朝は、夜が明けるよりずっと前に始まっていた。
目を覚ましたとき、カーテンの向こうはまだ青黒く、蝉も鳴いていなかった。枕元の時計を見る。四時四十分。もう一度眠ろうとして目を閉じたけれど、瞼の裏に浮かぶのは、ただ一つの顔だけだった。
――今日、お姉に会う。
それを思い出した途端、心臓が体の内側から胸骨を叩き始めた。眠れるはずがない。私は布団を抜け出し、暗い部屋の中を意味もなく歩き回った。足の裏に触れる床がひんやりと冷たい。窓の外で、新聞配達のバイクの音が遠くを横切っていく。
空が白み始める頃には、クローゼットの前に立っていた。
白いブラウスを体に当てる。鏡を見る。……少し、大人っぽすぎる。背伸びしているのが、すぐ見抜かれてしまいそうだった。薄い色のワンピースに替える。今度は、子供っぽい。まるで、一年前から何も変わっていない子供みたいに見える。
「……ちゃうな」
スカートを替える。髪を結ぶ。ほどく。もう一度結ぶ。鏡の中の私は、そのたびに少しずつ違う顔をして、どれも「正解」ではなかった。
何を着ていけば、お姉は私を見てくれるんやろう。
そんなことを考えている自分に気づいて、手が止まった。服の問題じゃない。分かっている。分かっているのに、服ぐらいしか、私が選べるものがなかった。
「……忙しないなぁ」
さっき、お兄にも廊下ですれ違いざまに言われた。笑いながらだったけれど、目の奥には少し心配が混じっていた。自分でも分かっている。今日の私は、どう見ても私らしくない。
でも、仕方ないやろ。
だって――今日は、一年ぶりにお姉に会えるのだから。
一年。
たった一年なのか、もう一年なのか。私には、そのどちらにも思えた。時計の針はちゃんと同じ速さで進んでいたはずなのに、お姉のいないこの家の時間だけは、泥の中を歩くみたいに重かった。
その間、何度お姉のことを考えただろう。
今、何してるんやろ。ちゃんとご飯食べてるんやろか。また夜更かしばっかりして、朝起きられへんのとちゃうかな。風邪、引いてへんかな。
それから――私のことを、少しでも思い出すことはあるんやろか。
そこまで考えると、決まって胸の奥に針を刺されたような痛みが走った。だから、考えないようにした時期もある。でも、無理だった。街でお姉の好きだった曲が流れれば足が止まる。スーパーで、お姉がよく買っていたお菓子を見つければ、手に取ったまま動けなくなる。家の中に残された写真の中で、お姉は何も知らない顔で笑っている。その笑顔の隣には、同じように笑っている私がいる。
あの頃の私たちは、どうしてあんなふうに笑っていられたんやろう。
忘れられるはずがなかった。忘れたくもなかった。お姉は、私のお姉やから。
――そして、忘れられないものがもう一つある。
あの日、私が口にしてしまった言葉。
思い出すたびに喉の奥が焼けるように痛くなるから、いつも途中で考えるのをやめてしまう。それでも、あの言葉は消えてくれなかった。一年のあいだ、私の中で少しも色褪せずに、ずっとそこに居座り続けていた。
だから、謝りたかった。
会いたい、という気持ちの底には、いつもその願いが沈んでいる。会って、顔を見て、ちゃんと「ごめんなさい」と言いたい。それが許されなくてもいい。ただ、言わせてほしい。
今日は、そのための日だった。
鏡の前に立つ。
今日着るのは、お兄が買ってくれたばかりの服だ。普段の私なら恥ずかしくて選ばない、ほんの少しだけ背伸びをした服。裾が揺れるたびに、自分が自分じゃないみたいな気持ちになる。
「……似合ってるやろか」
鏡の中の私に聞いても、答えは返ってこない。
私は肩の力を抜いて、口角を上げてみる。
「……にこっ」
ぎこちない。頬の筋肉が言うことをきかなくて、笑顔というより、何かを我慢している顔に見えた。
「……変やな」
もう一度、力を抜く。
「……にこっ」
さっきよりはましや。でも――。
「……お姉の前やったら、ちゃんと笑えるかな」
口にした瞬間、背中に冷たいものが走った。
会った瞬間に声が出なかったら。何を話せばいいのか全部飛んでしまったら。あの日のことを思い出して、顔が歪んでしまったら。そして、泣いてしまったら。
泣いたら、お姉はきっと困る。昔から、私が泣くと、お姉はどうしていいか分からない顔をして、それでも黙って頭を撫でてくれた。あの手が、もう一度私に触れてくれる日は来るんやろか。
会いたい。でも、怖い。
この一年、その二つが胸の中でずっと取っ組み合いをしていた。会いたいと思うたびに怖くなって、怖いと思うたびに、それでも会いたいと思ってしまう。どちらも負けないまま、私はそのあいだで擦り切れていった。
それでも、わずかに「会いたい」の方が強かった。だから今日、私は鏡の前に立っている。
話したいことなら、いくらでもある。学校のこと。家のこと。最近遊んでいるゲームのこと。お兄が相変わらず過保護なこと。
でも、それ以上に聞きたいことがあった。
この一年間、お姉は何をしていたんやろう。どんな部屋で、どんな顔で朝を迎えていたんやろう。何を食べて、誰と話して、何に笑って、何に怒って、何に泣いたんやろう。
私の知らない一年間。
お母さんから、お姉は自分で学費も生活費も稼いでいると聞いた。きっと、大変だったに違いない。誰にも頼らず、誰にも弱音を吐かず、一人で全部抱え込んで。お姉はそういう人だから。
「頑張ったね」と言ってあげたい。「偉かったね」と、昔お姉が私にしてくれたみたいに、頭を撫でてあげたい。
……いや、今やったら怒られるかな。
そう想像したら、少しだけ笑えた。その笑いは、さっきの作り笑いよりずっと自然だった気がした。
時計の針が十時前を指している。
「……そろそろ行こ」
最後にもう一度、鏡の中の私に笑いかける。
「大丈夫」
声に出して言う。今度は、ほんの少しだけ、本物に近い笑顔だった。
リビングへ降りると、お兄がソファで小説を読んでいた。ページをめくる音がやけに大きく聞こえる。たぶん、お兄もあまり眠れていないのだと思う。目の下に、薄く影があった。
「お兄、お姉のところ行ってくるね」
お兄が顔を上げる。私を見て、一瞬だけ目を丸くした。
「おお」
「……?」
本を閉じて、上から下まで私を眺める。何かおかしいところでもあるんやろか。不安になって自分の服を見下ろす。
「えらい可愛くなったなぁ」
「……ほんま?」
思わず聞き返していた。
「ほんまほんま。いつも可愛ええけど、今日はもっと可愛ええよ」
本気なのか冗談なのか分からない顔で、お兄は満足そうに頷く。
「これなら彩葉もイチコロや」
「もう、お兄!」
顔が一気に熱くなる。
「何言うてんの」
「いやいや、兄としての正直な感想や」
「……知らん」
目を逸らす。お兄は楽しそうに笑っていた。でも、分かっている。この人は、朝から私が何度も服を替えていたことも、鏡の前で笑顔の練習をしていたことも、全部気づいている。気づいていて、あえて何も言わないでくれている。冗談を言ってくれるのは、私が少しでも「いつもの私」でいられるように。
お兄は、そういう人だ。
「彼方」
声の調子が、ふっと変わった。からかうような響きが消えて、静かで、優しい声になる。
「頑張り」
「……うん」
「彩葉も、きっと分かってくれる」
その言葉は、胸の真ん中にそっと置かれたみたいに温かかった。同時に、ほんの少しだけ、怖くもなった。お兄がそう言ってくれるたびに、期待してしまう自分がいたから。
期待は、裏切られたとき、一番深く刺さる。
「……うん」
「大丈夫や」
「……うん」
大丈夫。胸の中でもう一度繰り返す。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉を閉める直前、お兄が小さく手を振ったのが見えた。いつまでも玄関の向こうから見送られているような気がして、私は一度も振り返らずに歩き出した。
外へ出た瞬間、熱気が全身にまとわりついた。
「暑……」
茹だるような暑さだった。太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが光を跳ね返している。足元からも熱が立ち上ってきて、数歩歩いただけで額に汗が滲んだ。蝉の声が耳の奥まで入り込んで、頭の中がじりじりと焼かれていくような気がする。
いつもなら、こんな日に外を歩くなんて絶対に嫌だ。なのに今日は、不思議と気にならなかった。体が軽い。胸の奥の期待が、暑さも、疲れも、何もかもを遠くへ押しやってしまっている。
「早く会いたいな……」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
でも、その直後。
――もし、お姉が私を見て、嫌そうな顔をしたら。
浮かんだ想像に、足が止まりかけた。
――もし、迷惑そうな顔をされたら。もし、私のことを、もう必要ないと思っていたら。
「……」
私は首を振る。
「……大丈夫や」
お兄も言ってくれた。大丈夫。きっと、大丈夫。
お母さんに教えてもらった住所を頼りに、歩く。歩いて二十分ほど。普段なら何とも思わない距離なのに、今日はその二十分がやけに長かった。
信号に引っかかるたびに焦る。早く着きたい。でも、青になって歩き出すと、今度は怖くなる。着いてしまう。お姉がいる。会えてしまう。
早く着きたい。でも、着いてほしくない。
自分でも呆れるくらい、心がころころと入れ替わる。それでも、足だけは止まらなかった。
そして。
「……ここ?」
目の前に、一軒のアパートが現れた。
年季が入っている。壁のあちこちが色褪せて、外階段には赤茶色の錆が浮いていた。決して立派とは言えない。言葉を選ばなければ、ボロアパートと呼んでもいいくらいだった。
私はしばらく、その建物を見上げていた。
お姉は、お父さんがいなくなる前、家のグランドピアノの前でよく笑っていた。あの家とこのアパートは、あまりにも遠かった。
「お姉……ここに住んでるんや……」
声に出した途端、胸の奥がきゅっとなった。
ここで眠って、ここで朝を迎えて、ここから学校やバイトへ行って、ここへ帰ってくる。私の知らない一年間の一部が、確かに目の前にある。
それだけで、私には十分すぎるほどだった。
同時に、ほんの少しだけ、苦しかった。
こんな場所で、お姉は一人で戦っていたんや。
錆びた階段を上る。カン、カン、と足音が響く。一段上るごとに、心臓が少しずつ速くなる。二階。教えてもらった部屋番号を確かめる。間違いない。ここだ。
扉の前に立つ。
ドクン、ドクン。
さっき歩いていたときよりずっと速い。手のひらは汗で濡れているのに、指先だけがやけに冷たかった。
インターホンはない。自分の手で叩くしかない。
右手を、ゆっくりと持ち上げる。震えていた。
「……大丈夫。大丈夫や」
会うだけ。ちゃんと笑って、「久しぶり」って言って、「元気やった?」って聞いて、それから、それから――。
「……よし」
小さく息を吸う。
コン。コン。
たった二回のノック。それだけなのに、自分の人生を左右する扉を叩いているような気がした。
静寂。
一秒。二秒。三秒。
中で物音がした。何かを動かす音。足音。近づいてくる。
来る。お姉が来る。
心臓が喉までせり上がる。
ガチャ、と扉が開いた。
「うわぁー、可愛い子だ。どうしたの?」
「……え」
そこにいたのは、黒いTシャツを着た女の子だった。お姉じゃない。
予想していなかった光景に、頭が真っ白になる。そして、その顔に見覚えがあった。配信で何度も見た、お姉と一緒に活動している人。
「……かぐやさん?」
「ん?」
そのとき、彼女の肩越しに部屋の中が見えた。
服。空き箱。飲み物の容器。ゲーム機の周辺機器。本。何に使うのか分からない小道具。床という床に散らばった、ありとあらゆるもの。
「…………」
思考が止まった。
私の知っているお姉の部屋は、もっと綺麗だった。楽譜があって、本が並んでいて、物は多かったけれど、ちゃんと居場所を持っていた。お姉自身が、きちんと整えていた。
それが、これ。
あの綺麗好きだったお姉が、こんな部屋で。
「えーっと……?」
かぐやさんが私の顔を覗き込む。
「おーい? 大丈夫?」
「…………」
「ねぇってば!」
「はっ!」
ようやく我に返った。
「す、すみません……! ぼーっとしてました」
「大丈夫?」
「はい」
一度深呼吸して、本来の目的を思い出す。
「私は……お姉に……」
言葉が詰まった。いつもの関西弁が喉の奥へ引っ込む。初対面の人。お姉の友達。失礼があってはいけない。そう思った途端、口から出たのは、他所行きの標準語だった。
「酒寄彩葉さんに会いに来ました。今はいないのでしょうか?」
「え?」
かぐやさんが目を丸くする。数秒、私をじっと見て、それから。
「……妹!?」
「……はい」
「彩葉、妹なんていたんだ! 可愛いー!」
「え?」
予想外の反応に、今度は私が固まった。
この人は、知らなかったんや。
お姉は、一緒に暮らしている人に、私のことを一度も話していなかった。
その事実が、胸の奥にじわりと染みた。小さな染みだったけれど、確実にそこにあった。
「彩葉に会いに来たんだよね?」
「は、はい」
「彩葉なら今、バイトに行ってるよ。今日は午前中だけって言ってたから、もうちょっとで帰ってくると思う」
「そうなんですね」
少し残念だった。でも、すぐ戻ってくるのなら――そう思いかけたところで。
「それまで私とお話しよ!」
「え?」
返事をする間もなく手を取られた。
「ちょ、あの……」
「ほらほら!」
そのまま部屋の中へ引っ張り込まれる。なんて自由な人なんや、この人は。
「適当に座って座って!」
「えっと……」
どこに、とは言えなかった。床に物が多すぎる。私が戸惑っているのに気づいたのか、彼女は「あっ」と声を上げ、慌てて足元の物を端へ寄せ始めた。
「なんのおもてなしもできない、映えない部屋ではございますが!」
両手を大きく広げる。
「このかぐや、絶対に退屈はさせないから!」
「……ふふ」
思わず、笑ってしまった。
変な人。でも、不思議と嫌じゃなかった。
私は空いた場所に、ちょこんと正座した。
「あの……突然来てしまって、ごめんなさい」
「全然いいよー」
「自己紹介もまだでしたよね」
背筋を伸ばす。
「私は酒寄彼方と言います。姉がお世話になっています」
すると、かぐやさんは少しだけ目を細めた。
「彼方」
「はい」
名前を確かめるように、もう一度。
「彼方。いい名前」
たったそれだけなのに、胸の奥がふわりと温かくなった。
「私はかぐや。よろしくね、彼方」
差し出された手を、私はぼんやりと見つめる。何をすればいいのか分からなくて、一瞬、固まってしまった。
「……?」
「握手だよー」
「あ……」
慌てて手を出すと、かぐやさんは私の手を両手で包み込んだ。
「よろしく!」
ぶんぶんと、思った以上の勢いで腕を振られる。
「わ、わ……」
「よろしくよろしく!」
「……ふふっ」
不思議な握手だった。ただ手を握っているだけなのに、言葉にならないものが流れ込んでくる。
――あなたに会えて嬉しい。
そんな気持ちが、掌を通してまっすぐ伝わってきた。
こんなふうに、最初から全部を差し出せる人がいるんや。
「えっと……かぐやさんですよね」
「うん」
「お姉と一緒に配信しているの、知っています。配信も拝見させていただきました。とても綺麗な人だと思っていました。それに、新規のファンの方もすごい勢いで増えているって……」
「えへへ」
照れたように頬を掻き、それからすぐに胸を張る。
「ま、私、天才美少女ですから」
「……」
私は、まじまじと彼女を見た。
……確かに。
そう思ってしまった。普通の人が言えば嫌味に聞こえる言葉も、この人が言うと、不思議と嫌味にならない。むしろ、妙に納得してしまう。
顔が綺麗だから、だけじゃない。声、仕草、表情、距離の詰め方。何より、この人の周りだけ空気が少し明るく見える。人を惹きつける力。初対面の私ですら、ほんの数分で笑わされている。
きっと、努力だけでは身につかないものなんやと思う。
――勝てへんな。
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。
何に勝つつもりやったのか。そのときの私は、まだ知らなかった。
「ねぇねぇ!」
「はい?」
「昔の彩葉のこと教えて! 私、ちょー気になる!」
かぐやさんが勢いよく身を乗り出す。
「昔のお姉……ですか?」
「そう! どんな子だったの?」
私は少し考えた。昔のお姉。そう聞かれると、いろんな姿が浮かんでくる。
ピアノを弾いているお姉。私の髪を結んでくれたお姉。宿題を教えてくれたお姉。私が転んだとき、誰よりも先に駆け寄ってくれたお姉。それから、私の隣で笑っていたお姉。
自然と、頬が緩んだ。
「分かりました」
「やった!」
「その代わり……今のお姉のこと、教えてくれませんか?」
「もちろん!」
即答だった。
それから私たちは、出会ったばかりだというのに、一人の人間について語り始めた。私の、大好きだった人について。
「お姉は、優しい人です」
「それ、分かる。本人は絶対認めないと思うけど」
「……ふふ。そうですね」
音楽の話をすれば、「彩葉、本当に凄いよね。作曲できるんだもん」と、まるで自分のことのように胸を張る。
「昔から、音楽が好きだったんです。小さい頃からずっとピアノを弾いていて。お父さんがいる頃は、よく家で聴かせてくれてました」
「いいなぁ。小さい彩葉の演奏、聞きたかった!」
なんでもできる人だと言えば「確かに」と頷き、頑張り屋さんだと言えば「ちょっと心配になるくらいにね」と苦笑する。
「無茶するんですか?」
「するする。というか、自分では無茶してるって思ってないタイプ」
「あぁ……」
「分かる?」
「……すごく」
二人で笑った。
不思議だった。私の知っているお姉と、かぐやさんの知っているお姉。同じ人なのに、少しずつ違う。私の知らないお姉が、次から次へと出てくる。
それが嬉しかった。嬉しいはずだった。
「あとね、彩葉の作るパンケーキ、クソまずいよ」
「……え?」
「水と粉って感じの味がする」
「……水と、粉?」
「そう。パンケーキ食べてるのに『あ、原材料ってこうなんだな』って実感できる味」
「……お姉、料理上手やったのに」
「うそ!?」
「本当です」
「じゃあ、料理だけ退化したんだ……」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、堪えきれなかった。
「ふふっ……」
「いやほんとに笑い事じゃないよ! あれ食べた私すごいからね!」
「そんなにですか?」
「食べ物を粗末にしちゃ駄目っていう倫理観だけで完食した」
「ふふふっ……」
久しぶりに、お姉のことで笑った気がした。
にわかには信じられないがお姉の料理が下手になった。
それは、お姉の隣で料理を教えてくれる人が、もういないからなのかもしれない。そう思ってしまった自分に、一瞬、胸が冷えた。
「あとね、前にヤチヨのライブで号泣してた」
「えっ……お姉が?」
「うん。もう、ぼろっぼろ」
「……想像できないです」
「でしょ?」
泣いているお姉。誰かの音楽に心を動かされて、人目も気にせず泣いているお姉。
私は、そんなお姉を知らない。
昔なら、きっと知っていたはずなのに。
「それとね――」
かぐやさんは楽しそうに話し続ける。私は、その一つ一つを、宝物を受け取るような気持ちで聞いていた。
知らなかった。こんなお姉がいたんや。もっと知りたい。この一年を。私がいなかった一年を。少しでも埋めたい。
そう、思っていた。
でも。
「一緒に寝てくれる」
「……え?」
思わず聞き返した。
「ん?」
「……一緒に?」
「うん」
頭の中で、言葉の意味をゆっくり並べ直す。そして、恐る恐る聞いた。
「ここに……住んでるんですか?」
「うん」
「……そうなんや」
関西弁が漏れた。
お姉が、この人と、ここで暮らしている。
朝、同じ部屋で目を覚まして。夜、同じ布団で眠って。一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、喧嘩して、仲直りして。
私の知らない場所で、私の知らない時間を、お姉はこの人と積み重ねている。
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
羨ましい。
その感情は、あまりにも自然に、音もなく浮かび上がってきた。
「……っ」
慌てて押し殺す。そんなこと思ったらあかん。かぐやさんは何も悪くない。初対面の私に、こんなに優しくしてくれている。お姉の話をたくさん聞かせてくれた。
なのに、私は嫉妬している。
私の知らないお姉を知っている、この人に。私がいなかった一年間、お姉の隣にいた、この人に。
胸の中に、黒いものが広がっていく。じわじわと、油のように。
私が一番に駆け寄るはずやったのに。
私が、お姉の一番近くにいるはずやったのに。
それは、あの日、自分の手でその場所を壊した人間が思っていいことではなかった。
嫌だ。こんな自分、嫌い。
「……最低や」
「ん?」
「……なんでもないです」
私は笑った。笑えているだろうか。分からない。たぶん、貼りつけただけの笑顔だった。
「お姉はまだ帰って来ないようですし……今日は、お暇しますね」
立ち上がる。逃げたかった。かぐやさんからでも、この部屋からでもない。こんな醜い感情を抱いてしまった、自分自身から。
「えーーー! もっとお話しようよー」
かぐやさんが露骨に残念そうな顔をする。
「ごめんなさい。もうお昼ですし、また今度伺います」
「また来てくれるの?」
「……はい」
「ヤッター!」
両手を上げて、本当に嬉しそうに笑う。私は戸惑った。どうして、そんなに喜ぶんやろう。今日初めて会っただけなのに。「また来る」と言っただけなのに。
私が不思議そうにしているのを見て、彼女はふっと笑った。
「私、彩葉のこと大好き」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
「彼方も大好きでしょ?」
「……ッ」
心臓が跳ねた。
「彩葉の話すると、顔色変わるんだもん」
楽しそうに笑う。
「大好きな人のこと話すの、楽しいよね。だから、もっと話してたいよ」
言葉が出なかった。
なんて眩しい人なんやろう。好きだと、大切だと、どうしてこんなにも真っ直ぐ口にできるんやろう。
私にはできない。私は人を羨んで、嫉妬して、勝手に傷ついて、その醜い感情を隠して笑っている。
この人みたいには、なれない。
「……では、失礼します」
笑った。きっと、上手く笑えていた。そう思いたかった。
玄関へ向かう。靴に足を入れた、そのときだった。
ガチャリ。
扉が、外から開いた。
「ただいま」
――その声を聞いた瞬間、世界が止まった。
息ができない。
ずっと、ずっと聞きたかった声。この一年、何度も思い出した。何度も夢に見た。忘れてしまうのが怖くて、頭の中で何度も再生した。その声が今、すぐ目の前から聞こえた。
「……お姉」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
お姉が顔を覗かせ、そして、私を見る。
一瞬、その表情が固まった。私も動けなかった。
目が合う。確かに、合っている。
本物のお姉だ。
髪が少し伸びている。頬が、少し痩せた。目の下に薄く影がある。でも、間違えるはずがない。大好きだった。ずっと会いたかった。私のお姉。
なのに――怖い。
どうして。会いたかっただけなのに。さっきまで、あんなに会いたかったのに。胸いっぱいに膨らんでいた「会いたい」という気持ちが、目の前のお姉を見た瞬間、別の何かに変わっていく。
怖い。逃げたい。でも、逃げたくない。ずっと会いたかった人だから。一秒でも長く、顔を見ていたい。声を聞いていたい。
それなのに、体は私の意思を無視して強張っていく。指先が氷のように冷たくなる。膝が震える。喉が締め付けられる。呼吸が浅くなる。
お姉の目が、怖かった。
そこには、私が期待していたものが、何一つなかった。
「久しぶり」とか。「元気だった?」とか。「大きくなったね」とか。
そんな言葉を、私は心のどこかで期待していた。もしかしたら、笑ってくれるかもしれない。抱きしめてくれるかもしれない。昔みたいに「彼方」と呼んで、頭を撫でてくれるかもしれない。
そんな馬鹿みたいな期待を、私はどうしても捨てきれなかった。
けれど、お姉の顔に浮かんだ驚きは、すぐに消えた。
代わりに残ったのは、冷たさだった。
そこにいてはいけないものを見るような目。
「あ……」
声が震える。それでも、笑わなきゃ。朝、鏡の前で、何度も練習したんやから。
「お、お姉……」
口角を上げる。頬が引きつる。
「……久しぶり。元気……やった?」
返事はない。
お姉はただ、私を見ている。
沈黙。
一秒。二秒。三秒。
たった数秒が、永遠みたいに長かった。鏡の前で何度も考えた言葉。学校のこと。家のこと。最近のこと。聞きたかった一年間のこと。全部、全部、頭の中から零れ落ちていく。
そして。
「……なんで、いるの?」
「……え?」
聞き間違いだと思った。いや、そう思いたかった。
私はお姉に会いに来た。ただ、それだけなのに。
「なんで、いるの?」
もう一度。今度は、はっきりと。
胸の奥で、何かがずきんと鳴った。
「あ……」
笑わなきゃ。笑わなきゃ。そう思うのに、口が動かない。
「……お姉に、少しでも……会いたくて」
どうにか言葉を絞り出す。それだけで、泣きそうになった。駄目。まだ泣いたら駄目。
「少しでも……会いたくて」
それが、私の精一杯だった。
会いたかった。この一年、ずっと。だから、せめて少しだけでも話したかった。笑いたかった。そして、謝りたかった。
なのに。
「そうなら」
お姉の声が、静かに落ちた。
「もう用事は済んだでしょ」
「……」
何を言われたのか、分からなかった。いや、頭が理解することを拒んでいた。
そして。
「帰って」
一瞬、何も聞こえなくなった。
周りの音が全部消えた。かぐやさんの声も、外を走る車の音も、蝉の鳴き声も、自分の呼吸さえも。
ただ、その言葉だけが、頭の中に残った。
――帰って。
「……あ」
声にならない。
胸の奥に、何かが落ちた。重くて、冷たくて、真っ暗な、何かが。底のない井戸に石を落としたみたいに、いつまで経っても着地する音がしなかった。
「……なんで」
気づけば、言葉が漏れていた。
お姉は答えない。
「……なんで、そんなこと言うん? 私……」
続かない。喉が詰まる。
泣きたくない。ここで泣いたら駄目。せっかく会えたのに。一年ぶりに、やっと会えたのに。泣いたら、また迷惑をかける。困らせる。嫌われる。
これ以上、嫌われたくない。
だから、笑わなきゃ。いつもみたいに、大丈夫なふりをしなきゃ。
「……ごめんなさい」
気づけば、謝っていた。何に対して謝っているのかも分からない。ただ、お姉の顔を見ていると、私がここにいること自体が間違いだったように思えてしまった。
「急に来て……ごめんなさい。迷惑……やったよね」
違う。そんなこと、言いたいんじゃない。
本当は会いたかった。ずっと会いたかった。謝りたかった。あの日のことを。もう一度、昔みたいに話したかった。
そう言いたかったのに、口から出てくるのは、謝罪の言葉ばかりだった。
「ごめんなさい……」
もう一度。
「ごめんなさい……」
目の奥が熱くなる。視界が滲む。
泣くな。泣いたら駄目。お願い。今だけは。
「……帰って」
もう一度、その言葉が降ってきた。
その瞬間、胸の中で、何かがぽきりと折れる音がした。
「あ……」
足元から力が抜けそうになる。慌てて拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。痛い。けれど、その痛みだけが、私をどうにか立たせていた。
「……はい」
やっと、それだけ言えた。
「……失礼します」
頭を下げる。
お姉の顔を、もう一度見ることはできなかった。見たら、きっと泣いてしまう。ううん、それだけやない。見てしまったら、さっきの目が、きっと一生、私の中から消えなくなる。
「ちょっと彩葉!」
背中の向こうで、かぐやさんの声がした。
「彼方、可哀想じゃん! なんでそんな怒ってるの?」
優しい人。本当に、優しい人。私を庇おうとしてくれている。それが分かるから、余計に苦しかった。
「……いいんです。かぐやさん……私、帰ります」
「でも……」
「ご迷惑、おかけしました」
扉を開ける。外の熱気が、体にぶつかった。でも、暑いのか寒いのかさえ、もう分からなかった。
階段を下りる。一段、二段、三段。足が震える。何度も踏み外しそうになる。それでも止まれなかった。止まったら、泣いてしまう。お姉の前で泣いてしまう。
だから、逃げる。
ただ、それだけだった。
アパートを出る。振り返れない。
振り返ったら、まだお姉がそこにいるかもしれない。「彼方」と呼んでくれるかもしれない。「待って」と、「ごめん」と、「そんなつもりじゃなかった」と、言ってくれるかもしれない。
そんな馬鹿みたいな期待を、まだ私は持ってしまっている。
だから、振り返らない。
もし、振り返って、そこに誰もいなかったら。
今度こそ、本当に壊れてしまいそうだった。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
気づけば、私は公園にいた。いつ来たのかも、どれくらい歩いたのかも分からない。ただ、足が動かなくなって、私は目の前のベンチに崩れるように座り込んだ。
昼下がりの公園は、びっくりするほど静かだった。強い日差しが砂場を白く焼いている。遊んでいる子供の姿はなく、遠くでジージーと蝉だけが鳴いていた。
――そして、限界が来た。
「……っ」
涙が溢れた。一度流れ始めると、もう止められなかった。手の甲で拭う。何度も、何度も。でも、次から次へと零れてくる。
「……なんで。なんでなん……」
誰を責めているのか、自分でも分からなかった。お姉なのか。自分なのか。それとも、こうなってしまった過去そのものなのか。
「会いたかっただけやのに……」
その言葉を口にした瞬間、堰が切れた。
「ただ……ただ、会いたかっただけやったのに……」
一年間、ずっと会いたかった。嫌われているかもしれない。怒っているかもしれない。そんなこと、とっくに分かっていた。覚悟もしてきたつもりだった。それでも、一度だけ。一度だけでいいから、ちゃんと顔を見て、ごめんなさいと言いたかった。
覚悟なんて、全然できていなかった。
あの目を向けられる覚悟なんて、最初からどこにもなかった。
「お姉……」
名前を呼ぶだけで、胸が裂けるように痛い。
「……会いたかったよ」
誰もいない公園で、私は子供みたいに声を上げて泣いた。
「ずっと……会いたかった……」
なのに、会えた。やっと会えたのに。
「……帰って、って……」
あの言葉が、頭の中で何度も反響する。
帰って。帰って。帰って。
お姉の声で。お姉の口で。お姉の、あの冷たい目で。
それは、私という存在そのものを拒絶する言葉に聞こえた。お姉の人生に、私はもう必要ない。いてほしくない。そう言われたのだと。
「……私なんか……おらんほうが……ええんかな……」
口にした途端、背筋が凍った。
自分の声のはずなのに、知らない誰かが喋ったみたいだった。
「……違う」
私は首を振る。
「違う……。……違う、はずやのに」
でも、胸のどこかで、その言葉がゆっくりと根を張り始めているのを感じていた。
私なんか、おらんほうがええ。
お姉は、私のいない場所で、ちゃんと笑って、ちゃんと生きている。私がいなくても大丈夫。むしろ、私がいない方が、お姉は楽なんかもしれない。
その考えは、恐ろしいほど、静かに心に馴染んでいった。
そのとき。
「あっ! いた!!」
聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。
顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こう。そこには。
「……かぐや、ちゃん……?」
息を切らした彼女が立っていた。髪は乱れ、額には汗が光り、肩で大きく息をしている。きっと、走って、私を探してくれたのだ。
「はぁ……はぁ……もう……! 急に出てくから心配したよー!」
その声を聞いた瞬間、また涙が溢れた。
「……ごめんなさい」
「だから謝らなくていいってば」
そう言って、彼女は私の隣にしゃがみ込み、そっと私の手を握った。
温かかった。
さっきまで氷みたいに冷たかった指先に、彼女の体温がゆっくりと広がっていく。
「彼方」
「……はい」
「あのね」
彼女はいつものように笑おうとして、でも上手く笑えなかったようで、少し困った顔になった。
「彩葉、彼方のこと嫌いなんかじゃないよ」
「……え?」
顔を上げる。
「私、彩葉に嫌なことしたことあるし、喧嘩みたいになったこともある。でもね、あんな顔してる彩葉、私も初めて見た」
「……」
「だから……多分だけど、どうすればいいのか分からなかったんじゃないかな」
「……ほんまに?」
自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
「あ、いや……勘だけどね。でも、私には、嫌いだから追い返したようには見えなかった」
彼女は、私の手を少し強く握った。
その言葉を聞いて、また涙が溢れた。ただ、さっきまでの涙とは、少しだけ違っていた。
信じたい。でも、信じるのが怖い。
信じて、また裏切られたら。そう思うと、その言葉に縋りつくことさえできなかった。
「どうして……」
「ん?」
「どうして……そんなに優しいんですか……」
かぐやさんは、きょとんとして、それから少し困ったように笑った。
「えー? 私、普通だよ?」
普通。
その一言が、今の私にはいちばん眩しくて、いちばん遠かった。
「わーー、泣かないでよー!」
「……ごめんなさい」
「だから謝らない!」
「……はい」
「ほら、また謝ろうとした!」
「……してません」
「今した!」
「……ふふ」
ほんの少しだけ、笑えた。
それでも彼女は手を離さなかった。私が完全に泣き止むまで、何も急かさず、隣にいてくれた。
どれくらい時間が経っただろう。三十分くらいかもしれない。もっと短かったかもしれない。泣きすぎて、時間の感覚はすっかり曖昧になっていた。
涙がようやく収まってきた頃、かぐやさんが立ち上がった。
「私、もう帰らなきゃ」
「……はい」
「彩葉も放置してきちゃったし」
少し困ったように笑う。
その言葉で、胸の奥が小さく軋んだ。お姉は、今、あの部屋で、かぐやさんの帰りを待っている。私のことなんて、もう頭の片隅にもなくて。
「……ごめんなさい」
「また謝った!」
「あ……」
「もう。次会ったときは、謝るの禁止ね」
「……難しいです」
「努力!」
「……はい」
彼女は手を振る。
「じゃあ、またね、彼方」
「……はい」
またね。
その言葉が、胸の奥に残った。もう一度、会ってもいいんだ。そう言ってもらえた気がした。
かぐやさんが歩き出す。数歩進んだところで。
「フー……あっちー!」
大きな声が、夏空に響いた。
私は思わず、少しだけ笑った。
「……ふふ」
彼女は振り返らなかった。きっと、私が笑ったことにも気づいていない。そのまま、陽炎の中へ溶けるように遠ざかっていった。
私は、その背中をずっと見送った。
彼女は知らない。今日、彼女が私をどれだけ救ってくれたのか。あの人の手の温かさが、どれだけ私をこの世界に繋ぎ止めてくれたのか。
そして、もう一つ。
あの人が、お姉の隣にいる。
その事実が、救いであると同時に、細い針のように、私の胸の一番柔らかいところを刺し続けていることも。
彼女は、知らない。
私は、少しだけ軽くなった体で、そして、ずっと重くなった心で、家へ戻った。
玄関を開ける。
「……ただいま」
自分でも分かるくらい、声に力がなかった。
廊下の奥から、足音が走ってくる。
「彼方?」
お兄が顔を出した。私は一瞬だけ、お兄を見る。きっと今の私は酷い顔をしている。目は腫れ、髪は乱れ、頬には涙の跡が乾いて残っている。朝、鏡の前で何度も笑顔を練習していた私とは、別人みたいだ。
お兄の目が、揺れた。
何があったのか、聞きたいはずだ。聞きたくてたまらないはずだ。それでも、お兄は口を開かなかった。
「……疲れたから、先、寝るね」
「え?」
「……ごめん」
それだけ言って、私は自分の部屋へ逃げ込んだ。
扉を閉める。背中を預けたまま、ずるずると床へ座り込んだ。
お兄は、追いかけてこなかった。
きっと分かっているんやと思う。何か聞いてはいけないことがあったこと。今、触れたら壊れてしまうものがあること。だから何も聞かない。それが、お兄の優しさだった。
その優しさが、今は、ひどく痛かった。
部屋は暗かった。電気をつける気力もない。カーテンの隙間から差し込む西日が、細い線になって床を横切っている。
ベッドの端に座り、膝を抱えた。
朝、この部屋で何度も鏡を見た。服を選んだ。笑う練習をした。あのときの私は、今日、お姉と話せると信じていた。笑えると思っていた。許してもらえるかもしれない、とさえ思っていた。
なんて、おめでたかったんやろう。
「……っ」
また、涙が溢れる。
お姉とまともに話せなかった。謝れなかった。笑えなかった。逃げた。全部、全部、できなかった。
壁際の姿見に、膝を抱えて小さく丸まった私が映っている。朝、あれほど真剣に見つめていた鏡。今は、見たくなかった。私は目を逸らす。
「……私が、もっと……ちゃんとできてたら……」
どうして、もっと上手にできなかったんやろう。もし、もっと早く謝れていたら。もし、お姉が家を出る前に、何かできていたら。もし、あの日、あんな言葉を言わずに済んでいたら。もし、あの一年間をやり直せていたら。
もし。もし。もし。
絶対に叶わない言葉が、頭の中を埋め尽くす。
その中で、一つだけ、今日良かったことを探した。無理やりに、探した。
かぐやさんに出会えたこと。
あの人は、お姉の隣にいる。お姉を理解している。私の知らないお姉をたくさん知っている。お姉を笑わせられる。お姉が、きっと、誰よりも信頼している。
だったら、お姉にはかぐやさんがいる。
「……私なんて、必要ないよね」
声が、震えた。
そう思えば、少しは楽になれる気がした。
お姉は一人で生きていける。隣にいてくれる人もいる。ちゃんと笑える場所がある。
私がいなくても、お姉は大丈夫。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
大丈夫。お姉は大丈夫。私がいなくても、大丈夫。
「大丈夫……。大丈夫……」
何度も、何度も繰り返す。言葉にすれば、本当に大丈夫になる気がした。
でも、その言葉を繰り返せば繰り返すほど、胸の奥にぽっかり空いた穴が、少しずつ広がっていく。穴の縁から、冷たい風が吹き込んでくる。
その穴は、私だった。
私の居場所だった場所だった。
そこに、もう私の場所はない。お姉の隣には、他の誰かが座っている。
「……大丈夫や」
お願い。そうであって。
そうじゃないと、私は、これから何を支えに生きていけばいいのか分からない。
コンコン。
扉を叩く音がした。
顔を上げなかった。返事をする気力もなかった。
「彼方」
お兄の声。
「……入るで」
扉が開き、廊下の薄明かりが、暗い部屋に細く差し込む。お兄が入ってくる。そして、私の顔を見た瞬間、その表情が歪んだ。泣きそうな顔だった。怒っているようにも見えた。
でも、何も聞かなかった。何も言わなかった。
ただ、私の隣へ座る。ベッドが少し沈んだ。
その重みを感じた瞬間、もう耐えられなかった。
「……ごめんなさい」
「……」
「お兄……ごめんなさい……」
「彼方」
「私……上手に……できんかった……」
息が詰まる。涙がまた溢れる。
「お姉に……ちゃんと謝れんかった……」
お兄は黙っていた。
「会いたかっただけやのに……」
私は、お兄の服をぎゅっと握りしめた。子供みたいに。離れないように。
「……帰ってって、言われた……」
その言葉を口にした瞬間、また涙が止まらなくなった。
「……怖かった」
初めて、その言葉を声にした。
「お姉が……怖かった……」
お兄の手が、私の頭にそっと触れる。大きな手。小さい頃から、何度も、こうしてくれた手。
「私のこと……いらんって……思ってるみたいで……」
「……」
「ごめんなさい……」
何度も、何度も謝る。何に対して謝っているのか、自分でも分からない。でも、自分が悪いと思わなければ、この苦しさを、どこへ置けばいいのか分からなかった。
お兄は何も言わなかった。ただ、ずっと私の頭を撫で続けてくれた。
やがて、泣き疲れた私は、お兄の肩へもたれかかる。瞼が重い。体から力が抜けていく。
「……お兄」
「ん?」
「……ごめんね」
「……」
それが最後だった。
私は、そのまま眠りに落ちた。
夢を見る。
何も無い暗闇の世界
その中で、一人の女の子が泣いている。
長い金色の髪。白い肌。顔は霞んでいて、何度見てもはっきり見えない。
なのに、どうしてだろう。
私は、この子を知っている気がする。
「助けて……」
少女の声が震えている。
「誰か……いないの……?」
その声が、胸を引き裂くように痛かった。さっきまで私が口にしていた言葉と、あまりにもよく似ていたから。
私は、彼女に向かって歩く。足元には何もないのに、私は確かに前へ進んでいる。
「いるよ」
声をかける。少女は気づかない。
「ここにおるよ」
もっと近づく。手を伸ばす。
以前の私なら、ただ「助けてあげたい」と思っていた。でも、今日は違った。
助けなければ。
そう思った。
理由は分からない。ただ、この子を一人にしてはいけない。助けなければならない。そうしなければ、取り返しのつかないことになる。
そんな、強迫観念にも似た感情が、胸の奥底から突き上げてくる。
私と同じだ、と思った。この子も、誰にも見つけてもらえないまま、ここで泣いている。
だったら、私が見つけなきゃ。
私にまだ、誰かのためにできることがあるのなら。
「待って。一人にせえへんから」
少女が、こちらを向いた。
顔は、やっぱり見えない。けれど、泣いているのが分かる。
「大丈夫」
私は言う。
「私がおるから」
少女の手が、こちらへ伸びる。
あと少し。
あと少しだけ。
なのに、届かない。
まるで二人のあいだに、見えない壁があるみたいだった。指先が触れそうな距離なのに、冷たく硬い何かが、頑なに私たちを隔てている。
「……なんで」
もっと手を伸ばす。肩が軋む。指先が震える。
「待って。お願い……一人にならないで。私が……助けるから」
そのとき、少女の唇が動いた。
――――。
何かを言った。でも、聞こえない。
「……え?」
聞き返す。
少女は、もう一度、口を動かす。
今度は、ほんの少しだけ、聞こえた気がした。
――して。
「……何?」
――回して。
「……え?」
次の瞬間、世界が大きく揺れた。
足元が崩れる。少女の姿が、ものすごい速さで遠ざかっていく。
「待って!」
手を伸ばす。
「待って!」
届かない。
また、届かない。
お姉の背中のように。あの冷たい目のように。私がどれだけ手を伸ばしても、決して触れられない場所へ、大切なものはみんな遠ざかっていく。
それでも私は、手を伸ばし続けた。
いつか届く、その日まで。
ずっと。
ずっと。
――side 酒寄朝日
今日は、朝からずっと落ち着かなかった。
小説を開いても、文字が頭に入ってこない。同じページを何度読み返したか分からない。結局、本を閉じた。スマホを見る。通知を確認する。何もない。画面を閉じる。数分後、また見る。
何もない。
「……大丈夫かな」
独り言が漏れる。
彼方が彩葉のところへ向かって、もう半日近く経つ。上手くいっただろうか。ちゃんと話せただろうか。彩葉は、彼方の話を聞いてくれただろうか。彼方は、笑って帰ってきてくれるだろうか。
朝の、あいつの顔を思い出す。何度も服を替えて、鏡の前で笑う練習までして、あんなに嬉しそうやった。けど、怖そうでもあった。ほんまは泣きそうなくらい、怖かったんやと思う。
だから俺は、大丈夫やと言った。
彩葉も、きっと分かってくれる。
そう言って、送り出した。
「……頼むで」
誰に向けたわけでもなく呟く。
頼むから、上手くいってくれ。もうこれ以上、あの二人が傷つくところなんて見たくない。
俺にできるのは、祈ることだけやった。
あの二人が離れ離れになったとき、俺は、何もできなかった。彩葉が荷物をまとめて家を出ていくのを、玄関で、ただ見ていた。止める言葉を探している間に、扉は閉まった。彼方は階段の上から、その背中を見ていた。何も言わずに。何も言えずに。
あの日から、この家の何かが、静かに壊れたままだった。
そのとき。
ガチャリ。
玄関の扉が開く音。
「……!」
反射的に立ち上がる。
「彼方?」
玄関へ向かう。
そして、姿を見た瞬間に分かった。
「……」
朝とは、まるで別人だった。
何かがあった。それも、取り返しのつかない何かが。
表情が暗い。目元は涙の跡で赤く腫れている。髪が乱れ、足取りもどこか覚束ない。
朝、あんなに嬉しそうに出ていった妹が、今は、今にも消えてしまいそうな顔をしていた。
「……彼方?」
呼んでも、彼方は俺の顔をほとんど見なかった。
「疲れたから……先、寝るね」
「え?」
「……ごめん」
それだけ言って、俺の横をすり抜ける。
「彼方」
呼んでも、振り返らない。そのまま自分の部屋へ入り、扉が閉まった。
俺は、何もできなかった。
何があった。彩葉と何を話した。何を言われた。
聞きたい。今すぐにでも、聞きたい。
でも、聞けなかった。あの顔を見て、問い詰めることなんてできるはずがない。
兄として、何かしなければ。そう思う。でも、何をすればいい。何を言えばいい。俺の言葉で、何ができる。
答えは、出なかった。
それでも、放っておくことだけはできなかった。
俺は彼方の部屋へ向かう。扉の前に立ち、手を上げる。ノックしようとした、そのとき。
「……っ」
中から、声が聞こえた。
小さな泣き声。
必死に押し殺そうとしている。それでも堪えきれずに漏れてくる、掠れた嗚咽。
「……」
胸が、締め付けられた。
彼方は昔からそうだった。痛くても、辛くても、自分から「助けて」とは言わない。泣いているところを見つかれば、慌てて「大丈夫」と笑う。
だから、余計に怖かった。
中へ入りたい。抱きしめてやりたい。大丈夫だと言ってやりたい。
でも。
俺の「大丈夫」に、今、どれだけの意味がある。
朝、俺は言った。
大丈夫。彩葉も、きっと分かってくれる。
その言葉を信じて、あいつは行った。その結果が、これや。
「……何が大丈夫やねん」
自分の言葉が、喉の奥で腐っていくようだった。
俺は何も知らない。彼方が何を言われたのか。彩葉が何を考えているのか。あの二人の間に、何があるのか。
全部分かっているつもりで、何一つ、分かっていなかった。
だから、何を言えばいいのか分からない。
中に入れない。でも、ここから離れることもできない。
扉の向こうに彼方がいる。一人で泣いている。そのまま一人にしたら、本当に、消えてしまいそうな気がした。
だから俺は、ただ扉の前にいた。何もできないまま、ずっと。
廊下に差す西日が、少しずつ橙から赤へ、赤から闇へ変わっていく。その間、俺は壁に背をつけて、ただ耳を澄ませていた。
どれくらい時間が経っただろう。
やがて、中から聞こえていた泣き声が、少しずつ小さくなった。
俺は拳を握り、コンコンと扉を叩く。
「彼方」
返事はない。
「……入るで」
扉を開ける。
部屋は暗かった。ベッドの端に、彼方が座っている。膝を抱え、小さく体を丸めて。
その姿が、あまりにも小さかった。
小さい頃から、この妹はこんなにも小さかっただろうか。
「……」
言葉が出なかった。
何を言えばいい。気の利いた言葉も、笑顔にさせる慰めも、何一つ思いつかない。
結局、俺にできたのは、隣へ座ることだけやった。
ベッドが、ゆっくりと沈む。
しばらく、二人とも何も言わなかった。でも、それでいいと思った。無理に喋らなくていい。言いたくないなら、言わなくていい。
ただ、ここにいる。
それだけは、伝えたかった。
そして。
「……ごめんなさい」
彼方が、呟いた。
「……」
「お兄……ごめんなさい」
「彼方」
「私……上手に……できんかった……」
俺は唇を噛む。
「お姉に……ちゃんと謝れんかった」
「……」
「会いたかっただけやのに……」
その言葉が、胸に突き刺さった。
――会いたかっただけ。
それだけ。
たった、それだけやった。
朝、あんなに嬉しそうに服を選んで、鏡の前で何度も笑う練習をして。彩葉に会いたい。ただそれだけで、あいつは真夏の道を歩いて行ったんや。
「……帰ってって言われた」
「……」
一瞬、頭が真っ白になった。
帰って。
彩葉が、彼方に、そう言った。
腹の底から、どす黒いものがせり上がる。熱いのに冷たい。今まで感じたことのない種類の怒りだった。
なんでや。
なんで、そんなことが言える。
彼方が、どんな気持ちで今日会いに行ったと思ってる。この一年、ずっと、ずっと、彩葉のことを気にしてた。毎晩、部屋の灯りが消えたあとも、あいつが眠れずにいたことを、俺は知っている。
それを、お前は――。
「……怖かった」
彼方の声で、我に返った。
「お姉が……怖かった……」
俺は、彼方の頭へ手を置いた。
怒るな。
今は、彩葉への怒りなんてどうでもいい。
彼方が、ここにいる。今は、それだけでいい。
「私のこと……いらんって……思ってるみたいで……」
「……」
違う。
そう言いたかった。
お前をいらないなんて、誰も思うはずがない。少なくとも、俺は絶対に思わない。
でも、言えなかった。
今の彼方に、俺が「違う」と言ったところで、それは彩葉の言葉やない。彩葉の口から出た「帰って」を、俺の言葉では塗り替えられない。
だから、何も言えなかった。
ただ、頭を撫で続けた。
「ごめんなさい……」
何度も、何度も、謝る。
そのたびに、胸が引き裂かれた。
謝るな。
お前が謝ることなんて、何もない。
でも、それすら言えなかった。
今日ほど、自分をぶん殴ってやりたいと思った日はない。
兄なのに。
妹が、こんなに苦しんでいる。目の前で、壊れてしまいそうになっている。
なのに俺は、何もできない。
何一つ、してやれない。
やがて、彼方の体から力が抜けて、俺の肩へもたれかかる。
「彼方?」
返事はない。
小さな寝息。
泣き疲れて、眠ってしまったらしい。
俺はしばらく、その寝顔を見ていた。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。眠っているのに、眉間に力が入っていた。夢の中でも、まだ何かに耐えているみたいに。
朝は、あんなに嬉しそうだったのに。
「……」
起こさないよう、ゆっくりと体を支えて、ベッドへ寝かせる。布団を掛け、髪を一度だけ撫でた。
「……おやすみ」
返事はない。当然や。眠っているのだから。
立ち上がり、部屋を出る。扉を、音を立てないように閉めた。
廊下に、一人になる。
そこで、ようやく、堪えていたものが溢れた。
「……なんで」
拳を握る。爪が掌に食い込む。
「なんで、こんなんなるねん……」
悔しい。情けない。腹が立つ。彩葉に。自分に。全部に。
俺は兄なのに。
彩葉の兄で、彼方の兄で。二人のことを、ずっと見てきたはずなのに。
何一つ、守れていない。
彼方が一人で苦しんでいたとき、気づくのが遅かった。彩葉が家を出ていくとき、止められなかった。そして今日も、「大丈夫」なんて無責任な言葉で、彼方を送り出した。
「……何が大丈夫や」
自分に吐き捨てる。
大丈夫じゃなかった。
全然、大丈夫なんかじゃなかった。
「……俺が、もっと何かできていたら」
彩葉が家を出ると聞いたとき、もっと話を聞いていたら。彼方の気持ちに、もっと早く気づいていたら。二人の間に、こんなにも深い溝ができてしまう前に。
何かできていたんやないか。
考えても、答えなんて出ない。過去は変わらない。それでも、考えずにはいられなかった。
「……くそ」
壁へ拳を打ち付けそうになる。けれど、やめた。音で、彼方が起きるかもしれない。
結局、それすらできなかった。
「……兄ちゃんやのにな」
呟く。
誰も答えない。
静まり返った廊下。閉じられた彼方の部屋の扉。その向こうから、微かな寝息が聞こえてくる。
守りたい。
そう思っていた。ずっと。
二人とも、大切な妹やから。
でも、守りたいと思うだけでは、何も守れない。
それを今日、嫌というほど思い知らされた。
「……彼方」
眠っている妹には、聞こえない。
「ごめんな」
謝る資格なんて、俺にもないのかもしれない。
それでも、口から零れた。
「……ごめんな」
日はとうに沈み、廊下の窓の外は、墨を流したような闇になっていた。
誰もいない家の中で、俺はただ、そこに立っていた。
何もできなかった兄としての無力感だけを、胸に抱えたまま。
いつまでも、立ち尽くしていた。