竹林が、ざわりと鳴った。
空を覆うほどに伸びた竹の隙間から、月の光が細い糸のように地面へ落ちている。風が吹くたび、無数の葉が擦れ合い、さらさらと水のような音を立てた。その音の中を、二つの影が駆け抜けていく。
一つは、黒い鬼。見上げるほどの巨体に、岩を削り出したような肩。もう一つは、その胸元にも届かないほど小柄な、鬼の少女。
黒鬼が地面を蹴った。踏み込みの衝撃で足元の落ち葉が弾け飛ぶ。巨体からは想像もつかない速度で間合いが潰れ、背負っていた巨大な棍棒が唸りを上げて横薙ぎに振るわれた。
「――っ」
私はほんの少しだけ、身体を後ろへ逸らした。
鼻先を、風圧が撫でていく。棍棒の先端が空気ごと削るように通り過ぎ、遅れて前髪が揺れた。あと数センチ前にいたら、確実に直撃していた距離。
けれど、怖くはない。
この攻撃が来ることは、相手が腕を振りかぶった瞬間から分かっていたから。
空振りした棍棒の下へ、身を沈めて潜り込む。懐は、ぽっかりと空いていた。一撃、二撃、三撃。拳と蹴りを叩き込み、手応えが返ってくるより早く、反撃の気配を感じて後ろへ跳ぶ。
着地。砂の混じった風が足首を撫でた。
「くっ……!」
黒鬼が苦しげに呻き、数歩後退する。それでも私は追わない。追えば、そこが相手の狙いやから。静かに構え直し、呼吸を整えて、相手の出方を待つ。
竹林は、変わらず風に揺れていた。さっきまでの衝撃なんて、まるで何もなかったみたいに。
これは『SETUNA』。ツクヨミの中で人気の、対戦型格闘ゲーム。
そして、いま私の目の前に立っている黒鬼は――私のお兄や。
プロゲーマーチーム『ブラックオニキス』所属、プレイヤーネーム・帝アキラ。本名、酒寄朝日。画面の向こうでは何百万人もの観客を沸かせる人やのに、私にとっては、昔から変わらない、優しくて、ちょっと過保護なお兄。
もっとも、ゲームの中では話が別やけど。
「……ほんま、容赦ないなぁ、彼方」
「お兄が、手ぇ抜かんといてって言うたんやろ?」
「言うたけどなぁ!」
叫びながら、お兄が再び突っ込んでくる。
速い。本当に速い。ランキングに名前が載る人の踏み込みや。一般のプレイヤーなら、何をされたのか理解するより先に吹き飛ばされていると思う。
でも――見える。
見えるのは、何度も見てきたから。
踏み込む直前、ほんの少しだけ右肩が下がること。フェイントを入れる時は、逆に肩が動かないこと。追い詰められると、無意識に左側へ回り込もうとすること。呼吸が浅くなる瞬間。目線が泳ぐ瞬間。全部、知ってる。
だって私は、小さい頃からずっと、お兄とばっかり遊んできたから。
何百回。もしかしたら、何千回。
夏の夕方、扇風機の風に当たりながら、居間のテレビの前で並んでコントローラーを握った。勝って、負けて――ううん、昔はほとんど負けて。悔しくて、画面が滲んで、それでも「もう一回」って袖を引っ張った。
気づけば――こうなっていた。
「そこ」
横薙ぎの一撃を紙一重でかわし、刃のように鋭く反撃する。
「ぐっ……!」
黒鬼の体力ゲージが、ごっそりと削れた。残りは、ほんの僅か。対する私のゲージには、まだ余裕がある。
「……こら、あかんなぁ」
お兄が苦笑した。けれど、その目はまだ諦めていない。むしろ、ここからが本番やと言わんばかりに、細く光っている。
私は知っている。追い詰められた時、お兄が何をするのか。
黒鬼の手が、棍棒へ伸びた。ガコン、と重たい金属音が竹林に響く。棍棒がまるで抜けていくように外れる――違う。あれは棍棒やない。鞘や。
その内側から、一本の刀が姿を現した。月光を吸い込んだような、薄青い刃やった。
「やっぱり、それ使うんやね」
「そらなぁ。負けっぱなしでは終われへんやろ」
お兄が、にっと笑う。
次の瞬間、姿が消えた。
いや、消えたように見えるほど速いだけや。一瞬で間合いが消し飛び、舞い上がった竹の葉の向こうから、視界いっぱいに刀の軌跡が迫ってくる。
一般のプレイヤーなら、反応すらできない。昔の私もそうやった。この技を出されるたびに負けていた。何度も、何度も。悔しくて、悔しくて。
『もう一回』
『彼方、もう寝る時間やで』
『あと一回だけ』
『さっきもそう言うてたやろ?』
『次は勝てるもん』
そんなやり取りを、何度したやろう。
だから――。
「もう、それ見飽きたよ」
「なっ――」
半歩。ただ半歩だけ、横へずれる。
刃が、私の身体のすぐ脇を掠めて通り抜けていく。冷たい風が頬を撫でた。そして、完全にがら空きになったお兄の懐へ、そのまま踏み込む。
「おしまい」
渾身のカウンターを叩き込んだ。
衝撃音。黒い巨体が大きく吹き飛び、竹を何本も巻き込んでへし折りながら地面を転がっていく。舞い散る葉の中、体力ゲージがゼロになった。同時に、視界の中央へ大きな文字が浮かび上がる。
――WIN。
「…………」
私は小さく息を吐いた。握りしめていた拳を、ゆっくりほどく。
また、勝った。
倒れていた黒鬼が、のそりと起き上がる。負けたというのに、悔しそうな顔はしていない。それどころか、なんだか嬉しそうに、へらっと笑っていた。
「彼方、強うなりすぎやなぁ。もうお兄ちゃん、一回も勝てへんわ」
冗談めかして言われて、私もつられて少し笑う。
「お兄には昔、いっぱい負けてるし。これくらいやったら、まだ足りひんよ。それに……」
私は刀を消しながら、お兄を見上げた。
「お兄としか戦ってへんから、対策するんも簡単やし」
「言うようになったなぁ」
お兄の口元が、ニヤニヤと緩む。
……嫌な予感。
「昔は俺に一回も勝てへんくて、泣いてたのになぁ」
「……」
「『もう一回、もう一回』言うて、全然終わらへんかったもんなぁ」
「……お兄」
「負けるたびに目ぇ真っ赤にして――」
「もう、やめてぇな」
顔が熱くなって、思わず逸らす。昔のことを持ち出されると弱い。だって、全部本当のことやから。
「負けた腹いせに、私のこといじめんといて」
「いじめてへんよ」
「いじめてる」
「ただの思い出話やん」
「私にとっては、あんまり思い出したくないんやけど……」
むぅ、と頬を膨らませる。
「そもそも、お兄が大会前の練習やからって誘うてきたんやろ? お兄のことばっかり見てきた私に勝てへんの、分かってたやろ?」
「せやから練習になるんやって」
お兄は悪びれもしない。
「大会やったら、俺らのチームは対策されるし、個人ごとの癖も研究される。そう考えたら、俺のことを一番よう知ってて、手ぇ抜かずに勝ちに来てくれる彼方が、一番ええんよ」
「……それは、分かってるけど」
正論や。
プロとして大会に出る以上、対策されることまで考えて練習せなあかん。その相手として、長いことお兄と戦ってきた私は、きっと適任なんやと思う。
分かってる。ちゃんと、分かってる。
けど。
「……ちょっと、嫌や」
「え?」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
さっきまでゲームの中でお兄を完封していたのに、こういうことを口にするだけで、急に胸の奥がきゅうっと狭くなる。喉の奥に、何かが引っかかる。
「対策のためだけに妹を呼ぶんは……ちょっと寂しい」
目を合わせられなくて、足元の落ち葉を見つめた。
こんなん、面倒くさい妹やろか。お兄はプロなんやから。遊びやない。そんなこと、私が一番分かってるはずやのに。
「私……お兄とは、そういうの抜きでも遊びたいんよ」
胸元で指先を重ねながら、ようやく、それだけを口にした。
言ってしまった。
途端に、少し怖くなる。困らせたかな。面倒やと思われたかな。私はおそるおそる顔を上げた。
お兄は、目を見開いていた。
「……お兄?」
「ごめん、ホンマごめん!」
「ひゃっ……」
突然の大声に、肩が跳ねる。
「そないなつもりやなかったんや。ほんまは俺も、彼方と遊びたかっただけやから」
「……ほんま?」
「ほんまやって。練習はついでや」
「ついでなん?」
「……半分くらい」
「お兄」
「ごめんなさい」
思わず、笑ってしまった。さっきまでの胸のつかえが、すうっと解けていく。やっぱり、お兄はお兄や。
「許して。何でもするし、お兄ちゃんのこと嫌いにならんといて」
そんなことを、あまりに真剣な顔で言うから、私は少し困ってしまった。
お兄のことを嫌いになる。そんなこと、あるわけないのに。
お兄は昔からずっと優しかった。泣いた時も、寂しかった時も、お姉と喧嘩した時も。何も聞かんと、ただ隣に座っていてくれた。それがどれだけ心強かったか、きっとお兄は知らない。
だから。
「お兄のこと、嫌いにならへんよ」
私は少し背伸びをして、お兄の顔を見上げた。
「私、お兄のこと大好きやもん」
「…………」
お兄が、固まった。
「……お兄?」
呼びかけても返事がない。次の瞬間、お兄は突然、空を仰ぎ、そのまま両手でがばっと顔を覆ってしまった。
「……?」
どうしたんやろ。
長いことSETUNAしてたから、疲れたんかな。それとも、頭痛? さっき私が思いっきり吹き飛ばしたとき、変な当たり方したんやろか。
「お兄、大丈夫?」
やっぱり返事がない。心配になって一歩近づく。大きなお兄の身体に隠れて、表情が全然見えへん。私は少し屈んで、下から顔を覗き込んだ。
「頭、痛いん?」
* * *
――あかん。無理や。これは無理やって。
可愛すぎる。
俺の妹、可愛すぎるやろ……!
俺には二人の妹がおる。上の妹、彩葉。末の妹、彼方。二人とも、もちろん大切な妹や。
ただ、彩葉は家を出てからほとんど連絡を寄越さへん。元気にしてるんか。ちゃんとご飯食べてるんか。変なことに巻き込まれてへんか。兄として心配になることは、山ほどある。
一方、彼方は昔から俺によく懐いてくれていた。ゲームに誘えば一緒に遊んでくれるし、俺が東京へ出てきてからも、時々連絡をくれる。休みが合えば、わざわざ会いに来てくれることもあった。
昔から身体が小さくて、どこか放っておけへん子やった。
それに――昔は、よく笑う子やったように思う。
彩葉の後ろをちょこちょことついて回って、俺を見つければ嬉しそうに駆け寄ってきて。笑うと目尻がとろんと下がる、ほんま、よう笑う子やった。
けれど、ある時から、少し変わった。
笑わなくなったわけやない。喋らなくなったわけでもない。ただ、時々、ふっとどこかへ消えてしまいそうな顔をするようになった。
本人は隠してるつもりなんやろう。けど、兄妹を何年やってると思ってる。俺には、なんとなく分かる。
何か言いたいのに飲み込んだ時。誰かに頼りたいのに「大丈夫」って言うた時。寂しいのに笑った時。そういう時、彼方は決まって、ほんの少しだけ目を伏せる。
その顔を見るたび、放っておけへんと思う。
だからこそ。
そんな妹が今、父親譲りの垂れた目で俺を見上げて、
『私、お兄のこと大好きやもん』
なんて言うた。
しかも本人には、何の他意もない。ただ純粋に、兄として好きやと言うてくれただけ。
これに耐えろというほうが無理や。
叫びたい。めちゃくちゃ叫びたい。この竹林のてっぺんまで届く声で『俺の妹が世界一可愛い!』と叫びたい。でも、妹の目の前でそんなことを叫んだら、さすがに引かれるかもしれへん。それだけは避けたい。
せやから俺は、歯を食いしばって、必死に顔を覆って耐えていた。
「お兄、大丈夫? 頭、痛いん?」
その声が、すぐ近くから聞こえる。恐る恐る手を退けると、彼方が俺の顔を下から覗き込んでいた。眉尻を下げて、本気で心配そうな顔をして。
ほんま、これ以上お兄ちゃんを困らせんといてほしい。
「いや、大丈夫や。……うん、大丈夫」
「ほんま?」
「ほんま、ほんま」
「無理したらあかんよ?」
「……はい」
どっちが兄か分からへんな。
俺はわざとらしく咳払いをして、どうにか平静を取り戻した。
「そういや、なんかお願いあるんやなかった?」
「……あ」
彼方が、ぱちりと瞬きをする。
「お兄ちゃん、今やったら何でも聞いたるよ」
「ほんま?」
「ほんまや」
「……さっきも、何でもするって言うてたもんね」
「言うたなぁ」
「じゃあ……」
彼方が、黙った。
それまで柔らかかった表情が、ふっと曇る。視線が足元へ落ちていく。胸元で指を重ね、ぎゅっと握りしめる。その仕草を見て、俺も笑うのをやめた。
「私が勝ったら、お願い一つ聞いてほしいって言うてたやろ?」
「ああ」
戦う前に、そんな約束をした。別に約束なんかなくても、彼方の頼みなら、大抵のことは聞くつもりやった。
「言うてみ?」
「……うん」
彼方が、一度息を吸い込む。けれど、なかなか言葉が出てこない。唇が開いては閉じて、また開いて。
「…………」
「彼方?」
「……もうちょっと待って」
「うん。ええよ」
急かさへん。彼方が自分から話してくれるまで、いつまででも待つ。竹の葉の擦れる音だけが、静かな時間を埋めていた。
やがて、彼方は小さく息を吐いた。
「夏休みの間……」
「うん」
「お兄の家に、泊めてほしい」
「……え?」
予想していなかったお願いやった。
「俺ん家に?」
「うん」
「夏休みの間、ずっと?」
「……できたら」
一泊二泊なら分かる。けれど、夏休みの間となると話が違う。何かあったんやろか。
「まさか、母さんと喧嘩でもしたん?」
「してへんよ」
即答やった。
「お兄、私とお母さん仲ええの知ってるやろ?」
「そら知ってるけど……」
なら、なんで。
彼方は黙っている。また、指先を握っている。その小さな手が、ほんの少し震えているように見えた。俺は何も言わずに待った。
そして。
「……会いたい人がおるの」
「会いたい人?」
嫌な予感と、それとは別の、小さな期待が同時に胸に生まれた。
彼方は俯いたまま、囁くような声で言った。
「久しぶりに……お姉に会いたいの」
「…………」
俺は、何も言えなかった。
彩葉。
その名前が出てくるとは思わなかった。いや、いつか出てほしいとは、ずっと思っていた。けれど――。
「ちゃんと、話したい」
彼方が続ける。
「去年、一回も帰ってきてくれへんかったし……」
「……うん」
「電話しても、出てくれへんかったし」
「…………」
「メッセージも……返ってこんかったから」
一つ一つ、傷を確かめるみたいに言葉を紡いでいく。それでも彼方は、彩葉を責めなかった。
「お姉も忙しかったんやと思う」
むしろ、庇った。
「やりたいこと、いっぱいあるやろうし。私に構ってる暇も、なかったんやと思う」
その言い方が、少しだけ寂しかった。自分を後回しにすることに慣れた人間の言い方やった。
「でも……」
彼方が顔を上げる。
笑っていた。いつもの、柔らかい笑顔。
なのに、どこか泣いているようにも見えた。
「一回だけでもええから、ちゃんと顔見て話したい」
胸が、ぎゅっと痛くなる。
「……迷惑やろか」
「そんなわけないやろ」
思わず即答していた。彼方が、少し驚いた顔をする。
「でも、お姉……私のこと嫌いやと思う」
小さな声。
「だから、ちょっと怖い」
そこで初めて、彼方は本音を零した。
「会いたいけど……怖いんよ。また嫌そうな顔されたら、どうしようって思う。帰ってって言われたらどうしようって。私と話すことなんかないって言われたら……」
そこで、言葉が止まった。唇をきゅっと結んでいる。泣かないように、必死に堪えているんやと思った。
「でも……」
彼方が、胸元へそっと手を当てる。
「それでも、会いたい。お姉と、ちゃんと話したいの」
その声だけは、不思議なほど、震えていなかった。
俺は家族が好きや。彩葉も、彼方も、母さんも。もちろん、亡くなった親父も。みんな大切な家族や。だからこそ、姉妹がずっとすれ違ったままなのが、ずっと辛かった。
特に彼方は、昔の姉妹喧嘩を境に、少し変わった。あの日、何があったのか。俺も全部を知っているわけやない。彼方も詳しく話そうとはしなかったし、彩葉も同じや。
ただ――二人が本当に互いを嫌いになったわけやないことだけは、俺には分かっていた。
少なくとも彼方は、ずっと彩葉を見ていた。
テレビに彩葉が好きそうなものが映れば、『これ、お姉好きそうやね』と言う。街を歩いていて服を見れば、『お姉、こういうの似合いそう』と言う。美味しいものを食べれば、『お姉にも食べさせてあげたいな』と言う。
そのくせ、『会いに行くか?』と聞けば、黙ってしまう。
去年なんて、泣きそうな顔で言った。
『お姉に、私は必要ないと思う』
今でも、はっきり覚えている。
『それに、お姉は私のこと嫌いやろうし』
俯いて、笑おうとして。けれど、全然笑えていなかった。
あの時、俺は何も言えなかった。下手な慰めなら言えた。『そんなことない』と、簡単に言うこともできた。けれど、それを決めるのは俺やない。彩葉や。だから、何も言えなかった。
彼方は彩葉のことが大好きや。ずっと、昔から。会いたくて、話したくて、隣にいたくて。それでも拒絶されることが怖くて、自分から離れることを選んだ。
そんな彼方が、今、自分から会いに行こうとしている。
怖いと言いながら。小さな手を震わせながら。それでも『会いたい』と、そう言った。
それを応援せんで、何がお兄ちゃんや。
「分かった」
俺は、笑った。
「……え?」
「いつまででもおったらええよ」
彼方の頭へ、手を置く。小さな頭。昔から変わらない、手のひらにすっぽり収まる大きさ。優しく撫でる。
「夏休み全部でもええ。なんやったら冬休みまでおってもええし」
「それは学校あるから無理やよ」
「ほな、転校する?」
「なんでそうなるん……」
困ったように、彼方が笑った。
良かった。笑ってくれた。
「お兄ちゃんが面倒見たるから」
「私、もうそんな子供やないよ」
「俺からしたら、何歳になっても妹や」
「……過保護やね」
「知ってる」
「自覚あるんや……」
「そらあるよ」
俺はもう一度、彼方の頭を撫でた。
「彩葉と、仲直りできたらええな」
「……うん」
彼方は、ゆっくりと目を細めた。嬉しそうに。でも、ほんの少しだけ、不安そうに。
「……仲直り、できるかな」
「できるよ」
「なんで言い切れるん?」
「お兄ちゃんやから」
「理由になってへんよ」
「なるんやって」
「ならへん」
そう言いながらも、彼方は笑っていた。その顔を見られただけで、今日は十分や。
もっと撫でていたかったけれど、視界の端の時刻表示が目に入る。
「……って、もうこんな時間やん」
「ほんま?」
「ええ子は、そろそろ寝なあかんよ」
「子供扱いせんといてぇな」
「彼方、昔から夜更かし苦手やろ?」
「……今日は大丈夫」
「昨日もそう言うて寝落ちしたやん」
「それは……」
「はい、寝る」
「もう……」
少しだけ頬を膨らませる。
可愛い。
「泊まりの細かいことは、また連絡するわ。母さんにもちゃんと言うんやで」
「うん」
彼方が頷く。
「ありがとぉ、お兄」
「うん」
「……ほんまに、ありがと」
一瞬だけ、その表情が寂しそうに見えた。けれど、すぐにいつもの柔らかな笑顔へと戻る。
「お休み、お兄」
「うん。お休み、彼方」
ログアウト処理が始まった。彼方の身体が、足元から青い花弁へと解けていく。一枚、また一枚。竹林を吹き抜ける風に乗って、夜空へと舞い上がっていく。月明かりを受けて、淡く光りながら。
最後まで彼方は、俺を見ていた。
「またね」
小さく、手を振る。
「ああ。またな」
彼方は笑った。その姿が完全に花弁へ変わり、夜の中へ溶けて消えていく。
あとには、静かになった竹林と、俺だけが残された。
「……ほんま、仲直りできたらええな」
さっきまで彼方が立っていた場所を見つめながら、誰もいない竹林に、そっと呟いた。
風が、竹の葉を揺らしただけやった。
俺も少ししてから、SETUNAをログアウトした。
* * *
現実へ戻り、ヘッドセットを外すと、見慣れた自宅の天井が見えた。ひんやりとしたエアコンの風と、機材の低い駆動音。さっきまでの竹林の匂いは、もうどこにもない。
「さて……」
彼方が来る。しかも、夏休みの間。
なら――。
「準備せなあかんなぁ」
スマホを手に取る。
まず布団。いや、待て。彼方が来るなら、ベッドのほうがええんちゃうか。今ある来客用の布団でも寝られる。寝られるけど。
「せっかく来るんやしなぁ……」
通販サイトを開き、『高級マットレス 腰に優しい』と検索する。
「これ、ええな」
カートへ。
枕もいる。『安眠 高級枕』――カートへ。布団もカートへ。
「夏やから毛布はいらんかな……いや、冷房で寒いかもしれへんな」
カートへ。
「パジャマ……は、自分で持ってくるか」
さすがに、服まで勝手に買ったら怒られる。
「部屋着くらいやったら……いや、やめとこ」
サイズを間違えたら気まずい。代わりにクッションを追加した。
「彼方、本読むしなぁ……」
本棚もカートへ。
「飲み物も置くやろ」
サイドテーブルも追加。
「そういや前、部屋暗いって言うてたな」
間接照明もカートへ。
「…………」
ふと、合計金額が目に入った。
十九万八千円。
「…………」
しばらく、画面を見つめる。
頭の中に、以前彼方から言われた言葉が蘇った。
『お兄、成金みたいなお金の使い方したらあかんよ』
「……」
正論や。完全に正論。この買い方を見られたら、絶対に怒られる。
『なんでこんなん買ったん?』
って、あの垂れた目で、じとっと見られるやろう。
俺は悩んだ。
三秒。
「……まぁ、ええか」
購入確定。
妹の快適な睡眠。これは大事や。
「怒られたら謝ろ」
スマホを置き、ベッドへ仰向けに倒れ込む。天井を眺めていると、自然と、昔のことを思い出した。
まだ三人で、よく遊んでいた頃。彩葉がいて、彼方がいて、俺がいて。くだらないことで笑って、喧嘩して、また笑って。あの頃は、それがずっと続くと思っていた。
「……彩葉」
あいつは今、何を考えてるんやろう。彼方が会いに来たら、どんな顔をするんやろう。
できるなら、彼方を傷つけんといてほしい。
あの子は見た目よりずっと頑固で、一度決めたらなかなか曲げない。
けれど、心まで強いわけやない。
むしろ、逆や。
傷ついても、寂しくても、自分が我慢したらええと思ってしまう子や。
今日だって、そうだった。
『迷惑やろか』
あの時の彼方の顔が、頭から離れへん。
自分のお姉ちゃんに会いたいだけなのに。なんで、あんな申し訳なさそうな顔をせなあかんのやろう。
「大丈夫や」
誰も聞いていない部屋で、呟く。
「大丈夫やからな、彼方」
あの子が勇気を出した。なら俺は、その背中を支えるだけや。
もし上手くいかなかったら、その時は、俺が側におったらええ。泣くなら、好きなだけ泣いたらええ。また立ち上がれるまで、何日でも待ったらええ。
けれど――できることなら。
「ほんま、仲直りできたらええなぁ」
目を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは、幼い頃の二人やった。彩葉の後ろを、小さな彼方が一生懸命追いかけている。
『お姉、待ってぇな』
『彼方が遅いんでしょ』
『お姉が速いんやもん』
『しょうがないなぁ』
そう言って彩葉が立ち止まり、彼方が嬉しそうに駆け寄って、二人で手を繋いで歩いていく。夕焼けの中、長く伸びた二つの影が、ぴったりと寄り添っていた。
もう一度。
あんなふうに笑い合える日が来たらええ。
俺は、心の底から、そう願った。