夢を見る。
まだ、何も壊れていなかった頃の夢を。
私がお姉と仲が良くて、お父さんが生きていて、お兄がいて、お母さんがいて。家族みんなが、同じ屋根の下で、同じ食卓を囲んで笑っていた頃の夢。
お父さんが仕事帰りに買ってきた、少し潰れた苺のケーキ。箱を開けた瞬間にお姉が「あ、斜めになってる」と笑って、お父さんが「走ったからなぁ」と頭を掻いた。お兄とくだらないことで取っ組み合いの喧嘩になって、お母さんに二人まとめて正座させられた夜。休日になると、お父さんがどこかへ連れていってくれて、その帰りの車の中では、決まって私がお姉の肩にもたれて眠っていた。窓の外を流れていく夕焼けの色と、お姉の髪から香るシャンプーの匂い。ウィンカーの規則正しい音。薄く目を開けると、ルームミラーの中でお父さんがこちらを見て、静かに笑っている。
あの頃の世界は、本当に、それだけで完結していた。
そして、家の中にはいつも音楽があった。
お姉が弾くピアノ。まだ今よりずっと小さかった私は、その隣に座って、お姉の指が鍵盤の上を踊るのを、飽きることなく眺めていた。白と黒の上を滑っていく細い指。踏み込まれるペダルの、かすかな軋み。一つ音が重なるたびに、部屋の空気が少しずつ色づいていくような気がした。
「彼方、近すぎ。弾きにくい」
「ええやん。見たいんやもん」
「もう……」
そう言いながらも、お姉は私を追い払わなかった。むしろ、ほんの少しだけ身体をずらして、私が鍵盤を見やすいように場所を空けてくれていた。口では文句を言うくせに、そういうところだけは、昔から驚くほど不器用で、優しかった。
そんなお姉の横顔が、私は大好きだった。
お父さんはよく「音楽は自由に楽しむもんや」と言っていた。上手いとか、下手とか。勝ったとか、負けたとか。そんなものより、自分が楽しいと思えることが、一番大切なんやと。その言葉を聞くたびに、お姉は誇らしそうに笑っていた。
だからきっと、お姉も同じように思っていたのだと思う。音楽は自由なものなのだと。好きだから弾く。楽しいから弾く。誰かと一緒に音を重ねるのが嬉しいから、音楽を続ける。ただ、それだけでよかった。
――あの頃は。
お父さんが交通事故で亡くなってから、家の中は、少しずつ変わっていった。
ある日突然、何もかもが壊れたわけじゃない。最初は、本当に小さな変化だったと思う。食卓から会話が減った。お母さんが笑わなくなった。お父さんの椅子だけが、誰も座らないまま、ずっとそこに置かれていた。お兄が以前より家にいる時間を増やした。お姉がピアノに触れる時間が短くなった。ピアノの蓋が、閉じている時間のほうが長くなった。
それでも私は、いつか元に戻ると思っていた。
時間が経てば、きっとまたみんなで笑える。お父さんがいない寂しさが消えることはなくても、いつか慣れて、前みたいに暮らせるようになる。傷口は、塞がるものだと。子供だった私は、本気でそう信じていた。
でも、そんな日は来なかった。
私とお兄は、比較的、変わらなかった。少なくとも、お母さんとの関係は悪くなかった。言われたことを守って、勉強をして、結果を出していれば、お母さんは褒めてくれたから。
けれど、お姉だけは違った。
あんなに好きだった音楽を、少しずつやらなくなって。お母さんと喧嘩することが、増えていった。
「やるなら一番を目指しなさい」
「なんで?」
「やる以上は、結果を出すのが当然でしょう」
「私はそんなために音楽やってるんじゃない!」
何度も聞いた言葉。何度も見た光景。
壁一枚隔てた部屋で、私は布団を頭までかぶって、その声を聞いていた。耳を塞いでも、声は隙間から染み込んできた。怒鳴り声が止んだあと、必ず訪れる、あの重たい静けさ。そして、その静けさの底から、微かに聞こえてくる、押し殺した嗚咽。
お母さんと喧嘩をしたあと、一人で泣いているお姉を見るのが、私はほんまに、嫌やった。
どうしたらいいのか分からなかった。ただ、守りたかった。大好きなお姉に、泣いてほしくなかった。
お父さんが生きていた頃みたいに、お姉が楽しそうにピアノを弾いて、私がその隣でヴァイオリンを弾いて、お父さんとお母さんとお兄が笑って聴いている。そんな日常に、戻ってほしかった。
――絶対に、戻れないのに。
当時の私は、そんな当たり前のことすら、理解できていなかった。
お母さんはよく言っていた。一番を目指しなさい。やるなら勝ちなさい。負けて悔しいなら、努力しなさい。
私は昔から負けず嫌いだったから、その言葉に、あまり疑問を抱かなかった。むしろ、正しいと思っていた。勉強も、運動も、お姉と一緒に演奏したくて始めたヴァイオリンも、全部一番になればいい。一番になれば褒めてもらえる。一番になれば、みんな喜んでくれる。一番になれば――きっと、何もかも上手くいく。
そう、思っていた。
まず、それが間違いやった。
ずっと後になって、気づいた。
お姉と一緒に演奏したくて始めたヴァイオリンで一番になったところで、お姉が隣にいなければ、何の意味もない。運動で一番になったところで、お姉と一緒に遊べるわけじゃない。勉強で一番になったところで、お姉が笑ってくれるわけじゃない。
私が欲しかったものは、そんなものじゃなかった。
ただ、お姉の隣にいたかった。昔みたいに「彼方」と呼んでほしかった。くだらない話をして、一緒に音楽をして、たまには喧嘩をして、それでも次の日には、何事もなかったみたいに話したかった。
そんな当たり前のものが欲しかっただけなのに。
私は、全然違う方向へ、全力で走っていた。
私がお母さんと上手くやれていたのは、きっと、私がお母さんの望む子供だったからだ。
テストで一番を取る。大会で結果を残す。ヴァイオリンでも評価される。そうすると、お母さんは決まって「ようやったな、彼方」と言って、頭を撫でてくれた。その手のひらの温かさが、私は好きだった。嬉しかった。もっと頑張れば、もっと褒めてもらえる。もっと撫でてもらえる。だから、頑張った。
でも。
それをしてもらえていたのは、私だった。
そのすぐ近くで、お姉はずっと苦しんでいた。同じ家の中で、同じ食卓で、同じ空気を吸いながら、お姉は一人で息を詰めていたのに。私は、何も見ていなかった。褒められた通知表を握りしめて、はしゃいで、お姉の前で「見て見て」と笑ったことすらある。
今なら分かる。
あの頃の私は、人の心を、見ることができていなかった。
だから、あの日。
私は、言ってしまった。
夢の景色が、変わる。
聞き覚えのある怒鳴り声。リビングの照明の、やけに白い光。テーブルの上で冷めていく夕食。お母さんとお姉が、また、喧嘩をしている。
「どうして分からないの!?」
「分かりたくもない!」
「彩葉!」
「お父さんは、そんなこと言わなかった!」
その言葉で、お母さんの表情が、変わった。
顔から、すうっと色が消える。目の奥が、凍りつく。そして、手が、上がった。
私は、考えるより先に、お姉の前へ飛び出していた。
「やめて!」
気づけば両手を広げ、お姉を背中に隠すようにして、二人の間に立っていた。足が震えていた。心臓が耳元で鳴っていた。怖かった。振り上げられた手が、すごく大きく見えた。それでも、それ以上に、お姉が傷つくのが嫌だった。
私は振り返る。
お姉は、驚いた顔で、私を見ていた。
その顔を見て、安心させたかった。大丈夫やでって、伝えたかった。だから、笑った。いつものように。何でもできる自分でいようとして。強い妹でいようとして。
「大丈夫やで、お姉。お姉は私が助ける。守ったる。私に全部任せてええよ」
――違う。
夢の中の私が、叫ぶ。喉が裂けるほどに。
それを言ったらあかん。やめて。お願い。それだけは、言わんといて。
でも、過去は変わらない。何度夢を見ても、何度後悔しても、幼い私は、同じ言葉を、同じ笑顔で、口にする。
そして、お姉の顔が、歪んだ。
「あんたに……あんたに守られなあかんほど、私は弱くなんかない!」
その言葉を聞いた瞬間、世界から、音が消えた。
お母さんの息遣いも、冷蔵庫の唸りも、時計の秒針も、全部。お姉の顔だけが、やけにはっきりと見えた。怒っていた。泣いていた。唇が震えて、目の縁が赤くて、それでも涙を零すまいと歯を食いしばっていた。
私には、そう見えた。
「……お姉?」
呼んでも、答えてくれない。伸ばした手は、払われた。
乾いた音。手の甲に、じん、と熱が走る。
その瞬間の感触を、私は今でも、覚えている。
痛くなんかなかった。叩かれたというほどのものじゃない。ただ、振り払われただけ。
でも、胸の奥が、どうしようもなく痛かった。
当時は、何が悪かったのか、分からなかった。私はお姉を助けたかっただけだった。守りたかっただけだった。なのに、どうして怒られたのか。どうして、拒絶されたのか。何も、分からなかった。分からないまま、その夜、布団の中で、声を殺して泣いた。
今なら、分かる。
お姉はずっと、お母さんから言われていた。甘えるな。助けを求めるな。最後に頼れるのは、自分だけだ。一人で立て。一人で結果を出せ。
そんな言葉を、毎日のように浴び続けていたお姉に。
私は、言ったのだ。
――私が助けてあげる。私が守ってあげる。
まるで、お姉が、一人では何もできない人みたいに。
お姉が必死に積み上げてきた、「一人で立つ」という最後の誇りを、一番近くにいたはずの妹が、笑顔で踏み潰した。
そんなつもりじゃなかった。本当に、そんなつもりじゃなかった。
でも、言葉は、一度口から出たら、戻せない。
それ以来、お姉は私と、ほとんど口を利いてくれなくなった。
私も、怖くなった。
話しかけて、また拒絶されたら、どうしよう。もっと嫌われたら、どうしよう。そう考えるだけで、声が出なくなった。廊下ですれ違っても、何も言えない。食卓で向かいに座っても、顔を見られない。ピアノの前に座るお姉を見つけても、昔みたいに、隣へ行けない。
ただ、遠くから見ているだけ。
一メートルにも満たない距離が、どうしても越えられない、深い川みたいに思えた。
そうしているうちに、ある日、お姉は、一人で東京へ行ってしまった。
玄関の扉が閉まる音を、私は二階の部屋で、聞いていた。
追いかけなかった。窓から覗くことすら、できなかった。
私の前から、お姉は、いなくなった。
夢の中で、その記憶が、何度も繰り返される。
お父さんが死ぬ。お母さんとお姉が喧嘩する。私が間に入る。私があの言葉を言う。お姉が私を拒絶する。そして、お姉がいなくなる。
また、最初に戻る。何度も、何度も、何度も。壊れたレコードみたいに、同じ場所で針が跳ね続ける。
あの時、何も言わなければ。あの時、違う言葉を選んでいれば。私がお姉の気持ちを、ちゃんと考えていれば。そもそも、お父さんが生きていれば。
そんな「もしも」を、夢の中で、繰り返す。
考えたところで、意味なんてない。分かっている。過去は一ミリも動かない。それでも、考えてしまう。考えずには、いられない。
もしも、あの日に戻れたなら――。
「か……かな……彼方」
遠くから、声が聞こえる。
誰かが、私を呼んでいる。
「彼方、もう朝やで。起き。朝ごはんできてるで」
「……ん」
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れない天井。白くて、高くて、知らない照明。一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなくなって、心臓が冷たくなる。それから、視界の端にいるお兄を見つけて、ようやく思い出した。
そうや。ここ、お兄の家や。
「……おはよ、お兄」
「おはようさん」
「ありがと。すぐ行く」
「ん。ゆっくりでええからな」
お兄は、それ以上何も聞かなかった。
ほんの一瞬、私の顔をじっと見て、何かを言いかけて、結局、何も言わずに、部屋から出ていった。扉が、静かに閉じる。
私は、しばらく、布団の上から動けなかった。
「…………今日は、こっちの夢か」
ぽつりと呟く。
寝起きは最悪だった。胸の奥に、まだ昔の痛みが、澱みたいに沈んでいる。夢だと分かっているのに、手の甲には、お姉に振り払われた熱が、まだ残っている気がした。
私は、自分の手を見る。
小さく握って、開く。握って、開く。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟いた。
大丈夫。大丈夫。もう何度、そう唱えたか分からない。唱えるたびに、その言葉は少しずつ薄くなっていく。それでも、唱えなければ、起き上がれなかった。
頬を、ぱしんと軽く叩く。
お兄が、待っている。起きなきゃ。
夏休みに入り、私は数日前から、東京にあるお兄の家に、泊めてもらっていた。
ここへ来た初日には、一悶着あった。というか、私は今でも、納得していない。この兄、たかが妹が泊まりに来るというだけで、何十万円も使っていたのである。
新しい布団、新しい枕、私用の食器、私用のタオル。さらには、私が過ごしやすいようにと、家具までいくつか買い替えていた。本人は黙っているつもりだったらしいが、さすがに分かる。前に来た時と、部屋が違いすぎる。明らかに材質の良さそうなソファ。やたら座り心地のいい椅子。そして、昨晩私が眠った、ホテルにでも置いてありそうな布団。全部、怪しい。
問い詰めた。白状した。金額を聞いた。頭を抱えた。
成金、ここに極まれり。
お兄がお金を持っているのは知っている。プロとして、かなり稼いでいることも知っている。それでも、妹一人泊めるために、ここまでやる必要はないやろ。私の金銭感覚がおかしくなったら、どうしてくれるんや。というか、高級すぎる家具は、逆に落ち着かない。壊したらどうしよう。汚したらどうしよう。さっきまで寝ていたベッドだって、一体いくらするのか分からない。
「……考えるんやめよ」
怖くなってきた。
私は手早く身支度を済ませて、顔を洗い、鏡の中の自分に目をやった。少しだけ、目元が腫れぼったい。寝ている間に、泣いていたのかもしれない。冷たい水を何度か顔にかけて、無理やり、いつもの顔に戻した。
リビングへ向かう。
「おはよ」
「おう、おはようさん」
リビングに入ると、朝食は、すでに並べられていた。
焼き魚、味噌汁、卵焼き、ご飯。小鉢の副菜まである。湯気の立つお椀から、出汁の匂いがふわりと広がって、強張っていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
「わぁ……今日もおいしそうやなぁ。ありがと、お兄」
そう言いながら席についたところで、お兄の箸が、まだ置かれたままなのに気づいた。
「……お兄、まだ食べてへんの?」
「ん?」
「先食べてても良かったのに」
そう言うと、お兄は何でもないことのように、笑った。
「ふたりで食べた方がおいしいやろ? 俺が彼方と食べたいんや」
「…………そういうこと、さらっと言えるんすごいな」
「なんやそれ」
「イケメンやなぁと思って」
「知っとる」
「自分で言うんや」
思わず、笑ってしまった。
さっきまで胸の中に残っていた夢の重さが、ほんの少しだけ、薄くなる。こういうところが、お兄のすごいところなのだと思う。
たぶん、私の顔を見て、何か察している。目元の腫れにも、きっと気づいている。それでも、聞いてこない。踏み込まない。ただ、いつも通りに、湯気の立つご飯を用意して、待っていてくれる。
それが、どれだけ救いになるか。きっとお兄は、半分も分かっていない。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせ、朝食を食べながら、今日の予定について話した。私は、特に予定なし。宿題を進めるくらい。お兄は、夜に配信があるらしい。
「ごめんなぁ。今日もどっか連れていきたかったんやけど、夜は配信せなあかんのや」
「謝らんでええよ。ここ数日、毎日どっか連れてってもろたやん」
むしろ、その方がありがたい。
お兄は毎晩のように、私を高級な飲食店へ連れていっていた。初めて、値段の書かれていないメニューを見た時は、本気で怖かった。料理を注文するだけなのに手が震えたし、会計の金額は、意地でも見ないようにした。精神衛生上、その方がいい。
「それでな、お兄」
「ん?」
「ちょっと言いたいことあるんやけど」
「なんや、改まって」
私は箸を置いて、お兄をまっすぐ見た。
「甘やかしてくれるんは嬉しいよ。ほんまに嬉しい。ありがとう。でも、さすがに甘やかしすぎや。私の価値観、ここ数日で大変なことになってもうてる」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟やない。値段書いてないメニューとか、初めて見たんやで?」
「あれ普通やろ」
「普通ちゃうわ」
「そうなん?」
「そうなん? やないねん」
やっぱりこの兄、金銭感覚がおかしくなっている。私は、ため息を吐いた。
「だから、今日から夜ご飯は私が作る。あと、家事も手伝わせて」
「……え?」
「お兄?」
「え……ええの? 夜ご飯、作ってくれるん?」
「そう言うてるけど?」
「毎日?」
「泊めてもろてる間は、そのつもりやけど」
お兄は、口元を手で隠した。でも、隠せていない。目尻が下がりきって、めちゃくちゃ嬉しそうだ。
「じゃあ、お願いするな。家事も分かった。よろしく」
「……なんか急に素直やな」
昨日までは「気にせんでええ」の一点張りだったのに。何があったんや。まあ、許可してくれたならええか。
本当は、少しだけ分かっていた。何かをしていないと、落ち着かないのだ。ただ泊めてもらって、ただ甘えて、ただ時間が過ぎるのを待っていると、頭の中で、あの夢が静かに再生を始めてしまう。手を動かしていれば、その声は、少しだけ遠くなる。
お兄は、そんなことには気づかないふりをして、嬉しそうに味噌汁を啜っていた。
「あ、そういや彼方」
「ん?」
「前、言うたやろ。ツクヨミ内で、彩葉見つけたって」
箸が、止まった。
たった一つの名前で、心臓が、跳ねる。
「……お姉?」
「そう。今な、かぐやちゃんって子と、配信活動しとるで。まあ、彩葉は裏方やけど」
「え?」
初耳だった。
お兄から、お姉をツクヨミで見かけたとは、聞いていた。でも、配信活動をしているなんて、知らなかった。
「お姉が……配信?」
「彩葉本人がメインで喋るわけちゃうけどな。『いろP』って呼ばれとる。曲作ったり、裏方やったり。最近は、ちょいちょい表にも出とるみたいやで」
「……音楽、やってるん?」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「やっとるよ」
その一言だけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。指先まで、血が巡っていくのが分かった。
「……そっか。良かった……」
本当に、良かった。
お姉、音楽、やめてなかったんや。
あの夜、閉じたピアノの蓋を、じっと見つめていたお姉の背中。もう二度と、あの人は音楽に戻ってこないのかもしれないと、何度も思った。それが、私のせいなのかもしれないとも。
でも、お姉は、続けていた。自分の足で、自分の場所で、ちゃんと。
「今、すごい勢いで新規ファン増やしとるで。かぐやちゃん可愛いしな。彩葉も、いろPいろP言われて、結構人気ある」
「へぇ……お兄、それって前言うてた、お姉と仲良さそうにしてた人たち?」
以前、お兄から聞いたことがある。ツクヨミでお姉を見つけた時、二人の女性と、仲良さそうに遊んでいた、と。
それを聞いた時、私は嬉しかった。東京で、一人じゃない。ちゃんと友達がいる。ちゃんと笑える相手がいる。それだけで、少し安心できた。同時に、ほんの少しだけ、胸の奥が、ちくりと痛んだ。その隣に、私の居場所はないのだと、思い知らされたみたいで。
そんな自分の浅ましさが、嫌になった。
「いや。前見た子らとは違うな。かぐやちゃんは、一回見たら忘れへんと思うで。ほら、この子や」
お兄がスマホを操作し、私に画面を見せる。
「…………」
そこに映っていたのは、金色の長い髪に、透き通るような白い肌、大きな瞳をした、とても可愛らしい女の子だった。
「……この子……」
胸の奥に、奇妙な感覚が生まれる。
知っている。そんな気がした。
いや、知らない。私は、この子に会ったことなんてない。少なくとも、覚えている限りでは。それなのに、どこかで見たことがあるような、ずっと昔から知っているような、妙な既視感があった。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「……どっかで……」
「ん?」
「いや……なんでもない」
思い出そうとした、その時だった。
かぐやという女の子の後ろに映っているものが目に入り、私の思考は、一瞬で吹き飛んだ。
「……お兄。この後ろの狐……これ、お姉?」
お兄が、吹き出した。
「そっち行くんかい」
「だって」
「せやで。彩葉」
「……ふふ」
思わず、笑ってしまった。
狐の着ぐるみ。画面越し。アバター越し。さらに、そのアバターすら、着ぐるみで隠されている。本人の顔なんて、欠片も見えない。
それでも、分かる。
仕草で。立ち方で。肩の落とし方で。何となく、お姉だと、思える。
どこか面倒くさそうに、かぐやちゃんの手伝いをしている。かぐやちゃんが何かをするたびに、後ろで、呆れたように肩をすくめている。でも、私には分かった。
本当は、楽しいんやろうな。
昔から、そうだった。お姉は、素直じゃない。面倒そうな顔をしながら、結局、最後まで付き合ってくれる。
「……元気そう。良かった……」
気づけば、そんな言葉が、零れていた。
それだけで、よかった。
私が隣にいなくても。私のことを、嫌っていても。お姉が笑っていられるなら。音楽を続けられているなら。それだけで――。
それだけで、いいはずやのに。
「彼方って、ほんま彩葉のこと、大好きやな」
「え?」
「顔。めっちゃ優しい顔、なっとるで」
「……そう?」
「うん」
言われて初めて、自分が笑っていることに気づいた。
「……うん。好きやよ」
ずっと。昔から。
どれだけ拒絶されても、どれだけ離れていても、それだけは、一度も、変わらなかった。
「元気そうにしてて……嬉しい」
そして。
その姿を見てしまったから、もう、抑えられなかった。
会いたい。
お姉に、会いたい。
今すぐにでも。
行こうと思えば、行ける。住所は、お兄が知っている。電車に乗れば、会いに行ける。でも、今日は金曜日。お姉は高校生だ。しかも、進学校でトップの成績だと聞いている。夏休みとはいえ、夏期講習や、学校の用事があるかもしれない。突然行って、留守だったら嫌だ。いや、それ以上に、突然現れた私を見て、あの人が顔を曇らせる瞬間を、想像してしまった。
それなら、明日。休日に行こう。その方が、ゆっくり話せる。
もし。
もし、仲直りできたら。いっぱい話せるかもしれない。一年間のこと。東京で、何をしていたのか。どうして、配信活動を始めたのか。かぐやちゃんとは、どうやって出会ったのか。音楽のこと。昔のこと。そして、私がずっと、謝りたかったこと。
もしかしたら、また、昔みたいに話せるかもしれない。
そんな期待が、胸の奥に、芽生えてしまった。
期待は、怖い。叶わなかった時に、一番深く、刺さるから。それを、私は誰よりも知っている。知っているのに。
「……お兄」
「ん?」
「決めた。明日、お姉に会いに行く」
声が、少し震えた。
怖い。もちろん、怖い。膝の上で握った拳が、白くなっている。でも。
「今までのこと……ちゃんと聞いてくる」
逃げたくなかった。
もう一度、お姉と話したかった。
お兄は、少しだけ驚いたあと、優しく、目尻を下げた。
「そうか。頑張り」
大きな手が、頭の上に置かれる。温かい。昔から変わらない、安心する重さ。
「彩葉も、きっと分かってくれる」
「…………うん」
私は、笑った。
きっと、大丈夫。そう、信じたかった。
朝食を終えると、私は、家から持ってきた宿題を机に広げた。
明日は、お姉に会う。なら、今日中に全部終わらせてしまおう。邪魔になるものは、何も残したくない。ちゃんと、真正面から、お姉と向き合えるように。
問題集を開く。解く。次。解く。次。また解く。
シャープペンシルの芯が走る音だけが、静かな部屋に響く。余計なことを考えなくていい時間が、心地よかった。気づけば、ページが恐ろしい勢いで進んでいた。
「…………彼方?」
「ん?」
途中で様子を見に来たお兄が、私の机の横で、固まっていた。
「何?」
「いや……人間?」
「失礼やな」
「いや、だって速すぎやろ」
「お姉に会いたいから」
「理由になっとらん」
「なるよ」
「ならんやろ……」
ぶつぶつ言いながら、お兄は部屋から出ていった。ほんま失礼な人や。
でも、お姉に会える。そう考えるだけで、不思議なくらい、やる気が出た。
何を話そう。最初は、何て言おう。久しぶり? 元気やった? いきなり謝ったら、困らせるかな。お姉の作った曲、聴いてみたい。かぐやちゃんのことも聞きたい。ヴァイオリンのことも。
いつか。
もし、許してもらえたなら。また、一緒に演奏できるかな。
「…………」
そこまで考えて、手を止めた。
期待しすぎたら、あかん。
自分に、言い聞かせる。でも、少しくらいなら。少しくらい、期待してもええやろ。
そうしているうちに、宿題は全て終わり、気づけば、窓の外が夕方の色に染まっていた。約束通り、夜ご飯は、私が作った。
台所に立つのは、久しぶりだった。包丁がまな板を叩くリズム。鍋から立ちのぼる湯気。手を動かしているあいだだけは、胸のざわめきが、すうっと遠のく。
「うまっ」
一口食べたお兄が、言った。
「ほんま?」
「めっちゃ美味しい」
「良かった」
「彼方、毎日作ってくれへん?」
「調子乗らんの」
「ええやん」
「嫌や。自分でも作り」
そんな会話をしながら、二人で夕食を食べる。お兄は、何度も「美味しい」と言ってくれた。嬉しかった。でも、ごめん、お兄。今の私は、たぶん、話半分くらいしか聞けてへん。
頭の中は、明日のことでいっぱいだった。
お姉に会う。一年ぶりに、ちゃんと顔を見る。ちゃんと話す。そう考えるだけで、胸が苦しいくらい、高鳴った。同時に、その高鳴りの底に、冷たい何かが、確かに沈んでいた。
夜。
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。
お兄が買ってくれた、高級な布団に包まれる。普段なら、すぐ眠れそうなくらい柔らかいのに、目が冴えて仕方がない。右を向く。左を向く。仰向けになる。時計を見る。まだ、十分しか経っていない。
「……寝られへん」
明日、何着ていこう。何て言おう。笑ってくれるかな。名前、呼んでくれるかな。
もしかしたら、本当に、また昔みたいに――。
「…………期待しすぎたら、あかん」
小さく、呟く。それでも、口元が緩んだ。
暗闇の中、天井をじっと見つめる。カーテンの隙間から、街の明かりが細く差し込んでいる。遠くで、電車の走る音がした。あの音の向こうに、お姉がいる。同じ街の、どこかに。
「……会いたいなぁ、お姉」
誰にも聞かれないような声で、呟いた。
眠れないほどの高揚。少しの不安。それ以上の期待。結局、私が眠りについたのは、ベッドに入ってから、二時間近く経った頃だった。
◇ ◇ ◇
夢を見る。
いつもの夢とは、違う夢。
暗い。
どこなのか、分からない。上も下も、右も左も、何も分からない。足元に床があるのかすら、定かではない。ただ、その暗闇の中に、一人だけ、女の子がいた。
金色の長い髪。透き通るように白い肌。小さな身体を、抱えるようにして座り込み、泣いている。
「……誰か……誰か、助けて……」
胸が、締めつけられた。
どうしてか、分からない。知らない子なのに。
顔は、見えない。見ようとしても、そこだけ、薄い靄がかかったように、認識できない。誰なのか、分からない。名前も、知らない。会ったことがあるのかすら、分からない。
それなのに。
「誰かいないの……?」
その声を聞いた瞬間、身体が、勝手に動いた。
「……ここにおるよ」
私は、少女へ近づこうとする。一歩。また一歩。でも、距離が、縮まらない。
「待って。大丈夫やから」
歩く。走る。それでも、届かない。
「私がおるから」
少女は、ずっと泣いている。
「誰か……」
「おるよ! ここにおる!」
必死に、手を伸ばす。喉が焼けるほど、叫ぶ。それでも、声は暗闇に吸い込まれていくだけで、少女には届かない。
「お願い……助けて……」
少女が、顔を上げた。
その瞬間、胸の奥が、鋭く痛んだ。
――助ける。
そう言いかけて、声が、止まる。
『お姉は私が助ける。守ったる』
『あんたに守られなあかんほど、私は弱くなんかない!』
あの日の声が、耳の奥で、はっきりと蘇る。
私は、人を助けるなんて、簡単に言わないようにしていた。守るなんて、そんな無責任なことを、言わないようにしていた。誰かの気持ちも知らずに差し伸べた手が、時には、その人を深く傷つけるのだと、知ったから。
あの日、私は、一番大切な人に、一番残酷な言葉を、笑顔で言ってしまったのだから。
なのに今は、そんなことすら、忘れそうになる。
この子を、一人にしたくない。
理由なんて、分からない。誰なのかも、分からない。それでも、泣いてほしくない。ただ、それだけだった。
「……大丈夫」
私は、もう一度、手を伸ばす。
「大丈夫やよ。無理に助けてもらわんでもええ。私に何も話さんでもええ。でも……一人で泣かんでええよ」
少女の涙が、落ちる。
暗闇の中に、小さな光の粒になって、ぽつり、ぽつりと散っていく。
抱きしめてあげたい。昔、お姉に、できなかったみたいに。
何も言わなくていい。助けるなんて、言わなくていい。守るなんて約束も、しなくていい。ただ、隣にいたい。この子が泣き止むまで、ずっと。
「……そばにおるから」
少女へ、手を伸ばす。あと少し。ほんの少し。指先が、届きそうになる。
その瞬間、少女が、ゆっくりと顔を上げた。
靄の向こう。顔は、見えない。でも、なぜか、その子を知っているような気がした。胸の奥が、妙に熱くなる。
どこかで。
私は、この子を――。
けれど、思い出すより先に、夢が遠ざかっていく。
「待って!」
私は、手を伸ばす。少女も、こちらへ手を伸ばした。
届かない。
あと少しなのに。ほんの少しなのに。
「――待って!」
暗闇が、少女を飲み込んでいく。足元から、髪の先から、涙の光ごと、ゆっくりと。
それでも私は、最後まで、手を伸ばし続けた。
いつか届くと信じて。いつか、この子の隣に行けると信じて。
あの日、お姉に届かなかった手が、今度こそ、誰かに届くと信じて。
ずっと、ずっと。
手を伸ばし続けた。