お姉は私が嫌い 再   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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3話

 

 

 朝は、夜が明けるよりずっと前に始まっていた。

 

 目を覚ましたとき、カーテンの向こうはまだ青黒く、蝉も鳴いていなかった。枕元の時計を見る。四時四十分。もう一度眠ろうとして目を閉じたけれど、瞼の裏に浮かぶのは、ただ一つの顔だけだった。

 

 ――今日、お姉に会う。

 

 それを思い出した途端、心臓が体の内側から胸骨を叩き始めた。眠れるはずがない。私は布団を抜け出し、暗い部屋の中を意味もなく歩き回った。足の裏に触れる床がひんやりと冷たい。窓の外で、新聞配達のバイクの音が遠くを横切っていく。

 

 空が白み始める頃には、クローゼットの前に立っていた。

 

 白いブラウスを体に当てる。鏡を見る。……少し、大人っぽすぎる。背伸びしているのが、すぐ見抜かれてしまいそうだった。薄い色のワンピースに替える。今度は、子供っぽい。まるで、一年前から何も変わっていない子供みたいに見える。

 

「……ちゃうな」

 

 スカートを替える。髪を結ぶ。ほどく。もう一度結ぶ。鏡の中の私は、そのたびに少しずつ違う顔をして、どれも「正解」ではなかった。

 

 何を着ていけば、お姉は私を見てくれるんやろう。

 

 そんなことを考えている自分に気づいて、手が止まった。服の問題じゃない。分かっている。分かっているのに、服ぐらいしか、私が選べるものがなかった。

 

「……忙しないなぁ」

 

 さっき、お兄にも廊下ですれ違いざまに言われた。笑いながらだったけれど、目の奥には少し心配が混じっていた。自分でも分かっている。今日の私は、どう見ても私らしくない。

 

 でも、仕方ないやろ。

 

 だって――今日は、一年ぶりにお姉に会えるのだから。

 

 一年。

 

 たった一年なのか、もう一年なのか。私には、そのどちらにも思えた。時計の針はちゃんと同じ速さで進んでいたはずなのに、お姉のいないこの家の時間だけは、泥の中を歩くみたいに重かった。

 

 その間、何度お姉のことを考えただろう。

 

 今、何してるんやろ。ちゃんとご飯食べてるんやろか。また夜更かしばっかりして、朝起きられへんのとちゃうかな。風邪、引いてへんかな。

 それから――私のことを、少しでも思い出すことはあるんやろか。

 

 そこまで考えると、決まって胸の奥に針を刺されたような痛みが走った。だから、考えないようにした時期もある。でも、無理だった。街でお姉の好きだった曲が流れれば足が止まる。スーパーで、お姉がよく買っていたお菓子を見つければ、手に取ったまま動けなくなる。家の中に残された写真の中で、お姉は何も知らない顔で笑っている。その笑顔の隣には、同じように笑っている私がいる。

 

 あの頃の私たちは、どうしてあんなふうに笑っていられたんやろう。

 忘れられるはずがなかった。忘れたくもなかった。お姉は、私のお姉やから。

 

 ――そして、忘れられないものがもう一つある。

 

 あの日、私が口にしてしまった言葉。

 

 思い出すたびに喉の奥が焼けるように痛くなるから、いつも途中で考えるのをやめてしまう。それでも、あの言葉は消えてくれなかった。一年のあいだ、私の中で少しも色褪せずに、ずっとそこに居座り続けていた。

 

 だから、謝りたかった。

 

 会いたい、という気持ちの底には、いつもその願いが沈んでいる。会って、顔を見て、ちゃんと「ごめんなさい」と言いたい。それが許されなくてもいい。ただ、言わせてほしい。

 

 今日は、そのための日だった。

 

 鏡の前に立つ。

 

 今日着るのは、お兄が買ってくれたばかりの服だ。普段の私なら恥ずかしくて選ばない、ほんの少しだけ背伸びをした服。裾が揺れるたびに、自分が自分じゃないみたいな気持ちになる。

 

「……似合ってるやろか」

 

 鏡の中の私に聞いても、答えは返ってこない。

 

 私は肩の力を抜いて、口角を上げてみる。

 

「……にこっ」

 

 ぎこちない。頬の筋肉が言うことをきかなくて、笑顔というより、何かを我慢している顔に見えた。

 

「……変やな」

 

 もう一度、力を抜く。

 

「……にこっ」

 

 さっきよりはましや。でも――。

 

「……お姉の前やったら、ちゃんと笑えるかな」

 

 口にした瞬間、背中に冷たいものが走った。

 

 会った瞬間に声が出なかったら。何を話せばいいのか全部飛んでしまったら。あの日のことを思い出して、顔が歪んでしまったら。そして、泣いてしまったら。

 泣いたら、お姉はきっと困る。昔から、私が泣くと、お姉はどうしていいか分からない顔をして、それでも黙って頭を撫でてくれた。あの手が、もう一度私に触れてくれる日は来るんやろか。

 

 会いたい。でも、怖い。

 

 この一年、その二つが胸の中でずっと取っ組み合いをしていた。会いたいと思うたびに怖くなって、怖いと思うたびに、それでも会いたいと思ってしまう。どちらも負けないまま、私はそのあいだで擦り切れていった。

 それでも、わずかに「会いたい」の方が強かった。だから今日、私は鏡の前に立っている。

 

 話したいことなら、いくらでもある。学校のこと。家のこと。最近遊んでいるゲームのこと。お兄が相変わらず過保護なこと。

 

 でも、それ以上に聞きたいことがあった。

 

 この一年間、お姉は何をしていたんやろう。どんな部屋で、どんな顔で朝を迎えていたんやろう。何を食べて、誰と話して、何に笑って、何に怒って、何に泣いたんやろう。

 

 私の知らない一年間。

 

 お母さんから、お姉は自分で学費も生活費も稼いでいると聞いた。きっと、大変だったに違いない。誰にも頼らず、誰にも弱音を吐かず、一人で全部抱え込んで。お姉はそういう人だから。

 

「頑張ったね」と言ってあげたい。「偉かったね」と、昔お姉が私にしてくれたみたいに、頭を撫でてあげたい。

 

 ……いや、今やったら怒られるかな。

 

 そう想像したら、少しだけ笑えた。その笑いは、さっきの作り笑いよりずっと自然だった気がした。

 

 時計の針が十時前を指している。

 

「……そろそろ行こ」

 

 最後にもう一度、鏡の中の私に笑いかける。

 

「大丈夫」

 

 声に出して言う。今度は、ほんの少しだけ、本物に近い笑顔だった。

 リビングへ降りると、お兄がソファで小説を読んでいた。ページをめくる音がやけに大きく聞こえる。たぶん、お兄もあまり眠れていないのだと思う。目の下に、薄く影があった。

 

「お兄、お姉のところ行ってくるね」

 

 お兄が顔を上げる。私を見て、一瞬だけ目を丸くした。

 

「おお」

 

「……?」

 

 本を閉じて、上から下まで私を眺める。何かおかしいところでもあるんやろか。不安になって自分の服を見下ろす。

 

「えらい可愛くなったなぁ」

 

「……ほんま?」

 

 思わず聞き返していた。

 

「ほんまほんま。いつも可愛ええけど、今日はもっと可愛ええよ」

 

 本気なのか冗談なのか分からない顔で、お兄は満足そうに頷く。

 

「これなら彩葉もイチコロや」

 

「もう、お兄!」

 

 顔が一気に熱くなる。

 

「何言うてんの」

 

「いやいや、兄としての正直な感想や」

 

「……知らん」

 

 目を逸らす。お兄は楽しそうに笑っていた。でも、分かっている。この人は、朝から私が何度も服を替えていたことも、鏡の前で笑顔の練習をしていたことも、全部気づいている。気づいていて、あえて何も言わないでくれている。冗談を言ってくれるのは、私が少しでも「いつもの私」でいられるように。

 

 お兄は、そういう人だ。

 

「彼方」

 

 声の調子が、ふっと変わった。からかうような響きが消えて、静かで、優しい声になる。

 

「頑張り」

 

「……うん」

 

「彩葉も、きっと分かってくれる」

 

 その言葉は、胸の真ん中にそっと置かれたみたいに温かかった。同時に、ほんの少しだけ、怖くもなった。お兄がそう言ってくれるたびに、期待してしまう自分がいたから。

 

 期待は、裏切られたとき、一番深く刺さる。

 

「……うん」

 

「大丈夫や」

 

「……うん」

 

 大丈夫。胸の中でもう一度繰り返す。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 扉を閉める直前、お兄が小さく手を振ったのが見えた。いつまでも玄関の向こうから見送られているような気がして、私は一度も振り返らずに歩き出した。

 

 外へ出た瞬間、熱気が全身にまとわりついた。

 

「暑……」

 

 茹だるような暑さだった。太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが光を跳ね返している。足元からも熱が立ち上ってきて、数歩歩いただけで額に汗が滲んだ。蝉の声が耳の奥まで入り込んで、頭の中がじりじりと焼かれていくような気がする。

 

 いつもなら、こんな日に外を歩くなんて絶対に嫌だ。なのに今日は、不思議と気にならなかった。体が軽い。胸の奥の期待が、暑さも、疲れも、何もかもを遠くへ押しやってしまっている。

 

「早く会いたいな……」

 

 気づけば、そんな言葉が零れていた。

 

 でも、その直後。

 

 ――もし、お姉が私を見て、嫌そうな顔をしたら。

 

 浮かんだ想像に、足が止まりかけた。

 

 ――もし、迷惑そうな顔をされたら。もし、私のことを、もう必要ないと思っていたら。

 

「……」

 

 私は首を振る。

 

「……大丈夫や」

 

 お兄も言ってくれた。大丈夫。きっと、大丈夫。

 

 お母さんに教えてもらった住所を頼りに、歩く。歩いて二十分ほど。普段なら何とも思わない距離なのに、今日はその二十分がやけに長かった。

 信号に引っかかるたびに焦る。早く着きたい。でも、青になって歩き出すと、今度は怖くなる。着いてしまう。お姉がいる。会えてしまう。

 

 早く着きたい。でも、着いてほしくない。

 

 自分でも呆れるくらい、心がころころと入れ替わる。それでも、足だけは止まらなかった。

 

 そして。

 

「……ここ?」

 

 目の前に、一軒のアパートが現れた。

 

 年季が入っている。壁のあちこちが色褪せて、外階段には赤茶色の錆が浮いていた。決して立派とは言えない。言葉を選ばなければ、ボロアパートと呼んでもいいくらいだった。

 

 私はしばらく、その建物を見上げていた。

 

 お姉は、お父さんがいなくなる前、家のグランドピアノの前でよく笑っていた。あの家とこのアパートは、あまりにも遠かった。

 

「お姉……ここに住んでるんや……」

 

 声に出した途端、胸の奥がきゅっとなった。

 

 ここで眠って、ここで朝を迎えて、ここから学校やバイトへ行って、ここへ帰ってくる。私の知らない一年間の一部が、確かに目の前にある。

 

 それだけで、私には十分すぎるほどだった。

 

 同時に、ほんの少しだけ、苦しかった。

 

 こんな場所で、お姉は一人で戦っていたんや。

 

 錆びた階段を上る。カン、カン、と足音が響く。一段上るごとに、心臓が少しずつ速くなる。二階。教えてもらった部屋番号を確かめる。間違いない。ここだ。

 

 扉の前に立つ。

 

 ドクン、ドクン。

 

 さっき歩いていたときよりずっと速い。手のひらは汗で濡れているのに、指先だけがやけに冷たかった。

 

 インターホンはない。自分の手で叩くしかない。

 

 右手を、ゆっくりと持ち上げる。震えていた。

 

「……大丈夫。大丈夫や」

 

 会うだけ。ちゃんと笑って、「久しぶり」って言って、「元気やった?」って聞いて、それから、それから――。

 

「……よし」

 

 小さく息を吸う。

 

 コン。コン。

 

 たった二回のノック。それだけなのに、自分の人生を左右する扉を叩いているような気がした。

 

 静寂。

 

 一秒。二秒。三秒。

 

 中で物音がした。何かを動かす音。足音。近づいてくる。

 

 来る。お姉が来る。

 

 心臓が喉までせり上がる。

 

 ガチャ、と扉が開いた。

 

「うわぁー、可愛い子だ。どうしたの?」

 

「……え」

 

 そこにいたのは、黒いTシャツを着た女の子だった。お姉じゃない。

 予想していなかった光景に、頭が真っ白になる。そして、その顔に見覚えがあった。配信で何度も見た、お姉と一緒に活動している人。

 

「……かぐやさん?」

 

「ん?」

 

 そのとき、彼女の肩越しに部屋の中が見えた。

 

 服。空き箱。飲み物の容器。ゲーム機の周辺機器。本。何に使うのか分からない小道具。床という床に散らばった、ありとあらゆるもの。

 

「…………」

 

 思考が止まった。

 

 私の知っているお姉の部屋は、もっと綺麗だった。楽譜があって、本が並んでいて、物は多かったけれど、ちゃんと居場所を持っていた。お姉自身が、きちんと整えていた。

 

 それが、これ。

 

 あの綺麗好きだったお姉が、こんな部屋で。

 

「えーっと……?」

 

 かぐやさんが私の顔を覗き込む。

 

「おーい? 大丈夫?」

 

「…………」

 

「ねぇってば!」

 

「はっ!」

 

 ようやく我に返った。

 

「す、すみません……! ぼーっとしてました」

 

「大丈夫?」

 

「はい」

 

 一度深呼吸して、本来の目的を思い出す。

 

「私は……お姉に……」

 

 言葉が詰まった。いつもの関西弁が喉の奥へ引っ込む。初対面の人。お姉の友達。失礼があってはいけない。そう思った途端、口から出たのは、他所行きの標準語だった。

 

「酒寄彩葉さんに会いに来ました。今はいないのでしょうか?」

 

「え?」

 

 かぐやさんが目を丸くする。数秒、私をじっと見て、それから。

 

「……妹!?」

 

「……はい」

 

「彩葉、妹なんていたんだ! 可愛いー!」

 

「え?」

 

 予想外の反応に、今度は私が固まった。

 

 この人は、知らなかったんや。

 

 お姉は、一緒に暮らしている人に、私のことを一度も話していなかった。

 その事実が、胸の奥にじわりと染みた。小さな染みだったけれど、確実にそこにあった。

 

「彩葉に会いに来たんだよね?」

 

「は、はい」

 

「彩葉なら今、バイトに行ってるよ。今日は午前中だけって言ってたから、もうちょっとで帰ってくると思う」

 

「そうなんですね」

 

 少し残念だった。でも、すぐ戻ってくるのなら――そう思いかけたところで。

 

「それまで私とお話しよ!」

 

「え?」

 

 返事をする間もなく手を取られた。

 

「ちょ、あの……」

 

「ほらほら!」

 

 そのまま部屋の中へ引っ張り込まれる。なんて自由な人なんや、この人は。

 

「適当に座って座って!」

 

「えっと……」

 

 どこに、とは言えなかった。床に物が多すぎる。私が戸惑っているのに気づいたのか、彼女は「あっ」と声を上げ、慌てて足元の物を端へ寄せ始めた。

 

「なんのおもてなしもできない、映えない部屋ではございますが!」

 

 両手を大きく広げる。

 

「このかぐや、絶対に退屈はさせないから!」

 

「……ふふ」

 

 思わず、笑ってしまった。

 

 変な人。でも、不思議と嫌じゃなかった。

 

 私は空いた場所に、ちょこんと正座した。

 

「あの……突然来てしまって、ごめんなさい」

 

「全然いいよー」

 

「自己紹介もまだでしたよね」

 

 背筋を伸ばす。

 

「私は酒寄彼方と言います。姉がお世話になっています」

 

 すると、かぐやさんは少しだけ目を細めた。

 

「彼方」

 

「はい」

 

 名前を確かめるように、もう一度。

 

「彼方。いい名前」

 

 たったそれだけなのに、胸の奥がふわりと温かくなった。

 

「私はかぐや。よろしくね、彼方」

 

 差し出された手を、私はぼんやりと見つめる。何をすればいいのか分からなくて、一瞬、固まってしまった。

 

「……?」

 

「握手だよー」

 

「あ……」

 

 慌てて手を出すと、かぐやさんは私の手を両手で包み込んだ。

 

「よろしく!」

 

 ぶんぶんと、思った以上の勢いで腕を振られる。

 

「わ、わ……」

 

「よろしくよろしく!」

 

「……ふふっ」

 

 不思議な握手だった。ただ手を握っているだけなのに、言葉にならないものが流れ込んでくる。

 

 ――あなたに会えて嬉しい。

 

 そんな気持ちが、掌を通してまっすぐ伝わってきた。

 

 こんなふうに、最初から全部を差し出せる人がいるんや。

 

「えっと……かぐやさんですよね」

 

「うん」

 

「お姉と一緒に配信しているの、知っています。配信も拝見させていただきました。とても綺麗な人だと思っていました。それに、新規のファンの方もすごい勢いで増えているって……」

 

「えへへ」

 

 照れたように頬を掻き、それからすぐに胸を張る。

 

「ま、私、天才美少女ですから」

 

「……」

 

 私は、まじまじと彼女を見た。

 

 ……確かに。

 

 そう思ってしまった。普通の人が言えば嫌味に聞こえる言葉も、この人が言うと、不思議と嫌味にならない。むしろ、妙に納得してしまう。

 顔が綺麗だから、だけじゃない。声、仕草、表情、距離の詰め方。何より、この人の周りだけ空気が少し明るく見える。人を惹きつける力。初対面の私ですら、ほんの数分で笑わされている。

 

 きっと、努力だけでは身につかないものなんやと思う。

 

 ――勝てへんな。

 

 ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。

 

 何に勝つつもりやったのか。そのときの私は、まだ知らなかった。

 

「ねぇねぇ!」

 

「はい?」

 

「昔の彩葉のこと教えて! 私、ちょー気になる!」

 

 かぐやさんが勢いよく身を乗り出す。

 

「昔のお姉……ですか?」

 

「そう! どんな子だったの?」

 

 私は少し考えた。昔のお姉。そう聞かれると、いろんな姿が浮かんでくる。

 ピアノを弾いているお姉。私の髪を結んでくれたお姉。宿題を教えてくれたお姉。私が転んだとき、誰よりも先に駆け寄ってくれたお姉。それから、私の隣で笑っていたお姉。

 

 自然と、頬が緩んだ。

 

「分かりました」

 

「やった!」

 

「その代わり……今のお姉のこと、教えてくれませんか?」

 

「もちろん!」

 

 即答だった。

 

 それから私たちは、出会ったばかりだというのに、一人の人間について語り始めた。私の、大好きだった人について。

 

「お姉は、優しい人です」

 

「それ、分かる。本人は絶対認めないと思うけど」

 

「……ふふ。そうですね」

 

 音楽の話をすれば、「彩葉、本当に凄いよね。作曲できるんだもん」と、まるで自分のことのように胸を張る。

 

「昔から、音楽が好きだったんです。小さい頃からずっとピアノを弾いていて。お父さんがいる頃は、よく家で聴かせてくれてました」

 

「いいなぁ。小さい彩葉の演奏、聞きたかった!」

 

 なんでもできる人だと言えば「確かに」と頷き、頑張り屋さんだと言えば「ちょっと心配になるくらいにね」と苦笑する。

 

「無茶するんですか?」

 

「するする。というか、自分では無茶してるって思ってないタイプ」

 

「あぁ……」

 

「分かる?」

 

「……すごく」

 

 二人で笑った。

 

 不思議だった。私の知っているお姉と、かぐやさんの知っているお姉。同じ人なのに、少しずつ違う。私の知らないお姉が、次から次へと出てくる。

 

 それが嬉しかった。嬉しいはずだった。

 

「あとね、彩葉の作るパンケーキ、クソまずいよ」

 

「……え?」

 

「水と粉って感じの味がする」

 

「……水と、粉?」

 

「そう。パンケーキ食べてるのに『あ、原材料ってこうなんだな』って実感できる味」

 

「……お姉、料理上手やったのに」

 

「うそ!?」

 

「本当です」

 

「じゃあ、料理だけ退化したんだ……」

 

 あまりにも真剣な顔で言うものだから、堪えきれなかった。

 

「ふふっ……」

 

「いやほんとに笑い事じゃないよ! あれ食べた私すごいからね!」

 

「そんなにですか?」

 

「食べ物を粗末にしちゃ駄目っていう倫理観だけで完食した」

 

「ふふふっ……」

 

 久しぶりに、お姉のことで笑った気がした。

 

 にわかには信じられないがお姉の料理が下手になった。

 

 それは、お姉の隣で料理を教えてくれる人が、もういないからなのかもしれない。そう思ってしまった自分に、一瞬、胸が冷えた。

 

「あとね、前にヤチヨのライブで号泣してた」

 

「えっ……お姉が?」

 

「うん。もう、ぼろっぼろ」

 

「……想像できないです」

 

「でしょ?」

 

 泣いているお姉。誰かの音楽に心を動かされて、人目も気にせず泣いているお姉。

 

 私は、そんなお姉を知らない。

 

 昔なら、きっと知っていたはずなのに。

 

「それとね――」

 

 かぐやさんは楽しそうに話し続ける。私は、その一つ一つを、宝物を受け取るような気持ちで聞いていた。

 知らなかった。こんなお姉がいたんや。もっと知りたい。この一年を。私がいなかった一年を。少しでも埋めたい。

 

 そう、思っていた。

 

 でも。

 

「一緒に寝てくれる」

 

「……え?」

 

 思わず聞き返した。

 

「ん?」

 

「……一緒に?」

 

「うん」

 

 頭の中で、言葉の意味をゆっくり並べ直す。そして、恐る恐る聞いた。

 

「ここに……住んでるんですか?」

 

「うん」

 

「……そうなんや」

 

 関西弁が漏れた。

 

 お姉が、この人と、ここで暮らしている。

 

 朝、同じ部屋で目を覚まして。夜、同じ布団で眠って。一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、喧嘩して、仲直りして。

 私の知らない場所で、私の知らない時間を、お姉はこの人と積み重ねている。

 

 胸の奥に、小さな棘が刺さった。

 

 羨ましい。

 

 その感情は、あまりにも自然に、音もなく浮かび上がってきた。

 

「……っ」

 

 慌てて押し殺す。そんなこと思ったらあかん。かぐやさんは何も悪くない。初対面の私に、こんなに優しくしてくれている。お姉の話をたくさん聞かせてくれた。

 

 なのに、私は嫉妬している。

 

 私の知らないお姉を知っている、この人に。私がいなかった一年間、お姉の隣にいた、この人に。

 胸の中に、黒いものが広がっていく。じわじわと、油のように。

 

 私が一番に駆け寄るはずやったのに。

 

 私が、お姉の一番近くにいるはずやったのに。

 

 それは、あの日、自分の手でその場所を壊した人間が思っていいことではなかった。

 

 嫌だ。こんな自分、嫌い。

 

「……最低や」

 

「ん?」

 

「……なんでもないです」

 

 私は笑った。笑えているだろうか。分からない。たぶん、貼りつけただけの笑顔だった。

 

「お姉はまだ帰って来ないようですし……今日は、お暇しますね」

 

 立ち上がる。逃げたかった。かぐやさんからでも、この部屋からでもない。こんな醜い感情を抱いてしまった、自分自身から。

 

「えーーー! もっとお話しようよー」

 

 かぐやさんが露骨に残念そうな顔をする。

 

「ごめんなさい。もうお昼ですし、また今度伺います」

 

「また来てくれるの?」

 

「……はい」

 

「ヤッター!」

 

 両手を上げて、本当に嬉しそうに笑う。私は戸惑った。どうして、そんなに喜ぶんやろう。今日初めて会っただけなのに。「また来る」と言っただけなのに。

 

 私が不思議そうにしているのを見て、彼女はふっと笑った。

 

「私、彩葉のこと大好き」

 

 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。

 

「彼方も大好きでしょ?」

 

「……ッ」

 

 心臓が跳ねた。

 

「彩葉の話すると、顔色変わるんだもん」

 

 楽しそうに笑う。

 

「大好きな人のこと話すの、楽しいよね。だから、もっと話してたいよ」

 

 言葉が出なかった。

 

 なんて眩しい人なんやろう。好きだと、大切だと、どうしてこんなにも真っ直ぐ口にできるんやろう。

 私にはできない。私は人を羨んで、嫉妬して、勝手に傷ついて、その醜い感情を隠して笑っている。

 

 この人みたいには、なれない。

 

「……では、失礼します」

 

 笑った。きっと、上手く笑えていた。そう思いたかった。

 

 玄関へ向かう。靴に足を入れた、そのときだった。

 

 ガチャリ。

 

 扉が、外から開いた。

 

「ただいま」

 

 ――その声を聞いた瞬間、世界が止まった。

 

 息ができない。

 

 ずっと、ずっと聞きたかった声。この一年、何度も思い出した。何度も夢に見た。忘れてしまうのが怖くて、頭の中で何度も再生した。その声が今、すぐ目の前から聞こえた。

 

「……お姉」

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 

 お姉が顔を覗かせ、そして、私を見る。

 

 一瞬、その表情が固まった。私も動けなかった。

 

 目が合う。確かに、合っている。

 

 本物のお姉だ。

 

 髪が少し伸びている。頬が、少し痩せた。目の下に薄く影がある。でも、間違えるはずがない。大好きだった。ずっと会いたかった。私のお姉。

 

 なのに――怖い。

 

 どうして。会いたかっただけなのに。さっきまで、あんなに会いたかったのに。胸いっぱいに膨らんでいた「会いたい」という気持ちが、目の前のお姉を見た瞬間、別の何かに変わっていく。

 怖い。逃げたい。でも、逃げたくない。ずっと会いたかった人だから。一秒でも長く、顔を見ていたい。声を聞いていたい。

 

 それなのに、体は私の意思を無視して強張っていく。指先が氷のように冷たくなる。膝が震える。喉が締め付けられる。呼吸が浅くなる。

 

 お姉の目が、怖かった。

 

 そこには、私が期待していたものが、何一つなかった。

 

「久しぶり」とか。「元気だった?」とか。「大きくなったね」とか。

 

 そんな言葉を、私は心のどこかで期待していた。もしかしたら、笑ってくれるかもしれない。抱きしめてくれるかもしれない。昔みたいに「彼方」と呼んで、頭を撫でてくれるかもしれない。

 そんな馬鹿みたいな期待を、私はどうしても捨てきれなかった。

 

 けれど、お姉の顔に浮かんだ驚きは、すぐに消えた。

 

 代わりに残ったのは、冷たさだった。

 

 そこにいてはいけないものを見るような目。

 

「あ……」

 

 声が震える。それでも、笑わなきゃ。朝、鏡の前で、何度も練習したんやから。

 

「お、お姉……」

 

 口角を上げる。頬が引きつる。

 

「……久しぶり。元気……やった?」

 

 返事はない。

 

 お姉はただ、私を見ている。

 

 沈黙。

 

 一秒。二秒。三秒。

 

 たった数秒が、永遠みたいに長かった。鏡の前で何度も考えた言葉。学校のこと。家のこと。最近のこと。聞きたかった一年間のこと。全部、全部、頭の中から零れ落ちていく。

 

 そして。

 

「……なんで、いるの?」

 

「……え?」

 

 聞き間違いだと思った。いや、そう思いたかった。

 

 私はお姉に会いに来た。ただ、それだけなのに。

 

「なんで、いるの?」

 

 もう一度。今度は、はっきりと。

 

 胸の奥で、何かがずきんと鳴った。

 

「あ……」

 

 笑わなきゃ。笑わなきゃ。そう思うのに、口が動かない。

 

「……お姉に、少しでも……会いたくて」

 

 どうにか言葉を絞り出す。それだけで、泣きそうになった。駄目。まだ泣いたら駄目。

 

「少しでも……会いたくて」

 

 それが、私の精一杯だった。

 

 会いたかった。この一年、ずっと。だから、せめて少しだけでも話したかった。笑いたかった。そして、謝りたかった。

 

 なのに。

 

「そうなら」

 

 お姉の声が、静かに落ちた。

 

「もう用事は済んだでしょ」

 

「……」

 

 何を言われたのか、分からなかった。いや、頭が理解することを拒んでいた。

 

 そして。

 

「帰って」

 

 一瞬、何も聞こえなくなった。

 

 周りの音が全部消えた。かぐやさんの声も、外を走る車の音も、蝉の鳴き声も、自分の呼吸さえも。

 

 ただ、その言葉だけが、頭の中に残った。

 

 ――帰って。

 

「……あ」

 

 声にならない。

 

 胸の奥に、何かが落ちた。重くて、冷たくて、真っ暗な、何かが。底のない井戸に石を落としたみたいに、いつまで経っても着地する音がしなかった。

 

「……なんで」

 

 気づけば、言葉が漏れていた。

 

 お姉は答えない。

 

「……なんで、そんなこと言うん? 私……」

 

 続かない。喉が詰まる。

 

 泣きたくない。ここで泣いたら駄目。せっかく会えたのに。一年ぶりに、やっと会えたのに。泣いたら、また迷惑をかける。困らせる。嫌われる。

 

 これ以上、嫌われたくない。

 

 だから、笑わなきゃ。いつもみたいに、大丈夫なふりをしなきゃ。

 

「……ごめんなさい」

 

 気づけば、謝っていた。何に対して謝っているのかも分からない。ただ、お姉の顔を見ていると、私がここにいること自体が間違いだったように思えてしまった。

 

「急に来て……ごめんなさい。迷惑……やったよね」

 

 違う。そんなこと、言いたいんじゃない。

 

 本当は会いたかった。ずっと会いたかった。謝りたかった。あの日のことを。もう一度、昔みたいに話したかった。

 そう言いたかったのに、口から出てくるのは、謝罪の言葉ばかりだった。

 

「ごめんなさい……」

 

 もう一度。

 

「ごめんなさい……」

 

 目の奥が熱くなる。視界が滲む。

 

 泣くな。泣いたら駄目。お願い。今だけは。

 

「……帰って」

 

 もう一度、その言葉が降ってきた。

 

 その瞬間、胸の中で、何かがぽきりと折れる音がした。

 

「あ……」

 

 足元から力が抜けそうになる。慌てて拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。痛い。けれど、その痛みだけが、私をどうにか立たせていた。

 

「……はい」

 

 やっと、それだけ言えた。

 

「……失礼します」

 

 頭を下げる。

 

 お姉の顔を、もう一度見ることはできなかった。見たら、きっと泣いてしまう。ううん、それだけやない。見てしまったら、さっきの目が、きっと一生、私の中から消えなくなる。

 

「ちょっと彩葉!」

 

 背中の向こうで、かぐやさんの声がした。

 

「彼方、可哀想じゃん! なんでそんな怒ってるの?」

 

 優しい人。本当に、優しい人。私を庇おうとしてくれている。それが分かるから、余計に苦しかった。

 

「……いいんです。かぐやさん……私、帰ります」

 

「でも……」

 

「ご迷惑、おかけしました」

 

 扉を開ける。外の熱気が、体にぶつかった。でも、暑いのか寒いのかさえ、もう分からなかった。

 階段を下りる。一段、二段、三段。足が震える。何度も踏み外しそうになる。それでも止まれなかった。止まったら、泣いてしまう。お姉の前で泣いてしまう。

 

 だから、逃げる。

 

 ただ、それだけだった。

 

 アパートを出る。振り返れない。

 

 振り返ったら、まだお姉がそこにいるかもしれない。「彼方」と呼んでくれるかもしれない。「待って」と、「ごめん」と、「そんなつもりじゃなかった」と、言ってくれるかもしれない。

 

 そんな馬鹿みたいな期待を、まだ私は持ってしまっている。

 

 だから、振り返らない。

 

 もし、振り返って、そこに誰もいなかったら。

 

 今度こそ、本当に壊れてしまいそうだった。

 

 どこをどう歩いたのか、覚えていない。

 

 気づけば、私は公園にいた。いつ来たのかも、どれくらい歩いたのかも分からない。ただ、足が動かなくなって、私は目の前のベンチに崩れるように座り込んだ。

 昼下がりの公園は、びっくりするほど静かだった。強い日差しが砂場を白く焼いている。遊んでいる子供の姿はなく、遠くでジージーと蝉だけが鳴いていた。

 

 ――そして、限界が来た。

 

「……っ」

 

 涙が溢れた。一度流れ始めると、もう止められなかった。手の甲で拭う。何度も、何度も。でも、次から次へと零れてくる。

 

「……なんで。なんでなん……」

 

 誰を責めているのか、自分でも分からなかった。お姉なのか。自分なのか。それとも、こうなってしまった過去そのものなのか。

 

「会いたかっただけやのに……」

 

 その言葉を口にした瞬間、堰が切れた。

 

「ただ……ただ、会いたかっただけやったのに……」

 

 一年間、ずっと会いたかった。嫌われているかもしれない。怒っているかもしれない。そんなこと、とっくに分かっていた。覚悟もしてきたつもりだった。それでも、一度だけ。一度だけでいいから、ちゃんと顔を見て、ごめんなさいと言いたかった。

 

 覚悟なんて、全然できていなかった。

 

 あの目を向けられる覚悟なんて、最初からどこにもなかった。

 

「お姉……」

 

 名前を呼ぶだけで、胸が裂けるように痛い。

 

「……会いたかったよ」

 

 誰もいない公園で、私は子供みたいに声を上げて泣いた。

 

「ずっと……会いたかった……」

 

 なのに、会えた。やっと会えたのに。

 

「……帰って、って……」

 

 あの言葉が、頭の中で何度も反響する。

 

 帰って。帰って。帰って。

 

 お姉の声で。お姉の口で。お姉の、あの冷たい目で。

 

 それは、私という存在そのものを拒絶する言葉に聞こえた。お姉の人生に、私はもう必要ない。いてほしくない。そう言われたのだと。

 

「……私なんか……おらんほうが……ええんかな……」

 

 口にした途端、背筋が凍った。

 

 自分の声のはずなのに、知らない誰かが喋ったみたいだった。

 

「……違う」

 

 私は首を振る。

 

「違う……。……違う、はずやのに」

 

 でも、胸のどこかで、その言葉がゆっくりと根を張り始めているのを感じていた。

 

 私なんか、おらんほうがええ。

 

 お姉は、私のいない場所で、ちゃんと笑って、ちゃんと生きている。私がいなくても大丈夫。むしろ、私がいない方が、お姉は楽なんかもしれない。

 

 その考えは、恐ろしいほど、静かに心に馴染んでいった。

 

 そのとき。

 

「あっ! いた!!」

 

 聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。

 

 顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こう。そこには。

 

「……かぐや、ちゃん……?」

 

 息を切らした彼女が立っていた。髪は乱れ、額には汗が光り、肩で大きく息をしている。きっと、走って、私を探してくれたのだ。

 

「はぁ……はぁ……もう……! 急に出てくから心配したよー!」

 

 その声を聞いた瞬間、また涙が溢れた。

 

「……ごめんなさい」

 

「だから謝らなくていいってば」

 

 そう言って、彼女は私の隣にしゃがみ込み、そっと私の手を握った。

 

 温かかった。

 

 さっきまで氷みたいに冷たかった指先に、彼女の体温がゆっくりと広がっていく。

 

「彼方」

 

「……はい」

 

「あのね」

 

 彼女はいつものように笑おうとして、でも上手く笑えなかったようで、少し困った顔になった。

 

「彩葉、彼方のこと嫌いなんかじゃないよ」

 

「……え?」

 

 顔を上げる。

 

「私、彩葉に嫌なことしたことあるし、喧嘩みたいになったこともある。でもね、あんな顔してる彩葉、私も初めて見た」

 

「……」

 

「だから……多分だけど、どうすればいいのか分からなかったんじゃないかな」

 

「……ほんまに?」

 

 自分でも驚くほど、弱々しい声だった。

 

「あ、いや……勘だけどね。でも、私には、嫌いだから追い返したようには見えなかった」

 

 彼女は、私の手を少し強く握った。

 

 その言葉を聞いて、また涙が溢れた。ただ、さっきまでの涙とは、少しだけ違っていた。

 

 信じたい。でも、信じるのが怖い。

 

 信じて、また裏切られたら。そう思うと、その言葉に縋りつくことさえできなかった。

 

「どうして……」

 

「ん?」

 

「どうして……そんなに優しいんですか……」

 

 かぐやさんは、きょとんとして、それから少し困ったように笑った。

 

「えー? 私、普通だよ?」

 

 普通。

 

 その一言が、今の私にはいちばん眩しくて、いちばん遠かった。

 

「わーー、泣かないでよー!」

 

「……ごめんなさい」

 

「だから謝らない!」

 

「……はい」

 

「ほら、また謝ろうとした!」

 

「……してません」

 

「今した!」

 

「……ふふ」

 

 ほんの少しだけ、笑えた。

 

 それでも彼女は手を離さなかった。私が完全に泣き止むまで、何も急かさず、隣にいてくれた。

 どれくらい時間が経っただろう。三十分くらいかもしれない。もっと短かったかもしれない。泣きすぎて、時間の感覚はすっかり曖昧になっていた。

 

 涙がようやく収まってきた頃、かぐやさんが立ち上がった。

 

「私、もう帰らなきゃ」

 

「……はい」

 

「彩葉も放置してきちゃったし」

 

 少し困ったように笑う。

 

 その言葉で、胸の奥が小さく軋んだ。お姉は、今、あの部屋で、かぐやさんの帰りを待っている。私のことなんて、もう頭の片隅にもなくて。

 

「……ごめんなさい」

 

「また謝った!」

 

「あ……」

 

「もう。次会ったときは、謝るの禁止ね」

 

「……難しいです」

 

「努力!」

 

「……はい」

 

 彼女は手を振る。

 

「じゃあ、またね、彼方」

 

「……はい」

 

 またね。

 

 その言葉が、胸の奥に残った。もう一度、会ってもいいんだ。そう言ってもらえた気がした。

 

 かぐやさんが歩き出す。数歩進んだところで。

 

「フー……あっちー!」

 

 大きな声が、夏空に響いた。

 

 私は思わず、少しだけ笑った。

 

「……ふふ」

 

 彼女は振り返らなかった。きっと、私が笑ったことにも気づいていない。そのまま、陽炎の中へ溶けるように遠ざかっていった。

 

 私は、その背中をずっと見送った。

 

 彼女は知らない。今日、彼女が私をどれだけ救ってくれたのか。あの人の手の温かさが、どれだけ私をこの世界に繋ぎ止めてくれたのか。

 

 そして、もう一つ。

 

 あの人が、お姉の隣にいる。

 

 その事実が、救いであると同時に、細い針のように、私の胸の一番柔らかいところを刺し続けていることも。

 

 彼女は、知らない。

 

 私は、少しだけ軽くなった体で、そして、ずっと重くなった心で、家へ戻った。

 

 玄関を開ける。

 

「……ただいま」

 

 自分でも分かるくらい、声に力がなかった。

 

 廊下の奥から、足音が走ってくる。

 

「彼方?」

 

 お兄が顔を出した。私は一瞬だけ、お兄を見る。きっと今の私は酷い顔をしている。目は腫れ、髪は乱れ、頬には涙の跡が乾いて残っている。朝、鏡の前で何度も笑顔を練習していた私とは、別人みたいだ。

 

 お兄の目が、揺れた。

 

 何があったのか、聞きたいはずだ。聞きたくてたまらないはずだ。それでも、お兄は口を開かなかった。

 

「……疲れたから、先、寝るね」

 

「え?」

 

「……ごめん」

 

 それだけ言って、私は自分の部屋へ逃げ込んだ。

 

 扉を閉める。背中を預けたまま、ずるずると床へ座り込んだ。

 

 お兄は、追いかけてこなかった。

 

 きっと分かっているんやと思う。何か聞いてはいけないことがあったこと。今、触れたら壊れてしまうものがあること。だから何も聞かない。それが、お兄の優しさだった。

 

 その優しさが、今は、ひどく痛かった。

 

 部屋は暗かった。電気をつける気力もない。カーテンの隙間から差し込む西日が、細い線になって床を横切っている。

 

 ベッドの端に座り、膝を抱えた。

 

 朝、この部屋で何度も鏡を見た。服を選んだ。笑う練習をした。あのときの私は、今日、お姉と話せると信じていた。笑えると思っていた。許してもらえるかもしれない、とさえ思っていた。

 

 なんて、おめでたかったんやろう。

 

「……っ」

 

 また、涙が溢れる。

 

 お姉とまともに話せなかった。謝れなかった。笑えなかった。逃げた。全部、全部、できなかった。

 壁際の姿見に、膝を抱えて小さく丸まった私が映っている。朝、あれほど真剣に見つめていた鏡。今は、見たくなかった。私は目を逸らす。

 

「……私が、もっと……ちゃんとできてたら……」

 

 どうして、もっと上手にできなかったんやろう。もし、もっと早く謝れていたら。もし、お姉が家を出る前に、何かできていたら。もし、あの日、あんな言葉を言わずに済んでいたら。もし、あの一年間をやり直せていたら。

 

 もし。もし。もし。

 

 絶対に叶わない言葉が、頭の中を埋め尽くす。

 

 その中で、一つだけ、今日良かったことを探した。無理やりに、探した。

 

 かぐやさんに出会えたこと。

 

 あの人は、お姉の隣にいる。お姉を理解している。私の知らないお姉をたくさん知っている。お姉を笑わせられる。お姉が、きっと、誰よりも信頼している。

 

 だったら、お姉にはかぐやさんがいる。

 

「……私なんて、必要ないよね」

 

 声が、震えた。

 

 そう思えば、少しは楽になれる気がした。

 

 お姉は一人で生きていける。隣にいてくれる人もいる。ちゃんと笑える場所がある。

 

 私がいなくても、お姉は大丈夫。

 

「……大丈夫」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 大丈夫。お姉は大丈夫。私がいなくても、大丈夫。

 

「大丈夫……。大丈夫……」

 

 何度も、何度も繰り返す。言葉にすれば、本当に大丈夫になる気がした。

 でも、その言葉を繰り返せば繰り返すほど、胸の奥にぽっかり空いた穴が、少しずつ広がっていく。穴の縁から、冷たい風が吹き込んでくる。

 

 その穴は、私だった。

 

 私の居場所だった場所だった。

 

 そこに、もう私の場所はない。お姉の隣には、他の誰かが座っている。

 

「……大丈夫や」

 

 お願い。そうであって。

 

 そうじゃないと、私は、これから何を支えに生きていけばいいのか分からない。

 

 コンコン。

 

 扉を叩く音がした。

 

 顔を上げなかった。返事をする気力もなかった。

 

「彼方」

 

 お兄の声。

 

「……入るで」

 

 扉が開き、廊下の薄明かりが、暗い部屋に細く差し込む。お兄が入ってくる。そして、私の顔を見た瞬間、その表情が歪んだ。泣きそうな顔だった。怒っているようにも見えた。

 

 でも、何も聞かなかった。何も言わなかった。

 

 ただ、私の隣へ座る。ベッドが少し沈んだ。

 

 その重みを感じた瞬間、もう耐えられなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

「……」

 

「お兄……ごめんなさい……」

 

「彼方」

 

「私……上手に……できんかった……」

 

 息が詰まる。涙がまた溢れる。

 

「お姉に……ちゃんと謝れんかった……」

 

 お兄は黙っていた。

 

「会いたかっただけやのに……」

 

 私は、お兄の服をぎゅっと握りしめた。子供みたいに。離れないように。

 

「……帰ってって、言われた……」

 

 その言葉を口にした瞬間、また涙が止まらなくなった。

 

「……怖かった」

 

 初めて、その言葉を声にした。

 

「お姉が……怖かった……」

 

 お兄の手が、私の頭にそっと触れる。大きな手。小さい頃から、何度も、こうしてくれた手。

 

「私のこと……いらんって……思ってるみたいで……」

 

「……」

 

「ごめんなさい……」

 

 何度も、何度も謝る。何に対して謝っているのか、自分でも分からない。でも、自分が悪いと思わなければ、この苦しさを、どこへ置けばいいのか分からなかった。

 お兄は何も言わなかった。ただ、ずっと私の頭を撫で続けてくれた。

 

 やがて、泣き疲れた私は、お兄の肩へもたれかかる。瞼が重い。体から力が抜けていく。

 

「……お兄」

 

「ん?」

 

「……ごめんね」

 

「……」

 

 それが最後だった。

 

 私は、そのまま眠りに落ちた。

 

 夢を見る。

 

 何も無い暗闇の世界

 

 その中で、一人の女の子が泣いている。

 

 長い金色の髪。白い肌。顔は霞んでいて、何度見てもはっきり見えない。

 

 なのに、どうしてだろう。

 

 私は、この子を知っている気がする。

 

「助けて……」

 

 少女の声が震えている。

 

「誰か……いないの……?」

 

 その声が、胸を引き裂くように痛かった。さっきまで私が口にしていた言葉と、あまりにもよく似ていたから。

 私は、彼女に向かって歩く。足元には何もないのに、私は確かに前へ進んでいる。

 

「いるよ」

 

 声をかける。少女は気づかない。

 

「ここにおるよ」

 

 もっと近づく。手を伸ばす。

 

 以前の私なら、ただ「助けてあげたい」と思っていた。でも、今日は違った。

 

 助けなければ。

 

 そう思った。

 

 理由は分からない。ただ、この子を一人にしてはいけない。助けなければならない。そうしなければ、取り返しのつかないことになる。

 そんな、強迫観念にも似た感情が、胸の奥底から突き上げてくる。

 

 私と同じだ、と思った。この子も、誰にも見つけてもらえないまま、ここで泣いている。

 

 だったら、私が見つけなきゃ。

 

 私にまだ、誰かのためにできることがあるのなら。

 

「待って。一人にせえへんから」

 

 少女が、こちらを向いた。

 

 顔は、やっぱり見えない。けれど、泣いているのが分かる。

 

「大丈夫」

 

 私は言う。

 

「私がおるから」

 

 少女の手が、こちらへ伸びる。

 

 あと少し。

 

 あと少しだけ。

 

 なのに、届かない。

 

 まるで二人のあいだに、見えない壁があるみたいだった。指先が触れそうな距離なのに、冷たく硬い何かが、頑なに私たちを隔てている。

 

「……なんで」

 

 もっと手を伸ばす。肩が軋む。指先が震える。

 

「待って。お願い……一人にならないで。私が……助けるから」

 

 そのとき、少女の唇が動いた。

 

 ――――。

 

 何かを言った。でも、聞こえない。

 

「……え?」

 

 聞き返す。

 

 少女は、もう一度、口を動かす。

 

 今度は、ほんの少しだけ、聞こえた気がした。

 

 ――して。

 

「……何?」

 

 ――回して。

 

「……え?」

 

 次の瞬間、世界が大きく揺れた。

 

 足元が崩れる。少女の姿が、ものすごい速さで遠ざかっていく。

 

「待って!」

 

 手を伸ばす。

 

「待って!」

 

 届かない。

 

 また、届かない。

 

 お姉の背中のように。あの冷たい目のように。私がどれだけ手を伸ばしても、決して触れられない場所へ、大切なものはみんな遠ざかっていく。

 

 それでも私は、手を伸ばし続けた。

 

 いつか届く、その日まで。

 

 ずっと。

 

 ずっと。

 

――side 酒寄朝日

 

 今日は、朝からずっと落ち着かなかった。

 

 小説を開いても、文字が頭に入ってこない。同じページを何度読み返したか分からない。結局、本を閉じた。スマホを見る。通知を確認する。何もない。画面を閉じる。数分後、また見る。

 

 何もない。

 

「……大丈夫かな」

 

 独り言が漏れる。

 

 彼方が彩葉のところへ向かって、もう半日近く経つ。上手くいっただろうか。ちゃんと話せただろうか。彩葉は、彼方の話を聞いてくれただろうか。彼方は、笑って帰ってきてくれるだろうか。

 

 朝の、あいつの顔を思い出す。何度も服を替えて、鏡の前で笑う練習までして、あんなに嬉しそうやった。けど、怖そうでもあった。ほんまは泣きそうなくらい、怖かったんやと思う。

 

 だから俺は、大丈夫やと言った。

 

 彩葉も、きっと分かってくれる。

 

 そう言って、送り出した。

 

「……頼むで」

 

 誰に向けたわけでもなく呟く。

 

 頼むから、上手くいってくれ。もうこれ以上、あの二人が傷つくところなんて見たくない。

 

 俺にできるのは、祈ることだけやった。

 

 あの二人が離れ離れになったとき、俺は、何もできなかった。彩葉が荷物をまとめて家を出ていくのを、玄関で、ただ見ていた。止める言葉を探している間に、扉は閉まった。彼方は階段の上から、その背中を見ていた。何も言わずに。何も言えずに。

 

 あの日から、この家の何かが、静かに壊れたままだった。

 

 そのとき。

 

 ガチャリ。

 

 玄関の扉が開く音。

 

「……!」

 

 反射的に立ち上がる。

 

「彼方?」

 

 玄関へ向かう。

 

 そして、姿を見た瞬間に分かった。

 

「……」

 

 朝とは、まるで別人だった。

 

 何かがあった。それも、取り返しのつかない何かが。

 

 表情が暗い。目元は涙の跡で赤く腫れている。髪が乱れ、足取りもどこか覚束ない。

 朝、あんなに嬉しそうに出ていった妹が、今は、今にも消えてしまいそうな顔をしていた。

 

「……彼方?」

 

 呼んでも、彼方は俺の顔をほとんど見なかった。

 

「疲れたから……先、寝るね」

 

「え?」

 

「……ごめん」

 

 それだけ言って、俺の横をすり抜ける。

 

「彼方」

 

 呼んでも、振り返らない。そのまま自分の部屋へ入り、扉が閉まった。

 

 俺は、何もできなかった。

 

 何があった。彩葉と何を話した。何を言われた。

 

 聞きたい。今すぐにでも、聞きたい。

 

 でも、聞けなかった。あの顔を見て、問い詰めることなんてできるはずがない。

 兄として、何かしなければ。そう思う。でも、何をすればいい。何を言えばいい。俺の言葉で、何ができる。

 

 答えは、出なかった。

 

 それでも、放っておくことだけはできなかった。

 

 俺は彼方の部屋へ向かう。扉の前に立ち、手を上げる。ノックしようとした、そのとき。

 

「……っ」

 

 中から、声が聞こえた。

 

 小さな泣き声。

 

 必死に押し殺そうとしている。それでも堪えきれずに漏れてくる、掠れた嗚咽。

 

「……」

 

 胸が、締め付けられた。

 

 彼方は昔からそうだった。痛くても、辛くても、自分から「助けて」とは言わない。泣いているところを見つかれば、慌てて「大丈夫」と笑う。

 

 だから、余計に怖かった。

 

 中へ入りたい。抱きしめてやりたい。大丈夫だと言ってやりたい。

 

 でも。

 

 俺の「大丈夫」に、今、どれだけの意味がある。

 

 朝、俺は言った。

 

 大丈夫。彩葉も、きっと分かってくれる。

 

 その言葉を信じて、あいつは行った。その結果が、これや。

 

「……何が大丈夫やねん」

 

 自分の言葉が、喉の奥で腐っていくようだった。

 

 俺は何も知らない。彼方が何を言われたのか。彩葉が何を考えているのか。あの二人の間に、何があるのか。

 

 全部分かっているつもりで、何一つ、分かっていなかった。

 

 だから、何を言えばいいのか分からない。

 

 中に入れない。でも、ここから離れることもできない。

 

 扉の向こうに彼方がいる。一人で泣いている。そのまま一人にしたら、本当に、消えてしまいそうな気がした。

 だから俺は、ただ扉の前にいた。何もできないまま、ずっと。

 

 廊下に差す西日が、少しずつ橙から赤へ、赤から闇へ変わっていく。その間、俺は壁に背をつけて、ただ耳を澄ませていた。

 

 どれくらい時間が経っただろう。

 

 やがて、中から聞こえていた泣き声が、少しずつ小さくなった。

 

 俺は拳を握り、コンコンと扉を叩く。

 

「彼方」

 

 返事はない。

 

「……入るで」

 

 扉を開ける。

 

 部屋は暗かった。ベッドの端に、彼方が座っている。膝を抱え、小さく体を丸めて。

 

 その姿が、あまりにも小さかった。

 

 小さい頃から、この妹はこんなにも小さかっただろうか。

 

「……」

 

 言葉が出なかった。

 

 何を言えばいい。気の利いた言葉も、笑顔にさせる慰めも、何一つ思いつかない。

 

 結局、俺にできたのは、隣へ座ることだけやった。

 

 ベッドが、ゆっくりと沈む。

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。でも、それでいいと思った。無理に喋らなくていい。言いたくないなら、言わなくていい。

 

 ただ、ここにいる。

 

 それだけは、伝えたかった。

 

 そして。

 

「……ごめんなさい」

 

 彼方が、呟いた。

 

「……」

 

「お兄……ごめんなさい」

 

「彼方」

 

「私……上手に……できんかった……」

 

 俺は唇を噛む。

 

「お姉に……ちゃんと謝れんかった」

 

「……」

 

「会いたかっただけやのに……」

 

 その言葉が、胸に突き刺さった。

 

 ――会いたかっただけ。

 

 それだけ。

 

 たった、それだけやった。

 

 朝、あんなに嬉しそうに服を選んで、鏡の前で何度も笑う練習をして。彩葉に会いたい。ただそれだけで、あいつは真夏の道を歩いて行ったんや。

 

「……帰ってって言われた」

 

「……」

 

 一瞬、頭が真っ白になった。

 

 帰って。

 

 彩葉が、彼方に、そう言った。

 

 腹の底から、どす黒いものがせり上がる。熱いのに冷たい。今まで感じたことのない種類の怒りだった。

 

 なんでや。

 

 なんで、そんなことが言える。

 

 彼方が、どんな気持ちで今日会いに行ったと思ってる。この一年、ずっと、ずっと、彩葉のことを気にしてた。毎晩、部屋の灯りが消えたあとも、あいつが眠れずにいたことを、俺は知っている。

 

 それを、お前は――。

 

「……怖かった」

 

 彼方の声で、我に返った。

 

「お姉が……怖かった……」

 

 俺は、彼方の頭へ手を置いた。

 

 怒るな。

 

 今は、彩葉への怒りなんてどうでもいい。

 

 彼方が、ここにいる。今は、それだけでいい。

 

「私のこと……いらんって……思ってるみたいで……」

 

「……」

 

 違う。

 

 そう言いたかった。

 

 お前をいらないなんて、誰も思うはずがない。少なくとも、俺は絶対に思わない。

 

 でも、言えなかった。

 

 今の彼方に、俺が「違う」と言ったところで、それは彩葉の言葉やない。彩葉の口から出た「帰って」を、俺の言葉では塗り替えられない。

 

 だから、何も言えなかった。

 

 ただ、頭を撫で続けた。

 

「ごめんなさい……」

 

 何度も、何度も、謝る。

 

 そのたびに、胸が引き裂かれた。

 

 謝るな。

 

 お前が謝ることなんて、何もない。

 

 でも、それすら言えなかった。

 

 今日ほど、自分をぶん殴ってやりたいと思った日はない。

 

 兄なのに。

 

 妹が、こんなに苦しんでいる。目の前で、壊れてしまいそうになっている。

 

 なのに俺は、何もできない。

 

 何一つ、してやれない。

 

 やがて、彼方の体から力が抜けて、俺の肩へもたれかかる。

 

「彼方?」

 

 返事はない。

 

 小さな寝息。

 

 泣き疲れて、眠ってしまったらしい。

 

 俺はしばらく、その寝顔を見ていた。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。眠っているのに、眉間に力が入っていた。夢の中でも、まだ何かに耐えているみたいに。

 

 朝は、あんなに嬉しそうだったのに。

 

「……」

 

 起こさないよう、ゆっくりと体を支えて、ベッドへ寝かせる。布団を掛け、髪を一度だけ撫でた。

 

「……おやすみ」

 

 返事はない。当然や。眠っているのだから。

 

 立ち上がり、部屋を出る。扉を、音を立てないように閉めた。

 

 廊下に、一人になる。

 

 そこで、ようやく、堪えていたものが溢れた。

 

「……なんで」

 

 拳を握る。爪が掌に食い込む。

 

「なんで、こんなんなるねん……」

 

 悔しい。情けない。腹が立つ。彩葉に。自分に。全部に。

 

 俺は兄なのに。

 

 彩葉の兄で、彼方の兄で。二人のことを、ずっと見てきたはずなのに。

 

 何一つ、守れていない。

 

 彼方が一人で苦しんでいたとき、気づくのが遅かった。彩葉が家を出ていくとき、止められなかった。そして今日も、「大丈夫」なんて無責任な言葉で、彼方を送り出した。

 

「……何が大丈夫や」

 

 自分に吐き捨てる。

 

 大丈夫じゃなかった。

 

 全然、大丈夫なんかじゃなかった。

 

「……俺が、もっと何かできていたら」

 

 彩葉が家を出ると聞いたとき、もっと話を聞いていたら。彼方の気持ちに、もっと早く気づいていたら。二人の間に、こんなにも深い溝ができてしまう前に。

 

 何かできていたんやないか。

 

 考えても、答えなんて出ない。過去は変わらない。それでも、考えずにはいられなかった。

 

「……くそ」

 

 壁へ拳を打ち付けそうになる。けれど、やめた。音で、彼方が起きるかもしれない。

 

 結局、それすらできなかった。

 

「……兄ちゃんやのにな」

 

 呟く。

 

 誰も答えない。

 

 静まり返った廊下。閉じられた彼方の部屋の扉。その向こうから、微かな寝息が聞こえてくる。

 

 守りたい。

 

 そう思っていた。ずっと。

 

 二人とも、大切な妹やから。

 

 でも、守りたいと思うだけでは、何も守れない。

 

 それを今日、嫌というほど思い知らされた。

 

「……彼方」

 

 眠っている妹には、聞こえない。

 

「ごめんな」

 

 謝る資格なんて、俺にもないのかもしれない。

 

 それでも、口から零れた。

 

「……ごめんな」

 

 日はとうに沈み、廊下の窓の外は、墨を流したような闇になっていた。

 

 誰もいない家の中で、俺はただ、そこに立っていた。

 

 何もできなかった兄としての無力感だけを、胸に抱えたまま。

 

 いつまでも、立ち尽くしていた。

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