるほど運が悪く、こんなレースは日常茶飯事だった。
だから結果に文句こそ言うのもそこそこに、次の馬は何にしようかなどと考えていた。
しかし「ちょっと、そこの君」突然、横から声がした。
振り向けば、見知らぬ女が立っていた。
年の頃は甚爾とそう変わらない。肩のあたりで揺れる髪を耳にかけ、手には小さな紙袋を提げている。人懐こい目をしていて初対面の相手にも臆する様子がない。
その女は、甚爾の手元をちらりと見た。
「今の外したの?」
「……見りゃ分かんだろ」
「うわ、そんなに買ったの?」
「悪いか」
「悪くないけど。お金、大丈夫?」
「余計なお世話だ」
甚爾は女から目を逸らした。
普段なら話はそれで終わる。
相手が不快そうな顔をして去っていくか、沈黙の気まずさに耐えかねて離れていくか。そのどちらかだ。
ところが女はまったく引き下がらなかった。
「でもさっきのレース、あの馬は厳しかったと思うよ」
「……何だと?」
「だって、前走の最後の伸びがいまひとつだったもの。馬場も合ってなさそうだったし」
甚爾は初めて女の顔をまともに見た。
「競馬、詳しいのか」
「好きなの。見るのも、予想するのも」
「じゃあ、さっきの一着は読めたってか」
「うん」
女は悪びれもせずに頷いた。
「当たったよ」
甚爾の眉がぴくりと動いた。
女が紙袋から取り出したのは、払い戻しを済ませた馬券とその控えだった。金額を確認した甚爾は思わず舌打ちをした。
当たっている。
しかもそこそこの金額だ。
「……運がよかったな」
「運もあるけど予想もあるよ」
「へえ」
「ねえ、あんた。名前は?」
「……何で教えなきゃならねえんだ」
「私は聞きたいから」
あまりに堂々とした答えだった。
甚爾はしばらく女を見つめた。
こういう人間は初めてだった。
こちらの機嫌も都合も考えず、ずかずかと踏み込んでくる。無視しても睨んでも簡単には退かない。
面倒くさいと思った。
それなのに、不思議と腹は立たなかった。
「……甚爾」
「甚爾ね。私は――」
彼女は自分の名前を名乗り、にっこりと笑った。
「よろしく、甚爾」
「よろしくするつもりはねえよ」
「そう? じゃあ、これからよろしくしてもらおうかな」
「人の話聞いてんのか」
「聞いてるよ」
女は笑った。
その笑顔を見た瞬間、甚爾は何となく悟った。
今日の負けはまだ終わっていない。
この女に関してはたぶん、もっと面倒なことになる。そしてその予感は驚くほど正しかった。
ーーー
二人はそれから何度も競馬場で顔を合わせた。
偶然だったのか、女が甚爾を探していたのか、甚爾には分からない。
いつもではないが、彼がいつもの場所に立っていると、彼女は当然のように隣へやってきた。
「今日はどの馬?」
「教えるかよ」
「えー、いいじゃない」
「自分で考えろ」
「じゃあ私はこれにする」
彼女は新聞を広げ、迷いなく印をつける。
甚爾はそれを横目で見て鼻で笑った。
「そいつはねえな」
「そうかな」
「近走が悪い。展開も向かねえ」
「でも今回は違うと思う」
「根拠は?」
「なんとなく」
「帰れ」
ところが、レースが終われば彼女の馬券が当たっている。
それも一度や二度ではなかった。
反対に、甚爾は驚くほど当たらない。
見る目がないわけではない。むしろ馬の脚質や展開を読むことに関しては、決して素人ではなかった。
ただ、最後の最後で欲が出る。
堅いところへ賭ければ、もっと配当の高い馬が気になる。穴馬を狙えば別の馬の調子がよく見えてくる。勝負どころになると、冷静だったはずの判断が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
命のやり取りなら甚爾は迷わなかった。
相手の呼吸を読み、隙を見極め、必要な一手を選ぶ。
しかし、競馬では相手は人間ですらない。
何を考えているのか分からない馬たちと、思い通りにならない展開と、最後までこちらを嘲笑うような運の悪さ。
甚爾はそこだけがどうにも苦手だった。
「また負けたの?」
「……見りゃ分かんだろ」
「今日も?」
「うるせえな」
「ふうん」
彼女は少し考え込むようにしてから、甚爾の顔を覗き込んだ。
「ねえ甚爾」
「あ?」
「お腹、空いてない?」
「……は?」
「いや、だって、さっきから何も食べてないでしょう。顔色も悪いし」
「顔色で腹の減りが分かるかよ」
「分かるよ。なんとなく」
「そればっかだな、てめえは」
彼女はけらけらと笑った。
その笑い声は、周囲の喧騒の中でも不思議とはっきり聞こえた。
「今日、うちに来ない?」
「……何で」
「ご飯、食べさせてあげる」
「いらねえ」
「おいしいよ」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあ、何の問題?」
甚爾は答えなかった。
彼女は、彼が黙っているのを拒絶だとは受け取らなかったらしい。
「決まり。行こう」
「おい」
「ほら、早く」
彼女は、甚爾の袖をつまんだ。
その手は驚くほど小さかった。
振り払おうと思えば、簡単だった。
それなのに甚爾は結局、彼女の後をついていった。
この日、甚爾は初めて知った。
競馬で負けた人間にも、帰る場所ができることがあるのだと。
腐った禪院家で育ち、呪術の世界で生きている甚爾にはそれが少し眩しかった
ーーー
彼女の部屋は、駅から少し離れた場所にあった。
古いアパートの二階。階段を上るたびに、金属が小さく軋む音がした。玄関の前には鉢植えの花が二つ並んでいた。片方は鮮やかな黄色で、もう片方は白い小花をつけている。
「散らかってるけど、気にしないでね」
そう言われて入った部屋は、甚爾が想像していたよりもずっと整っていた。
小さなテーブル。きちんと畳まれた洗濯物。窓辺には読みかけの本が置かれ台所は使いやすいように整えられている。
誰かが暮らしている部屋だった。
ただ眠り、食べ、仕事へ出かけるためだけの場所ではない。
帰ってきた人間が、ほっと息をつけるように整えられた場所。
甚爾は玄関先で一瞬だけ足を止めた。
「どうしたの?」
「……別に」
「靴、そこに置いてね」
彼女は何も尋ねず、台所へ向かった。
その自然さが甚爾には少しばかり居心地悪かった。
人の家へ上がることには慣れていない。
正確には他人の生活の中へ、こうして何の見返りもなく迎え入れられることに慣れていなかった。
彼が知っている人間関係には、たいてい損得がついていた。
金を払えば仕事が来る。仕事をすれば報酬が出る。女の家を頼れば、その先を求められる。借りを作ればいつか返さなければならない。
だから目の前の女の行動には、どうにも理解しがたいところがあった。
「はい、お待たせ」
テーブルの上に置かれたのは、湯気の立つ味噌汁と焼き魚、卵焼き、それに小鉢に盛られた煮物だった。
どれも派手ではない。
けれど丁寧に作られていることが分かった。
「……随分、作ったな」
「そう? 普通だよ」
「一人で食う量じゃねえだろ」
「二人分だもの」
「……最初から俺が来るつもりだったのかよ」
「ううん。甚爾が来るって言うと思ってた」
「言ってねえ」
「でも、来たでしょう?」
彼女は得意げに笑った。
甚爾は深く息を吐いた。
こいつには勝てない。
競馬ではない。
この女の、妙に揺るがない調子にだ。
「いただきます」
彼女が手を合わせる。
甚爾は一拍遅れて箸を取った。
味噌汁を一口飲む。
舌に広がったのは柔らかな出汁の味だった。濃すぎず、薄すぎず、喉を通る温度もちょうどいい。
それだけで、張りつめていた何かがほんの少しだけ緩んだ。
「……うまいな」
ぽつりと零れた言葉に、彼女が目を丸くした。
「えっ、今、褒めた?」
「聞こえたなら聞き返すな」
「もう一回言って」
「断る」
「えー!」
彼女は笑いながら、甚爾の茶碗にご飯をよそった。
甚爾は文句を言わなかった。
焼き魚を食べ煮物を口に運ぶ。どれも温かくどこか懐かしい味がした。
いつからだろう。
食事を、ただ腹を満たすための作業だと思うようになったのは。
仕事の合間に適当に買ったものを食べ、空腹が収まればそれでよかった。味など二の次だった。
けれど、誰かが自分のために作った料理というものは、腹だけではなくもっと別の場所に染み込んでいく。
その場所がどこなのか、甚爾には分からなかった。
「甚爾ってさ」
「あ?」
「一人暮らし、長いの?」
「まあな」
「ちゃんと食べてる?」
「食ってる」
「嘘だ」
「何で分かる」
「今日の顔」
「また顔かよ」
彼女は箸を置いて真面目な表情になった。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝ないと駄目だよ。体を壊したら困るでしょう」
「誰が」
「甚爾が」
「……俺が困るだけだろ」
「うん。だから、困ってほしくないの」
甚爾は箸を止めた。
彼女はまるで当たり前のことを言うように続けた。
「私、甚爾が元気なほうがいいもの」
窓の外では、夕方の風が電線を揺らしていた。
遠くを走る車の音が聞こえる。
甚爾はしばらく黙っていた。
何かを返さなければならないと思った。
礼を言うべきなのか。冗談で誤魔化すべきなのか。それとも、そんなことを言うなと突き放すべきなのか。
けれど、どれも妙にしっくりこなかった。
だから結局、彼は味噌汁をもう一口飲んだ。
「……おかわり」
彼女は驚いた顔をした。
そして次の瞬間、満面の笑みになった。
「うん!」
その笑顔を見て甚爾は思った。
負けるのも、悪くないかもしれない。
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それから彼女の部屋は、甚爾にとって少しずつ特別な場所になった。
最初は競馬で大負けした日だけだった。
次は勝った日にも顔を出すようになった。
そのうち競馬とは関係のない日に、玄関の前に立っていることも増えた。
「いらっしゃい」
「……おう」
「今日はどうしたの?」
「近くに来た」
「ここ、甚爾の仕事場から遠いよね?」
「……うるせえな」
「ふふっ。ご飯、食べる?」
「食う」
彼女は何も聞かず、彼のために茶碗を出した。
甚爾はそれを当然のことのように受け取るようになった。
彼女は、甚爾の過去を深く尋ねなかった。
どうして一人なのか。
何の仕事をしているのか。
なぜ、ときどき夜中に帰ってくるのか。
その代わり彼が帰ってきたときには「おかえり」と言った。
甚爾はその言葉を聞くたびに、ほんの少しだけ困った。
おかえり。
それは、どこかへ帰ることが当たり前の人間に向ける言葉だ。
自分にそんなものが似合うとは、思っていなかった。
それでも、彼女の声でその言葉を聞くのは、嫌いではなかった。
むしろ気がつけば、その言葉を聞くために帰っている自分がいた。
ーーーーー
出会いから半年ほど経った頃だった。
きっかけはいつもの競馬場だった。
その日も甚爾は負けていた。
しかも、普段よりひどい。
最終レースまで粘った挙げ句、最後に残った馬券まで外した。払い戻しの表示を眺める彼の横で、彼女は自分の財布をしまっていた。
「今日は勝ったよ」
「……知ってる」
「おいしいもの食べに行こうか」
「好きにしろ」
「甚爾も一緒に」
「……俺はいい」
彼女の表情が少しだけ変わった。
「何で?」
「負けた日に、勝った奴と飯食う趣味はねえ」
「じゃあ、私も勝ってないことにする」
「馬鹿か」
「うん。甚爾のことになると、ちょっと馬鹿かも」
あまりにも真っ直ぐだった。
甚爾は言葉を失った。
彼女は彼の前に立ち、まっすぐに目を合わせた。
「ねえ、甚爾」
「……何だよ」
「私、甚爾と一緒にいるのが好き」
場内のアナウンスが遠くで響いた。
人々の話し声。足音。馬券を破る音。
世界はいつも通りに動いているのに、その瞬間だけ、甚爾の周囲から音が消えたような気がした。
「……物好きだな」
やっと出た言葉は、それだった。
「そうかもね」
「俺なんかといても、ろくなことねえぞ」
「それは私が決めること」
「後悔するぞ」
「したら、そのとき考える」
彼女は一歩近づいた。
「だから今は一緒にいてよ」
甚爾は彼女を見つめた。
この女はいつだってそうだった。
こちらが逃げようとすれば素知らぬ顔でついてくる。突き放せば逆に、もう一歩踏み込んでくる。
そのくせ彼が本当に嫌がることはしなかった。
勝手に部屋へ入ろうとはしない。話したくないことを無理に聞き出そうともしない。彼が黙っているときは、隣で静かにお茶を飲んでいた。
強引なのに妙なところで優しい。
その優しさが甚爾には怖かった。
人はいつか離れていく。
信じたものほど、失ったときに大きな傷になる。
そんなことは、人付き合いの少ない甚爾にだって想像がついた。
だからこそ、何も期待しなければいい。
何も求めなければ失うものもない。
ずっと、そうやって生きてきた。
けれど彼女は、甚爾が長年かけて積み上げたその理屈を、毎日の食事と他愛のない会話と遠慮のない笑顔で、少しずつ崩していった。
「……好きにしろ」
甚爾は視線を逸らして言った。
「え?」
「一緒にいたきゃ、いりゃいいだろ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、彼女は彼の腕を掴んだ。
「やった!」
「うるせえ」
「今の、付き合うってこと?」
「好きに解釈しろ」
「じゃあ、付き合うってことね!」
「……ああ」
その返事を聞いた彼女は、嬉しそうに笑った。
甚爾はその笑顔を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
自分が何かを手に入れたのだと、ようやく理解した。
それは金でも、勝利でも、誰かを打ち負かした証でもなかった。
ただ、自分の隣にいてほしいと願う人間ができた。
それだけのことが、どうしようもなく大きかった。
ーーーーー
付き合い始めても、甚爾の賭けの弱さは変わらなかった。
むしろ彼女が隣にいることで、余計に勝てなくなった。
「甚爾、また外したの?」
「……見りゃ分かんだろ」
「何でそっちにしたの?」
「こっちのほうが来ると思った」
「でも、私は反対だって言ったよね」
「聞いてねえ」
「聞こえてたでしょう!」
彼女は頬を膨らませる。
甚爾はそれを見て笑いそうになるのを堪えた。
「次は当てる」
「毎回それ言ってる」
「次は次だ」
「じゃあ、次は私の予想に乗って」
「断る」
「どうして!」
「お前の真似して当たったら、俺の実力じゃねえ」
「何その謎のこだわり!」
結局、その日の最終レースも彼女だけが当てた。
払い戻しを済ませた彼女は、甚爾の肩をぽんと叩いた。
「まあまあ。明日もあるよ」
「……明日も来る気か」
「もちろん」
「懲りねえな」
「甚爾もね」
彼女は彼の手を握った。
人混みの中で、指先が触れ合う。
甚爾は最初握り返さなかった。
どうすればいいのか、分からなかったからだ。
それでも、彼女が手を離さずにいるので、やがて彼はほんの少しだけ力を込めた。
そのとき彼女が見せた顔を、甚爾は長く忘れなかった。
まるで大当たりの馬券を手にしたような、いやそれ以上のずっと嬉しそうな顔だった。
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幸せというものは必ずしも大きな音を立てて訪れるわけではない。
朝、目を覚ますと隣に彼女がいる。
眠そうな顔で「おはよう」と言われる。
コーヒーを淹れる彼女の背中を眺めながら、甚爾は新聞をめくる。
彼女が競馬の予想を始めれば甚爾は横から口を出す。
外れれば彼女が笑い、当たれば甚爾が舌打ちする。
そんな日々が当たり前のように積み重なっていった。
彼女は甚爾が賭け事に負けるたびに、決まって同じことを言った。
「お金はまた稼げばいいよ」
「……簡単に言いやがる」
「でも、甚爾はちゃんと働いてるでしょう?」
その言葉に甚爾は時々、胸の奥がざらつくのを感じた。
彼女は知らない。
甚爾が何をして金を稼いでいるのか。
何を代償にして生きてきたのか。
人が目を背けるような仕事を引き受け、常識の外側にあるものと対峙し、時には自分自身さえ使い捨てるようにしてきたことを。
彼女が知っているのは競馬に弱い男と、口数が少なくて、食事をするときには意外とよく食べる男だけだった。
それでいい。
甚爾はそう思っていた。
この女の前ではせめて普通の人間でいたかった。
しかし隠し通すことはできなかった。
その日は、彼女が一人で買い物に出かけた帰りだった。
夕方の商店街は人通りが多かった。
店先には夕食の食材が並び、子供たちの声が通りを駆け抜けていく。自転車のベルが鳴り、どこかの店からラジオの音が聞こえていた。
その平凡な日常の中で、異変は突然起こった。
最初に聞こえたのは、子供の泣き声だった。
次に何かが割れるような音。
そして人々の悲鳴。
商店街の奥、路地に近い場所で黒い影が蠢いていた。
人間の形をしているようで、していない。
長い腕のようなものが壁を這い、いびつな頭部が不自然な角度でこちらを向いている。
普通の人間なら、それを見た瞬間に理解を拒んだだろう。
しかし彼女には理解できなかった。
何が起きているのか分からないまま足がすくんだ。
目の前で人が倒れ、周囲の人間が逃げ惑っている。
逃げなければ。
そう思ったのに足が動かなかった。
黒い影がゆっくりと彼女へ向き直った。
その瞬間だった。
「下がってろ」
低い声が耳元で響いた。
次いで、視界を横切る大きな背中。
甚爾だった。
いつもの無造作な服装。見慣れた肩。何度も隣を歩いた背中。
ただしその目は、彼女が知っているものとは違っていた。
普段の気だるさは消え、鋭い刃物のような冷たさだけが残っている。
「甚爾……?」
「こっちを見るな」
短い命令だった。
彼は彼女を背後へ押しやると、黒い影へ向き直った。
次の瞬間、甚爾の体が動いた。
その動きは人間のものとは思えないほど速かった。
路地に転がっていた物を足場にして跳び、影の懐へ踏み込む。何かが空を切り、黒い塊が大きく歪んだ。
彼女には何が起きているのか分からなかった。
ただ甚爾が一瞬たりとも迷っていないことだけは分かった。
競馬場で馬券を外していた男と、食卓で黙々と魚を食べていた男。
その二つの姿が目の前の光景と結びつかない。
甚爾は異形の動きを見切り、間合いを詰め、相手の隙を突いた。
最後に鈍い音がした。
黒い影は形を崩し、やがて空気に溶けるように消えていった。
商店街に奇妙な静けさが戻った。
人々の泣き声が聞こえる。
遠くから、誰かが助けを求める声がする。
甚爾は振り返った。
「……怪我は」
いつもの声だった。
けれど彼女はすぐに答えられなかった。
甚爾の手には見慣れない道具が握られていた。彼の表情は冷静で、呼吸すら乱れていない。
それが何よりも恐ろしかった。
「甚爾……今の、何?」
「……」
「何なの、あれ」
甚爾は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
彼女の顔を見た瞬間、彼は初めて自分が隠してきたものの重さを知った。
彼女の目には、恐怖があった。
しかし、それ以上に困惑があった。
信じていた人間が突然、知らない誰かになってしまったような。
同じ顔をしているのに、その内側に自分の知らない世界が広がっている。
そんな目だった。
「……帰るぞ」
甚爾はようやくそれだけ言った。
彼女は頷かなかった。
ただ彼の手を見つめていた。
その手がほんの少しだけ震えていることに気づいたのは、甚爾自身だけだった。
ーーーーー
その夜、二人はほとんど口を利かなかった。
部屋の明かりはついている。
テーブルの上には、彼女が買ってきた食材が置かれたままだった。いつもなら彼女はすぐに台所へ立ち、夕食の支度を始める。
しかしその日は違った。
彼女はソファに座り、甚爾は窓際に立っていた。
外では雨が降り始めていた。
窓ガラスに細かな水滴がつき、街灯の光をぼんやりと滲ませている。
「……呪霊、っていうんだ」
彼女が口を開いたのは、長い沈黙のあとだった。
「ああ」
「普通の人には見えないものなの?」
「見える奴もいる。見えねえ奴もいる」
「甚爾はあれと戦う仕事をしてるの?」
「……そうだ」
「いつから?」
「ずっとだ」
彼女は膝の上で両手を組んだ。
「どうして、教えてくれなかったの?」
甚爾はすぐには答えなかった。
何と言えばいいのか分からなかった。
危険だから。
巻き込みたくなかったから。
知らないほうが幸せだから。
どれも本音だった。
そして、どれも言い訳だった。
「……言う必要がなかった」
ようやく出た言葉は、ひどく冷たいものになった。
彼女の指先がわずかに強張った。
「私には必要がなかったんだ」
「そういう意味じゃねえ」
「じゃあ、どういう意味?」
甚爾は口を閉ざした。
彼女は怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ静かな声で尋ねた。
「甚爾は、私が知らないほうがいいと思ったの?」
「ああ」
「私が知ったら、離れると思った?」
甚爾は顔を上げた。
彼女の目がまっすぐに彼を見ていた。
その目には、もう恐怖だけではないものがあった。
悲しみと怒りとそれでも消えない愛情。
甚爾が最も見たくなかったものだった。
「……お前は、知らなくていい」
「それは甚爾が決めることじゃないよ」
彼女は立ち上がった。
「私、甚爾が何をしてるのか、全部分かるなんて思ってない。危ない仕事だってことも、今まで知らなかったことも、正直怖いよ」
甚爾は黙って聞いていた。
「でもね」
彼女はゆっくりと息を吸った。
「怖いからって、甚爾のことを知らないままでいたいとは思わない」
雨音が少し強くなった。
「私は甚爾の隣にいたいって、自分で決めたんだよ。勝手に決めたんじゃない。何度も考えてそれでも一緒にいたいと思ったの」
「……」
「だから危ないことがあるなら、危ないって言って。隠したいことがあるなら、隠したいって言って。嘘をついて私が何も知らないまま笑っていればいいなんて、そんなふうに決めないで」
甚爾は何も言えなかった。
彼女の言葉は胸の奥へ静かに沈んでいった。
彼はずっと、彼女を守るために秘密にしてきたつもりだった。
けれど本当は違う。
自分の世界を知られたくなかったのだ。
知られたあとで、彼女が去っていくことが怖かった。
その可能性を考えるくらいなら最初から何も話さないほうがよかった。
失う前に、失う理由を作らない。
それが甚爾の考えだった。
だが彼女はその生き方を、静かに否定した。
「……悪かった」
甚爾がそう言うと彼女は目を見開いた。
「え?」
「……悪かったって言ってんだよ」
「……うん」
彼女の目に涙が浮かんだ。
甚爾はぎこちなく手を伸ばした。
彼女の頬に触れようとして、途中で止まる。
その手を彼女が取った。
「もう」
彼女は泣きながら笑った。
「ほんとに不器用なんだから」
「……うるせえ」
「好きだよ、甚爾」
その言葉に甚爾は目を伏せた。
彼は愛しているという言葉を簡単には口にできない。
言葉にしてしまえばそれが約束になってしまう気がした。
約束になれば、守らなければならない。
守れなかったとき自分は何を失うのだろう。
けれど彼女はそんな彼の手を握ったまま、静かに待っていた。
甚爾は彼女を引き寄せた。
強く抱きしめることはしなかった。
ただ、離さないように腕を回した。
「……俺もだ」
彼女の肩が小さく震えた。
「今、何て言ったの?」
「二度は言わねえ」
「もう一回!」
「調子に乗んな」
彼女は笑った。
雨はまだ降っていた。
けれど二人の間にあった長い沈黙は、ようやく終わろうとしていた。
ーーーーー
結婚を決めたのは、それから一年後だった。
甚爾からの申し出は驚くほど簡素なものだった。
ある晩、彼女が夕食の片づけをしていると、甚爾がテーブルに小さな箱を置いた。
「……何、これ?」
「開けりゃ分かる」
彼女は手を拭き、箱を開けた。
中には指輪が入っていた。
派手な装飾はない。けれど彼女の指に似合いそうな、控えめで綺麗な指輪だった。
彼女はしばらくそれを見つめていた。
「……甚爾」
「嫌なら返せ」
「嫌なわけないでしょう!」
声が裏返った。
甚爾は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、決まりだ」
「待って、待って。え、結婚? 私たち、結婚するの?」
「そのつもりで出した」
「プロポーズ、これだけ?」
「他に何がいる」
「もうちょっと、こう……言葉とか!」
「……」
甚爾はしばらく考えた。
それから、観念したように息を吐いた。
「……一緒にいろよ。これからも」
彼女は指輪を握りしめた。
涙が、ぽろりと落ちた。
「……うん」
その一言を聞いて甚爾はようやく肩の力を抜いた。
彼女は指輪をはめてもらうと、すぐに彼の首へ腕を回した。
「大好き!」
「分かったから、落ち着け」
「無理!」
「……お前な」
呆れたような声。
けれど、その腕は、彼女の背中をしっかりと抱いていた。
ーーーーー
結婚してからも、甚爾は変わらなかった。
口数は少ない。
家事はできることだけやる。
競馬に行けば、相変わらず負ける。
ただし彼女の予想を聞く回数は増えた。
「今日はこの馬がいいと思う」
「……理由は」
「前走の内容がよかったから。あと騎手との相性もよさそう」
「ふうん」
「何、その顔。疑ってる?」
「別に」
「じゃあ、買ってみたら?」
「……少しだけな」
結果は彼女の予想が当たり、甚爾が外れた。
「ほらあ!」
「うるせえ」
「だから言ったでしょう!」
「……次は当てる」
「もう!」
彼女は笑い、甚爾はため息をついた。
それでも帰り道には自然と手を繋いでいた。
家に帰れば、二人で夕食を作る。
彼女が野菜を切り、甚爾が鍋を火にかける。彼女が味見をすれば甚爾も横から箸を伸ばす。
「ちょっと、まだ味見してない!」
「今した」
「私の分!」
「もう一回すりゃいいだろ」
「そういう問題じゃない!」
くだらない言い合い。
けれどそんな時間が、甚爾には何よりも不思議だった。
誰かと暮らすことはもっと面倒で、もっと窮屈なものだと思っていた。
1人でいることに、孤独であることに慣れきっていたからだ。
だが実際は、帰る場所があるということは、弱くなることではなかった。
疲れたときに休める場所がある。
失敗したときに笑い飛ばしてくれる人間がいる。
そして、自分の明日を気にかけてくれる誰かがいる。
それは戦うための力とは違う。
しかし、甚爾がこれまで知らなかった種類の強さだった。
そんな日々の中で彼女の妊娠が分かった。
検査結果を手にした彼女は、しばらく黙っていた。
甚爾はその顔を見て、何かあったのだと悟った。
「……どうした」
彼女は顔を上げた。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
「甚爾」
「ああ」
「赤ちゃん、できたみたい」
甚爾は動かなかった。
言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
「……あ?」
「赤ちゃん」
「……俺のか」
「他に誰の子なの!」
彼女は笑った。
今度の笑顔は泣きそうなほど嬉しそうだった。
甚爾は検査結果を見つめた。
紙切れ一枚。
そこに書かれた文字が、これまでの人生で受け取ってきたどんな報酬よりも重く感じられた。
「……そうか」
ようやく出た言葉はそれだけだった。
「うん」
「……そうか」
「さっきから、そればっかり!」
彼女は笑った。
甚爾はその肩を抱いた。
何と言えばいいのか、やはり分からなかった。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
そのすべてが胸の中で絡み合っていた。
自分が父親になる。
自分が、誰かの人生を背負う。
守るべきものが増える。
その事実は喜びと同じくらい、彼を怯えさせた。
けれど、彼女が彼の手を取った。
「一緒に育てようね」
甚爾はゆっくりと頷いた。
「ああ」
その返事にはいつもよりも確かな重みがあった。
ーーーーー
子供が生まれた日は朝から雨が降っていた。
病院の窓を濡らす雨粒が、細い筋を描いて流れていく。廊下には消毒液の匂いが漂い、遠くから看護師たちの足音が聞こえていた。
甚爾は落ち着かなかった。
椅子に座っても、すぐに立ち上がる。
壁にもたれても、数秒で場所を変える。
腕を組んで黙り込んでいるかと思えば、急に時計を見上げる。
自分でも馬鹿らしいと思うほどそわそわしていた。
相手が呪霊なら話は簡単だ。
敵を見つけ、間合いを測り、倒せばいい。
しかし出産というものには、甚爾が介入できる余地がほとんどなかった。
彼女が痛みに耐えている間、彼はただ待つしかない。
その時間はどんな戦いよりも長く感じられた。
やがて扉が開いた。
「ご家族の方」
甚爾はすぐに立ち上がった。
「無事に生まれましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
看護師に案内され彼は小さなベッドの前へ連れていかれた。
そこにいたのは、あまりにも小さな赤ん坊だった。
顔を真っ赤にして布にくるまれている。小さな手が動き、指先が空気を掴むように開いたり閉じたりしていた。
甚爾はしばらく見つめていた。
「……ちっせえな」
誰に言うでもなく呟いた。
看護師が微笑む。
「赤ちゃんですからね」
「……そうか」
その返事に、看護師は少しだけ笑った。
甚爾は恐る恐る腕を差し出した。
赤ん坊が抱かされる。
その瞬間、彼の体は不自然なほど硬くなった。
軽い。
あまりにも軽い。
自分の腕の中にあるものが、少し力を入れただけで壊れてしまいそうなほど小さかった。
彼は息を止めた。
赤ん坊は、何も知らずに眠っている。
これからどんな世界を生きるのか。
どんな人間になり、何を好きになり、何を嫌うのか。
甚爾にはまだ何一つ分からない。
ただこの小さな命が、自分と彼女の間に生まれたのだということだけは分かった。
「ねぇ、甚爾。名前何にしよう」
「……恵」
それは妊娠が分かってから考え続け、決めた名前だった。
「恵?」
「あぁ。恵まれる、の恵」
「こいつには、たくさんの幸せに恵まれてほしいから」
甚爾は、赤ん坊を見つめた。
「恵……うん、いい名前ね。」
「ああ」
甚爾は、赤ん坊の小さな手に指を近づけた。
すると、恵はまるでそこに何かを見つけたかのように、その指を握った。
ほんのわずかな力だった。
けれど、その力は甚爾の心を掴んで離さなかった。
彼は今までに何度も命を奪ってきた。
自分より大きな相手にも、強い相手にも、躊躇なく向かっていった。
生きるために、勝つために、時には自分の命さえ賭け金のように扱ってきた。
だが、腕の中にある命は、そんな世界とは無縁だった。
守らなければならない。
こいつを、彼女を、幸せな日常を。
甚爾は、恵を抱いたまま、静かに息を吐いた。
「……よろしくな」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
ーーーーー
幸せな時間は、長く続くものだと思っていた。
少なくとも甚爾はそう願っていた。
恵が生まれてから、家の中は賑やかになった。
夜中に泣き声が響く。
朝になれば彼女は眠そうな顔で赤ん坊を抱き上げる。
甚爾は最初のうちは、どう扱えばいいのか分からず、遠巻きに見ていた。
「甚爾、ちょっと抱っこして」
「……俺が?」
「あなたの子どもでしょう」
「……」
「ほら、手を出して」
彼女に促され甚爾は恵を受け取った。
小さな体を腕に乗せる。
恵はしばらく彼の顔を見つめていたが、やがて口を開き泣き始めた。
「……おい」
「ふふっ」
「何で泣く」
「お腹が空いたのかな」
「俺じゃどうにもならねえだろ」
「そんなことないよ。少し歩いてみて」
甚爾は言われた通りに部屋を歩いた。
恵は泣き続けた。
彼女は笑いながら、その様子を見ていた。
「甚爾、歩き方が大きすぎるんじゃない?」
「……これでも加減してる」
「もっと優しく」
「難しいこと言うな」
そう言いながらも、甚爾は足取りを緩めた。
少しずつ恵の泣き声が小さくなる。
やがて赤ん坊は眠りに落ちた。
甚爾はその顔を見下ろした。
「……寝たぞ」
「うん。上手だね」
「……そうか」
甚爾が恵を抱く時間は、日に日に増えた。
眠っていれば、起こさないように足音を殺して歩く。
そして彼女が食事を作っている間、恵を抱いて窓の外を眺めるようになった。
平穏な日々だった。
しかし彼女の体には、少しずつ異変が現れ始めていた。
最初は疲れやすさだった。
出産後なのだから、当然だと思っていた。
次は食欲の低下。
それから、何をするにも以前より時間がかかるようになった。
甚爾が尋ねても、彼女は笑って答えた。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「病院行け」
「うん、今度ね」
「今度じゃねえ。明日だ」
「……分かった」
甚爾はそれ以上強く言わなかった。
彼女が自分の体調を誤魔化していることには、気づいていた。
けれど彼女が笑っているうちは、大丈夫なのだと思いたかった。
その願いが、どれほど危ういものだったのか。
知ることになるのは、すぐだった。
ーーーーー
検査結果を聞いた日の病院は、妙に静かだった。
窓の外には薄い雲が広がっていた。
医師の声は丁寧で慎重だった。
病状が進行していること。発見が遅れていたこと。
すでに治療が難しい段階にあること。
そして残された時間が限られている可能性が高いこと。
説明は続いていた。
しかし甚爾の耳には、途中からほとんど入ってこなかった。
手遅れ。
その言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。
手遅れ。
何をしても、もう間に合わない。
彼は目の前の医師を見つめた。
「……治せねえのか」
低い声だった。
「可能な治療については、引き続き検討します。ただ現状では――」
「治せねえのかって聞いてんだよ」
医師は、一瞬だけ言葉を止めた。
そして静かに答えた。
「厳しい状況です」
甚爾は椅子の肘掛けを握った。
指先に力が入る。
何かを壊したいわけではなかった。
ただそうしなければ、自分の体を支えられない気がした。
呪霊なら倒せる。
どんな相手でも弱点を探し、間合いを詰め、勝ち筋を見つけることができる。
金が必要なら、危険な仕事を引き受ければいい。
必要なものがあるなら、奪い取ることだってできる。
だが病気は違った。
相手が見えない。
殴ることもできない。
どこに弱点があるのかも分からない。
金を積んでも、必ず助かるわけではない。
これまで何とかしてきた。
自分の力で、道を切り開いてきた。
それなのに。
彼女の命だけは、自分の力ではどうにもできない。
「……ふざけんな」
ーーーーー
病院を出たあと、二人はしばらく歩いた。
彼女は、いつもよりゆっくりとした足取りだった。
甚爾は隣を歩いていた。
何かを言わなければならない。
そう思った。
けれどどんな言葉も、口に出す前に意味を失ってしまった。
大丈夫だと言えば、嘘になる。
きっと治ると言えば根拠のない約束になる。
諦めるなと言うことはできる。
しかしそれは彼女がすでに十分に頑張っていることを、否定する言葉にも思えた。
彼女はふと足を止めた。
「甚爾」
「ああ」
「ごめんね」
甚爾の顔から表情が消えた。
「……何で謝る」
「恵のこともあるのに。これから、もっといろんなことを一緒にしたかったのに」
「……」
「ごめんね」
「謝るな」
声が少しだけ荒くなった。
彼女は驚いたように彼を見た。
「……悪い」
甚爾は視線を落とした。
「お前が謝ることじゃねえ」
彼女は静かに頷いた。
そしてそっと彼の手を握った。
「うん」
その手は以前よりも細くなっていた。
指先も少し冷たい。
甚爾は、その手を握り返した。
絶対に離したくなかった。
けれどどれほど強く握ったところで、時間を止めることはできない。
夕暮れの空が、少しずつ赤く染まっていった。
その色は二人が初めて出会った競馬場の空を思い出させた。
あの日、彼は負けた。
彼女は勝った。
何も知らず、何も求めず、ただ隣にいてくれた。
それだけでよかった。
ーーーーー
彼女は病気のことを知ってからも、恵の世話を続けた。
体調のいい日には、台所に立った。
以前のように手際よく動くことは難しくなっていたが、それでも恵のために小さな料理を作った。
甚爾が仕事から帰ると彼女はよく言った。
「今日、恵が笑ったの」
「……そうか」
「すっごくかわいかったよ」
「毎日見てんだろ」
「毎日見ても、かわいいものはかわいいの」
彼女は恵の頬を指でそっと撫でた。
恵はまだ言葉を話せない。
ただ母親の声が聞こえると、安心したように手足を動かす。
その姿を見つめる彼女の目は、いつも優しかった。
甚爾はその横顔を見るたびに、胸の奥が締めつけられた。
彼女は、何も諦めていないように見えた。
けれど、時々ふとした瞬間に、遠くを見るような目をする。
窓の外の雲を眺めるとき。
恵が眠ったあと、空になったベビーカーを見つめるとき。
甚爾が寝ていると思って、静かに息を吐くとき。
そういう瞬間にだけ、彼女が自分の残された時間を意識していることが分かった。
ある夜、甚爾は彼女が一人で台所にいるのを見つけた。
電気はついていなかった。
窓から入る街灯の光だけが彼女の横顔を淡く照らしている。
「……何してる」
彼女は振り向いた。
「起こしちゃった?」
「起きてた」
「そっか」
彼女は少し笑った。
テーブルの上には、小さな紙片が置かれていた。
何かを書こうとしていたらしい。
甚爾は紙片を見た。
「……何だ、それ」
「恵に残しておこうと思って」
「……」
「大きくなったら、読んでもらいたいなって」
彼女は紙片を指先で整えた。
「好きな食べ物とか、苦手なものとか。私が覚えているうちに、ちゃんと書いておきたくて」
甚爾は何も言わなかった。
「お母さんはね、こういうのが好きだったんだよって。そういうことを、少しでも残しておきたいの」
その言葉は静かだった。
静かすぎて、甚爾には耐え難かった。
「……やめろ」
彼女が顔を上げた。
「え?」
「そういうの、やめろ」
自分でも驚くほど、声が硬くなった。
「まだ時間はあるだろ」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
甚爾はその返事に救われたかった。
しかし、彼女が無理に笑っていることも分かっていた。
彼女は彼を安心させるために頷いたのだ。
彼はそれを知りながら、何も言えなかった。
その夜、甚爾はほとんど眠れなかった。
隣で眠る彼女の呼吸を聞いていた。
規則正しく、穏やかな呼吸。
その音が聞こえるたびに彼は少しだけ安心した。
けれど目を閉じると、病院で聞いた言葉が蘇る。
手遅れ。
限られた時間。
彼は何度も頭の中で同じ問いを繰り返した。
何をすればいい。
どうすれば助けられる。
何を差し出せば、この時間を延ばせる。
答えは出なかった。
ただ夜が明けていく。
窓の向こうが白み始め、部屋の輪郭が少しずつ見えてくる。
甚爾は、隣で眠る彼女の手を握った。
その手はまだ温かかった。
彼はその温かさを、いつまでも覚えていようと思った。
それから数日後、彼女は倒れた。
ーーーーー
病状が進み入院をし始めた頃、彼女は甚爾にひとつ頼みごとをした。
「ねえ、甚爾」
午後の光が、部屋の床に長く伸びていた。
恵はベビーベッドの中で眠っている。
彼女は枕に背を預け、静かに甚爾を見つめていた。
「何だ」
「ちょっと賭けをしない?」
甚爾は眉をひそめた。
「……は?」
「賭け」
「……お前、今、自分の体のこと分かってんのか」
「分かってるよ」
「だったら――」
「だから、今なの」
彼女は、笑った。
その笑顔は競馬場で初めて出会った日のものに似ていた。
怖いもの知らずで、まっすぐで、少しばかり無鉄砲な笑顔。
「私、賭けるものを決めたの」
甚爾は嫌な予感がした。
「……何をだ」
「私の命」
空気が凍りついた。
甚爾は、彼女を見つめた。
「……ふざけんな」
「ふざけてないよ」
「そんな賭け、認めるわけねえだろ」
「うん。甚爾はそう言うと思った」
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「でもね。私は最後まで諦めたくないの」
「……」
「治療も頑張る。できることは全部やる。でも、いつまで一緒にいられるか分からないでしょう?」
彼女の声は、穏やかだった。
「だから、賭けをしよう」
彼女は、ベビーベッドのほうを見た。
「私が普通の生活ができるようになったら、あなたの勝ち。症状が悪化して死んだら私の勝ち。」
「私が勝ったら、その後の恵の世話をしてほしい」
甚爾は言葉を失った。
彼女は少しだけ笑った。
「私の命が、あとどれくらい残っているのかは、私にも分からない。だけど、その時間を使って、私は甚爾に賭けたいの」
「甚爾なら、できると思うから。だから」
「恵みをお願いね」
甚爾の喉が小さく動いた。
彼女は続けた。
「賭けに弱い甚爾だけど、これだけは勝ってほしい」
その言葉は優しかった。
優しすぎて残酷だった。
甚爾はずっと、彼女を守る側でいたかった。
危険なものから遠ざけ、傷つけるものを排除し、何があっても彼女の前に立つ。
それが自分の役目だと思っていた。
しかし彼女は違う。
自分がいなくなったあとの世界まで、彼に託そうとしている。
彼女のいない家。
彼女のいない食卓。
彼女の声が聞こえない朝。
そんな未来を彼は想像したくなかった。
「……お前がやれ」
甚爾は低い声で言った。
「恵のことはお前が見ろ」
「うん」
「俺に押しつけんな」
「うん」
「……俺はそんなに器用じゃねえ」
彼女は目を細めた。
「知ってる」
「子供の世話なんか、まともにできるか分からねえ」
「うん」
「飯だって毎日作れるとは限らねえ」
「うん」
甚爾は、顔を伏せた。
拳を握りしめる。
彼女の言葉を拒絶したかった。
そんな賭けは無効だと。
勝手に決めるなと。
自分のいない未来を前提にするなと。
叫びたかった。
しかし彼女の目を見れば、何も言えなくなる。
彼女は逃げていない。
自分の命からも、残された時間からも、目を逸らしていない。
そして甚爾を信じている。
賭けに負け続けてきた男を。
何かを失うことばかり恐れていた男を。
それでも、父親として恵を育てられると信じている。
「……勝手な女だな」
甚爾は呟いた。
「うん」
「昔からそうだ」
「うん」
「……人の話を聞かねえ」
「それは甚爾もでしょう?」
彼女は笑った。
甚爾はその笑顔を見つめた。
そして、ようやく彼女の手を握った。
「……分かった」
彼女の目が少しだけ見開かれた。
「本当に?」
「ああ」
「約束してくれる?」
「……約束する、今からでも世話はする。たがらお前は闘病に専念しろ」
甚爾は彼女の手を強く握った。
言葉にした瞬間、胸の奥に重いものが落ちた。
それは恐怖だった。
同時に決意でもあった。
彼女がいなくなる未来を、受け入れたわけではない。
今もそんな未来など来なければいいと思っている。
けれど、もしもその日が来たなら。
彼女が自分に託したものを、守り抜く。
それだけは決めた。
彼女は、目を閉じた。一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……よかった」
その声はほとんど囁きだった。
「これで、安心して賭けられるね」
甚爾は何も言わなかった。
ただ、彼女の手を握り続けた。
その手を、離すことができなかった。
ーーーーー
彼女がいなくなってから、家は静かになった。
あまりにも静かだった。
時計の針の音が聞こえる。
窓の外を走る車の音が聞こえる。
隣の家から、誰かの笑い声が聞こえる。
世界は、何事もなかったかのように動き続けていた。
けれど甚爾の家の中からは、彼女の声だけが消えていた。
食卓には二人分の食器を置く癖が残っていた。
洗面台には、彼女が使っていたものが並んでいた。
窓辺には彼女が育てていた花があった。
どこを見ても、彼女がいた。
そしてどこを見ても、もう彼女はいなかった。
甚爾はしばらく、何も変えられなかった。
彼女の服を片づけることも。
台所の道具を整理することも。
彼女が使っていたマグカップを、棚の奥へしまうことも。
できなかった。
ただ恵の世話だけは、しなければならなかった。
朝になればミルクを用意する。
泣けば抱き上げる。
眠らなければ、部屋を歩く。
洗濯をして食事を用意して、必要なものを買いに出る。
それまで、彼女が自然にやっていたことが、すべて自分の仕事になった。
最初は何もかもうまくいかなかった。
ミルクの温度が分からない。
服の着せ方が分からない。
恵が泣き止まない理由も分からない。
夜中に何度も目を覚まし、寝不足のまま仕事へ向かう。
それでも恵は待ってくれなかった。
お腹が空けば泣く。
眠ければ泣く。
不安になれば泣く。
甚爾がどれほど疲れていても、どれほど悲しくても、赤ん坊は遠慮などしない。
「……分かった、分かった」
甚爾は恵を抱き上げた。
「泣くな」
当然、泣き止まない。
「……何が気に入らねえんだ」
恵はさらに声を上げた。
「……クソ」
甚爾は途方に暮れた。
何かを間違えたから泣いているのか、それとも何も間違えていないのに泣いているのか、それすら分からない。
彼は恵を抱いたまま、部屋の中を歩いた。
何度も。
何度も。
ようやく泣き声が止まったとき、甚爾は深く息を吐いた。
「……やっとか」
恵は彼の腕の中で眠っていた。
その小さな顔を見つめ、甚爾は思った。
彼女なら、今の自分を見て笑うだろう。
そんな抱き方じゃ駄目だと。
もっと優しくしろと。
子供は荷物じゃないんだから、と。
きっと散々からかうに違いない。
そう考えると、胸の奥が痛んだ。
でもまたいつか、3人で暮らせる日は来ると願っていた。
そして入院から約三ヶ月、桜が咲き始めた頃に、彼女はそっと静かに天国に行った。
ーーーーー
彼女の死を甚爾は受け入れられなかった。
絶望なんて生ぬるいほどの感情の嵐が彼を襲った。
何も口を通らなかった。生きることにすら執着がなくなった。ただただ彼女のいない世界にいることが辛かった。
それほどまでに彼女は甚爾の心を占めていた。
だがそれでも甚爾は生きた。彼女と会う前のときのように荒んではいたが、金を稼ぎ、ベビーシッターを雇い、恵の世話をさせた。
それはひとえに、彼女との最後の賭けがあったから。
最愛の人との約束は、甚爾を優しく縛った。
五条悟が言うように「愛」は「呪い」なのだ。
本人が抜け出そうとしない静かな呪いだ。
そして四か月後、物語は懐玉・玉折に至る