久しぶりに会った妹――彼方が、家を飛び出すようにして出ていった。
玄関の扉が閉まる音は、やけに大きく響いた。金属の蝶番が軋む短い音。そのあとに続いた、乾いた衝撃。安いアパートの薄い壁がそれを吸いきれず、いつまでも部屋の隅に残っているような気がした。
「彼方!」
かぐやが名前を呼びながら、慌てて靴に足を突っ込み、後を追っていく。再び扉が閉まる。さっきまで三人もいたはずの部屋から、一気に音が消えた。冷蔵庫の低い唸りと、窓の外を走る車の遠いタイヤ音だけが、取り残された私の耳に届く。
私は一人になった。
散らかった部屋の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。床には脱ぎ散らかした靴下と、読みかけの楽譜と、かぐやが昨日食べ散らかしたお菓子の袋。その向こう、小さなローテーブルの脇に、彼方が座っていた場所がある。クッションが、まだ少しだけ沈んでいる。ほんの少し前まで、そこにいた。体温だって、きっとまだ残っている。
近づいて触れたら、もっと苦しくなると分かっていたから、私はそこから目を逸らした。
久しぶりに見た彼方は、記憶の中より少しだけ大人びていた。髪が伸びていた。肩を越えて、毛先が柔らかく内側に巻いていた。服は、たぶん今日のために選んできたものだ。淡い色のカーディガンに、丁寧にアイロンのかかったスカート。昔からあの子はそういうところが分かりやすかった。嬉しいことがある日は、ほんの少しだけお洒落をする。褒めてほしい時は、何でもないふりをしながら私の近くをうろうろする。
今日だって、もしかしたら。
私に会うために。私に、可愛いって言ってもらうために。
そう考えた瞬間、胸の奥を、細い糸で締め上げられたような痛みが走った。
「……はぁ」
無意識にため息が漏れた。静かな部屋では、その小さな音すら嫌になるほどよく聞こえた。自分の吐いた息が、自分を責めているみたいだった。
どうして、あんな態度を取ってしまったのだろう。
ちゃんと話すことだってできた。久しぶり、と笑って迎えることだってできた。昔みたいに、「おかえり」と言ってあげることだってできた。彼方の顔を見て、少し大人っぽくなったね、と言えた。その服似合ってるね、と言えた。元気だった? と、たったそれだけ。言えることなんて、いくらでもあった。
聞きたいことだって、山ほどあった。学校はどう? 友達とは上手くやってる? ちゃんとご飯食べてる? 夜は眠れてる? 風邪ひいてない? お母さんとはどう? お兄ちゃんとは連絡取ってる? それから――私がいなくなって、寂しくなかった?
そんなことまで、本当は聞きたかった。喉元までせり上がっていたのに。
なのに、久しぶりに彼方の顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
嬉しかった。本当は、嬉しかった。信じられないくらい嬉しかった。会いたかった人が、ずっと会いたかった妹が、何の前触れもなく目の前にいたのだから。心臓が跳ねて、足の裏が床から浮いたみたいになって、その浮遊感があまりにも怖くて。
それなのに、口から出た言葉は、
「なんでいるの?」
だった。
「……最悪」
思わず呟く。声が掠れていた。
あの時の彼方の顔が頭から離れない。ほんの一瞬、本当に一瞬だった。彼方の瞳が揺れた。光が水面に落ちて、ぶれるみたいに。それでも彼方は、笑おうとしていた。口の端を持ち上げて、「あはは、急に来てごめんな」と、何でもないふりをしようとしていた。
昔からそうだった。あの子は、悲しい時ほど笑おうとする。泣きたい時ほど「大丈夫」と言う。だから私は気づいていたはずなのだ。傷つけた、と。あの一言だけで。
それなのに私は止まれなかった。最後には、
「帰って」
と言った。
帰って。
帰ってほしくなんてなかったのに。むしろ逆だった。いてほしかった。もっと話したかった。彼方の声を聞いていたかった。久しぶりに会った妹を、ちゃんと見ていたかった。できることなら、昔みたいに隣に座って、くだらない話をして、何時間でも一緒にいたかった。
なのに私は、自分から追い出した。扉の向こうへ、背中を押した。
「……何やってんだろ、私」
返事をする人はいない。当たり前だ。私が追い出したのだから。自分の手で、自分を一人にしたのだ。
---
昔から、私はそうだった。
彼方のことが嫌いだったわけじゃない。むしろ逆だった。好きだった。大好きだった。大好きすぎて、どうしたらいいのか分からなくなるほどに。
子どもの頃の私は、隙さえあれば彼方の近くにいた。彼方がリビングにいれば私もリビングにいたし、彼方が自分の部屋にいれば、何か適当な理由を作って遊びに行った。
「何してるの?」
「宿題」
「へぇ」
そう言って、勝手にベッドに寝転がる。シーツから、彼方の使っている柔軟剤の匂いがした。
「お姉、自分の部屋あるやろ」
「いいじゃん別に」
「邪魔せんといてや」
そう言いながら、彼方は本気で私を追い出したことなんて一度もなかった。鉛筆の音が、ノートの上を滑る。私は天井を見ながら、その音を聞いている。それだけで、世界は完結していた。
私がピアノを弾けば、彼方は近くの床に座って聴いていた。膝を抱えて、目を閉じて、指の動きじゃなく音そのものを聴くように。私が曲を作っている時も、意味なんて分かっていないくせに「ええやん」と褒めてくれた。私が学校の愚痴を言えば、最後まで聞いてくれた。相槌を打って、時々「それはお姉が正しいわ」なんて、根拠もなく味方になってくれた。
逆に彼方が何かで一番を取った日は、私のところへ真っ先に走ってきた。廊下を駆ける足音が、遠くから近づいてくる。
「お姉!」
「なに?」
「あんな、今日な――」
得意げな顔で話す彼方の頭を撫でるのが好きだった。柔らかい髪が、掌の下で少し汗ばんでいた。褒めると、すぐに顔を綻ばせる。耳まで赤くして、でも嬉しさを隠せなくて。本当に分かりやすい子だった。
「お姉、お姉」
いつも私を呼んでいた。振り返れば彼方がいる。手を伸ばせば届くところにいる。あの頃の私は、それが永遠に続くのだと思っていた。彼方が私から離れるなんて、一度も考えたことがなかった。
いや、違う。
離れたのは、彼方じゃない。私だ。私が、彼方から離れた。
「……馬鹿だな」
小さく笑ってみる。口の形だけは笑っていた。でも、全然笑えなかった。
---
昔の私が彼方に向けていた感情は、確かに愛情だった。それだけは嘘じゃない。
けれど、全部が全部、綺麗だったわけじゃない。
お父さんが亡くなってから、家は少しずつ変わっていった。
最初は本当に小さな変化だったと思う。食卓で笑う回数が減った。話すことが減った。お母さんが、台所で一人ため息を吐くことが増えた。お父さんの椅子は片付けられないまま、誰も座らなくなった。そして私がピアノを弾いていても、以前みたいに手を止めて聴いてくれなくなった。
いつの間にか、お母さんは厳しい人になっていた。
厳しくならなければ、立っていられなかったのだと、今なら少しだけ分かる。女手ひとつで、子ども三人を。喪った穴を、仕事と規則で埋めるしかなかったのかもしれない。でも当時の私には、そんなことは見えなかった。
何をするにも理由を求められた。何の役に立つのか。将来につながるのか。結果が出るのか。無駄ではないのか。
お父さんは、音楽は自由だと言っていた。好きだから弾けばいい。楽しいから歌えばいい。それでいいんだ、と。膝の上に私を乗せて、大きな手で私の小さな指を鍵盤に導きながら、そう言った。あの手の温度を、私はまだ覚えている。
でも、お父さんがいなくなってから、その言葉は家の中から消えた。
お父さんの言葉が消えると同時に、私の居場所も少しずつ消えていった。
私はお母さんと何度も喧嘩した。
「音楽なんかやってどうするの」
そう言われるたび、腹が立った。お父さんまで否定されたような気がした。お父さんが私に残してくれた唯一のものを、踏みつけられたような気がした。だから反抗した。反抗すれば、お母さんはもっと厳しくなった。そして私は、もっと反抗した。悪循環だった。出口のない螺旋を、二人で落ちていった。
お兄ちゃんは比較的上手くやっていた。彼方もそうだった。私だけだった。私だけがお母さんとぶつかっていた。私だけが家の中で浮いていた。私だけが、お母さんから認めてもらえない。
そんなふうに、思っていた。
実際には違ったのかもしれない。お母さんだって、お母さんなりに私のことを考えていたのかもしれない。夜中に私の部屋の前で立ち止まっていた足音のことを、今でも時々思い出す。ノックしようとして、結局しなかった、あの足音を。
でも、当時の私には、そんなことを考える余裕なんてなかった。ただ苦しかった。家に帰りたくない日が増えた。玄関の前で、鍵を握ったまましばらく立ち尽くした。扉を開けるだけで胸が重くなった。今日も何か言われるのかな。また喧嘩するのかな。そう考えるだけで、足が地面に縫い止められたみたいに動かなくなった。
そんな私のそばに、彼方はいた。
私とお母さんが言い争っている時、彼方はいつも少し離れたところからこちらを見ていた。不安そうに、泣きそうな顔で。私と目が合うと、何も言わずに小さく笑ってくれた。その笑顔を見ると、少しだけ呼吸が楽になった。
私は一人じゃない。
そう思えた。たった一人の、小さな味方。その存在が、あの家で私を人間の形に留めていた。
喧嘩した夜、部屋に閉じこもっていると、彼方がそっと入ってくることもあった。ドアノブの回る音が、とても慎重だった。
「……お姉」
「なに」
「なんでもない」
「じゃあ何しに来たの」
「……おったらあかん?」
そんなことを言う。私はいつも、
「好きにすれば」
なんて素っ気なく答えていた。でも、本当は嬉しかった。すごく嬉しかった。彼方がベッドの端に座っているだけでよかった。何も話さなくてもいい。ただ、同じ部屋にいてくれるだけでよかった。マットレスが彼方の重さの分だけ沈む。その沈み込みが、私にはこの世で一番安心できるものだった。
彼方がいる。それだけで、私は一人じゃなくなった。
お兄ちゃんが一人で上京してからは、もっと彼方に依存していたのかもしれない。私とお母さんの間に入ってくれる人はいなくなった。喧嘩は増えた。家にいることが、ますます息苦しくなった。それでも彼方だけは変わらなかった。私がどれだけ機嫌が悪くても、どれだけ素っ気なくしても、彼方は私のところに来た。
「お姉」
「……なに」
「今日、一緒にご飯食べよ」
「いつも食べてるじゃん」
「そうやけど」
「変なの」
そんな会話をして、彼方は嬉しそうに笑った。
私は気づいていなかった。あの「いつも食べてるやん」の裏側で、彼方が私の食卓の席を、必死に守ってくれていたことに。私が部屋にこもって夕飯を抜こうとする日、彼方は黙ってお皿にラップをかけて、私の部屋の前に置いてくれていた。何も言わずに。見返りも求めずに。
優しい子だった。本当に。私にはもったいないくらい、優しい妹だった。彼方がいなかったら、私はきっともっと早く壊れていた。だから私は彼方に感謝している。今でも。きっと、これからも。
――だからこそ、余計に苦しい。
---
彼方は、お母さんとも上手くやれていた。
そして家族贔屓なしに見ても、彼方は天才だった。勉強でも、運動でも、何でも。一度教えればすぐに覚えた。少し練習すれば人並み以上にできた。本人はそれを特別だと思っていなかったけれど、周りから見れば明らかだった。何をやっても上手い。何をやっても褒められる。何をやっても結果を残す。
彼方が一番を取るたび、お母さんは嬉しそうだった。
「ようやったな、彼方」
優しい声。かつて私にも向けられていた声。そして彼方の頭を撫でる、あの手。
「えへへ……」
彼方は照れたように笑う。嬉しそうだった。当たり前だ。お母さんに褒められたのだから。娘が母親に褒められて喜ぶ。ただそれだけのこと。何も悪くない。彼方は何一つ悪くない。
それなのに、私はその光景を見るのが嫌だった。
胸の奥がざらざらした。紙やすりで内側を擦られるみたいに、じわじわと削られていく感覚。彼方の笑顔を見ているだけで、息ができなくなることがあった。台所の隅で、食器を洗うふりをしながら、水の音に紛れて奥歯を噛みしめた夜もある。
羨ましかった。
お母さんが彼方を見る目。彼方の頭を撫でる手。彼方に向ける優しい声。全部、私には向けられなくなったものだった。私がどれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、どれだけ音楽に打ち込んでも、私には貰えない。でも彼方は、それを持っていた。ただそこにいるだけで、当たり前のように。
――どうして。
そんな言葉が何度も浮かんだ。どうして私じゃないの。どうして彼方なの。私だって娘なのに。私だって褒めてほしいのに。私だって頭を撫でてほしいのに。
私だって、お母さんに愛されたかったのに。
そして、そんなことを考えた直後、猛烈な自己嫌悪に襲われる。吐き気がするほどに。彼方は悪くない。分かってる。この子は何も悪くない。むしろ私を助けてくれている。私が泣いていたら心配してくれる。私が一人なら、そばにいてくれる。私の味方をしてくれる。
そんな子に、私は嫉妬している。
最低だと思った。醜いと思った。自分の中に、そんな黒いものが棲んでいること自体が許せなかった。それでも嫉妬は消えなかった。羨ましかった。妬ましかった。大好きだった。嫌いになりたくなった。大切だった。見たくない時もあった。抱きしめたかった。遠ざけたかった。全部がぐちゃぐちゃで、どれが本当の自分なのか分からなかった。
それでも彼方は何も知らずに私のところへ来る。
「お姉。お姉」
そう言って私を慕って、私に褒めてほしそうにして、私の隣に座って、私の腕にくっついて、何の疑いもなく笑っていた。私のことを、大好きだと思ってくれていた。その無垢な信頼が、愛おしくて、同時に、刃物みたいに痛かった。
だからこそ怖かった。いつか彼方に知られるのが。自分が彼方に嫉妬していることを。大好きな妹を見て「羨ましい」と思っていることを。
知られたくなかった。嫌われたくなかった。
彼方にだけは。
世界中の誰に嫌われてもいいから、彼方にだけは嫌われたくなかった。
---
なのに、ある日、全部が壊れた。
その日も、お母さんと私は喧嘩をしていた。何が原因だったのかは、もうよく覚えていない。きっといつもと同じだった。将来。勉強。音楽。生活態度。そんなもの。窓の外は夕暮れで、部屋の中が橙色に濁っていたことだけを、なぜか鮮明に覚えている。
お母さんは正論を並べた。理屈では何も言い返せないような、正しい言葉。だからこそ腹が立った。正しさは、時々、人を殴るより深く傷つける。
「だから、それが嫌だって言ってるでしょ!」
「嫌で済む問題やないやろ」
「私の人生じゃん!」
「子どもが何を分かったようなこと言うてんの!」
声が大きくなる。私も、お母さんも。彼方は部屋の隅にいた。いつものように、心配そうに私たちを見ていた。小さな両手を胸の前で握りしめて。
やめて。そんな顔しないで。大丈夫だから。これは私とお母さんの問題だから。彼方は関係ないから。
そう思っていた。
でも、その日の喧嘩はいつもより酷かった。私も引かなかった。お母さんも引かなかった。売り言葉に買い言葉。言葉がどんどん鋭くなる。お父さんの名前が出た。お父さんの夢が、お父さんの甘さが、と。私は叫んだ。喉が焼けるほど。そして、お母さんの手が振り上げられた。
――叩かれる。
そう思った。怖かった。反射的に目を閉じた。肩に力が入る。歯を食いしばる。
でも、痛みは来なかった。
「もぉやめて!」
代わりに聞こえたのは、彼方の声だった。
目を開けると、私とお母さんの間に小さな背中があった。彼方だった。両腕を広げて、私を庇うように立っていた。肩が震えていた。膝も震えていた。怖いはずなのに、彼方は逃げなかった。
「彼方……?」
名前を呼ぶ。彼方が振り返った。泣いていた。ぼろぼろ泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、それでも、私の前から一歩も退かなかった。
その瞬間、私は嬉しかった。情けないくらいに。彼方が私を守ってくれた。怖かったはずなのに、私のために間に入ってくれた。
ああ、この子は本当に私のことが好きなんだ。
そう思った。
なのに。
「お姉は私が助ける。私が守る」
その言葉を聞いた瞬間、何かが壊れた。
胸を抉られたような気がした。温かいはずの言葉が、体の奥で、ひどく冷たい塊になって沈んでいった。
助ける。守る。妹に。私が?
――どうして。
どうしてそんなことを言わせた。私はそんなに弱く見えていたの? 私はそんなに情けなかった? 私はそんなに頼りなかった? 妹が泣きながら庇わなければならないほど、私は何もできない人間なの?
違う。違う。違う。
私はお姉ちゃんだ。私の方が年上だ。守るのは私だ。彼方じゃない。私が彼方を守るんだ。そう決めていた。ずっと、決めていたのに。
なのに、現実は逆だった。いつも私が彼方に救われていた。私が一人の時、彼方がそばにいてくれた。私が泣いている時、彼方が心配してくれた。私がお母さんと喧嘩している時、彼方が私を見ていてくれた。そして今、彼方が私の前に立っている。小さな背中で、私を庇っている。
――私は、ずっと妹に守られていた。
その事実が、どうしようもなく苦しかった。足元の地面が崩れていくようだった。
「やめてよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。彼方が振り返る。
「……お姉?」
「そんなこと言わないで」
「でも――」
「私は大丈夫だから!」
彼方の肩がびくっと震えた。
止まれ。頭のどこかでそう思った。彼方に怒るな。この子は何も悪くない。私を助けようとしてくれただけだ。分かっていた。全部、分かっていた。
なのに、口が止まらなかった。
「守るとか言わないで!」
「お姉……」
「アンタに守られなあかんほど、私は弱くない!」
言うたび、彼方の顔が傷ついていく。ひとつ言葉を投げるたびに、あの子の中の何かが、ひとつずつ折れていくのが見えた。分かっているのに止められない。自分が惨めだった。彼方に守られる自分が嫌だった。彼方に心配される自分が嫌だった。そして、そんな自分を見せつけてくる彼方に、八つ当たりした。
何を言ったのか、今では全部は覚えていない。覚えていないんじゃない。もしかしたら、思い出したくないだけなのかもしれない。
ただ、彼方の顔だけは覚えている。
泣いていた。
さっきまで私を守るために泣いていた彼方が、今度は私の言葉で泣いていた。涙の理由が、たった数分のあいだに、すり替わってしまった。
「……お姉」
小さな声だった。その声を聞いた瞬間、私は我に返った。
違う。こんなことを言いたかったんじゃない。
ありがとうって言いたかった。怖かったよねって。ごめんねって。大丈夫だからって。私が彼方を守るからって。抱きしめて、背中をさすって、本当は、そう言いたかった。
でも、もう遅かった。
彼方は泣いていた。私が泣かせた。お母さんじゃない。誰でもない。私が。私のことを守ろうとしてくれた妹を、私が傷つけた。
あの時の彼方の泣き顔だけは、今でも夢に見ることがある。目が覚めて、暗い天井を見つめながら、心臓の音だけがうるさくて、しばらく動けなくなる。
私は、自分が傷つけられることより、彼方を傷つけてしまうことの方が怖かった。
だから私は彼方から離れた。
一人で何でもできるようになろうと思った。彼方に心配をかけないように。彼方に「私が守らなきゃ」と思わせないように。私は大丈夫だと、もう弱くないと、そう思ってもらえるように。
彼方は自分の人生を生きればいい。私なんか気にしなくていい。私を守らなくていい。だから私は、一人で立てるようにならなくちゃいけない。
当時は、それが正しいと思っていた。
でも、今なら分かる。
全部、私の自己満足だった。
彼方からすれば、突然、大好きだった姉が自分を避け始めただけだ。昨日まで隣にいた人が、突然いなくなっただけだ。理由も告げられず、説明もないまま。扉を叩いても、返事がなくなっただけだ。
きっと彼方は考えた。自分が何か悪いことをしたのかもしれない。あの時、余計なことを言ったから。「守る」なんて言ったから。お姉は自分を嫌いになったのかもしれない。
あの子なら、そう考える。絶対に。彼方は優しいから。自分が傷ついたことより、相手がどう思ったかを先に考える子だから。夜、布団の中で、何度も何度も自分を責めただろう。何がいけなかったのか、答えのない問いを抱えて。
そしてその答えを、私は一度も、彼方に渡さなかった。
だから私は、余計に許されない。
---
今日だってそうだ。
久しぶりに会った彼方が、私の部屋にいた。私は驚いて、
「なんでいるの?」
と言った。
彼方はただ、私に会いたかっただけかもしれない。話したかっただけかもしれない。昔みたいに「お姉」と呼びたかっただけかもしれない。もしかしたら今日までずっと、私が振り向くのを待っていたのかもしれない。何年も。この部屋の扉の前まで来るのに、どれだけの勇気を使ったのか、私には想像もつかない。
なのに私は、
「帰って」
と言った。
「……最低」
声が震えた。
何年も待たせたくせに。何年も離れていたくせに。ようやく会いに来てくれた妹に、私はまた「いらない」と言った。そんなつもりじゃなかった。でも、彼方にはそう聞こえたかもしれない。いや、きっとそう聞こえた。あの子の中で、あの日の「やめてよ」と、今日の「帰って」が、きっと一本の線で繋がってしまった。
本当は違う。
帰ってほしくなんてなかった。ずっと会いたかった。話したかった。声を聞きたかった。抱きしめたかった。頭を撫でたかった。昔みたいに「お姉」って呼んでほしかった。
でも、そんなことを望んでいいはずがない。
私は彼方を傷つけた。一度じゃない。何度も。何度も、何度も。それなのに、自分が寂しいから。会いたいから。また仲良くしたいから。そんな理由で彼方に近づこうとしている。
そんな資格、私にはない。
彼方が私を許してくれるなんて、考えてはいけない。許されたいと思うことすら、都合が良すぎる。
だって私は、彼方が私を許すために必要な時間すら奪った。謝らなかった。説明もしなかった。ちゃんと話さなかった。勝手に距離を取って、勝手に一人になって、勝手に「これで彼方も安心する」なんて思い込んだ。
全部、自分のためだった。
私は彼方を守りたかったんじゃない。彼方に「弱いお姉ちゃん」だと思われるのが怖かっただけだ。彼方に心配される自分が嫌だった。彼方に守られる自分が許せなかった。
だから逃げた。
彼方からじゃない。
自分自身から。
そして、その結果、彼方を一人にした。私が一番嫌だったことを。彼方がずっと私にしなかったことを。私自身が、彼方にした。
「……ほんと、何してるんだろ」
視界が滲んだ。
泣くな。私が泣く資格なんてない。そう思って、目元を乱暴に拭う。袖が擦れて、皮膚がひりひりした。その痛みが、むしろ有難かった。
彼方は、私が一人にならないようにずっとそばにいてくれた。私が孤独にならないように、何度も何度も手を伸ばしてくれた。私はその手を、自分から振り払った。
彼方に救われていたくせに、彼方を救える人間になろうとして、そのために彼方を傷つけた。
こんな私が今さら「仲良くしたい」なんて言っていいのだろうか。今さら「ごめん」なんて言っていいのだろうか。
「……言えないよ」
誰もいない部屋で呟く。言えるわけがない。謝ったところで彼方の傷が消えるわけじゃない。私が離れていた時間が戻るわけでもない。彼方が泣いたことも、私の言葉で傷ついたことも、一人で悩んだかもしれない夜も、全部なかったことにはならない。
だったら私は、許されなくていい。
いや、違う。
許されてはいけない。
彼方がいつか私を許してくれる日が来たとしても、私はそれを期待してはいけない。彼方が優しいからといって、その優しさに甘えてはいけない。私は彼方に嫌われても仕方がない。恨まれても仕方がない。もう二度と私のところへ来なくなったとしても、何も言えない。
それでも私は、彼方に幸せでいてほしい。私なんかいなくても。私のことなんて忘れても。彼方が笑っていられるなら、それでいい。
――そう思わなければいけない。
そう思わないと、また私は自分のために彼方を縛ってしまう。
その時、玄関の扉が開いた。
「ただいまー……」
聞き慣れた声。かぐやだった。私は反射的に玄関を見る。涙の跡を見られたくなくて、もう一度、袖で目の下を拭った。
「おかえり」
いつも通りの声を出したつもりだった。
「たっだいまー!」
次の瞬間、かぐやが勢いよく抱きついてきた。
「うわっ、ちょっと!」
汗でべとべとだった。外を走り回っていたのだろう。髪まで少し乱れている。夏の熱と、太陽の匂いと、少し酸っぱい汗の匂いが、一度に私を包んだ。
「ちょっと! 汗だくじゃない! 離れてー!」
「えへへー」
「えへへじゃない!」
身体を押しても、かぐやは離れない。むしろ、ぎゅっと抱きしめてくる。
「暑い! くっつかないで!」
「彩葉つめたーい」
「汗だくで抱きついてくる方が悪いでしょ!」
「じゃあお風呂一緒に入る?」
「入らない!」
いつも通り。本当にいつも通りだった。まるで何もなかったみたいに。さっき彼方が泣きそうな顔でここを出ていったことも、かぐやがその後を追いかけたことも、全部何もなかったみたいに。
でも、きっと聞きたいことは山ほどあるはずだ。彼方との関係。昔、何があったのか。どうしてあんな態度を取ったのか。どうして彼方があんな顔をしていたのか。それなのに、かぐやは何も聞かなかった。聞かないことを、選んでくれていた。
その優しさが、胸に染みた。
「……かぐや」
「んぇ? なに?」
間の抜けた返事。私は少しだけ息を吸う。
「その……ありがと」
「ん?」
「あの子のこと。追いかけてくれて」
言葉が少し詰まる。
「あの子……彼方のこと。またちゃんと話すから。いつか」
いつか。その言葉が、自分でも情けなく思えた。今じゃない。また逃げている。五年前と同じ場所で、同じ言い訳をしている。それでも今は、まだ上手く話せる気がしなかった。
「だから……ありがと」
返事がない。
「……かぐや?」
顔を見る。そして固まった。かぐやが泣いていた。大きな瞳から、ぼろぼろ涙を流している。拭いもせず、笑顔の形を残したまま。
「……え。なんで泣いてんのよ」
「だってぇ……彼方、可哀想だったし……」
胸が痛む。
「本当は彩葉とお話したかったはずだもん……」
分かってる。そんなこと。私が一番分かってる。
「それに……彩葉がそんな寂しそうな顔するから……」
「……え?」
寂しそう。その言葉だけが、頭の中に残った。
「私が?」
「うん」
「寂しそうな顔……してた?」
「してた」
即答だった。
私は寂しい。
そうなのか。
彼方に会いたかった。話したかった。そばにいてほしかった。昔みたいに私を見て、「お姉」って呼んでほしかった。だから、彼方が出ていった時、寂しかった。当たり前だ。ずっと会いたかった妹なのだから。
でも、そんなことを思う資格が私にあるのだろうか。
一方的に彼方との距離を取ったのは私だ。彼方を遠ざけたのも私だ。彼方の手を振り払ったのも私だ。それなのに私は、彼方がいなくて寂しいなんて。
どこまで自分勝手なんだろう。
「……馬鹿みたい」
「彩葉?」
今にも「ごめん」と言ってしまいそうになった。でも、飲み込んだ。かぐやに謝っても仕方がない。今ここで泣いているのは彼方じゃない。彼方に言わなければ意味がない。
いつか、言える日が来るのだろうか。分からない。怖い。
でも、その前に。
「はい、もう泣くの禁止」
かぐやの額を軽く指で弾く。
「いたっ」
「今日は、ろかとまみに会うんでしょ」
「あっ」
「忘れてたでしょ」
「……忘れてないよ?」
「その間は何」
「演出」
「嘘つけ」
「そうだった!! 準備、準備ー!」
かぐやは一瞬で笑顔になり、部屋の中をばたばた走り回り始めた。
いつも通りのやり取り。私はその背中を見つめる。少しだけ救われた。この子がいてくれてよかったと、思った。思ってしまった。それが、また胸の奥に小さな罪悪感を残した。
そして、また彼方のことを考える。
今頃どうしているのだろう。泣いていないだろうか。ちゃんと帰れただろうか。知らない道で迷っていないだろうか。傷ついていないだろうか。
……いや。傷ついていないはずがない。
私が傷つけた。
私のことを、どう思っているのだろう。嫌いになったかな。もう、私のことなんてお姉だと思ってくれないのかな。
怖い。怖かった。彼方に嫌われるのが、どうしようもなく怖い。もう私のことなんて好きじゃないのかもしれない。もう二度と会いたくないと思っているかもしれない。そう考えるだけで胸が潰れそうになる。息が苦しくなる。肺が、空気を拒むみたいに。
嫌だ。
そんなの嫌だ。
嫌われたくない。
彼方にだけは、嫌われたくない。
――でも、それでも私は彼方に「許して」とは言えない。許されたいなんて言えない。
私は彼方を傷つけた。彼方が私を大切にしてくれた分だけ。私が彼方を大切に思っていた分だけ。その全部を、自分の弱さで壊した。
だから、もし彼方が私を許してくれなくても。もう二度と「お姉」と呼んでくれなくても。私のところへ帰ってきてくれなくても。私は受け入れなければならない。
それが、私が彼方にしたことの償いなのだと思う。
本当は、そんな未来、嫌だ。
嫌に決まっている。
もう一度、昔みたいに笑いたい。彼方の隣にいたい。「お姉」って呼んでほしい。頭を撫でたい。「頑張ったね」って。「偉いね」って。昔みたいに褒めてあげたい。
今度こそ、私が彼方を安心させてあげたい。
彼方が泣いていたら、今度は私が隣にいたい。彼方が苦しんでいたら、今度は私が手を伸ばしたい。あの日、彼方が私にしてくれたみたいに。
「私が守る」
って。
今度は私が言いたい。
でも、それを願うことさえ今の私には贅沢なのだ。
だから私は願わない。願ってはいけない。
彼方が幸せなら、それでいい。私のいない場所でも。私の知らない人たちに囲まれていても。私のことを忘れてしまっても。彼方が心から笑っていられるなら、それでいい。
そう思える人間にならなければいけない。
いつか彼方が、私じゃない誰かの隣で笑っているのを見た時、私はちゃんと「よかった」と笑えるように。彼方が幸せになったことを、心から喜べるように。
私は、ならなければいけない。
――たとえ、その笑顔の隣にいるのが私じゃなくても。
たとえ彼方が、もう二度と私を「お姉」と呼んでくれなくても。それでも私は、あの子のお姉ちゃんだから。
彼方が知らなくてもいい。彼方に届かなくてもいい。もう私を必要としてくれなくてもいい。ただ、あの子が幸せでいてくれれば、それでいい。
そう思った。そう思い込もうとした。
なのに、胸の奥では、どうしようもなく幼い私がずっと泣いていた。
膝を抱えて。あの頃の、彼方のベッドの端に座っていた彼方の隣で、何も言えなかった私のまま。
――嫌だ。
忘れないで。
嫌いにならないで。
もう一度、お姉って呼んで。
もう一度だけ、私のところに帰ってきて。
そんな言葉を、彼方には絶対に言えない言葉を、私は一人、心の奥で何度も繰り返していた。
窓の外では、夏の光がまだ眩しく、かぐやの鼻歌が部屋に満ちていた。その明るさの隅で、私だけが、閉まったままの玄関の扉を、いつまでも見つめていた。