お姉は私が嫌い 再   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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5話

 お姉に会った翌日から、数日間。私は熱を出して、ほとんどベッドの上で過ごしていた。

 

 風邪ではなかった。喉は痛くないし、咳も出ない。鼻もつまっていない。ただ、身体が鉛を流し込まれたみたいに重くて、指一本を持ち上げるのにも理由が要った。カーテンの向こうで日が昇って、沈んで、また昇る。その繰り返しを、私はただ天井の染みを数えながら眺めていた。

 

 きっと、気疲れだったのだと思う。

 

 ずっと会いたかった人に会って、ずっと聞きたかった声を聞いて、そして、ずっと恐れていたものを真正面から突きつけられた。たったそれだけのことで寝込むなんて、自分でも情けなくて、布団の中で何度も小さく丸まった。

 

 そんな私を、お兄は呆れもせずに世話してくれた。

 

 額に載せる冷却シートを何枚も替えてくれた。水を入れたコップにストローを挿して持ってきてくれた。「食欲ない」と言えば、台所からお粥の匂いが漂ってきて、卵を落とした、少し塩気の強い、いかにもお兄らしい味のものが出てきた。体温計を渡されるたびに、数字が〇・二度上がれば眉を寄せ、〇・二度下がれば露骨にほっとした顔をする。

 

 夜中にふと目を覚ました時ですら、襖の隙間から廊下の明かりが細く差して、「大丈夫か?」と小さな声がした。

 

「……過保護すぎ。お母さんかと思った」

 

 そう言うと、お兄は「誰がお母さんや」と笑った。でも、その笑い方がどこか安心したみたいで、私はそれ以上、憎まれ口を続けられなかった。

 

 本当に、ありがたかった。もし一人だったら、私はもっと長く、深い場所に沈んでいたかもしれない。

 

 そんな数日を経て、身体はようやく元に戻った。

 

 けれど――心だけは、まだあの日に置き去りにされたままだった。

 

 今でもふとした瞬間に、お姉の顔を思い出す。お皿を洗っている時。歯を磨いている時。電車の窓に映る自分の顔を見た時。何の前触れもなく、あの声が耳の奥で再生される。

 

『用事は済んだでしょ、帰って』

 

 たった、それだけ。

 

 久しぶりに会った妹に向ける言葉として、あまりにも短くて、あまりにも温度がなかった。まともな会話すらしてもらえなかった。目が合ったのかどうかも、今となっては曖昧だ。

 

 私は、お姉に嫌われていることくらい分かっていた。分かっているつもりだった。

 

 でも私は馬鹿だから、心のどこかで期待していたのだ。

 

 一年も経ったのだから、少しくらいは怒りも薄れているんじゃないか。話くらいなら聞いてくれるんじゃないか。昔みたいに、なんて贅沢は言わない。ただ一度だけ、ちゃんと私の顔を見て、私の言葉を聞いてくれたら。それだけでいい。

 

 そんな甘い期待を、私は鞄の底にこっそり隠して、持ってきてしまっていた。

 

 結果は、見事なくらいの惨敗。

 

 お姉の中で、私はまだ許せない存在だった。……いや、もしかしたら、もう許すとか許さないとか、そういう段階ですらないのかもしれない。どうでもいい人。関わりたくない人。視界に入れたくない人。

 

 そこまで考えて、私は慌てて首を振った。これ以上考えたら、また熱が出る。やめよう。

 

 それに、悪いことばかりじゃなかった。良かったことだって、ちゃんとあった。

 

 かぐやちゃんに会えたこと。

 

 自由で、明るくて、優しくて、まるで太陽みたいに眩しい人。初めて会った時から思っていたけれど、やっぱりあの人は不思議だ。そこにいるだけで、空気の色が変わる。笑えばこっちまで笑いたくなるし、楽しそうな姿を見ているだけで、自分まで楽しい人間になれた気がしてくる。

 

 ああいう人がお姉の隣にいてくれるなら――私は、安心して引き下がれる。

 

 そう思った。

 

 私がいなくても、お姉は大丈夫。むしろ、私なんかが傍にいるより、ずっと幸せになれる。だから、それでいい。それでいいのだ。

 

 そんなこともあって、私はすっかりかぐやさんのファンになってしまった。暇さえあれば配信のアーカイブを漁り、切り抜き動画を渡り歩く。見ていると、とにかく楽しい。心が凪ぐ。気づけば、画面の前で一人、声を出して笑っている。

 

 ……ただし、「いろP」の話題が出てくると話は別だ。

 

 お姉の話をする時のかぐやさんは、びっくりするほど分かりやすい。声が一段高くなる。語尾が弾む。言葉の端々から「好き」がこぼれ落ちている。その度に、「うぇへへ……お姉、愛されてるなぁ……」と頬を緩める私と、「……うぅ」と胸を押さえて枕に顔を埋める私が、同時に存在する。

 

 情緒がぐちゃぐちゃである。

 

 嬉しい。でもちょっと寂しい。尊い。でもちょっと苦しい。もっと見たい。でも見たらダメージを受ける。なのに翌日にはまた再生ボタンを押している。……もしかすると私は、被虐趣味なのかもしれない。

 

 そうやって過ごしているあいだにも、私の知らないところで、色々なことが動いていたらしい。体調が戻った後、お兄が順番に教えてくれた。

 

 まず、お兄がお姉と戦ったこと。次に、お姉が引っ越したこと。そして最後に――。

 

「……お姉、月見ヤチヨさんとコラボライブするん?」

 

「ああ」

 

「…………え?」

 

 理解するまで、数秒かかった。

 

 月見ヤチヨ。ツクヨミの誰もが知っている、最高の歌姫。その人と、お姉が。

 

 私は、そのどれも知らなかった。普段、お兄以外とゲームをしない私は、ツクヨミ側の情報にとことん疎い。ニュースを追う習慣もない。お兄が教えてくれなければ、全部知らないまま終わっていたかもしれない。

 

 危なかった。本当に危なかった。もしライブが終わった後で知っていたら――。

 

「……たぶん一週間くらい寝込んでた」

 

「洒落にならんからやめてくれ」

 

 お兄が真顔になった。冗談なのに。……半分くらいは。

 

 ともかく、知ることができてよかった。

 

 最初に確かめたのは、お兄がお姉やかぐやさんたちと戦ったという『SENGOKU』の竹取合戦だった。幸い、動画はいくつも配信サイトに上がっていて、探すのに苦労はしなかった。

 

 ベッドの上に座り、スマホを両手で握りしめて、再生ボタンを押す。

 

 そして――。

 

「…………あ」

 

 気づけば、声が漏れていた。

 

 お姉が、笑っていた。

 

 アバター越しだ。本当の表情なんて分からない。そんなことくらい、私にも分かっている。それでも、妹だからだろうか。私には分かってしまった。

 

 あれは、作った笑顔じゃない。

 

 本当に楽しい時の、お姉だ。

 

 まだ私たちが普通の姉妹だった頃。私がくだらないことを言って笑わせた時。お兄が何か馬鹿なことをやらかした時。家族みんなで食卓を囲んでいた時。たまにだけ見せてくれた、あの笑い方。目尻がほんの少し下がって、息が先に漏れて、それから声が追いかけてくる、あの。

 

「……お姉」

 

 思わず画面に指を伸ばして、触れる寸前で止めた。

 

 よかった。本当に、よかった。

 

 その笑顔を引き出したのは、隣に立つかぐやさんだった。

 

 私はずっと、お姉を笑わせたかった。昔みたいに笑ってほしかった。私のせいで失わせてしまったものを、ほんの少しでも取り戻してあげたかった。でも、できなかった。何をしても、どう言葉を選んでも、届かなかった。

 

 私にできなかったことを、あの人は当たり前みたいにやってのけてしまった。

 

「……やっぱり、勝てへんなぁ」

 

 ぽつりと、呟く。

 

 悔しくはなかった。不思議なくらいに。むしろ、肩の荷が下りるような安堵があった。

 

 この人なら大丈夫。この人がお姉の傍にいてくれるなら、きっと大丈夫。私がいなくても――私なんて、必要なくても。お姉は笑える。幸せになれる。

 

 それなら、それが一番いい。

 

「……うん」

 

 自分に言い聞かせて、小さく笑った。

 

 あの二人ほどお似合いのカップリングはいない。決めた。私はあの二人を「推しカプ」として愛でる。妹ではなく、ただのファンとして。遠くから。絶対に邪魔にならない場所から、二人が幸せになるところを見届けるのだ。

 

 そう割り切ってしまえば、乱れていた情緒も少しだけ落ち着いた。……少しだけ、だけど。

 

 引っ越しの話を聞いた時も、ほっとした。以前お姉のアパートを訪ねた時、部屋は物で溢れかえっていて、足の踏み場にも困るほど狭かった。お姉自身は整理整頓のできる人のはずなのに、そもそもの物量が多すぎたのだ。

 

 そこにかぐやさんまで住むとなれば、さすがに限界だろう。というか――。

 

「……かぐやさん、めちゃくちゃ物増やしそう」

 

 配信用の小道具。衣装。謎の雑貨。その場のノリで買った何か。そういうものを両手いっぱいに抱えて、『彩葉ー! 見て見てー!』と言いながら帰ってくる姿が、驚くほど鮮明に想像できる。それを見たお姉が、『どこに置くのよ、それ……』と額に手を当てて溜め息をつくところまで。

 

「…………ええなぁ」

 

 想像しただけで頬が緩んだ。

 

 ……いや、でも。お姉となら、あの狭い部屋でも全然いける気がする。むしろ幸せでは? 肩が触れるくらい近くで暮らせる。ご飯を食べる時も近い。眠る時も近い。朝、目を開けたらお姉がいる。

 

「…………」

 

 羨ましい。

 

 ……いやいや。何を考えているんだ私は。これは姉妹としての羨ましさだから。うん。セーフ。たぶん。

 

 そして何より嬉しかったのが、コラボライブの話だった。

 

 お姉のライブ。私のお姉の、晴れ舞台。

 

 頭の中でその言葉を繰り返すだけで、勝手に口角が上がってしまう。先日あれだけ冷たく拒絶されたことすら、一瞬だけ忘れてしまえるほどに。

 

 月見ヤチヨさんとのコラボ。すごい。本当にすごい。やっぱり私のお姉は、すごい人だ。お姉が音楽をやめてから、もう二度と聴けないと思っていたあの演奏を、また聴ける。そう考えただけで、胸がいっぱいになった。

 

 ライブ当日まではまだ日があるのに、今からニヤニヤが止まらない。誰かに自慢したい。

 

『あの人、私のお姉なんです』

 

 って。

 

 きっと、言えないけれど。それでも心の中でなら、何百回だって自慢してやる。

 

 チケットは、すでに手元にあった。こういう抽選に応募するのは初めてだったのに、奇跡的に当選したのだ。当選通知の画面を見た瞬間、私はスマホを抱きしめたまま、ベッドの上を端から端まで転げ回った。壁に頭をぶつけて、お兄に「何の音や」と心配された。

 

 お兄は、チームのメンバーと一緒に観るらしい。私は一人。それでいい。一人で、お姉とかぐやさん、そしてヤチヨさんの紡ぐ音楽に、心ゆくまで浸るのだ。

 

「うぇへへ……楽しみやなぁ……」

 

 そうして少しずつ元気を取り戻していた私だったけれど、ここ数日、今度はお兄の様子がおかしかった。

 

 何というか、よそよそしい。話しかければ普通に返してくれるし、体調も気遣ってくれる。でも、妙に私の顔色を窺っている。何か言いたそうに口を開いて、閉じて、こちらを見る。目が合う。逸らす。

 

「…………」

 

 なんやねん。私、そんな怖い?

 

 それが何日も続くと、さすがに私も落ち着かなくなった。そしてある日の夕食後。洗い物を終えて、お兄が食卓の椅子に座り直したところで、とうとう我慢できなくなった私は、思い切って尋ねた。

 

「なあ、お兄」

 

「ん?」

 

「私が元気になってから……なんかおかしいで」

 

 お兄の肩が、分かりやすく跳ねた。やっぱり何かある。

 

「私に言いたいことあるなら、はっきり言ってくれてええよ」

 

「いや……」

 

「私、お兄にいっぱい迷惑かけてるから……」

 

 言いながら、胸の奥が少しだけ軋んだ。

 

 もしかしたら、本当に迷惑だったのかもしれない。何日も泊めてもらって、挙句に熱まで出して、ずっと世話までさせて。優しいから、お兄は言えないだけで。

 

「……出て行ってほしいなら、実家に帰るし」

 

「ちゃう!! 帰らんといて!!」

 

「ひゃっ!?」

 

 ノータイムだった。耳が痛くなるほどの大声に、私は思わず肩をすくめた。お兄自身も自分の声量に驚いたのか、気まずそうに口元を押さえる。

 

「……ご、ごめん」

 

「びっくりしたぁ……」

 

「いや、ちゃうねん。彼方に出て行ってほしいとか、そういうことやない」

 

「……ほんま?」

 

「ほんまや」

 

 よかった。胸の奥が、少しだけ軽くなる。

 

 そんな私を見て、お兄はますます言いづらそうに眉を下げた。指先でテーブルの端をいじっている。昔から、言いにくいことがある時の癖だ。

 

「いや、あのな……その……言い難いねんけどな」

 

「うん」

 

 そこから、お兄はぽつりぽつりと話してくれた。

 

『SENGOKU』の試合が終わったあと、お姉との関係が修復したこと。そのおかげで、お姉の引っ越しの保証人になれたこと。そして無事に、手続きが完了したこと。

 

 どうやらお兄は、私を置き去りにして自分だけがお姉と仲直りしてしまった、と思って、罪悪感を抱えていたらしい。

 

 私はしばらく、瞬きを繰り返した。

 

「…………それだけ?」

 

「それだけって、お前……」

 

「だって」

 

 本当に、分からなかった。どうしてお兄が、そんな顔をする必要があるのだろう。

 

「私、めちゃくちゃ嬉しいよ」

 

「……え?」

 

「お姉とお兄が仲直りできて」

 

 それは本心だった。嘘なんて一つもない。だって、お兄は何も悪くないのだから。

 

「それに、お兄ってお姉と何か喧嘩したわけでもないんやろ?」

 

「まあ……せやけど」

 

「なら、仲直りできて当然やん」

 

 私は笑った。

 

「お姉も、私と違って……お兄のことは嫌いじゃないと思うし」

 

 口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。でも、笑顔は崩さなかった。

 

「私からしたら、仲直りできた方が自然な感じがするよ」

 

「彼方……」

 

「そんなことで気まずくなるなんて、変なお兄やなぁ。別に気にせんでええのに」

 

「でも……」

 

「私がお姉と仲直りできへんのは――私自身の問題やから」

 

 そう。私自身の問題だ。

 

 私が悪いから。私がお姉を傷つけたから。私がお姉に嫌われているから。お兄は関係ない。だから、お兄まで私に付き合って、お姉と距離を取る必要なんてどこにもない。

 

「せやから、気にせんで」

 

 そう言って、笑う。ちゃんと笑えていると思う。心配させないように。これ以上、お兄に余計なものを背負わせないように。

 

 お兄は何も言わず、しばらく私を見つめていた。どうしてそんなに悲しそうな顔をするんだろう。私はちゃんと、笑っているのに。

 

「……そうか。ありがとうな、彼方」

 

 大きな手が、頭の上に置かれた。ゆっくりと撫でられる。

 

「…………うん」

 

 子供扱いしないで。そう言おうとしたのに、言えなかった。代わりに少しだけ頭を傾けて、その手に甘えた。

 

 温かかった。

 

 ◇

 

 その夜。自分の部屋に戻った私は、ベッドの中でかぐやさんの動画を見返していた。

 

 何事にも全力で、些細なことでも心の底から楽しそうに笑う。見ているだけで、こっちまで元気になる。お姉がいたとはいえ、あのヤチヨカップで優勝したのも納得の魅力だ。

 

 特に好きなのは、グルメインフルエンサーの「まみさん」とのコラボ動画。

 

 かぐやさんが『これ美味しい! めっちゃ美味しい!』と大雑把に叫べば、まみさんがそれを拾って、繊細で細やかな味の表現を付け足していく。この組み合わせが、絶妙なのだ。

 

 しかもかぐやさんは、意外にも料理の知識が豊富で、かなりの料理上手らしい。あの自由奔放な姿から料理上手なんて、正直ずるい。ギャップというやつだ。視聴者が惹きつけられるのもよく分かる。

 

 何より、二人とも本当に幸せそうに食べる。頬を緩めて、目を細めて、心から「美味しい」と思っているのが、画面越しでも伝わってくる。

 

「……一生ご飯食べててほしい」

 

 割と本気で、そう思う。

 

 コラボといえば、美容系インフルエンサーの「ROKAさん」との動画も面白い。かぐやさんもROKAさんも、顔立ちが驚くほど華やかで整っている。あの二人が並んでいるだけで、一枚の絵画みたいだ。

 

 そして、たまに。本当に、たまにだけ。画面の外から、お姉の声が入ることがある。

 

 その度に、私の指は止まる。

 

 巻き戻す。聞く。もう一回。巻き戻す。聞く。

 

「…………」

 

 我ながら気持ち悪い。でも、聞きたいのだから仕方がない。

 

 そしてかぐやさんが、『彩葉可愛い!!』なんて叫ぶのを聞くたびに。

 

「……見たい」

 

 ぽつりと、言葉が落ちる。

 

 一目でいい。見てみたい。この前、久しぶりに会った時ですら息を呑むほど綺麗だったのに、あれ以上綺麗になるなんて反則だ。

 

 私のお姉は世界一可愛い。

 

 ……たぶん。いや、絶対。

 

 そんなふうに動画を漁るうちに、一つ気づいたことがある。かぐやさんは、よく「ハッピーエンド」という言葉を口にする。バッドエンドが大嫌いらしい。

 

 ゲーム配信でも、選択肢を間違えてバッドエンドへ向かいそうになると、『これバッドエンドじゃん!! バッドエンドやだーー!!』と盛大に駄々をこねる。

 

 私はそれを見る度に笑ってしまう。

 

「……分かる」

 

 私だって、ハッピーエンドが好きだ。

 

 物語くらい、最後はみんな笑っていてほしい。誰も泣かなくていい。誰も失わなくていい。大切な人と、一緒にいられる。そんな終わり方が、一番いい。

 

 ――たとえ、そこに自分がいなかったとしても。

 

 私は、画面の中で笑うかぐやさんを見つめた。

 

 知れば知るほど、この人はお姉の隣に立つのに相応しい人だと思えてくる。誰をも惹きつける圧倒的な魅力。自分の想いを、臆することなく真っ直ぐ言葉にできる強さ。そして何より、お姉を心から笑わせて、幸せにできる人。

 

 そんな完璧な人を前にすると、敗北感すら湧いてこない。

 

 この人がいてくれるなら、お姉はもう大丈夫。きっと良い方向へ進んでいける。もう私が心配する必要なんてない。私はただ、遠くから見ていればいい。

 

「……お姉のこと、よろしくお願いします」

 

 聞こえるはずのない相手に、小さく呟いた。画面の中で、かぐやさんが楽しそうに笑っている。

 

「……幸せにしてあげてください」

 

 そして、あなたもお姉と一緒に、幸せになってください。

 

 そう祈りながらスマホを閉じ、電気を消して、暗闇の中で目を閉じた。

 

 ◇

 

 夢を見る。

 

『誰か……助けて……』

 

 女の子が泣いている。

 

 金色の長い髪。透き通るような白い肌。儚げな少女。真っ暗な場所で、たった一人、膝を抱えるようにして泣いている。

 

 最近は、ずっとこの夢ばかり見る。

 

 以前は、この夢と「昔の家族の夢」を交互に見ていた。お父さんがいて、お母さんがいて、お兄がいて、お姉がいて、私がいる。もう二度と戻らない、あの頃の夢。

 

 でも、お姉に会ったあの日を境に、それを見なくなった。代わりに毎晩、この女の子が現れる。

 

『助けて……』

 

 今日も、泣いている。

 

 夢の中だというのに、意識は妙にはっきりしていた。これも以前とは違う。昔はもっと曖昧だった。朝になれば忘れてしまう、輪郭のぼやけた夢だった。

 

 でも今は違う。髪の一本一本まで見える。小さく震える肩も、頬を伝う涙も、苦しそうに歪んだ表情も。全部、鮮明に。

 

「……誰なん?」

 

 問いかけても、声は届かない。

 

 それでも私は、この子を知っている気がした。どこかで。ずっと昔。いや、もっと――。

 

 記憶の引き出しの、一番奥。手を伸ばせば届きそうなところに、答えがある。なのに、あと少しが届かない。

 

「……泣かんといて」

 

 近づこうとする。

 

 以前よりも距離は近い。手を伸ばせば触れられそう。あと一歩。なのに、身体が止まる。

 

 見えない壁に阻まれたみたいに、腕が動かない。足が前に出ない。

 

『助けて……』

 

「助けたいよ。私も……助けてあげたい」

 

 どうしてかは分からない。この子が誰なのかも知らない。それでも、助けなければならないと思った。泣かせたままにしてはいけない。置いていってはいけない。そんな気がした。

 

 あと少し。あとほんの少しで、届く。根拠なんてない。それでも、そう確信していた。

 

 いつか彼女が、私に気づいてくれる。私の声が届く。そして私は、彼女に触れられる。

 

 理由なんて分からないのに、確信に近い予感だけが、胸を締めつけていた。

 

 結局、私は、目と鼻の先にいるのに近づけない彼女の傍らに、そっと腰を下ろした。触れることはできない。声も届かない。助けることもできない。

 

 だったら、せめて。

 

「……一人にはせえへんから」

 

 夢が覚めるまで、ここにいよう。

 

 泣いている少女の隣で。ただ静かに、ずっと。

 

 ◇

 

 目が覚めた。

 

 しばらく、天井を見つめる。夢の感覚がまだ身体に残っていて、胸の奥が妙にざわついていた。手を伸ばせば、あの少女に触れられるような、そんな錯覚。

 

「……また、あの夢」

 

 小さく呟いて、ゆっくり上体を起こす。カーテンの隙間から、朝日が細く差し込んでいた。

 

 今日は――八月三十日。

 

「…………あ」

 

 眠気が一気に吹き飛んだ。

 

 お姉とかぐやさんのライブ当日だ。

 

「……今日や」

 

 思わず頬が緩む。

 

 ずっと楽しみにしていた日。夏休み最後の、大切な思い出になる日。

 

 ……そして、私がお兄の家で過ごす最後の日でもある。

 

 夏休みが終わる。だから明日には、実家に帰らなければならない。

 

 結局、この夏休みの間、お姉とは一度しか会えなかった。もっと話したかった。もっと顔を見たかった。できることなら、もう一度だけ。

 

「彼方」

 

 って。

 

 昔みたいに、呼んでほしかった。

 

「…………」

 

 でも、後悔はない。そう思うことにした。

 

 かぐやさんという素晴らしい人が、お姉の傍にいると確認できた。お姉が私なしでも笑えると分かった。そして、私という存在は――もう、お姉には必要ないのだと理解できた。

 

「……それでええやん」

 

 呟く。誰も答えない。

 

「それで……ええんよ」

 

 もう一度、自分自身に言い聞かせる。

 

 これからは、お姉に関わらないように生きていこう。お姉が嫌がることはしない。会いに行かない。話しかけない。邪魔をしない。

 

 だから、せめて。

 

「……遠くから見るくらいは、許してな」

 

 陰から、ずっと、お姉とかぐやさんの二人を応援しよう。

 

 それでいい。それだけで――。

 

「…………」

 

 胸の奥が、じんわりと痛んだ。

 

 寂しい。

 

 そう認めてしまったら、泣いてしまいそうだった。

 

 だから私は、勢いよく布団を跳ね除けた。

 

「……お兄に甘えよ」

 

 今日はお泊まり最終日なのだ。これくらいの我儘なら、きっと罰は当たらない。

 

 ◇

 

「おはよぉ、彼方」

 

「……おはよ、お兄」

 

 リビングへ向かうと、お兄はもう起きていた。テーブルには、湯気の立つ味噌汁とご飯が二人分並んでいる。私を待っていてくれたらしい。向かいの席に座った。

 

 特別な話は何もしなかった。

 

「寂しくなるなぁ」

 

「……私も」

 

「次いつ来る?」

 

「冬休みとか?」

 

「もっと早よ来てもええんやで」

 

「学校あるもん」

 

「土日」

 

「遠いよ」

 

 そんな、本当にどうでもいい会話。でも、楽しかった。

 

 お兄も途中で、私が甘えたがっていることに気づいたらしい。そこからはもう、笑ってしまうくらい甘やかされた。

 

 外へ連れ出してくれて、夏の日差しの下を並んで歩いた。お母さんへのお土産を、あれでもないこれでもないと一緒に選んだ。「これは絶対いらんって言われる」「ほな、これは?」「それはもっといらん」。美味しいランチもご馳走してくれた。たくさん話した。たくさん笑った。その間だけは、胸の中の寂しさを、忘れていられた。

 

 家に帰った頃には、ライブ開始まであと一時間。

 

「……もうこんな時間」

 

 明日実家に帰るための荷物を、手早く鞄にまとめる。それから、ライブ会場へ向かうために、スマートコンタクトを装着した。

 

「……よし」

 

 ツクヨミへ、ダイブする。

 

 視界が切り替わり、仮想世界の空気が私を包み込んだ。

 

 会場へ向かう道には、すでに大勢の人がいた。みんな、同じ場所を目指している。近づくにつれて人の数は増えていき、到着した頃には――。

 

「……すご」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 凄まじい数の観客。どこを見ても、人、人、人。会場全体が、開演前特有の熱気に包まれている。期待と興奮が、空気の粒になって肌の上を転がっているみたいだ。

 

 私も、その中の一人。

 

 心臓が速い。早く始まってほしい。早く見たい。お姉を。かぐやさんを。ヤチヨさんを。

 

 そして――お姉の演奏を。

 

 数年ぶりだ。生で聴ける。もう二度と聴けないと思っていた。私にとっては、奇跡みたいな時間だった。

 

 やがて、時が満ちる。

 

 照明が、一つずつ落ちていく。ざわついていた声が、波が引くように小さくなる。暗闇。静寂。張り詰めた空気。誰もが、その瞬間を待っていた。

 

 次の瞬間、眩い光がステージ中央に降り注いだ。

 

「――――」

 

 息を呑んだ。

 

 そこにいたのは、このライブのために用意された特別な衣装を纏った、三人。

 

 月見ヤチヨ。かぐや。そして――。

 

「……お姉」

 

 息をするのも忘れた。

 

 美しい。

 

 その言葉しか、出てこなかった。

 

 三人とも息を呑むほど美麗で、気高くて、華やかで、ただそこに立っているだけで、ステージの空気を支配している。

 

 顔面偏差値の暴力。そんな言葉が頭をよぎった。

 

 ヤチヨさんは神秘的だった。美という概念そのものを形にしたみたいだ。かぐやさんは、動画で見ていた時と髪型が少し違っていて、それが驚くほど似合っている。可愛い。いや、可憐。

 

 でも、私の視線は、どうしても一人の少女に吸い寄せられてしまう。

 

「…………」

 

 お姉。

 

 クールな雰囲気を残しながら、それでいて、可愛らしさが凝縮されている。お姉が元々持っている魅力を、一つ残らず引き出したようなスタイリング。

 

「……天才」

 

 誰だ。お姉のスタイリングを担当した人。ありがとう。本当にありがとう。百点満点中、百二十点。いや、二百点でもいい。

 

 三人それぞれが、人を引き込んで離さない、強烈な磁場を放っていた。そして私もまた、抗う術なく引き込まれた一人だった。

 

「ヤオヨロ〜、みんな生きるのはどうですか? いいことあった? それとも泣いちゃいそう? よしよし、全部大丈夫。どんなに孤独な道のりでも、『楽しかったな』って記憶が足元を照らすよ。この時間も忘れられない思い出にしたいから……どうか一緒におどってくれる?」

 

 ヤチヨさんの、透き通るような声。

 

 次の瞬間、会場が揺れた。歓声。熱狂。光。音。そのすべてが一つに溶け合って、ライブの幕が上がった。

 

 ◇

 

 楽しかった。

 

 本当に、本当に楽しかった。

 

 ヤチヨさんとかぐやさんが歌い、踊る。その後ろで、お姉が二人を支えるように、重厚な音を奏でていく。低音が床を伝って足の裏から這い上がり、胸の真ん中で鳴る。

 

「…………っ」

 

 気づけば、私は泣いていた。

 

 嬉しかった。

 

 数年ぶりに聴く、お姉の演奏。あの頃よりも、もっと深く、もっと強く、もっと綺麗になっていた。

 

 ああ、お姉は、私の知らないところで、こんなにも進んでいたんだ。

 

 曲の終盤、お姉がほんの一言だけ、口ずさんだ。

 

『hey, baby』

 

「…………」

 

 私は固まった。

 

 数秒後。

 

「……無理」

 

 膝から力が抜けそうになった。

 

 かっこよすぎる。反則だ。そんなの。妹を殺す気か。

 

 あの瞬間までは、間違いなく、純粋に楽しめていた。

 

 でも、ライブが終盤に近づくにつれて、少しずつ、胸の中に別の感情が生まれ始めた。

 

 最初は、ほんの小さな違和感だった。

 

 お姉の表情から、硬さが消えていく。身体から余計な力が抜けていく。楽しそうに、幸福そうに笑う。

 

「…………」

 

 胸が痛んだ。

 

 お姉が幸せそうに踊っている。お姉が幸せそうに演奏している。お姉が幸せそうに笑っている。

 

 嬉しい。

 

 嬉しいはずなのに。

 

「……なんで……」

 

 涙が止まらない。

 

 お姉が、遠い。

 

 ものすごく遠くへ行ってしまったような気がした。手を伸ばしても、もう二度と届かない場所へ。

 

 私の知らない人たちに囲まれて、私の知らない笑顔を浮かべて、私がいなくても、あんなに幸せそうに笑っている。

 

 それが何より嬉しくて、どうしようもなく寂しかった。

 

「……っ」

 

 唇を噛む。

 

 違う。こんなことを思ってはいけない。

 

 私は決めたじゃないか。もう、お姉に関わらないって。お姉にはかぐやさんがいる。素敵な仲間がいる。私は必要ない。

 

 分かっていた。ちゃんと、分かっていたはずなのに。

 

 それなのに、心の奥底にずっと押し込めていたものが、蓋を押し上げて溢れてくる。

 

 ――私を、必要としてほしかった。

 

「…………っ」

 

 認めた瞬間、涙が一粒、頬を伝った。

 

 本当は、ずっと、お姉に必要としてほしかった。

 

 手の届く距離にいてほしかった。名前を呼んでほしかった。昔みたいに、私を見てほしかった。

 

 私が、お姉を幸せにしたかった。

 

「……馬鹿やなぁ、私」

 

 小さく笑う。涙は止まらない。

 

 醜い。

 

 これは、私の我儘だ。

 

 先日、お姉に拒絶された時、私という存在は不要なのだと理解したはずだった。なのに、まだ諦められていない。

 

 心のどこかで、ずっと待っている。

 

 いつか、お姉が振り返ってくれるんじゃないかって。

 

 もう一度、昔みたいに。

 

『彼方』

 

 って。

 

 優しく呼んでくれるんじゃないかって。

 

「……ほんまに……どうしようもない妹やなぁ……」

 

 私は必死に、その感情を押し殺した。

 

 違う。今日は、そんなことを考える日じゃない。

 

 祝福しよう。お姉を。

 

『素敵な人に出会えたね』

 

『幸せになってくれてありがとう』

 

 それだけでいい。

 

 私は、それだけを願えばいい。

 

 そして、ラストの新曲が終わった。

 

 三人の顔には、ライブをやり遂げた歓喜が浮かんでいた。かぐやさんがお姉に何かを話しかける。お姉が、少し照れくさそうに言葉を返す。

 

「……ふふ」

 

 泣きながら、私は笑った。

 

 何を話しているのかなんて聞こえない。でも、微笑ましい。

 

 ヤチヨさんが客席へ手を振る。会場を埋め尽くす、万雷の拍手。

 

 きっと、これで終わる。

 

 最高の思い出として。

 

 私の夏休みは――。

 

 その時だった。

 

「…………え?」

 

 メインモニターに映っていた三人の姿が、突然ノイズと共に掻き消えた。

 

 代わりに現れたのは、赤い文字。

 

『2030/9/12』

 

「……九月、十二日?」

 

 不穏な赤。画面いっぱいに表示された日付。

 

 何かの告知? 新しいイベント? でも、どうして――こんなに、嫌な感じがするのだろう。

 

 背筋を、冷たいものが走った。

 

 私は反射的に、ステージへ視線を戻した。

 

 そして。

 

「…………え?」

 

 自分の目を疑った。

 

 お姉たちのすぐ近くに、何かがいる。

 

 白い人型。

 

 頭には――提灯。

 

「……なに、あれ」

 

 知らない。あんなもの、ツクヨミの中で一度も見たことがない。

 

 なのに。

 

「…………っ」

 

 心臓が、大きく跳ねた。

 

 知っている。

 

 違う。

 

 知らない。

 

 でも、知っている。

 

 何だ、この感覚。

 

 どこかで私は、あれを――。

 

「……かぐやさん……!」

 

 白い人型が、ゆっくりと、かぐやさんへ近づいていく。

 

 お姉たちは気づいていない。

 

「後ろ……!」

 

 叫ぶ。

 

 届かない。

 

「後ろ!!」

 

 もう一度叫ぶ。でも、この歓声の中では、私の声なんて届くはずがない。

 

 提灯頭が、手を伸ばす。

 

「かぐやさん!!」

 

 白い指先が、彼女に触れた。

 

 その瞬間。

 

「――――っ!?」

 

 胸の奥で、何かが弾けた。

 

「う……く……っ!?」

 

 私は、その場に崩れ落ちた。

 

 痛い。

 

 熱い。

 

 胸の奥が焼ける。

 

 何かが、身体の中を無理矢理駆け巡っている。

 

「な……に……これ……」

 

 息ができない。

 

 熱い。熱い。熱い。

 

 かぐやさんにあれが触れた瞬間、私の身体が狂った。まるで、あの人に呼応するみたいに。

 

「はっ……ぁ……っ」

 

 呼吸が浅くなる。頭が割れそうに痛い。脳を直接殴られているみたいだ。視界が揺れる。身体が、自分のものではなくなっていく。

 

 怖い。

 

 何が起きているの。

 

 誰か。

 

 助けて。

 

 その時、声がした。

 

『輪廻を回して』

 

「…………え?」

 

 誰。

 

『頑張って』

 

 頭の中。

 

 違う。

 

 もっと深いところ。

 

 魂の奥に、直接声が響く。

 

「だれ……?」

 

『大丈夫』

 

 大丈夫なわけがない。

 

 息もできない。身体が千切れそうに痛い。

 

 怖い。

 

 苦しい。

 

『かぐやさんを助けないと』

 

「……なん……で……」

 

 私が。

 

 どうして。

 

 かぐやさんを。

 

 あの人に、私の助けなんて必要ない。そもそも、私なんかに、誰かを助けることなんて――。

 

『私ならできる』

 

「…………」

 

 何を根拠に。

 

『次の8000年をお願い』

 

「はっ……せん……?」

 

 意味が分からない。

 

 そんな途方もない時間。何の話をしているの。

 

 私は、ただの――。

 

『お姉を幸せにして』

 

「――――」

 

 それだけは。

 

 それだけは、胸の奥に深く突き刺さった。

 

「……お姉……」

 

 幸せにしなきゃ。

 

 私にできるのなら。

 

 今度こそ。

 

 お姉を、幸せに――。

 

 遠くで、ヤチヨさんの声がする。でも聞き取れない。

 

 頭が痛い。

 

 痛い。

 

 痛い。

 

「たす……け……」

 

 誰か。

 

 助けて。

 

 お願い。

 

 苦しい。

 

 怖い。

 

 身体が燃える。

 

 助けを呼ぼうと口を開く。でも、声が出ない。

 

 誰にも届かない。

 

「…………っ」

 

 そうだ。

 

 ログアウト。

 

 しないと。

 

 ここから出ないと。

 

 私は残った意識をかき集めて、震える指を必死に動かした。視界が歪む。何度も指が空を切る。

 

「お願い……」

 

 届いて。

 

 やっと、指先がログアウトボタンに触れた。

 

 押す。

 

 視界が、反転した。

 

 ◇

 

「――っ、はぁ……っ!」

 

 現実。

 

 戻った。

 

 でも。

 

「……なんで……」

 

 治らない。

 

 身体の異常が、止まらない。

 

 自分の肉体が鉛みたいに重い。それなのに、身体の内側だけが、異常なほど熱い。

 

「う……ぁ……」

 

 立っていられない。

 

 壁に手をつく。一歩進む。膝が崩れる。耐える。また一歩。

 

 その間も、奇妙な感覚がずっと身体の中にある。

 

 誰かが、私の中に入り込んできたような。

 

 違う。

 

 そうじゃない。

 

 これは、もっと、おかしい。

 

 まるで、ずっと昔から、私の中に誰かがいた。

 

 そして今、その誰かが――。

 

「……起き……た……?」

 

 自分の口からこぼれた言葉に、自分自身が恐ろしくなった。

 

 視界が暗くなる。

 

 意識が遠ざかる。

 

「……お姉……」

 

 どうにかベッドまで、一歩、また一歩と進む。そして最後は、倒れ込むように、ベッドへ身体を投げ出した。

 

 もう、指一本動かせなかった。

 

 意識が、闇の底へ沈んでいく。

 

 その寸前。

 

 なぜか、夢の中で泣いていたあの金髪の少女が、頭に浮かんだ。

 

 ――誰か、助けて。

 

 ずっと、そう言っていた少女。

 

 私は、あの子を助けたいと思った。一人にしたくないと思った。

 

 でも今になって、どうしてだろう。

 

『誰か……助けて……』

 

 そして、完全に意識を失う。

 

 最後に聞こえた声が、彼女のものだったのか。それとも、私自身のものだったのか。

 

 もう――分からなかった。

 

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