あなたに奉仕部   作:tomozow

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あなたに奉仕部

静まり返った放課後の教室。平塚静に背中を押されるまま、比企谷八幡は足を踏み入れた。

「――で、なんで俺がここにいるわけ?」

だるそうな声を出しながら視線を上げると、窓際に立つ一人の少女の姿が飛び込んできた。

西日の射す放課後、美しい黒髪を風に揺らしながら、静かに文庫本をめくる少女――雪ノ下雪乃。

その横顔を見た瞬間、八幡の思考は一瞬でフリーズした。

(なんだ、これ……)

整いすぎた美しい顔立ち。凛とした佇まい。まるでガラス細工のように繊細でありながら、近づく者を寄せ付けないほどの気高いオーラ。

いつも周囲を斜に構えて見ているはずの八幡の胸の奥で、今まで感じたことのない激しい音が鳴り響いた。

ドキン、と、自分のものとは思えない大きな心臓の音が鼓膜を打つ。

(ひとめ、ぼれ……? いや、待て待て待て! 俺が? この完璧超人美少女に? おいおい、冗談だろ、俺の人生の辞書にそんなラブコメイベントは予定されていないはずだが……!)

混乱する頭とは裏腹に、瞳は彼女の姿から一秒たりとも離せなくなっていた。

「……平塚先生。部室に許可なく不法侵入するのは感心しないわね。それに、その……ゴミを見るような目をさらに劣化したバージョンにしたような男子生徒を連れ込むのは、美観を損ねるわ」

冷ややかな声とともに、雪乃がゆっくりとこちらを振り返った。

氷のように冷たい、けれど息をのむほど美しいその瞳が八幡を捉える。

普通ならその毒気に気圧されるところだが、いまの八幡の脳内は別の意味で大パニックに陥っていた。

(やべえ、怒ってる顔すら綺麗すぎんだろ……。なんだこの破壊力は。俺のメンタルブロックが秒で決壊しかけてるぞ……!)

「おい、最初から全方位に毒を吐くな。こっちだっても好き好んでこんな猛獣の檻に足を踏み入れたわけじゃ――」

動揺を隠そうと、八幡は必死にいつものひねくれたトーンを作って言い返す。しかし、その声は心なしか普段より少しだけ上ずっていた。

雪乃はふんっと綺麗に鼻を鳴らし、あきれ果てたように目を細める。

「来る拒むの権利が私にあるなら、今すぐその挙動不審な男子を窓から放り投げて差し上げたいところね。一体どういう風の吹き回し? 先生の独断で、また面倒な厄介事を拾ってきたわけ?」

「フッ、ガラクタとはいい度胸だな、雪ノ下。だが、こいつのひねくれ具合は一級品だ。お前なら、いい刺激になるかもしれないと思ってな。――ま、せいぜい有効活用してくれ」

パァン、と豪快に笑いながら平塚は八幡の背中を叩き、逃げるように素早く扉を閉めて去っていった。

残されたのは、静まり返った教室と、急速に高鳴る八幡の鼓動。

「……最悪だ」

雪乃が冷ややかに呟く。

しかし、その直後の八幡の心中は、先ほどとはまったく違う意味で「最悪」に染まっていた。

(最悪だ……完全に、一目惚れってやつじゃないか……!)

真っ赤になりそうな顔を必死に隠しながら、八幡は心の中で頭を抱えるのだった。

 

「――で、いつまでその場で突っ立っているつもりかしら?」

呆れ返ったような、冷ややかな声が教室に響く。

腕を組んだ雪ノ下雪乃は、いかにも不快そうな、まるで汚物を見るような目を八幡に向けた。

「そこまで言われて居座る神経が私には理解できないけれど……まさか、あなた、本気でここに居続ける気? 冗談はやめてちょうだい。空気の鮮度が落ちるわ」

相変わらずの容赦ない毒舌。だが、先ほどの一目惚れ補正がかかった今の八幡の脳内では、その冷たい言葉すらも極上のクールビューティーボイスとして再生されていた。

(やばい、すげえ冷たい……。だが、それがいい。なんだこの圧倒的な透明感と破壊力は。俺のメンタルブロックなんて秒で粉砕されてるぞ……!)

美女に対する耐性がゼロの八幡は、心の中で盛大に絶叫しながらも、必死に死んだ魚のような目を据え直す。

(逃げ場はない。なら、やるしかない。この高校生活、俺の全リソースは雪ノ下雪乃に捧げるためにあったんだ……!)

「……悪かったな、美少女様。あいにく俺は打たれ強いタチでね。この牢獄……じゃなくて、部室の居心地が意外と悪くないもんでね、そう簡単には消えてやらないさ」

わざと気だるげに返したつもりの八幡だったが、心の中ではひそかに全霊で敬礼していた。

対して雪乃は、わずかに眉をひそめ、心底うんざりしたといった様子で小さく息を吐き出す。

「……勝手になさい。どうせすぐに音を上げて、自発的に這い出すことになるとは思うけれど」

ふん、と綺麗に顔をそむける雪乃。

その横顔をこっそり見つめながら、八幡は心の中で深く、そして固く誓うのだった。

(絶対にこの部活を辞めない。そして、このお方の下僕として一生をまっとうしてやる――!)

 

 

放課後の奉仕部室。

雪ノ下雪乃が文庫本から視線を外し、やれやれとばかりに小さく息を吐いた。

「……ねえ、比企谷くん。さっきからじっとこっちを見つめているけれど、いったい何を考えているのかしら。気味が悪いからやめてちょうだい」

冷ややかな、けれどどこか警戒の色を帯びた声が飛んでくる。

だが、その毒を含んだ言葉すら、いまの八幡にとっては心地よいBGMに等しかった。

(何を考えているか、だと……?)

八幡は心の中で、自嘲交じりにフッと息を漏らす。

一般世間から見れば、今の自分の姿は異常の一言に尽きるだろう。陰キャをこじらせた平目魚のような男が、学年一の美少女から毎日のように冷たい視線と罵倒を浴びせられ、それなのにどこか満たされた顔で紅茶を淹れている。端から見れば、重度のストーカーか、あるいは頭のネジが盛大にブッ飛んだ変質者だ。

(だがな、雪ノ下……お前には分からないだろうよ)

八幡はカップを拭く手を止め、窓の外の茜色の空に視線を走らせた。

これまでの人生、比企谷八幡の青春は徹底して「ぼっち」だった。友人関係のいざこざ、スクールカーストの理不尽、スクールライフという名の終わりのない処刑場。傷つくのが怖くて最初から心を閉ざし、周囲を冷めた目で切り捨てることでしか、自分の尊厳を守れなかった男だ。

そんな、腐りきった澱(おり)のような青春を送ってきた人間の前に、突然現れたのが彼女だった。

(あの時、平塚の野郎に無理やりここに引きずり込まれた瞬間は、本気で呪ってやったさ。だが、今となっては神様仏様、そしてあの暴走教師に足を向けて寝られない。――俺の人生、ここで完全にバグったな)

どれだけ冷たくあしらわれても、どれだけ「不快だ」「目障りだ」と言われようとも、その奥にある彼女の凛とした美しさ、曲がったことが大嫌いな真っ直ぐな気高さに触れるたび、八幡のなにかが音を立てて浄化されていくような感覚があった。

汚濁にまみれた自分の日常に、こんな眩しすぎる光が差し込むなんて思ってもみなかった。

恐れ多くて手など届かない。けれど、こうして「害虫」や「下僕」というポジションでもいいから、この絶対零度の女王の傍に居続けることが許されるなら――。

(それが俺の、歪んだ青春の答えってやつだ)

八幡はいつもの死んだ魚のような目を少しだけ細め、けれど心の中ではかつてないほど真剣に、ぼそりと呟いた。

「なに、ちょっとばかり……この底辺の日常に訪れた、身分不相応な奇跡のありがたみを噛み締めていただけさ」

「……は? また何だかよく分からない独り言を……ほんとうに、今日という日は一段と気味が悪い男ね」

心底うんざりしたように眉をひそめる雪乃。

だが、その冷たい表情のまま、彼女は再び手元の文庫本へと視線を戻した。

(――それでいい。その冷徹な視線の端っこにでも、俺という残骸が引っかかっているだけで、今日のところは十分すぎるほどお釣りがくるさ)

紅茶の温かな湯気が、夕暮れの静かな部室にゆっくりと溶けていく。

誰にも理解されない、けれど本人にとっては世界で一番尊い歪な忠誠心を胸に、八幡は再び静かに執事としての仕事を再開するのだった。

 

 

「……ねえ、比企谷くん」

窓際に座ったまま、雪ノ下雪乃は手元の文庫本をパタンと閉じた。

その冷ややかな、しかしどこか呆れの色を帯びた瞳が、まっすぐにこちらを捉える。

「なんだよ、雪ノ下。お説教の続きか、それともまた一段と切れ味の鋭い毒舌の追加かい?」

八幡がいつもの気だるげなトーンで返すと、雪乃はわずかに眉をひそめ、不満げに小さく息を吐いた。

「……本当に、あなたという人は毎回よくそんなに的外れなことばかり口にできるものだわ。お説教でも毒舌でもないけれど……」

ふん、と顔を少しそむける雪乃。その白い頬が夕陽に照らされ、かすかに赤みを帯びているように見えるのは気のせいだろうか。

(――っ。おいおい、なんだ今の仕草は……。名前を呼んでくれただけで脳のキャパシティを超えるというのに、そんな表情まで見せられたら本気で心臓がもたないんだが……!)

内面で激しく頭を抱えながらも、八幡は必死に死んだ魚のような目をキープする。

「で、なんだよ。俺の顔に何かついてるか? それとも、俺が淹れた紅茶の温度が気に入らなかったか、雪ノ下」

「……言いたいことは山ほどあるけれど、今はやめておくわ。ただね、比企谷くん」

雪乃は小さく息をつくと、もう一度まっすぐに八幡を見据えた。その瞳には、いつもの氷のような冷たさではなく、どこか気恥ずかしさと、隠しきれない諦めがまざっていた。

「……あまり私をそんな風に、ありがたがるような目で見るものじゃないわ。……なんだか、調子が狂うでしょう」

小さく零されたその言葉に、八幡の思考は完全にフリーズした。

(――いま、なんて……?)

頭の中で盛大に警報音が鳴り響く。夕暮れの静かな部室には、ただ穏やかな紅茶の香りと、二人の間に流れる奇妙に心地よい沈黙だけがいつまでも残っていた。

 

放課後のチャイムが鳴り響き、生徒たちが慌ただしく下校していく足音が遠ざかっていく。

静けさを取り戻した2年J組の教室――改め、奉仕部の部室。

窓際の特等席で文庫本を開いていた雪ノ下雪乃は、不意にページをめくる手を止め、ちらりと教室の入口へと視線を向けた。

そこには、まだ誰もいない。

(……来るかしら、あのひねくれた下僕(・・・・・・)は)

自分で心の中で思い浮かべたその物騒な単語に、雪乃はわずかに眉をひそめ、すっと息を吐き出す。

何を考えているのか。あんな不気味な目を向けられ、理不尽に言いたい放題の毒を吐き返されるというのに、放課後になると自然とあの男の足音が聞こえてくるのを待っている自分がいる。

(まさか、私が……あんな迂闊で、気味の悪い男子生徒の来訪を心待ちにしているというの? ……ばかばかしい)

微かに頬を赤らめつつ、雪乃は慌てて首を振って本に目を戻した。認めたくはない。認めたくないけれど、あの淀んだ魚のような目をしながらも、絶妙な温度と香りの紅茶を差し出し、どこか斜に構えた軽口を叩いてくる退屈しのぎが、いつの間にか一日のうちで嫌いではない時間になってしまっているのも事実だった。

「……遅いわね。まさか途中で道に迷ったわけでもあるまいし」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟いたその時。

ガチャリ、と重い引き戸が無遠慮に開いた。

「――わりい、購買のパンが売り切れてて少し遠回りした」

気だるげな声音とともに、見慣れた死んだ魚のような目をした比企谷八幡がひょっこりと顔を出す。その手には、いつもの雪乃の好みに合わせた温かい紅茶の入ったポットが握られていた。

その姿を見た瞬間、雪乃の胸の奥で、ほんの小さな波紋が広がる。

もちろん、表情には微塵も出さない。むしろ、いつもの数割増しで冷ややかな、氷点下の視線をその不法侵入者へと向けた。

「……遅いわよ、比企谷くん。部室を個人の休憩所か何かと勘違いしているのかしら。だいたい、あなたのその生気のない顔を見ているだけで、こちらの胃が痛くなりそうね」

「おっと、初対面から絶好調の毒舌ありがとうございます、雪ノ下様……いや、雪ノ下。今日も今日とて麗しいことで何よりだ」

悪びれもせず、いつものように自分の定位置へと歩み寄り、手際よく紅茶を淹れ始める八幡。

その手際の良さに、雪乃はふんっと綺麗に鼻を鳴らしてみせる。

「……勝手に入ってきて勝手に茶を淹れないでちょうだい。……まあ、淹れてしまったというなら、仕方なく付き合ってあげなくもないけれど」

ツンとそっぽを向く雪乃の横顔を、八幡は心の中で「あー、今日も最高に尊い」と盛大に歓喜しながら眺めている。

そんな二人の歪で静かな放課後は、今日もこうして、どちらにとってもかけがえのない時間として穏やかに過ぎていくのだった。

 

放課後の奉仕部室。

いつものように紅茶の湯気を眺めながら、八幡はふと、自分の中にある恐ろしい事実に気づいてしまった。

(……待てよ)

思考の海に沈んでいた八幡の脳内で、突如として冷厳な現実が警報音を鳴らす。

考えてみれば、今の自分は毎日放課後この部室に居座り、学年どころか校内でもトップクラスに名を馳せる完璧超人・雪ノ下雪乃の隣(あるいは執事ポジション)を陣取っている。ということは、第三者から客観的に見れば、二人は「同じカテゴリー」、すなわち「奉仕部という同じグループの人間」としてひとくくりに見られているということだ。

(……やばい。それってつまり、世間一般の目から見れば、あの気高い美少女の隣に、この生気のない死んだ魚の目をし、寝癖のついたボサボサ頭で、サイズ感の微妙な制服を着た害虫が並び立っている絵面になるのでは……!?)

想像した瞬間、八幡の背筋に凍てつくような冷汗が流れた。

それはあまりにも雪ノ下雪乃という存在に対する冒涜であり、周囲からの「美女と野獣」どころか「美女と産業廃棄物」扱いに耐えかねた校内治安維持委員会(架空)から即座に排除されかねない大惨事だ。

(いくら俺が鉄のメンタル(?)の持ち主だとしても、これではいけない。あんな圧倒的な美貌の持ち主の横に並ぶなら、せめて「生物として同じ土俵に立っている」と周囲に誤認させるくらいの最低限の身嗜みが必要不可欠だ……! いや、むしろ雪乃様にこれ以上「美観を損ねる」と言われないための、最低限の礼儀という名の防衛策だ!)

心の中で冷や汗を流しながら、八幡は深く、そして重く決意した。

(――こうなったら、プロの力を借りるしかない)

 * * *

その日の夜、比企谷家。

自室のベッドに転がっていた八幡は、意を決してリビングへと足を踏み入れた。そこには、ちゃぶ台の前に座り、スマホをいじりながらスナック菓子を口に運んでいる我が妹・小町の姿があった。

「お兄ちゃん? なに、そんな真剣な顔して。もしかして、また変なアニメの悟りでも開いたの?」

ジロリと疑うような目を向けてくる小町に対し、八幡はぐっと拳を握りしめ、かつてないほど神妙なトーンで切り出した。

「……小町。頼みがある」

「えっ、なに、急に気持ち悪い。お小遣いなら今月分はもう渡したよね?」

「金の話じゃない。……お前の、その……オシャレとやらの知見を、だな。この愚劣な兄に少しだけ分けてもらえないだろうか」

「……は?」

小町の手からスナック菓子の袋がポトリと落ちた。まるで化け物を見るような、いや、兄が ついに頭の血管でも切れたのかと本気で心配するような目を向けてくる。

「お兄ちゃんが、オシャレ……? あの、いつもドン・キホーテの特売品みたいな服を着て、無駄に哲学的な言い訳を垂れているお兄ちゃんが……?」

「そうだ。具体的に言うと、髪型をどうにかして、服のサイズ感を見直して、あと……その、なんだ、清潔感のある人類に見えるような変身をしたい」

必死に訴えかける兄の顔を見て、小町はしばらく絶句していたが――次の瞬間、彼女の瞳にキラリと怪しい光が宿った。

「……ふーん? なるほどねぇ?」

ニヤニヤと悪戯っぽく笑いながら、小町はスマホを放り出して立ち上がった。

「お兄ちゃんが自発的に身嗜みを気にし出すなんて、世界が滅亡する前兆か、あるいは――よっぽど可愛い女の子に『不気味』って言われすぎてショックを受けたかのどっちかだね?」

「うるさい、詮索するな。いいから協力するのかしないのか!」

「する! めちゃくちゃする! お兄ちゃんの改造計画とか小町が一番やりたかったやつじゃん!」

こうして、妹の手による容赦ないスパルタ改造計画が、翌日の休日に実行されることが決定したのだった。

(――待ってろよ、雪乃。来週からの俺は、一味違うからな……!)

心の中で遠い目をする八幡の背中に、小町の「まずは眉毛を整えるところからだね!」という楽しげな声が容赦なく突き刺さるのだった。

 

週末を挟んだ数日間、比企谷家で行われた妹・小町による徹底的なスパルタ改造計画。その成果は、週明けの奉仕部室ですさまじい破壊力を発揮することになった。

ガチャリ、といつものように重い引き戸が開く。

「――わりい、少し遅くなった」

入ってきた八幡の姿を見た瞬間、窓際に座っていた雪ノ下雪乃は、手元の文庫本をピタリと止めた。

いつもならボサボサだった前髪は絶妙なバランスですっきりと整えられ、野暮ったかった眉毛もキリッと端正な形に整えられている。もともと顔立ちのパーツ自体は悪くなかったため、服装のサイズ感を見直し、髪型を変えるだけで、見違えるほどの引き締まった「雰囲気イケメン」へと変貌を遂げていた。

(……は? 誰よ、この……多少は見られる生き物は……)

絶句し、思わず目を丸くする雪乃。

だが、驚きはそれだけではなかった。八幡はスッと自身の席に座ると、ポケットから薄い金属フレームの眼鏡を取り出し、カチャリと耳にかけてみせたのだ。

知的な光を反射するレンズの向こうで、その死んだ魚のような目がいつもよりどこか冷徹に、そして妙に端正な輪郭を引き立てる。まるで英国の執事か、あるいは冷徹なインテリ参謀のような雰囲気を纏いながら、彼は手際よくいつもの紅茶を淹れ始めた。

「……なによ、その格好は」

動揺を隠すように、雪乃はわずかに眉をひそめ、冷ややかな声を絞り出した。

「ん? ああ、これか。いや、小町に『あまりに不気味だと部室の美観を損ねるから最低限の人類になれ』って脅されてな。ついでに、最近は数学の勉強も始めてみたところだ。国語だけ偏ってても教養のバランスが悪いと思ってね」

ひょうひょうと言いながら、八幡はカチャリとシャーペンを鳴らし、分厚い数学の参考書を机に広げた。

実際にここ数日、雪乃と対等に渡り合う(あるいはスマートに補佐する)ための知性を手に入れようと、八幡は苦手だった数学の難問にも本気で取り組んでいた。眼鏡を押し上げながら問題文を睨むその姿は、端から見れば驚くほど知性的で、完璧超人の隣に立つ「執事」として完全に様になってしまっている。

(――ぐっ、なんだその気取った態度は……! いつもみたいに卑屈な言い訳を並べていればいいものを、なんだか急に大人っぽくなって……い、いや、別に意識なんかしてないわよ!)

雪乃は心の中で激しく動揺しながらも、それを絶対に表に出さないよう、精一杯冷ややかな視線を向けた。

「……ふん。見た目を多少着飾ったところで、あなたのひねくれた根性そのものが隠れるわけではないけれど……まあ、以前の生気のない害虫みたいな有様に比べれば、視界のノイズが減ったことだけは認めてあげるわ」

「おっと、美少女様からの温かいお褒めの言葉、ありがたく受け取っておくさ」

フッと言いながら、完璧な角度でカップを差し出す八幡。

そのあまりの執事っぷりと、少しだけ垢抜けたイケメンぶりのギャップに、雪乃は顔をわずかに赤らめながら、そっとそっぽを向くのだった。

 

静まり返った放課後の部室。

カチャリ、とシャーペンがノートを走る音が響く中、窓際の文庫本からふと視線を外した雪ノ下雪乃は、じっと目の前の少年の姿を見つめていた。

どうにも気になって仕方がないといった様子で、雪乃はわずかに眉をひそめ、すっと息を吐き出す。

「……ねえ、比企谷くん」

「ん? どうした、雪乃。難しい数式の解法でも教えてほしいか? この際だから、この俺がスマートに解説してやってもいいが」

眼鏡を押し上げながら気だるげに返す八幡に、雪乃はジトッとした目を向けつつ、どこか探るようなトーンで尋ねた。

「そういうことじゃないわよ。……なんだか急に髪型を変えたり、服のサイズ感を見直したりして……一体、どうしたのかしらね。あなたらしくもない」

いつもなら「どうせまた何か余計な感傷に浸っているのだろう」と切り捨てるところだが、今日の八幡は妙に洗練されていて、見違えるほど整った顔立ちが際立っている。不意を突かれたような居心地の悪さを覚えつつ、雪乃はその理由をどうにも言葉にしがたい思いで見据えていた。

その問いに、八幡はシャーペンをくるりと回し、相変わらず死んだ魚のような目を向けたまま、しかしごく自然な調子でさらっと言い放った。

「決まってるだろ。同じ奉仕部なんだから、俺の見た目が悪かったら、隣にいるお前まで周囲に変な目で見られるだろ」

シャーペンをノートに置き、八幡はさらに続ける。

「いくら俺が打たれ強い害虫だとしても、学年一の美少女の隣に産業廃棄物が立っているような絵面をこれ以上放置するのは、対外的にもお前の美観的にもよろしくない。……まあ、最低限の礼儀ってやつさ」

――同じ奉仕部なんだから、お前まで悪く思われるだろ。

――お前の美観的にも。

さらりと言いのけられたその言葉は、計算されたものでも、お世辞でもなく、あまりにも真面目に、そして彼女を気遣って(?)発せられたものだった。

その瞬間。

(っ……!)

雪乃の胸の奥が、文字通り跳ねた。

いつもは容赦のない毒舌で切り捨ててくるくせに、ふとした拍子にそんな真っ直ぐな理由で――それも自分の身を案じるかのように、さらっと言ってのける。

心臓が不規則な音を立てて波打ち、さっきまで冷ややかだったはずの頬が一気にカッと熱を帯びるのを感じた。

(なんなの、一体……。そんな顔で、そんな当たり前のように……っ)

動揺を隠しきれず、雪乃は慌てて手元の文庫本を顔の高さまで持ち上げ、必死に表情を隠した。

「そ、そう……。勝手にすればいいわよ。……べ、別に、あなたがどうなろうと私の知ったことではないけれどね」

上ずりかけた声を必死に抑え込みながら、ツンとそっぽを向く雪乃。

だが、その白く美しい耳たぶが見事に真っ赤に染まっていることに、眼鏡の奥で気づいた八幡の心臓もまた、盛大にバクバクと暴れ狂うのだった。

(――っ! やべえ、今の下手をしたら好感度爆上がりイベントじゃないか……! いや落ち着け俺、自惚れるな、きっと単に『変な男と組まされて迷惑』って意味に違いない……!)

互いに顔を赤くしながらも、それを絶対に悟られないよう必死に別の作業に没頭する二人の間には、いつもの毒舌とは少し違う、甘く静かな気まずさがいつまでも漂い続けていた。

 

放課後の静かな奉仕部室。

いつものように眼鏡をかけ、参考書に向かって黙々と数学の数式を解く八幡の姿は、すっかり「デキる執事」の風格を纏っていた。

――だが、その変化は、思わぬ波紋を校内に広げることになっていた。

「ねえ、聞いた? 最近、2年の比企谷くん、なんか急にカッコよくなってない?」

「わかる! あの気だるげな感じが逆にインテリっぽくて、しかも眼鏡が似合いすぎ……」

ここ最近、小町のスパルタ指導と「雪乃の隣に立っても恥ずかしくないように」という一心で身嗜みを整えた結果、もともと悪くなかった目鼻立ちやスリムな体型が思わぬ形で日の目を見ることになってしまった。廊下すれ違いざまに女子生徒がひそひそと囁く声は、もはや珍しい光景ではなくなりつつある。

もちろん、本人は相変わらず死んだ魚のような目を貫いており、モテているという自覚すらない。彼にとっての原動力はあくまで、「学年一の美少女の隣に産業廃棄物を立たせるわけにはいかない」という、ある種の保身と過剰なまでの忠誠心(?)でしかなかった。

しかし、その噂は当然、当人の耳にも届くことになる。

数日後の昼休み、あるいは放課前の廊下――。他クラスの女子がチラチラと2年J組の教室を覗き見たり、八幡の噂話をしたりする光景を、雪ノ下雪乃は何度も耳にしていた。

(……なんなのかしら、最近のあの男は)

窓際の席で文庫本を開きながら、雪乃は不機嫌そうに細い眉をひそめていた。

別に、比企谷くんがどうなろうと私の知ったことではない。むしろ、以前のボサボサ頭でうつむいていた頃よりは、部室の美観を損ねないという意味でマシになったと評価していたはずだ。

なのに――。

(どうして、他の女どもがわざわざ噂したり、あまつさえ色目を使ったりするのかしら……っ)

本をめくる指に、無意識のうちに力がこもる。

あんな風に見た目を整えさせたのは、「同じ奉仕部として私に恥をかかせないため」だと、あいつはかつて真顔ですいすいと言い放った。理屈は通っている。通っているはずなのに、いざ周囲の女子たちが彼の変化に気づき、キャーキャーと騒ぎ立てる姿を見せつけられると、胸の奥が妙にざわついて仕方がなかった。

(……勝手に私の隣に居座る許可を得ておきながら、よその女にいい顔を振りまくつもり? ……いえ、あいつは相変わらずあの死んだ魚の目をしているだけで、別に愛想を振りまいているわけではないけれど……)

それでも、どこか面白くない。

自分だけのもの――と表現するのはあまりに傲慢で気恥ずかしいが、少なくとも「あのひねくれた下僕の新しい一面」は、自分だけが一番近くで知っているはずの特権だったような気がしていたのだ。それを他のギャラリーどもに面白おかしく詮索されるのが、どうしようもなく不愉快で、苛立たしい。

ガチャリ、と重い引き戸が開いた。

「――わりい、購買のパンが売り切れてて少し遠回りした」

いつものように気だるげな声音を響かせながら、整えられた髪と金属フレームの眼鏡を光らせた八幡が部室に入ってくる。その手には、いつもの紅茶のポット。

雪乃はピタリと文庫本を閉じると、これまでにないほど氷点下に冷え切った、ねっとりと冷ややかな視線を彼に向けた。

「……遅いわよ、比企谷くん。すっかり学内の人気者気取りで、あちこちで黄色い声を浴びてでもいたのかしら?」

「は? なんだよいきなり。相変わらず絶好調の毒舌だな……って、おい、なんでそんなに機嫌が悪いんだよ」

理不尽なまでのトゲを含んだ雪乃の言葉に、八幡はキョトンとした顔で首をかしげる。

その、まったく周囲のモテ事情を自覚していない無防備な顔を見るたび、雪乃はさらにイライラを募らせるのだった。

(……本当に、どこまでも要領の悪くて、憎たらしい男ね……っ)

顔をそむけ、小さく唇を尖らせる雪乃の耳たぶが、怒り(あるいは別の何か)でほんのりと赤くなっていることに、八幡はまだ気づいていなかった。

 

ガチャリ、といつものように重い引き戸が開く。

「――わりい、少し遅……」

言葉が途中で引っかかった。

いつものように静かで、雪乃と二人だけの聖域(だと思っている空間)であるはずの奉仕部室に、見知らぬ明るい声が響いていたからだ。

「あ、ヒッキーじゃん! おっかしーなー、平塚先生に連れてこられたんだけど、ここであってる?」

そこにいたのは、パステルカラーのカーディガンを軽やかに着こなし、人懐っこい笑顔を浮かべた由比ヶ浜結衣だった。犬を連想させるような人懐っこさと、クラスでも一軍に位置する華やかなオーラ。彼女が加わったことで、部室の空気は一気に彩りを取り戻……いや、八幡にとってはただの「アウェーな空間」へと変貌を遂げた。

(は? なんで由比ヶ浜がここに……? いや待て、そういえば先日、平塚の野郎がどうこう言ってたような気もするが……マジかよ、俺の平穏な執事ライフ(※妄想)に突風が吹き荒れやがったぞ)

心の中で盛大に頭を抱えつつ、八幡はいつもの死んだ魚のような目をより一層うつろにさせながら、フッと気だるげに息を吐いた。

「……なんだ、由比ヶ浜か。まあ、平塚の野郎の気まぐれに巻き込まれた同類ってところかよ。歓迎はしないが、好きにしろ」

「ひどっ! もうちょっとこう、お疲れ様って言ってよー!」

ぷぅと頬を膨らませる由比ヶ浜だったが、すぐに好奇心の旺盛な目を光らせ、窓際に座る雪乃と、そして眼鏡をかけた八幡の姿を交互にじっと見つめた。

「ねえ、ていうかさ……ヒッキー、なんか雰囲気すごく変わってない? え、待って、それ眼鏡? めっちゃ似合ってるし、なんか髪型もスッキリしてて……え、ちょっとカッコよくなってない!?」

「あぁ? なんだよ急に。からかうな、目が腐るぞ」

由比ヶ浜のストレートな称賛を、八幡はいつもの卑屈なフィルターを通して完全にスルーする。

彼にとって由比ヶ浜結衣は、クラスの上位カーストに属する「普通にいいやつ」であり、それ以上でも以下でもなかった。気さくに話しかけてくれる友人(あるいはクラスメイト)の一人としては好感を持っていたが、それ以上の感情――例えば色恋沙汰のアンテナなど、八幡の脳内には一切存在しない。

なぜなら、彼の網膜と精神的リソースの99.9%は、入室した瞬間から一貫して窓際に座る雪ノ下雪乃一色に占拠されていたからだ。

(さて、お客様が来たわけだし……いつも通り、お嬢様のお茶の準備をするとするか)

由比ヶ浜の存在をすっかり背景の一部として処理し、八幡は手慣れた手つきでポットとティーカップを取り出した。

雪乃の好みの茶葉を選び、絶妙な温度で湯を注ぎ、香り立つ一杯をそっと彼女の机に差し出す。

「……お待たせしました、雪ノ下様。本日のブレンドも、お前の機嫌を損ねない最高の一杯に仕上がっているはずだ」

無駄にスマートな動きで紅茶を淹れる八幡の姿に、由比ヶ浜は「え、なにそれ、執事じゃん……!」と目を丸くして面白そうに笑っている。

しかし、その様子を目の当たりにしていた当事者――雪ノ下雪乃と、そして由比ヶ浜結衣の反応は、まったく対照的なものだった。

窓際に座る雪乃は、差し出された紅茶のカップを見つめながら、かすかに頬を赤らめて目を泳がせている。

(こ、この男は……相変わらず私の前ではこんな風に過剰に気を遣って、あまつさえあんなキザな台詞を……っ)

そして、その二人のやり取り、そして八幡の視線の向かう先を、少し離れた位置からじっと観察していた由比ヶ浜の表情が、ふとスッと真剣なものに変わった。

(――あれ……?)

由比ヶ浜は、八幡の横顔を見つめる。

入ってきたときから、ヒッキーは自分のことなんてほとんど視界に入れていない。からかわれても、適当にあしらうだけで、その目はすぐに、まるであの窓際の席に縛り付けられているかのように、雪乃の方へと向かっている。

クラスにいた頃の、誰とも目を合わさず、周囲を冷めた目で切り捨てていた彼とは全く違う。そこにあるのは、ただ一人の少女に向けられた、あまりにも一途で、けれど本人すら自覚していなさそうな強烈な執着だった。

(……そっか)

由比ヶ浜は小さく息を呑み、視線を雪乃と八幡の間で往復させた。

八幡の目は、最初から最後まで、雪乃しか見ていない。その圧倒的なまでの温度差と、お互いがどこか意識し合っている不器用な空気感を察した瞬間、由比ヶ浜の胸の奥に、ほんの少しの切なさと、クスッと笑いたくなるような面白さが同時に込み上げてきた。

「ねえ、ヒッキー。なんだか私、完全に空気扱いにされてない?」

わざと大げさに肩をすくめ、由比ヶ浜はからかうような笑みを浮かべる。

「は? なんだよ急に。被害妄想が激しい奴だな、席くらい勝手に座れよ」

相変わらずの素っ気ない返答を返しつつ、八幡は再び雪乃の方をチラリと伺う。

その呆れたような、しかしどこか嬉しそうな雪乃の横顔を見て、八幡は満足げに小さく息をつくのだった。

(――さて、にぎやかになったもんだが……俺のやるべき仕事は、いつだってこの絶対零度の女王様を支えることだけだ)

心の中でそう呟きながら、八幡は再び静かに自分の席へと戻っていくのだった。

 

放課後の奉仕部室。

すっかりこの空間に馴染んだ由比ヶ浜結衣が、楽しげに笑い声を響かせている。

「ねえ、聞いてよヒッキー! この前さ、購買でパンを買い損ねて絶望してたでしょ? 私が見てたからね!」

「……人の不幸を観察するな、悪趣味な犬め」

「誰が犬よ! でもさ、こうして話してみると、ヒッキーって案外面白いし、すっごくいい奴だよね!」

さらっと「いい奴」と評された八幡は、フッとわずかに眉をひそめつつも、内心ではちょっとだけ居心地の悪さを感じていた。

これまでの人生、クラスの上位カーストに属する華やかな少女から、そんな風に真っ直ぐ「友達」として懐かれる経験などほとんどなかったからだ。

(……まあ、こいつはクラスの他の連中みたいに気味の悪い目で見てきたりしないし、素直で悪気のないいい奴ではある、か)

八幡にとって由比ヶ浜結衣は、いつの間にか「気心の知れた数少ない友人(あるいは話し相手)」としてしっかりと認識されていた。そして、比企谷八幡という男の歪んだ、しかし確かな庇護欲が、彼女に対してもひそかに発動する。

もしこの明るい空気を壊すような面倒事や理不尽が彼女にふりかかったなら、このひねくれた頭をフル回転させて、いつだって毒舌を吐きながら守ってやろう――八幡は無意識のうちに、そんな「守るべき対象」の一つとして彼女を心の中に置いていた。

そんな二人の気取らない空気感を、窓際の席からじっと眺めていた存在があった。

――雪ノ下雪乃である。

(……なんなのかしら、あの二人)

手元の文庫本に目を落としているものの、思考は完全に目の前の光景に持っていかれていた。

いつの間にか、比企谷くんと由比ヶ浜さんはすっかり打ち解け、まるで長年の友人のような気安い距離感で会話を交わしている。あんな風に誰かと自然に笑い合ったり、軽口を叩き合ったりする八幡の姿は、以前の彼からは想像もつかないものだった。

――本来なら、喜ばしいことのはずだ。

他者との関わりを拒絶し、孤立していたあのひねくれた少年が、こうして部活を通じてまともな人間関係を築いていく。奉仕部の目的としても、人道的な意味でも、大正解の結末に違いな……い、のに。

(どうして、こんなにも胸の奥がモヤモヤとするのよ……っ)

雪乃はわずかに眉をひそめ、本のページをめくる指にぐっと力を込めた。

別に、比企谷くんが誰と友達になろうが私の知ったことではない。それに、あいつの視線の根本が自分に向いていることくらい、鈍感な本人とは裏腹に、雪乃には痛いほど分かっている。分かっているはずなのに――。

自分に向けられていたはずの、あの歪で過剰なまでの「特別視」や、自分だけのものだったはずの軽口や紅茶の淹れ方が、目の前の明るい少女と共有されていくような感覚。それが、言葉にしがたい不快感と、得体の知れない焦燥感となって雪乃の心を引っ掻き回す。

(……まったく、どいつもこいつも調子の狂う連中ばかりだわ)

顔をそむけ、小さくふんと息を吐き出す雪乃。

その微かな不機嫌さに全く気づかず、八幡は「おっ、そろそろお嬢様のティータイムのお代わりか」と手際よくポットに手を伸ばすのだった。

 

放課後の奉仕部室。

いつものように静まり返った空間に、ポットから紅茶を注ぐ音だけが小さく響いていた。

「……あのさ、ヒッキー、ゆきのん」

不意に、由比ヶ浜結衣が気まずそうな、押し潰されそうな声音でぽつりと言葉を零した。

手元のカップを見つめたまま、彼女の肩が微かに震えている。

「……ずっと、言わなきゃいけないって思ってたんだ。あの日のこと……私の犬が飛び出して……それを庇って車にぶつかったの、ヒッキーだよね?」

その言葉に、八幡はティーポットを置く手をわずかに止めた。

そして、対面の窓際に座る雪ノ下雪乃もまた、ぴたりと動きを止めて目を伏せる。そう、あの事故の時、車の後部座席に乗っていたのは他でもない雪乃だったのだ。

重苦しい沈黙が部室を支配する。

由比ヶ浜は顔を上げられず、泣き出しそうな声で絞り出した。

「ごめん……! 私のせいで、ヒッキーは大怪我して、ゆきのんだってあんな思いをして……なのに、私、ずっと言い出せなくて……!」

震える結衣の告白を聞きながら、八幡はいつもの死んだ魚のような目を少しだけ細めた。

そして、心底どうでもいいといった様子で小さく息をつく。

「……なんだ、そんなことかよ」

「え……?」

顔を上げた由比ヶ浜に、八幡はフッと気だるげに笑ってみせた。

「早く言えばいいのにって、お前な。そんな昔の、しかも自分の不注意で勝手に飛び出しただけの話を今さら蒸し返してどうすんだよ。怪我したのは自業自得だし、お前の犬が無事ならそれで帳尻は合ってんだろ」

「で、でも……! 私のせいでヒッキーは……!」

「怒ってないの……?」

由比ヶ浜が上ずった声で問いかけ、雪乃もまた、息を呑むように八幡を見つめた。

怒鳴られても、恨まれても仕方のない過去の過ち。それを、この男はあまりにも軽々と「そんなこと」の一言で片付けようとしている。

しかし、八幡は怪訝そうに眉をひそめ、至極当然のようにこう言い放った。

「――は? 怒るようなことか、それ?」

「…………は?」

その瞬間、部室の空気が完全に凍りついた。

由比ヶ浜は目を見開き、言葉を失う。窓際に座る雪乃もまた、カップを持ったまま完全にフリーズしていた。

(怒るようなことか、それ――?)

頭の中でその言葉が反芻される。

彼女たちの視点からすれば、人生を揺るがすほどの重い十字架であり、拭いがたい罪悪感の塊だったはずだ。車を避けて大怪我をした少年と、それをはねてしまった車に乗っていた少女。その当事者の一人が、あまりにも涼しい顔で「そんなの怒る理由にならねえよ」と言ってのけている。

(なんなの、この男は……っ)

(ヒッキー、頭のネジどうなってんの……?)

雪乃と結衣は顔を見合わせ、絶句した。

怒りや恨み、あるいは自己憐憫といった人間のドロドロとした感情が一切存在しないかのような、あまりにも達観した、あるいは根本的に常軌を逸した価値観。

そこに底知れぬ優しさと、同時に底知れぬ不気味さを感じ取り、二人は揃って言葉を失う。

――なぜか、その瞬間の比企谷八幡の背中には、本人すら自覚していない謎の「スケールの大きさ」と、どうしようもない変人ぶりが同居して感じられるのだった。

 

呆気にとられている二人の視線など気にする風もなく、八幡はフッと鼻で笑い、カップに紅茶を注ぎ足した。

「そんなに変なことか? 飛び出したのは俺だからな。まあ、犬のリードはしっかり持っとけとは思うが。それだけだな」

あまりにも淡々とした、拍子抜けするほどドライな一言。

誰かを恨むことも、自己犠牲に酔うこともなく、ただ因果応報と事実だけを受け入れているその姿勢に、由比ヶ浜は潤んだ目をパチクリとさせ、文字通り開いた口が塞がらなかった。

(それ、だけ……?)

自分を責め続け、あの事故のせいで人生の歯車が狂ってしまったとさえ思い詰めていた罪悪感が、あまりにもあっけなく、けれど温かく肩すかしを食らわされたように消えていく。由比ヶ浜は胸の奥が熱くなるのを堪えきれず、思わず涙ぐんだ顔のままふっと笑みをこぼした。

「……ほんと、ヒッキーって変なの……」

そして、窓際に座る雪ノ下雪乃もまた、ティーカップをソーサーにそっと置いたまま、動けずにいた。

(……この男は)

自分をはねた車の中にいた人間を恨むどころか、事故の原因すら「自分の判断」として片付け、ただ飼い主に「リードを持て」と軽口を叩く。その歪みなくねじ曲がった、けれどどこまでも気高く優しい達観ぶりに、雪乃の胸を激しい衝撃が貫いた。

罪の意識に縛られていたのは自分たちだけで、この男は最初から、過去の十字架などとっくに背負い終えていたのだ。

(どこまで……どこまで底知れぬ男なのよ、比企谷くんは……)

呆れと、尊さと、言いようのない胸の締め付けが同時に押し寄せ、雪乃は顔を逸らして小さく息を吐くしかなかった。その白く美しい頬が、ほんのりと赤らんでいるのは、夕陽のせいだけではなかった。

「……まったく。相変わらず、人の心の機微というものを一切理解していない不躾な物言いね」

照れ隠しのようにいつもの毒舌を放つ雪乃の口元は、しかしわずかに、穏やかに緩んでいた。

「まあ、いいわ」と呟くその声には、過去を縛っていた呪いがようやく解けたような、不思議な軽やかさが宿っているのだった。

 

放課後の奉仕部室。

いつものように静かな空気を破り、ガチャリと乱暴に引き戸が開いた。

「ちょっと、ちょっとちょっと! ここが噂の、何でも願いを叶えてくれるっていう部活?」

不機嫌そうに眉をひそめながら姿を現したのは、2年F組の相模南だった。クラスの中心人物として取り巻きを従え、華やかに振る舞う彼女だが、今のその顔には焦りと苛立ちの色が隠しきれていない。

窓際に座っていた雪ノ下雪乃は、静かに文庫本を閉じると、冷ややかな瞳で彼女を見据えた。

「……何か用かしら。ここは奉仕部よ。他愛のないおしゃべりに付き合う気はないけれど、正当な依頼なら聞けなくもないわ」

「ふん、上から目線なわけ? ……実はね、今度の文化祭の実行委員長のことでさ……」

相模は不満をぶつけるように、自分の置かれた状況や、文化祭を取り仕切る上での面倒なトラブルについてまくし立て始めた。要するに、周囲に気疲れし、自分ばかりが損をしているという被害者意識と、誰かに代わりに何とかしてほしいという我儘が入り混じった依頼だった。

その様子を一瞥し、雪乃はスッと立ち上がった。

「わかったわ。その依頼、私たちが受けてあげる」

いつもの完璧主義と責任感の強さから、雪乃は自分がすべてを背負ってでもその問題を解決しようと動こうとする。しかし、その瞬間、静かに座っていた八幡がひょいと手を挙げた。

「おい、待てよ雪乃」

「なによ、比企谷くん。私たちの目的は依頼を解決することでしょう」

「いや、そうじゃなくてさ」

八幡は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、いつもの死んだ魚のような目を相模に向けた。そして、これ以上なく胡散臭く、しかし妙に落ち着いたトーンでこう言い放った。

「その、なんだ……一人で全部抱え込もうとするなよ。お前が無理して潰れるような真似をされたら、こちらの部活の治安維持(※美観)に関わるんでな。……ちゃんと俺たちも手伝うから、安心しろ」

――ちゃんと手伝うから、安心しろ。

その言葉は、相模の依頼に対するものでありながら、どこか不器用な優しさと絶対的な安心感を孕んでいた。

元々、他人に期待されることや真っ直ぐ向き合われることに慣れていない相模は、不意を突かれたようにピタリと動きを止めた。

(え……? なに、この人……)

いつもはクラスの隅でうつむいていたはずの、あのひねくれたジト目の男子が、整った髪型と眼鏡というインテリ風の出で立ちで、自分を真っ直ぐ見据えながらそんな頼もしい台詞を吐いている。無自覚に放たれたそのイケメンムーブの破壊力はすさまじく、相模の胸が思わずドキリと大きく跳ねた。

「っ……! 別に、あんたに心配される筋合いはないけど……!」

顔を真っ赤にし、動揺を隠すようにそっぽを向く相模。

一方、そのやり取りを目の当たりにしていた雪乃の胸中は、全く別の意味で激しくざわついていた。

(……なんなの、一体……っ)

雪乃はわずかに目を細め、八幡の横顔を見つめる。

いつもなら、面倒事を持ち込まれたら「やれやれ」と毒づくか、できるだけ関わらないように逃げ腰になるはずの男が、今日はやけに積極的に、しかも他の女子に対してあんな風にスマートな言葉をかけてみせた。

「ちゃんと手伝うから、安心しろ」――その言葉を向けられたのは自分ではなく、見ず知らずの依頼人である相模だ。

頭では「奉仕部としての正常な活動」だと分かっているのに、心の奥底で、得体の知れない黒いモヤモヤがむくむくと湧き上がってくるのを抑えきれなかった。

(なんで……あんな風に、他の女にいい顔を見せるのよ……っ)

自分のもの――とまでは言わないまでも、自分だけに向けられていたはずの(勝手な思い込みだが)あのひねくれた執事の視線や気遣いが、少しだけ別の方向を向いたような気がして、雪乃は言いようのない不機嫌さと苛立ちを覚えた。

「……ふん。勝手に人のセリフを横取りしないでちょうだい、比企谷くん。それに、誰が一人で抱え込むと言ったのかしら」

冷ややかで、いつもより少しだけ刺のある声を響かせながら、雪乃はツンと顎を引く。

そのただならぬ冷気を察知した相模は「な、なによ急に怖いんだけど!」と身を縮こまらせた。

そんな周囲の空気などどこ吹く風とばかりに、八幡は心の中でひそかにやれやれと息をつく。

(やれやれ、これでお嬢様の機嫌まで損ねたら俺の執事生命に関わるんだが……まあ、文化祭ってやつは面倒ごとが増えそうだな)

こうして、歪な三人による文化祭を巡る波乱の幕が、静かに切って落とされるのだった。

 

相模はしばらく不服そうに唇を尖らせていたが、八幡の落ち着き払った態度と、冷ややかな眼差しを向ける雪乃のプレッシャーに気圧されるように、バツが悪そうに腕を組んだ。

「……別に、この部活に正式にお願いしにきたわけじゃないし。あんたたちがそんな上から目線なら、もういいわよ!」

強がりを吐き捨てながらも、相模の耳たぶはほんのりと赤くなっていた。直前まで浴びせられた「安心しろ」という言葉の残響が、妙に胸に残ってしまっている自分に腹が立ち、彼女は乱暴に引き戸を開けると、「じゃあね!」と捨て台詞を残してパタンと扉を閉めていった。

ガチャリ、と重い扉の音が響き渡り、部室には再び静けさが戻る。

残された三人――改め、八幡と雪乃、そして由比ヶ浜の間に流れる空気は、どこか微妙な緊張感を孕んでいた。

「ふん……。相変わらず、他人に依存することしか頭にない、救いようのない依頼人ね」

雪乃は小さく息を吐き捨てると、冷ややかな視線を八幡へと向けた。その細い眉が、普段以上に険しくひそめられている。

「で、一体どういうつもりだったの、比企谷くん。あんな女の甘えを全肯定するような口ぶりをしておいて、今さら『依頼は断る』だなんて」

雪乃の声音には、あきらかに棘と、そして言葉にしがたい不機嫌さが混じっていた。

先ほど相模に向けて放たれた「ちゃんと手伝うから、安心しろ」という言葉。それを自分以外の女に向けたこと、そして相模がそれを真に受けて少しだけ赤面していったことが、雪乃の胸の奥でどうしようもないモヤモヤを引き起こしていたのだ。

(なんで……あんな風に、他の女に余計な気まぐれを焼くのかしら。私以外の誰かに、あんな頼もしい顔を見せる必要がどこにあるというの……っ)

頭では「奉仕部としての適切な距離感」や「あいつなりの処世術」だと理解しようとしても、感情のほうが勝手にざわついて仕方のない雪乃。

しかし、当の八幡はそんな雪乃の内面など露知らず、眼鏡をクイッと押し上げながらいつもの気だるげなトーンで肩をすくめた。

「は? 何言ってるんだよ雪乃。あいつの依頼自体は、ただの我が儘と責任転嫁の延長大賞だろ。あんなものをまともに『奉仕部として引き受ける』なんて言ったら、最終的に全部こっちに丸投げされて俺たちの平穏が粉々に吹き飛ぶに決まってる」

理路整然とした八幡の解説に、由比ヶ浜も「あ、確かに……ゆきのん、優しすぎるから全部引き受けちゃいそうだったしね」と苦笑いしながら頷く。

「……じゃあ、さっきの『手伝う』っていうのはなんなのよ」

不満げに問う雪乃に、八幡は死んだ魚のような目をより一層うつろにさせながら、ごく当たり前のことのように言い放った。

「依頼として受けるんじゃなくて、個人として、文化祭の実行委員の雑用係の端くれとして影からこっそりフォローするって話だ。その方が、あいつが自滅したときの飛び火を最小限に抑えられるし、何よりお前が余計なストレスを抱え込んで胃に穴を開けずに済むだろ」

――お前が余計なストレスを抱えずに済むだろ。

さらりと言いのけられたその言葉に、雪乃はハッと息を呑んだ。

自分の負担を減らすため、そして面倒事をスマートにいなすために、あいつはあんな風に動こうとしていた――。

(……っ。なんなのよ、本当に……)

胸の奥で暴れていた黒いモヤモヤが、一瞬にして別の熱を持った感情へと塗り替えられていく。

自分を気遣っての行動だったと知らされてしまえば、先ほどまでの不機嫌を維持することなどできるはずもなく、雪乃は顔を真っ赤に染めながら、慌ててそっぽを向いた。

「べ、別に……私がストレスで胃に穴を開ける心配なんてしなくていいわよ。大きなお世話だわ、まったく……」

上ずった声を必死に隠すように、雪乃は文庫本を再び開き、文字を追い始める。だが、その耳たぶまで真っ赤になっていることは、眼鏡越しでなくても丸わかりだった。

(おっと、お嬢様の機嫌もどうにか直ったみたいだな……っと)

心の中で冷や汗を拭いながら、八幡はいつものようにポットを手に取り、静かに紅茶の準備を再開する。

文化祭という名の巨大な面倒事が近づいている予感に盛大に溜息をつきながらも、二人の間に流れる空気が再び穏やかに溶けていくのを感じる八幡だった。

 

文化祭の準備期間が進むにつれ、校内は慌ただしい熱気に包まれていた。

実行委員長としての重圧に押しつぶされかけ、連日のようにピリピリと苛立ちを募らせていた相模南だったが、その背後では密かに、しかし完璧な手際で彼女を支え続ける男の影があった。

それが比企谷八幡である。

表立って目立つわけでもなく、周囲に恩着せがましい態度をとるわけでもない。ただ、相模がパニックを起こしそうになる絶妙なタイミングで必要な資料を用意し、トラブルの芽を静かに摘み取り、スケジュール調整の裏工作を完璧にこなしていく。眼鏡をクイッと押し上げながら淡々と仕事を片付けるその「有能な執事」のような動きは、頼りなさを補って余りあるものだった。

「……ねえ、比企谷くんって、実はめちゃくちゃ仕事できるよね」

「あ、それ思った! 相模の面倒とか超うまく見てるし、なんか最近カッコよくない?」

クラスの女子たちの間でも、八幡の評価は密かにうなぎ登りだった。

最初は「なんであのコンビが」と思われていた相模自身も、自分のミスを怒鳴ることもなく、かといって過剰に媚びることもなく、淡々と、しかし確実に自分をフォローしてくれる八幡の姿に、次第に強い信頼と――そして別の感情を抱き始めていた。

「も、もう! 比企谷くん、また勝手にスケジュール調整して……っ。でも、ありがと……ね」

ある日の放課後、実行委員の仕事が一段落した教室で、相模は頬を少し赤らめながらそう呟いた。

最初はあれほど冷たく突っかかってきていた彼女が、今ではすっかり八幡の隣にいることが当たり前のような顔をしている。

そんな二人を遠巻きに見つめていたクラスメイトたちは、いつしかひそひそとこんな噂をささやき合うようになっていた。

「ねえ、なんか最近、相模と比企谷ってけっこういい感じじゃない?」

「え、マジで? でも、あいつが変わってから普通にイケメンだし、案外お似合いかも……」

「お似合い」――その言葉は、まるで波紋のように校内に広がっていった。

 * * *

その噂は、当然のように奉仕部の部室にも届いていた。

ガチャリ、と重い引き戸を開けていつものように部室に入ってきた八幡は、なぜか室内に漂う異様なまでの冷気に気づき、思わず足をとめた。

窓際に座る雪ノ下雪乃は、文庫本を微動だにせず見つめている。その表情は一見するといつもの冷徹な美少女そのものだったが、周囲に漂う「絶対零度」のプレッシャーは尋常ではない。

(……なんだこれ? 俺、今日また何か地雷を踏んだか? 購買のパンのチョイスを間違えたわけでもないはずだが……)

冷や汗を流しながら、八幡はいつも通り手際よく紅茶の準備を始める。

由比ヶ浜もまた、どこか気まずそうに目を泳がせながら、雪乃の様子をうかがっていた。

「……で、噂の文化祭実行委員長様は、今日も順調にあなたを頼りきっていらっしゃるようね、比企谷くん」

本から目を離さないまま、雪乃の冷ややかな声が部室に響いた。その声音には、いつにも増して刺々しい棘と、言葉にしがたい不機嫌さがたっぷりと詰まっている。

「は? 誰のことだ、相模か?」

「他に誰がいるというのかしら。最近はあちこちで『お似合いのコンビ』だてもてはやされているじゃないの。鼻が高いことね、インテリ執事さん」

皮肉たっぷりに吐き捨てられた言葉に、八幡は思わず頭を抱えたくなった。

(お似合い? ふざけんな、こっちはお前が胃に穴を開けないように、かつ自分に飛び火しないように裏で死ぬ思いで尻拭いをしてるだけだっていうのに……!)

しかし、そんな八幡の内心の苦悩など露知らず、雪乃の胸の奥で渦巻いていたのは、言語化できない激しいモヤモヤだった。

(……なんでよ)

文庫本のページをめくる指先が、わずかに震える。

文化祭の面倒な依頼を切り捨てようとしたあの時、「ちゃんと手伝うから」と安心させるような言葉を向けたのは自分ではなくあの女だった。そして今、学校中が二人の関係を面白おかしく噂し、あまつさえ「お似合い」などと囁き合っている。

比企谷くんがどれだけ自分のためを思って動いている(と、無意識にでも信じたい)のだとしても、その姿が他の女の側で、しかも周囲からカップル扱いされているという事実が、どうしようもなく不快で、胸のあたりをギチギチと締め付けた。

(私以外の誰かの隣で、あんな風に有能に振る舞う必要なんてないのに……っ)

決して口に出してはいけない感情が喉まで出かかり、雪乃はそれを押し隠すように、さらに冷たく氷点下の視線を八幡に浴びせた。

「……ふん。他人の世話を焼くのもいいけれど、本業であるはずの奉仕部の活動がおろそかにならないようにしてもらいたいものだわ。まったく、調子の狂う男ね」

顔をプイと背け、そっぽを向く雪乃。

その白く美しい横顔が、怒りだけでなく、どこか切なげに赤らんでいることに気づいたのは――相変わらず恋愛感情のアンテナが致命的にバグっている八幡ではなく、少し離れた席で苦笑いを浮かべる由比ヶ浜だけだった。

 

 

雪乃の皮肉めいた言葉を聞いた瞬間、八幡は心底呆れたようにため息をつき、淹れたての紅茶をそっと机に置いた。

「おいおい、何を言い出すかと思えば……。第一、文化祭の準備期間なんだから、今の時期に奉仕部の活動なんてそもそも休止中だろ。それに、なんで俺があの委員長の面倒をわざわざ見てると思ってんだよ」

眼鏡のブリッジをクイッと押し上げながら、八幡はいつもの死んだ魚のような、しかしどこか真っ直ぐな視線を窓際の少女へと向けた。

「お前が一人で全部抱え込んで、いつものように無理をして倒れたりしたら、こちらの平穏が盛大に脅かされて猛烈に困るんだよ。……全部、お前が余計な負担を背負い込まないための保険に決まってんだろ」

――全ては、お前のためだ。

言葉にこそしなかったものの、その暗外のニュアンスがあまりにもストレートに、そして絶対的な真実として部室の空気に溶け込んだ。相模の面倒を見ていたのも、校内でどんな噂を立てられようとも、その裏ですべてが雪乃を守るため、あるいは彼女に飛び火させないための計算づくの行動だったのだと、その一言が雄弁に物語っていた。

その瞬間。

(――っ……!)

雪乃の思考が、完全に停止した。

先ほどまで胸を焦がしていた黒いモヤモヤも、他の女の影に対する不快感も、その言葉を聞いた瞬間に嘘のように霧散していく。

(……私のために……?)

相模の側で動いていたのも、周囲に変な噂を立てられながらも泥を被っていたのも、すべては自分の負担を減らすため。誰よりも近くで自分を見ていて、誰よりも無茶をしがちな自分の性格を理解した上で、この男は影で泥臭く立ち回ってくれていたのだ。

頭では「なんて勝手な理屈かしら」と反論しなければいけない気がするのに、胸の奥底からとめどなく溢れてくるのは、熱くて、どうしようもなく甘い切なさだった。自分が誰にも頼れず、一人で背負い込もうとしていた重荷を、このひねくれた執事がいつの間にか半分どころか全部引き受けてくれていた。

――私は、この男にこんなにも守られていたんだ。

それを自覚した瞬間、雪乃の白い頬が一気に沸騰したように真っ赤に染まった。

心臓がうるさいほどに跳ね回り、目の前の少年の顔をまともに見ることができない。

「なっ……なにを、急に……!」

上ずった声を必死に押し殺しながら、雪乃は慌てて手元の文庫本を顔の高さまで持ち上げ、必死に表情を隠した。だが、耳たぶから首筋までが綺麗に赤らんでいることは、隠しきれていない。

「……勝手に、そんな大層な理由を並べ立てないでちょうだい……っ。ど、どうせまた何か別の下心があるんじゃないの……」

震える声で精一杯の毒舌を吐き出すものの、その響きにはいつものような鋭さは微塵もなく、ただ気恥ずかしさと愛おしさが滲み出ていた。

(おっと、流石に照れ隠しが過ぎるか……っと)

心の中で冷や汗を拭いつつ、八幡はフッと小さく息をつき、自分の席へと戻る。

そのやり取りを少し離れた場所から眺めていた由比ヶ浜は、「もー、ヒッキーってば本当に……」と呆れたような、しかしどこか羨ましそうな笑顔を浮かべるのだった。文化祭の喧騒の裏で、二人の間に流れる空気だけは、甘く、そして静かに熱を帯びていくのだった。

 

 

文庫本で必死に顔を隠しながら絞り出した雪乃の言葉に、八幡はフッと小さく鼻で笑った。

「下心ねえ? こう言うのは真心でいいんじゃねえの? 友だちだろ? 俺達は」

――友だちだろ? 俺達は。

あまりにも自然に、あまりにもさらりと発せられたその一言は、部室の空気を一瞬にして塗り替えた。

かつては他者との関わりを徹底的に拒絶し、「ぼっち」をアイデンティティにしていたあの比企谷八幡が、自ら「友達」という言葉を使い、自分をその中に含めてみせたのだ。

その瞬間。

(――っ……!)

顔の前に掲げていた文庫本が、ガタガタと微かに震えた。

雪乃の胸の奥で、先ほどまでの熱を持った甘さが、一気に別の複雑な感情へとねじ曲げられる。

嬉しい。

あのひねくれた、誰にも心を開こうとしなかった少年が、自分のことを「友だち」だと認めてくれたこと。自分のために影で泥を被り、守ろうとしてくれたその関係性が、ただの利害関係でも一方的な執着でもなく、確かな絆に基づいていると示してくれたこと。それが、どうしようもなく嬉しかった。

けれど――同時に、心の底から激しいモヤモヤが湧き上がってくる。

(……友だち、って……なによ、それ……)

頭の中で、その二文字がぐるぐると反響する。

「執事」として自分に仕え、特別視してくれているような距離感だったはずなのに、いざ「友だち」という健全で、どこか普遍的なカテゴリに収められてしまうと、急に距離が遠ざかったような、あるいは特別だったはずの関係がその他大勢と同じ枠組みに入れられてしまったような、言いようのない焦燥感が胸を締め付ける。

(私は……あなたのそんな「友だち」の枠に収まりたいわけじゃないのに……っ)

決して口に出してはいけない、自分でも持て余すような独占欲が喉元まで突き上げる。

顔を真っ赤に染め、文庫本の陰で唇をぎゅっと噛み締める雪乃。

そんな彼女の複雑な内面など露知らず、八幡は「さて、そろそろ次の資料でも確認するか」と、平然とした顔で数学の参考書に視線を戻していた。

その様子を横で見ながら、由比ヶ浜は苦笑いを浮かべつつ、心の中でそっとツッコミを入れる。

(――あーあ、ヒッキー相変わらずそこらへんのデリカシーは絶望的だな……。ゆきのんがあんなに顔真っ赤にして葛藤してるのに、絶対気づいてないでしょ……!)

文化祭の喧騒が近づく静かな部室で、片や「真心」を込めて友だち宣言をする無自覚な男と、その言葉の裏にある「友達」という響きに悶絶し続ける誇り高きお嬢様のすれ違いは、今日も最高潮にエンジンがかかっていた。

 

不意に訪れた気まずい沈黙に耐えかねたのか、八幡は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、いつもの死んだ魚の目をさらに虚空へと泳がせた。

「……あれ。もしかして、友達だと思ってたの俺だけか? なんか、自分で言っといてめちゃくちゃ恥ずかしいな、これ……」

ボソボソと頭をかきながら、気まずそうに目を逸らす八幡。そのあまりの自虐的かつ不器用な反応に、見かねた由比ヶ浜結衣が「ぷっ」と吹き出した。

「なにしてるのさ、ヒッキー! 自意識過剰すぎでしょ!」

由比ヶ浜は呆れたように笑いながらも、ふっと柔らかい表情に戻り、八幡をまっすぐに見据えた。

「友達だよ? 私も、ヒッキーのことはちゃんと大事な友達だと思ってっけど?」

「……おう。サンキュ、由比ヶ浜」

少し照れくさそうに片手を上げる八幡。その自然なやり取りを、窓際の席から一歩引いた視線で見つめていた雪ノ下雪乃は、かすかに息を詰まらせた。

(……私にだって……)

「友達」という枠組みの中に、自分もあの少女と同じように「その他大勢の友人」として並べられてしまったような、妙な居心地の悪さと切なさ。だけど、ここで「私もよ」と素直に肯定してしまえば、自分が彼に対して抱いているこの昂りや独占欲をすべてその言葉に回収されてしまう気がして、どうしても素直になれない。

雪乃はわずかに唇を引き結び、手元の文庫本に視線を落としたまま、絞り出すように小さな声で言った。

「……そうね。私も、あなたがその……友達の一人くらいだと認めてあげてもいいわよ。……あまり調子に乗らないことね」

どこか投げやりで、けれど微かに震えているその声音には、言いようのない複雑な感情が滲み出ていた。

「おう、ありがたく拝聴しとくよ、お嬢様」

苦笑しながら紅茶をすする八幡と、そんな彼の横顔をめがけて複雑な視線を投げ続ける雪乃、そして二人の間に漂う甘酸っぱい空気感を生温かく見守る由比ヶ浜。

文化祭の足音が着実に近づく中、歪で不器用な三人の関係は、静かに、しかし確実に形を変えていくのだった。

 

文化祭の準備で慌ただしい空気が校内を包み込む中、その日の放課後も、奉仕部室にはいつものように静かな時間が流れていたはずだった。

――ガラッ、と。

前触れもなく、けたたましい音を立てて引き戸が勢いよく開け放たれるまでは。

「やっほー、雪乃ちゃん! 元気してる?」

軽やかな足音とともに部室に踏み込んできたのは、圧倒的な美貌と、どこか底知れぬ妖しさを纏った大学生――雪ノ下陽乃その人だった。

突然の闖入者に、部室の空気が一瞬で凍りつく。由比ヶ浜は「ひっ……」と小さく息を呑み、雪乃は手元の文庫本をピタリと止めて、わずかに顔を引き攣らせた。

「……お姉様。ノックもなしに、一体何の用かしら」

「えー、冷たいなあ。可愛い妹の文化祭の様子を見に来てあげただけじゃない。……で、噂の新しいお友達って、この子たちのこと?」

陽乃はフワフワと微笑みながら、視線を由比ヶ浜へ、そして窓際で眼鏡をかけたまま虚空を見つめている八幡へと滑らせた。その琥珀色の瞳が、面白がるような、値踏みするような光を帯びて八幡を捉える。

「へえ、この子が噂の……。なるほど、なかなか小綺麗にしてるじゃない。雪乃、もしかして好みのタイプに合わせて改造したの?」

「っ……! お姉様、勝手なことを言わないでちょうだい!」

雪乃が珍しく動揺の色を隠し、カッと顔を赤らめて言い返す。

しかし、陽乃はそんな妹の反応を面白がるようにクスクスと笑いながら、ふと、至近距離まで八幡に歩み寄った。

「ねえ、君。名前は?」

「……比企谷八幡ですけど」

間近で向けられる圧倒的な美の圧力と、底の見えないプレッシャーに、八幡は心の中で盛大に冷や汗を流しながらも、いつもの死んだ魚のような目で淡々と答える。

すると、陽乃はふっと目を細め、まるで値踏みをするような、あるいはすべてをお見通しだと言わばかりの艶やかな笑みを浮かべた。

「へえ……比企谷くんね。ねえ、比企谷くんはさ……」

陽乃は顔を少しだけ傾け、八幡の耳元に囁くような、それでいて部室全体に響く声で問いかけた。

「――もしかして、うちの可愛い可愛い雪乃のことが、好きなの?」

その直球すぎる問いかけに、部室の空気が完全に凝固した。

由比ヶ浜は「えっ……!?」と目を丸くし、雪乃は心臓が跳ね上がった音すら聞こえそうなほど顔を真っ赤にして息を詰まらせている。

(――……っ!)

不意を突かれたその言葉に、八幡は心の中で盛大にツッコミを入れた。

(なっ……なんだこの危険人物は! 初対面でいきなり何をぶっこんできやがるんだ! ここで下手に否定したら逆に怪しまれるし、かといって肯定したらお嬢様の機嫌が秒で超新星爆発を起こすぞ……!)

しかし、頭をフル回転させる八幡の脳裏にふとよぎったのは、目の前にいる美しき魔性の女性――雪ノ下陽乃の、どこか寂しげで、歪んだ愛着を隠したその眼差しだった。

(……いや、待てよ)

一瞬の沈黙の後、八幡は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、いつもの気だるげな調子で、しかしどこまでも真摯に、ぼそっと呟いた。

「……好きか嫌いかで言えば、まあ、嫌いじゃねえよ。というか、これだけの手間と神経をすり減らして守る価値くらいはあるだろ、普通に考えて」

それは「恋愛感情」としての告白ではなく、彼なりの最大の賛辞であり、執事としての絶対的な忠誠心だった。

だが、その言葉を聞いた瞬間、陽乃の瞳がわずかに見開かれ――次の瞬間、彼女は文字通り「得体の知れないものを見たような」、それでいてどこか深いところで共感したような、妖艶な笑みを深めた。

「……へえ。そう、なんだ」

陽乃はふっと息を抜き、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のような目を八幡に向ける。

(――そっか。この子は、雪乃の「仮面」じゃなくて、その内側にあるものごとまるごと、あの不器用なやり方で受け止めようとしてるんだ……)

陽乃の胸の奥で、ほんの小さな波紋が広がった。自分と同じように、あるいは自分とは違う方法で、この歪んだ妹の隣に立とうとする男。

(なんだ……。この目、私と同じだわ)

陽乃は面白そうにクスクスと笑いながら、フッと身を引いた。

「ふーん。いいね、そういうの。気に入ったわ、比企谷くん。雪乃のことを、よろしく頼むね?」

それだけ言い残すと、陽乃はまるで嵐のように、満足げな足取りで部室からヒラリと去っていった。

ガチャリ、と扉が閉まり、静けさが戻った部室。

残された八幡は、心の中で「なんだあいつ……疲れた……」と深い溜息をつきながら、再び自分の席へと戻ろうとする。

だが、その背中に向けられた雪乃の視線は、先ほどまでの恥じらいを通り越し、もはや湯気を上げそうなほど真っ赤に染まっていた。

(お、お姉様のバカ……! なんなのよ、あんなこと急に言わせたりして……っ! でも……比企谷くん、あんな風に……私のことを……)

頭が沸騰しそうなほどの熱と甘さに包まれながら、雪乃は文庫本で顔を隠し、静かに悶絶し続けるのだった。

 

秋風が心地よく吹き抜ける中、数々のトラブルを何とか乗り越えた文化祭は、大きな混乱もなく無事に幕を閉じた。

後片付けに追われる校内の喧騒から少し離れた中庭の隅で、相模南はふうと小さく息をつき、隣に立つ八幡を見上げた。その瞳には、文化祭の準備期間を通してずっと自分を支え続けてくれた彼に対する、隠しきれない好意と切なさが揺れていた。

「ねえ……比企谷くん」

「ん? どうした、まだ何か片付けの残しでもあったか?」

眼鏡を押し上げながらいつもの気だるげな調子で返す八幡に、相模はわずかに唇を噛み締め、しかしまっすぐに視線を向けた。

「……文化祭、本当にありがとうね。比企谷くんがいてくれなかったら、私、絶対に途中で投げ出してただろうし……その、なんというか……私、比企谷くんのこと……っ」

言葉に詰まりながらも、それが告白めいたものであり、自分への好意の表れであることを、八幡の頭が理解できないわけがなかった。

(――……っ、マジかよ)

相模の秘めた想いを受け止めながら、八幡は心の中でひそかに頭を抱える。

クラスの輪の中心にいる彼女が、自分のようなひねくれた男にそんな目を向けてくれること自体、驚きではあった。相模のことを嫌いかと言われれば、決してそんなことはない。不器用ながらも必死に頑張ろうとしていた姿を見てきたし、一人の人間として普通に好感を抱いている。

だが――八幡の網膜と心のリソースのほとんどは、最初から最後まで別の場所を向いていた。

だからこそ、ここで中途半端な優しさを見せることは彼女を傷つけると知っているからこそ、八幡はあえて少し目を伏せ、静かに、しかし誤魔化しのないトーンで言葉を紡いだ。

「……ありがとな、相模。お前が最後まで委員長として投げ出さずにやり遂げたから、文化祭もうまくいったんだろ。……俺は、ただの野次馬の端くれとして影から勝手に動いてただけだからさ」

それは、彼女の好意を優しく、けれどハッキリと受け流すための拒絶の言葉だった。

相模は、その言葉の意味を瞬時に察した。

自分に向けられた視線の先には、最初から別の誰かが存在していること。自分の気持ちが届かないこと。

「……そっか」

相模は小さく、掠れた声で呟いた。胸の奥がキュッと締め付けられるような切なさに襲われたが、不思議と涙は出なかった。あの文化祭の期間、彼が自分のために泥を被って支えてくれたことは嘘ではないし、その不器用な誠実さを知れただけで、十分だったのかもしれない。

相模はふっと自嘲気味に笑い、強がるようにフイと顔を背けた。

「……なんか、フラれちゃったわけ? 私。ま、いっか! お疲れ様、比企谷くん!」

そう言い残すと、相模は少しだけ走るような足取りでその場から去っていった。その後ろ姿を見送りながら、八幡は小さく息をつき、静かに眼鏡の位置を直すのだった。

 * * *

そして、そのやり取りの一部始終を、少し離れた校舎の窓際からじっと見つめていた影があった。

――雪ノ下雪乃である。

手元の文庫本を握りしめる白く細い指に、無意識のうちに力がこもる。

(……なにをやっているのかしら、あのバカは)

相模が赤面しながら自分の気持ちを伝え、そして切なそうに去っていくまでの光景。そして、それに対して八幡がどのような態度で返したのか、声音までは聞こえずとも痛いほど伝わってきた。

他人に興味を示さず、関わることを極端に嫌っていたはずの比企谷八幡が、いつの間にか周囲の人間を引き込み、誰かの恋心に向け合致した答えを返せるような男になっていた。

嬉しいはずだ。奉仕部の目的である「人間の成長」という観点から見れば、これ以上ない成果なのだから。

なのに――胸の奥で、どうしようもないほどの黒い感情と、言いようのない焦燥感が激しく渦巻いていた。

(……勝手に他の女の相手をして、勝手に綺麗に話を終わらせて……。本当に、どこまで人騒がせで、調子の狂う男なのよ……っ)

自分以外の誰かがあの男に好意を向け、そしてあの男がそれに真摯に向き合ったという事実が、なぜだかたまらなく気に食わない。自分だけに向けられていたはずの(と錯覚したくなるような)歪で特別な執着が、少しだけ薄れてしまったのではないかという、身勝手で激しい独占欲が雪乃の心を引っ掻き回す。

雪乃は唇を噛み締め、プイと窓から視線を逸らした。

その白く美しい頬に浮かんでいるのは、秋風の冷たさとは似ても似つかない、熱を帯びた悔しさと、どうしようもない切なさだった。

 

放課後の喧騒が少しずつ夕暮れの静寂に溶けていく頃、八幡は一人、家路の途中にあった『サイゼリヤ』のボックス席に陣取っていた。

文化祭の疲労がようやく抜け始めたこのタイミングで、手頃な価格のミラノ風ドリアとドリンクバーを前にぼんやりしていたところへ、予測の斜め上を行く人物がひょいと現れた。

「あら、奇遇ね、比企谷くん」

そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべながら向かいの席にスルリと腰を下ろしたのは、他でもない雪ノ下陽乃だった。私服姿の彼女は相変わらず圧倒的なオーラを纏っており、周囲の客の視線を自然と集めている。

「……まじかよ。サイゼに生息する魔女か何かですかあんたは」

「ふふ、冷たいなあ。一人で寂しくドリアを食べている可愛い後輩に、人生の先輩としてお話ししてあげようと思ってさ」

メニュー表を眺めるでもなく、陽乃は琥珀色の瞳をスッと細め、まっすぐに八幡を見据えた。その雰囲気が、いつものフワフワした調子から、わずかに鋭いものへと切り替わる。

「ねえ、比企谷くん。一つ聞いてもいい?」

「……いや、断る権利はなさそうですけど」

「うん、ないよ。――ねえ、君にとって、うちの可愛い可愛い雪乃ちゃんは、いったいどういう存在なの?」

その問いは、先日の部室での直球な質問とは違い、どこか本質を突くような、逃げ場のない重みを持っていた。

陽乃は、自分の背中を追いかけ、けれどいつまでも自分になれず、歪みながらも必死に生きようとする妹・雪乃のことを誰よりも知っている。だからこそ、このひねくれた少年が雪乃の周りでどんな動きをしているのか、その真意を確かめたかったのだ。

テーブルの上に置かれたドリンクバーのグラスから、冷たい水滴がコツリと落ちる。

八幡は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、いつもの死んだ魚のような、しかし嘘偽りのない真っ直ぐな目を陽乃に向けた。

「……どういうって言われても困りますけど」

「ううん、ごまかさないの。あの不器用な妹が、最近なんだか少しずつ変わってきているのはね、お姉ちゃんだからよく分かるのよ。……それって、全部君のせいでしょう?」

陽乃の視線は、底が知れないのに、どこか切なさを纏っているようにも見えた。

そのプレッシャーに負けじと、八幡は小さく息をつき、淡々と、しかし自分の言葉で紡ぎ出した。

「……憧れ、ですかね」

「――は?」

予想外だったのか、陽乃がわずかに目を丸くする。

「あいつは、いつだって綺麗で、正しくて、俺みたいなひねくれた人間とは比べものにならないくらい強い意志を持ってる。……まあ、本人に言ったら鼻で笑われそうですけど、すげえなって、心の底から思ってますよ。だからこそ、そのプライドや生き様が、余計なノイズで折られたり傷ついたりするのは見てて不愉快だし、守るべき対象……ですかね、結果的に」

少し照れくさそうに、しかしハッキリとそう言い切った八幡。

そして、彼はほんのわずかに口元を緩め、あの日の部室で交わした言葉を付け足した。

「……あとは、まあ。あいつ自身が認めたがらないでしょうけど、『友達』、ってところですかね。少なくとも、俺にとってはそういう認識です」

――憧れ。守るべき対象。友達。

その言葉のチョイスは、どこまでも八幡らしく、ひねくれていて、それでいてあまりにも誠実だった。

それを聞いた陽乃の動きが、ぴたりと止まった。

彼女の瞳に浮かんだのは、驚きか、それとも深い納得だったのか。しばらくじっと八幡の顔を見つめていた陽乃は、ふっと力が抜けたように、どこか儚く、けれどこれまでにないほど柔らかく微笑んだ。

「……そっか」

陽乃はグラスを手に取り、氷がカランと鳴る音を聞きながら、窓の外の夕空に視線を投げた。

「……それって、すごくずるい答えね。お姉ちゃん、ちょっと負けた気分だわ」

「何の話ですか。ただの事実ですけど」

「ふふ、そうだね。……ねえ、比企谷くん」

陽乃は再び視線を八幡に戻し、悪戯っぽく、しかしどこか託すような笑みを浮かべた。

「その『友達』のままで終わらせたら、あの子、絶対に後ですごい勢いで拗ねるか泣くかすると思うよ? だからさ……これからも、あのお高くとまった不器用な妹の隣に、ちゃんといてあげてね」

「……気が向いたら、ですね」

不愛想に返す八幡の耳までがほんのり赤くなっていることに、陽乃はあえて突っ込まなかった。

サイゼリヤの温かい照明の下、二人の間に流れる奇妙な共犯関係のような空気は、秋の夜風の中にゆっくりと溶けていくのだった。

 

陽乃の言葉を受け、八幡はミラノ風ドリアの皿にフォークを置き、少しだけ真剣な、しかしどこか面倒くさそうな顔をして窓の外から視線を戻した。

「……つうかさ、一つ気になってたんですけど」

「ん? なに? 比企谷くん、改まって」

「あいつ、一見するとお高くとまってて隙がねえように見えますけど、中身はわりと世間知らずって言うか、根本的なところで人の善意を真っ直ぐ受け止めすぎるところがあるじゃないですか。……ぶっちゃけ、あのままだと変な男に簡単に騙されそうなんですけど、その辺りについて家族としてどう考えてるんですか、あんたは」

ストレートすぎるその指摘に、陽乃はふっと動きを止めた。

グラスを持ったまま、彼女はどこか遠くを見るような、それでいて深い含みのある笑みを浮かべる。

「――あぁ、やっぱり。君もそこに気づいちゃったんだ?」

「気づくも何も、少し話せば危なっかしくて見てられねえよ。自分の正しさを盾にして一人で突っ走るくせに、根本が不器用すぎるんだよ、あいつは」

呆れたようにため息をつく八幡の横顔を、陽乃は興味深そうに、そしてどこか満たされたような目でじっと見つめていた。

「そうだね……。あの子は昔から、自分の正しさを証明することでしか自分を保てないところがあるから。誰かに優しくされたり、真っ直ぐ向けられたりすると、どう処理していいか分からなくなっちゃうの。だから、悪い虫が寄ってきたとしても、上手にかわすどころか、一人で全部抱え込んで潰れちゃうかもしれない」

陽乃の声音には、妹に対する複雑な愛情と、同時にどうしようもない諦めのようなものが混ざっていた。

しかし、彼女はすぐにフッと表情を和らげ、悪戯っぽくクスリと笑ってみせる。

「でも、心配いらないんじゃない? だって――」

陽乃はテーブルに身を乗り出し、八幡の目をまっすぐに見据えた。

「今のあの子のそばには、そんな危なっかしいところを全部見越して、影で面倒くさい尻拭いをしてくれる『友達』がいるんだからさ」

「……だから、それはただの保身というか、近くで余計な飛び火を食らいたくないっていうかですね……」

「はいはい、照れ隠しはそこまでにしておくよ。……ねえ、比企谷くん」

陽乃はフワリと微笑みながら席を立ち、伝票を手に取った。

「その『騙されそう』な妹を、悪い虫から守る役目――引き続き、よろしく頼んだよ。お姉ちゃん公認の『執事兼お友達』ってことで」

「いや、勝手に役職を増やさないでほしいんですけど……」

やれやれと頭を掻く八幡を残し、陽乃は「ごちそうさま、またね」と軽やかな足取りでサイゼリヤの出口へと歩いていく。その背中を見送りながら、八幡はため息をつきつつも、心の中で小さく呟くのだった。

(……まあ、変な男に引っかかろうもんなら、このひねくれた頭フル回転させて盛大に叩き潰してやるけどな)

秋の夜風が吹き抜ける中、奇妙な共犯関係を確認し合った二人の夜は、こうして静かに更けていくのだった。

 

「全力で守りますよ。高校生のうちは」

 

会計を済ませようと席を立ちかけていた陽乃の足が、ぴたりと止まった。

レジへと向かう通路の途中で、彼女はゆっくりと振り返る。その琥珀色の瞳には、先ほどまでの余裕やからかうような光ではなく、わずかに鋭い興味の色が浮かんでいた。

「――いま、『高校生のうちは』って言った?」

八幡はコップの水を飲み干すと、至って真面目な、しかしどこか面倒くさそうな顔のまま、ふっと息をついた。

「そりゃそうですよ。俺が守れるのなんて、せいぜいここの高校にいる間だけです。卒業したら、進路だってどうなるか分かりませんし、いつまでも他人の人生の尻拭いにつき合えるほど暇じゃないんでね」

「へえ……」

陽乃はゆっくりとテーブルに戻ってくると、再び席に腰を下ろし、面白がるようにじっと八幡の顔を覗き込んだ。

「それってさ、裏を返せば『高校生の間は、私が責任を持ってそばで守ってやる』って宣言に聞こえるけど……気のせい?」

「気のせいです。買いかぶりすぎないでください。ただの現実的なリミットの話です」

しれっと言い放つ八幡だったが、その耳のあたりはほんのりと赤くなっていた。

陽乃はその様子を見逃さず、クスクスと楽しげな笑い声をこぼす。

「ふふっ、面白いね、本当に。――いいよ、その限定付きの誠実さ。お姉ちゃん、すごく気に入ったわ」

満足そうに頷いた陽乃は、今度こそヒラリと手を振ると、軽やかな足取りで店を去っていった。

取り残された八幡は、冷めかけたミラノ風ドリアの皿を見つめながら、心の中で大きくため息をつく。

(……まったく、あの姉妹と関わると、どうしてこうもペースを乱されるんだか)

「高校生の間」――それは、いつか必ず訪れる終わりの予感でありながら、同時に、今この瞬間だけは絶対に守り抜くという、比企谷八幡なりの歪で頑なな決意の表れでもあった。

外に出ると、秋の夜風が少しだけ肌寒く、しかし心地よく頬を撫でていく。

長い文化祭の季節が終わり、静けさを取り戻した日常の向こう側で、二人の関係はまた一歩、確かな形を変えて進んでいくのだった。

 

翌日の放課後。

奉仕部室の扉を開けた瞬間から、室内に漂う空気の重さは尋常ではなかった。

窓際に座る雪ノ下雪乃は、文庫本を開いているものの、その視線は一文字も追っていないことが一目でわかるほど冷ややかだった。そこへ漂うプレッシャーは、前日の文化祭の比ではない。

(……なんだこれ。昨日、サイゼで陽乃さんと会った話が、もうあいつの耳に入ったのかよ。あの魔女、どんだけ情報伝達スピード早いんだ……)

冷や汗を流しながら、八幡はいつも通り手際よく紅茶の準備を始める。

しかし、その沈黙を破るように、雪乃が静かに本を閉じ、透き通るような声で、しかし微かに震えるトーンで切り出した。

「……比企谷くん」

「……なんだよ、お嬢様」

「昨日、お姉さまとどこかで会ったそうね」

「あー……まあ、偶然な」

雪乃はゆっくりと立ち上がり、八幡のまっすぐ正面へと歩み寄ると、その細い眉をきつくひそめ、真っ直ぐに彼の目を捉えた。

「お姉さまから聞いたわ。『高校生の間は、全力で守ってやる』――そんな大層なことを、あの方に宣言したそうじゃない。……どういう意味かしら、それ」

詰問するような、それでいてどこか不安を押し隠すようなその声音に、八幡は困ったように頭をかく。

(……まったく、あいつは余計なことまでご丁寧に報告しやがって……!)

しかし、ここでごまかしても仕方がない。八幡はいつもの死んだ魚のような目を少しだけ和らげ、至ってフラットに、しかし真摯に答えた。

「そのままだろ。言葉通りの意味だよ」

「言葉通り……?」

「あぁ。お前は何かと一人で抱え込んで無理をするし、世間知らずなところもある。だから、俺がこの高校にいる間くらいは、余計なトラブルから守ってやるよって話だ。……変な男に騙されないようにするための保険も含めてな」

淡々と、しかしハッキリとそう言い切った八幡。

だが、その言葉を聞いた雪乃の表情は、晴れるどころか、ますます複雑に、そして切なく歪んだ。

「……なら、高校を卒業したらどうなるというのよ」

「そりゃ、お前は違う大学に進むだろうし、俺だって同じところに行くわけじゃない。進路も変われば、環境だって別々になる。……いつまでも、お前のそばにいてベタベタと世話を焼いてやれるわけじゃないだろ。俺だって自分の人生で手一杯だし、いつまでもは守ってやれないってことだ」

それは、あまりにも現実的で、冷徹なまでの「期限付き」の宣言だった。

お互いの人生が交わるのは高校という限られた箱庭の中だけであり、それが終わればそれぞれの道へ戻っていく――ひねくれた八幡なりの、自立した人間同士の適切な距離感のつもりだった。

だが。

(――いつまでもは、守ってやれない……?)

その言葉は、雪乃の胸の奥底を、冷たい刃物でえぐられたかのように鋭く突いた。

(私は……あなたのそんな「期限付き」の庇護や、執事としての優しさが欲しかったわけじゃないのに……っ)

「友達」という枠組みに入れられた時以上の、言いようのない焦燥感と、胸が張り裂けそうなほどの痛みが雪乃を襲う。卒業すれば、この関係も終わってしまうのだろうか。あの男にとって自分は、ただ「高校生の間だけ面倒を見てやるべき厄介な対象」にすぎないのだろうか。

湧き上がる独占欲と恐怖を必死に押し殺し、雪乃は震える声を絞り出した。

「……勝手に、そんな終わりの期限を決めないでちょうだい……!」

その瞳にうっすらと浮かんだ涙の膜を隠すように、雪乃は勢いよく背を向けると、足早に部室の出口へと歩き出す。

ガチャリ、と扉が乱暴に閉まり、部室には再び気まずい静寂が戻った。

一人残された八幡は、手に持ったティーポットを見つめながら、小さく息をつく。

(……なんだよ、怒らせるようなこと言ったか? まあ、あいつのプライドを傷つけちまったのかもな……)

自分に向けられた少女の本当の切なさに気づかないまま、八幡はただ、冷めかけた紅茶の湯気を見つめるのだった。

 

 

乱暴に閉まった扉の音が、広すぎる部室にいつまでも残響のように響いていた。

突然飛び出していった雪乃の背中を見送り、由比ヶ浜は「あーあ……」と深く長い溜息をつく。そして、呆れと呆けたような呆然の入り混じった目で、目の前でポットを持ったまま固まっている八幡を見据えた。

「ねえ、ヒッキー。今の一言、女子の地雷原で一番やっちゃいけない踏み方だったって自覚ある?」

「は? なんだよ。別に変なこと言ってねえだろ。事実しか言ってねえよ」

眼鏡を押し上げながら不服そうに返す八幡に、由比ヶ浜は「はぁ……」と再び盛大に息を吐き出す。

(この男、どれだけ頭が良くても、こういうところのデリカシーが絶望的に壊滅してるんだから……!)

由比ヶ浜が呆れ果てていると、八幡は小さく息をつき、再び自分の席へと腰を下ろした。

あいつがなぜあそこまで激昂したのか、本当の意味では理解しきれていないものの、自分が突き放したような物言いをしたこと自体は事実だった。だからこそ、八幡は少しだけ言葉を選び直すように、静かに独り言のように呟いた。

「……別に、縁を切るつもりなんてねえよ」

「……え?」

由比ヶ浜が思わず声を漏らすと、八幡は視線を窓の向こうの夕空に向けたまま、淡々と続けた。

「卒業したって、関わりが完全になくなるわけじゃねえよ。連絡くらいは取るだろうし、腐れ縁くらいにはなるだろ。たださ……」

八幡はそこで一度言葉を切り、どこか面倒くさそうに、しかしどこか諦めたような声音で言った。

「やっぱり、これから進学すれば交友関係も広がるだろ。大学に行けば、もっとまともで、もっと器用で、あいつを眩しい笑顔にさせるような連中がいくらでも出てくる。……いつまでも俺みたいなひねくれた奴にこだわる必要なんて、どこにもねえんだよ」

それは、自己卑下でありながら、同時に彼なりの精一杯の「優しさ」だった。

自分のような日陰の人間が、あの雪ノ下雪乃の隣にいつまでも居座り続けるべきではない。彼女には、彼女の輝く世界にふさわしい未来がある。そう信じているからこそ、八幡はあえて線を引こうとしていた。

だが――その言葉の裏にある「身を引きたい」という不器用な自己犠牲のニュアンスは、廊下の陰でまさに立ち去ろうと足を止めていた雪乃の耳に、残酷なまでにハッキリと届いてしまっていた。

(――っ……!)

扉のすぐ外で、雪乃は息が止まるほどの衝撃を受け、その場に立ちすくんだ。

「いつまでも、俺にこだわる必要はない」――。

それは、彼女にとって一番聞きたくない言葉だった。他の誰でもなく、あなたに見てほしい、あなたに選ばれ続けたいと願っている心の核心を、あっさりと、それも「優しさ」という名の諦めで否定されてしまったような絶望感。

不安と、恐怖と、どうしようもない胸の締め付けが、雪乃の小さな体を波のように襲う。

(なんで……そんなこと言うのよ……。私は、あなた以外なんて、いらないのに……っ)

震える手をきつく握りしめ、涙をこらえようと歯を食いしばる雪乃。

しかし、そんな彼女の苦悩など知る由もなく、部室の中では、八幡がさらにトドメを刺すように、どこか投げやりな、しかしどこか保護者のような口調で呟いていた。

「まあ、安心しろよ。そのうち、あいつに相応しい男……ちゃんとした恋人とか、そういうのがちゃんと現れるっての。だから今のうちに、変な男に騙されないように男を見る目を養っておけばいい」

――あいつに相応しい男。恋人。

その言葉を聞いた瞬間、廊下に立っていた雪乃の足元が、ガクッと大きく揺らいだ。

(……恋人…?)

私をそんな風に突き放して、他の誰かに渡そうとするなんて。私が見ているのは最初からあなた一人だけだというのに、どうしてこの男は、こうまでも的外れで、どこまでも優しい「突き放し方」をしてしまうのだろう。

胸が張り裂けそうなほどの熱と痛みに耐えかねて、雪乃は音を立てないようにその場から駆け出した。

部室の中に残された八幡は、冷めかけた紅茶を一口飲み、小さくため息をつく。

(……まあ、あいつなら、大学に行けばいくらでもいい男が見つかるだろ。俺みたいなのは、せいぜい高校までのつなぎの雑用係ってところだな)

そうやって自分の感情に蓋をし、いつもの「ぼっち」の思考回路に戻ろうとする八幡。

だが、その胸の奥にも、どうしようもない鉛のような重さが居座り続けていることに、彼はまだ、気付かないふりをし続けていたのだった。

 

部室から走り去っていった雪乃の気配が完全に消え去ると、重苦しい静寂が再び部屋を支配した。

由比ヶ浜は窓の方向をじっと見つめたまま、しばらく言葉を飲み込んでいたが、やがて小さく息をつき、信じられないものを見るような目で八幡へと視線を戻した。

「……ねえ、ヒッキー」

「んだよ、由比ヶ浜。さっきからため息ばっかついて、俺の淹れた紅茶が不味いのか?」

「そうじゃなくてさ……」

由比ヶ浜は呆れと、ほんの少しの呆れを含んだ複雑な表情で、八幡の目をまっすぐに見据えた。

「さっきから聞いてりゃ、自分のことばっか引き合いに出してさ……。それってさ、直球で聞くけどさ」

少しだけ言葉を詰まらせながらも、由比ヶ浜は核心を突くように問いかけた。

「――ゆきのんの、恋人になりたいとは思わないの?」

その問いは、あまりにも真っ直ぐで、逃げ場のないものだった。

部室の空気がピリッと凍りつく。由比ヶ浜の瞳には、八幡がどんな風に自分の感情に向き合うのかを確かめるような、切なさと真剣さが入り混じっていた。

しかし、当の八幡はというと、その質問を向けられた瞬間、どこか面倒くさそうに片目を細め、いつもの死んだ魚のような目でため息をついた。

「は? なんだよ急に。そんなホラーみたいなこと言い出すなよ」

「ホラーって……! まじめに聞いてるんだけど!」

「大体だな、お前も知ってるだろ。あいつと俺じゃ、育ってきた環境も、纏ってる空気も、見ている世界が根本的に違うんだよ。住む世界が違うってやつだ」

八幡はコップに残っていたぬるい紅茶を飲み干すと、淡々と、しかし諦めを含んだ声で続けた。

「あいつは、いつだって眩しいスポットライトの当たる場所や、ちゃんとしたレールの上を歩く人間だ。……対して俺は、日陰でひねくれてるだけのボッチだぞ。そんな奴が隣に並べるわけねえし、仮に何か勘違いでそんな関係になったところで、お互い不幸になる未来しか見えねえよ」

それは、八幡なりの現実的な自己分析であり、これ以上踏み込みすぎないための防衛線でもあった。

「住む世界が違う」――その一言で、すべてを片付けようとする。

その言葉を聞いた由比ヶ浜は、小さく「……バカだな、本当に……」と呟いた。

(ヒッキーはさ、自分がどれだけゆきのんにとって特別な存在になってるか、全然分かってないんだ……。住む世界が違うなんて、そんなの言い訳に決まってるのに……)

由比ヶ浜の胸の奥で、切なさともどかしさが痛いほど広がっていく。

だが、どれだけ言葉を尽くしても、このひねくれた男が自分でその壁を壊さない限り、届かないことも分かっていた。

窓の外に広がる夕暮れの空は、まるで二人の間の埋まらない距離を映すように、冷たく深い茜色に染まり始めていた。

 

その「期限付きの別れ」や「住む世界が違う」というモヤモヤを抱えたまま日常に戻ったある日、八幡は予期せぬ人物からの呼び出しを受けることになった。

場所は、校外の少し落ち着いた和食処の個室だった。

「偶然」を装ってはいるが、待ち合わせをしたわけでもないのにそこに座っていたのは、紛れもなく雪ノ下家の主――雪ノ下母、その人だった。

引き戸が開き、通された個室の畳の上に正座している気品を纏った女性を見た瞬間、八幡は心の中で盛大に絶叫した。

(――うわ、マジかよ……! あの魔女姉妹の母親ってことは、つまりラスボスじゃねえか……!)

黒髪を綺麗にまとめ上げ、冷徹なまでの知性と絶対的な威圧感を放つその女性は、しかし、どこか品のある穏やかな笑みを浮かべながら、ペコリと頭を下げた八幡を見据えた。

「あなたが、比企谷くんね。お噂はかねがね……というか、あの子たちから色々聞いていましてね」

一瞬で背筋が凍るようなプレッシャーを覚えながらも、八幡はいつもの死んだ魚のような目で、しかし失礼のないように深々と頭を下げた。

「……はあ、比企谷八幡ですけど。もしかして、俺が例の文化祭で色々やらかした件ですかね」

「ふふ、そんな身構えなくていいわ。悪い話じゃないのよ」

雪ノ下母はそう言うと、目の前にあるお茶の湯呑みにそっと視線を落とした。

もちろん、これが偶然であるはずがない。前日の夜、姉の陽乃が面白半分、あるいは何か企むような笑みを浮かべながら「今度、母様が比企谷くんに興味津々みたいだから会わせてあげるね」とどこかに情報を流していたのは想像に難くなかった。

「陽乃からも、そして雪乃からも……あなたの話はね、色々と耳に入っているわ。あの子たちが、あなたという存在を前にして、少しずつ変わっていく様子もね」

静かに告げられるその言葉には、母親としての鋭い洞察力と、どこか底の見えない重みが含まれていた。

「……そうですか。あいつらが勝手に変なこと言ってなけりゃいいんですけど」

「いいえ、変なことなんて言っていないわ。ただ……」

雪ノ下母はふっと目を細め、八幡の目をまっすぐに見据えた。その瞳は、驚くほど雪乃のそれに似ていた。

「我が家の面倒な娘たちを、これまで影で支えてくれてありがとう。……せっかくの機会だもの、こうしてゆっくりお話しでもしましょうか。さあ、遠慮せずに召し上がって」

個室の扉の外で控えていた仲居が、タイミングを見計らったように料理を運び込み、静かに会食の幕が切って落とされる。

「住む世界が違う」などと自分で線を引いていたはずの少年は、いまやその最高峰とも言える「雪ノ下家の中心」へと、容赦なく引きずり出されていたのだった。

――この冷徹な母親の目の前で、八幡はこの「期限付きの執事」としての立場をどう切り抜けるのか。そして、彼女が本当に伝えたかった言葉とは何なのか。

 

出された上品な懐石料理の数々が、目の前で静かに湯気を立てているというのに、八幡の胃袋には鉛でも飲み込んだかのような重苦しい重圧感が広がっていた。

仲居が静かに部屋を退出すると、個室の中には再び、緊張感を含んだ張り詰めた空気が戻る。

雪ノ下母は、箸をつけることもなく、ただ優雅に湯呑みを傾けて一口お茶を啜った。そして、静かに、しかし逃げ場のない瞳を八幡に向ける。

「それで……比企谷くん」

「……はい」

「聞かせてくださる? あなたが、なぜうちの雪乃にそこまで深く関わるようになったのかしら」

それは詰問というよりも、絶対的な事実の確認をするような、冷徹かつ洗練された問いかけだった。母親としての執着なのか、あるいは家を守る者としての警戒心なのか。底の知れない知性がその琥珀色の瞳の奥で光っている。

だが、ここでしどろもどろになれば、それこそ「下心があって近づいた軽薄な男」のレッテルを貼られかねない。八幡は心の中で冷や汗を拭いながらも、いつもの死んだ魚のような、しかし動じない目を母親に向けた。

「……近づいたというか、そもそも自分から進んで近づいたわけじゃないですよ」

「ほう、と言うと?」

雪ノ下母がわずかに眉をひそめる。八幡は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、淡々と事実を並べ立てた。

「偶然です。同じ学校の、同じ部活……奉仕部に放り込まれただけで。あいつが一人で勝手に面倒事を抱え込んで自滅しかけてるから、結果的にその尻拭いをさせられてるだけであって、こっちから好き好んで関わりに行ってるわけじゃないんです。……まあ、あえて言うなら、あいつが自爆されるとこっちの平穏が脅かされるっていう、ただの自己防衛の結果ですけど」

それは、あまりにもひねくれていて、それでいて泥臭いほどに正直な答えだった。

「運命」だの「純愛」だのという綺麗事を並べるのではなく、あくまで「同じ部活に所属しているから、結果的に巻き込まれているだけだ」と言い放つ。

その答えを聞いた雪ノ下母は、数秒間、じっと八幡の顔を見つめていた。

やがて、彼女はふっと小さく、しかしどこか見透かすような笑みを零した。

「……自己防衛、ねえ」

その声には、呆れとも、あるいは微かな関心とも取れる響きが混じっていた。

「陽乃からも、そして雪乃の様子を見ていても思ったけれど……あなたという少年は、本当に変わっているわね。あの子たちの危うさを、腫れ物に触るように避けるわけでもなく、かといって過剰に迎合するわけでもなく、ただ『同じ土俵』に立って泥を被る選択をしている」

雪ノ下母は箸を取り、ゆっくりと料理の一品に手を伸ばしながら、静かに続けた。

「あの子はね、自分の正しさを証明しようとするあまり、周囲の人間を遠ざけてしまうところがある。だからこそ、あなたのような距離感で接してくれる存在が、あの子にとってどれだけ異質で、そして――」

言葉の続きを母親はあえて口に出さず、ただ静かに八幡を見据えた。

その視線の重さに、八幡は心の中で再び盛大に溜息をつくのだった。

(……やれやれ、この母親もあの姉妹に負けず劣らず、人の心の内を覗き見して楽しむ悪趣味なところは一緒らしい。……ったく、一体いつになったらこのプレッシャーから解放されるんだよ……)

 

目の前で静かに上品に料理を口に運ぶ雪ノ下母の姿を眺めながら、八幡はふと、心の中に浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。

「……あの、失礼かもしれませんが」

「ん?」

「やはり、子育てってのは大変なんですかね」

あまりにも唐突で、そして高校生が初対面の大人――しかも相手の母親に対して向けるには直球すぎる質問に、雪ノ下母の手がぴたりと止まった。彼女はゆっくりと箸を置くと、どこか意外そうな、しかし値踏みするような目で八幡を見据えた。

「……どういう意味かしら、それ」

冷徹な知性を湛えた瞳が細められる。個室の空気が再びピリッと引き締まったが、八幡は臆することなく、いつもの気だるげな調子のまま淡々と続けた。

「いや、だって……あなたも、あの陽乃って魔女も、そして当の本人である雪乃も……見てると、みんなしてやけに生きるのが大変そうに見えるんでね」

――生きるのが大変そうに見える。

それは、他人に踏み込まれることを極端に嫌い、常に完璧な仮面を被って生きざるを得ない雪ノ下家の人間たちの本質を、最も端的に、そして最も無遠慮に突いた言葉だった。自分を正しく証明しなければならない母親。すべてを達観したふうに見せながら歪んだ執着を隠せない姉。そして、自分の弱さを認められず一人ですべてを背負い込もうとする妹。

その全員が、どこか息苦しそうに、不器用に世界と戦っている。それを外側から冷静に(あるいは冷ややかに)見つめてきた八幡だからこそ言える、痛烈な指摘だった。

雪ノ下母は、しばらくの間、何も言わずにじっと八幡を見つめていた。

その表情には怒りや不快感はなく、ただ、自分の内臓の奥底を覗き込まれたような、奇妙な静けさがあった。

やがて、彼女はふっと、どこか遠くを見るような、力ない笑みを零した。

「……ふっ。あなたって本当に、人の地雷を踏むのが得意な少年なのね」

自嘲気味にそう呟いた母親の横顔には、いつもの冷徹な完璧さの裏にある、一人の親としての疲労や、どうしようもなさがほんのりと滲み出ていた。

「大変、ね……。ええ、そうかもしれないわね。私たちは、正しい生き方以外を知らないものだから。不器用にしか進めなくて、子供たちにも、窮屈な思いばかりをさせてしまっているのかもしれないわ」

ぽつりと零されたその本音は、あの雪ノ下家の人間もまた、ただの人間なのだという現実を八幡に突きつけるには十分すぎるものだった。

(……やれやれ。なんだか、とんでもねえところに入り込んじまったな……)

八幡は出されたお茶を一口飲み、冷え切った胃袋に苦い液体を流し込みながら、ただ静かに目の前の母親の言葉の続きを待つのであった。

 

 

「いつまでも守ってやれるんですかね?あなたも俺も。あなたもまた歪んでる。庶民の俺から見たらね」つぶやくように言う八幡。

 

個室に漂う静寂が、先ほどよりも一段と重く、冷ややかに沈み込んだ。

八幡の放った「いつまでも守ってやれるのか」という問い、そして「あなたもまた歪んでいる」という庶民からの容赦ない直言。それは、気高き雪ノ下家の主である母親にとって、人生で一度も言われたことのない、あまりにも不遜で、あまりにも核心を突いた言葉だった。

雪ノ下母は動かなくなった箸をそっと置き、ゆっくりと顔を上げた。その琥珀色の瞳は、これまでにないほど鋭く、凍てつくような光を帯びて八幡を射抜く。

「……今、何て言ったかしら?」

一歩間違えれば、その場でたたき出されてもおかしくないほどの圧倒的な威圧感。だが、八幡は逃げることなく、その死んだ魚のような目で真っ直ぐに母親の目を凝視した。

「聞き間違えじゃねえよ。……あんたは、あいつらを自分の管理下に置いて、正しいレールの上を歩かせることで守っているつもりかもしれないけどさ。それって本当に『守ってる』のか? ただ自分の理想の枠組みに押し込めて、外の世界の痛いところから隔離してるだけなんじゃねえの?」

八幡はコップをテーブルにカタリと置き、淡々と言葉を続けた。

「いつかあいつらがその箱庭の外に出て、自分の足で立ったとき、自分の頭で考えられなくなってたらどうすんだよ。……いつまでも親が、大人が、守ってやれるわけじゃねえだろ。あんたも、俺もな」

それは、他ならぬ「期限付きでしか守れない」と自分に言い聞かせてきた八幡自身が、最も恐れ、そして最も痛感している現実でもあった。他人の人生の責任など取れないからこそ線を引こうとする自分と、完璧な正しさで子供の人生をコントロールしようとする母親の姿が、どこかで重なって見えてしまったからこその言葉だった。

「……庶民の俺から見たらさ、あんたたちのやり方も、自分の生き方も、相当歪んで見えるぜ」

言い放った後、個室の中には完全な沈黙が支配した。

(――あーあ、流石に言い過ぎたか? これで出入り禁止になったら、それはそれで平和でいいか……)などと、八幡が心の中で現実逃避の準備を始めた、その時だった。

ふっ、と。

目の前に座る雪ノ下母の肩が、微かに震えた。

彼女は顔を覆うように片手を当てると、やがて、これまでの冷徹な仮面が剥がれ落ちたかのような、乾いた、しかしどこか深いところで納得したような笑い声を漏らした。

「……ははっ。……ふふふ」

驚く八幡を前に、雪ノ下母はゆっくりと顔を上げ、驚くほど穏やかな、そしてどこか切なさを湛えた目を向けた。

「歪んでいる、か……。本当に、あなたという少年は……どこまで私のプライドをへし折れば気が済むのかしらね」

母親は深く息を吐き出し、まるで長年の肩の荷がほんの少しだけ下りたかのように、遠くを見つめた。

「おっしゃる通りかもしれないわね。私は、あの子たちのためだと言いながら、ただ自分の決めた『正しさ』の呪縛から逃れられず、がんじがらめにしていただけなのかもしれない……。あなたのような庶民の少年から見れば、滑稽な人形劇に見えたことでしょうね」

その言葉には、怒りや反発の色は微塵もなく、ただ、自分を真っ直ぐに鏡写しにされたような諦めと、どこか救われたような複雑な響きがあった。

「……ねえ、比企谷くん」

「……なんですか」

「あなたは、『いつまでもは守ってやれない』と言ったわね。自分の手で責任を取れる範囲でしか、他人の面倒は見ない、と」

雪ノ下母はテーブルの上に身を乗り出し、八幡の目をまっすぐに見据えた。その眼差しは、先ほどまでの「母親」のそれではなく、一人の人間として、目の前のひねくれた少年を認めたものに変わっていた。

「だったら――今、この瞬間だけでもいい。あの不器用で、プライドばかりが高くて、自分の弱さを誰にも言えないかわいそうな娘のそばに、ただの『友達』として、同じ目線で立っていてあげてくれるかしら?」

それは、命令でも、要求でもなく、初めて母親としての本音を零した懇願だった。

八幡はしばらくの間、その言葉の重みを受け止めるように黙り込んでいたが、やがて小さく息をつき、いつもの気だるげな調子で頭をポリポリと掻いた。

「……頼まれなくたってさ。あいつが勝手に自爆しかけてたら、こっちの平穏が乱されて迷惑なんでね。……気が向いたら、付き合ってやりますよ。高校生の間だけはな」

その不器用で、しかし嘘偽りのない答えを聞いた雪ノ下母は、今日一番の、そしてこれまでにないほど柔らかく美しい微笑みを浮かべた。

「……そう。それなら、安心ね」

秋の静かな夜、雪ノ下家の主と、一人のひねくれた高校生の間で交わされた秘密の密会は、こうして思いがけない理解と、奇妙な共犯関係を残して幕を閉じるのだった。

 

 

高級料亭の静かなエントランスを抜け、秋の夜気が漂う駐車場へと歩みを進める雪ノ下母。その足取りは、ここへ来る前よりも心持ち軽く、どこか肩の荷が下りたような清々しさを纏っていた。

待たせてあった黒塗りの高級セダンの後部座席のドアが、運転手によって静かに開けられる。乗り込もうとしたその瞬間、母はふと足を止め、助手席の窓に視線を向けた。

そこには、いつの間にか運転席の隣に陣取っていた長女――陽乃が、相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべて座っていた。

「お疲れ様、母様。どうだった? 例の彼とのお話は」

ハンドルに肘をつき、楽しげに覗き込んでくる陽乃に、母は小さくフッと息を吐きながら、上品に後部座席へと身を滑り込ませた。ドアが音もなく閉まり、車内が静寂に包まれる中、母は静かに口を開く。

「……本当に、不思議な男ねえ」

「でしょ? 私の目に狂いはなかったでしょう」

陽乃が嬉しそうに目を細めるのに対し、母は窓の外の夜空を流れる街灯をぼんやりと眺めながら、どこか遠い目をした。

「庶民の分際で、私に向かって『あなたも歪んでいる』などと言い放ったのは、後にも先にもあの子が初めてだわ。……けれど、あの子の目は嘘をついていなかった。自分の弱さも、限界も、すべて分かった上で、それでもあの距離感を保とうとしている」

母の言葉に、陽乃はふっと表情を和らげ、どこか誇らしげな、そしてどこか切なさを孕んだ笑みを浮かべた。

「そうだよ。あの子はね、自分がどれだけ冷酷に見えようとも、自分の手の届く範囲でしか誰かを救えないって知ってるの。だからこそ、その期限の中で、泥を被ることを恐れない」

バックミラー越しに母と視線を交わしながら、陽乃は静かに言い切った。

「あれはね、雪乃のナイトなのよ。――まあ、本人たちが絶対に認めない、せいぜい『期間限定』のね」

「期間限定、ね……」

母は小さく呟くと、深くシートにもたれかかった。

いつか必ず終わりが来るその関係が、あの不器用な姉妹の心をどう変えていくのか。あるいは、自分という呪縛から彼女たちを解き放つきっかけになるのか。

車は静かに夜の舗道を走り出し、秋の冷たい空気の中へと言葉の続きを飲み込んで消えていった。

 

秋の深まりとともに、奉仕部室の空気は目に見えて変わり始めていた。

相模との一件や、母親との密会を経てからも、八幡が引いた「高校生の間だけ」「友達」という線引きは変わっていなかった。しかし、その頑ななまでの境界線は、当の雪乃にとって、もはやただの「防壁」ではなく、すがりつくべき唯一の温度になってしまっていた。

授業が終われば自然と足が部室に向かい、紅茶を淹れる八幡の背中を目で追い、自分のことを「変な男から守るべき対象」として語る彼の不器用な優しさに、雪乃の心は少しずつ、しかし取り返しのつかないほどに絡め取られていた。

――あの人がいなければ、私はきっと、あの息の詰まる家の中でまた一人で折れていた。

――私には、もうこの人の隣以外に居場所なんてない。

そんな甘えと、底知れない恐怖が混ざり合い、雪乃の自立心を少しずつ、しかし確実に麻痺させていくだけの時間は十分すぎた。

 * * *

その異変に、最初に気づいたのは八幡自身だった。

いつものように放課後、部室の扉を開けて入ってきた雪乃は、以前のようなどこか棘のある気高さをすっかり潜め、どこか怯えた小動物のように、八幡の存在そのものに縋るような目を向けていた。由比ヶ浜が気を利かせて席を外したその静かな部室で、雪乃は八幡の袖をわずかに引っ張り、小さく震える声でこう言ったのだ。

「……比企谷くん、今日ね、お母様が……。私、またどうすればいいか……」

その瞬間、八幡の背筋に冷たいものが走った。

(――おいおい、マジかよ……)

最初は「少し世間知らずで不器用なクラスメイトの尻拭い」のつもりだった。変な虫から守るための、あくまで対等な「友達」としてのスタンスだったはずだ。

だが、今の雪乃はどうだ。自分の意思や誇りですら手放し、自分の存在そのものを「比企谷八幡」という不器用な救済に依存し始めている。

自分が作り出した「期限付きの庇護」という名の優しさが、結果的に彼女の自立心を奪い、自分なしでは立っていけないような歪んだ依存関係を生み出してしまっている。

(――間違えた。俺は、完全にやり方を間違えてたんだ……)

いつまでも責任を取れないくせに、中途半端に踏み込みすぎた。このままでは、彼女の未来を救うどころか、完全に自分の手元に縛り付けて潰してしまうことになる。それは、あの母親がやってきたことと何一つ変わらない、最悪の結末だ。

八幡は自分の袖を掴む雪乃の細い指を、痛いくらいに冷淡に、しかし引き剥がすようにそっと払いのけた。

「……比企谷くん……?」

驚いたように見上げてくる雪乃の瞳に、八幡はあえてこれまでで一番冷たく、突き放すような死んだ魚の目を向けた。

「……悪りぃ、雪乃。俺はもう、お前のその面倒くせえ悩みにいちいち付き合ってやれねえよ」

「っ……どういう……意味よ……」

「そのままの意味だ」

八幡は椅子から立ち上がり、窓の外の夕空へ背を向けた。胸の奥が引き裂かれるような痛みを、いつもの冷徹な自嘲で無理やりねじ伏せながら、彼は残酷なまでのトドメを刺した。

「いつまでも俺に頼るなよ。お前は、俺がいなくても一人で立てるはずだろ。……これ以上、俺に依存すんな。いい加減、距離を置かせてもらうからさ」

「――嘘……よ……」

掠れた声で呟き、その場に立ちすくむ雪乃を二度と見ないように、八幡は足早に部室を飛び出した。

バタン、と閉まった扉の音が、取り返しのつかない亀裂を告げるように、夕暮れの廊下に冷たく響き渡るのだった。

 

 

夕暮れの冷たい風が吹き抜ける校庭の隅。錆びかけた鉄のベンチに、雪乃は一人ポツンと座っていた。

あの日の放課後、八幡に冷たく突き放されてから、彼女の時間は止まったままだった。

「これ以上、俺に依存すんな」――その言葉が頭の中で繰り返し反響し、行き場を失った心は凍てついたように動かない。誇り高いはずの雪ノ下雪乃の瞳からは、もう堰を切ったように涙がこぼれることもなく、ただうつむいた膝を見つめる視線は虚ろだった。

彼女を縛っていた母親の呪縛から逃れられたと思ったのに、気づけば今度は、唯一温もりをくれたはずの少年なしでは呼吸すらできないほどの依存に陥っていた。

(……やっぱり、私は一人じゃ何もできない。誰かに縋らなければ、まともに立っていられない壊れた人形なんだわ……)

自嘲と絶望が胸を締め付け、冷たい夜気が容赦なく体温を奪っていく。

その時、カチャリ、と微かな音がした。

視界の端、冷え切った指先のすぐ隣に、温かな缶コーヒーがそっと置かれる。

そして、軋む音とともに、見慣れたシルエットがそのベンチの隣に腰を下ろした。

「……こんなところで風邪ひくなよ。あほくせえ」

ぶっきらぼうで、けれどどこか聞き覚えのある、不器用な気だるげな声。

息が止まりそうになり、雪乃はゆっくりと顔を上げた。そこには、目を逸らしたいのに一番見たかったはずの、比企谷八幡の姿があった。彼は前を向いたまま、自分の分の缶コーヒーをパキッと開け、冷えた空気に白い息を吐き出している。

「……っ、どうして……。あなた、もう私に関わらないって……距離を置くって、言ったじゃない……」

震える声で絞り出した雪乃の言葉に、八幡は小さく息をつき、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。

「……あー、言ったな。確かに、これ以上お前の依存先になってちゃ共倒れだって思ったからさ。……でもよ」

八幡はそこで言葉を切り、ほんのわずかに視線を横に向け、泣き腫らしたような、けれど必死にこらえようとしている雪乃の横顔をとらえた。その死んだ魚のような目は、いつにも増して不器用な優しさを湛えていた。

「突き放すにしても、もうちょい言い方ってももんがあっただろって、後から由比ヶ浜にめちゃくちゃ怒られてさ。それに……」

八幡は少しだけ苦笑いし、自分の缶コーヒーを軽く振ってみせた。

「一人で勝手に自爆して、こんな寒空の下で消え入りそうな顔して座ってる奴を完全放置して見捨てるほど、俺も冷血になりきれなかったってわけだ。……悪かったな、言い過ぎた」

その言葉を聞いた瞬間、雪乃の中で張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた。

「……バカ……っ。本当に、あなたは……どこまで私を振り回せば気が済むのよ……!」

あふれ出そうになる涙を必死に堪えながら、雪乃は震える声で責め立てる。だが、その声にはもう拒絶の色など微塵もなく、ただ、凍えていた心に染み入る温もりへの安堵と、どうしようもない愛おしさが満ちていた。

八幡は気まずそうに目を逸らしながらも、席を立とうとはしなかった。

「依存するな」と言った。それでも、完全に離れるわけではない。ただの「期限付きの守る者」でも、「依存の対象」でもない、泥臭くて不器用な距離感のままで、彼はこうして隣に座っている。

秋の冷たい夜風の中、二人の間に流れる空気は以前よりも少しだけ静かで、そして温かかった。

 

 

ベンチを包む夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような寒さは少しだけ和らいでいた。

八幡の不器用な謝罪ともフォローともつかない言葉を聞いた後、雪乃はしばらくの間、膝の上でぎゅっと握りしめた自分のスカートの裾を見つめていた。唇を噛み締め、胸の奥底で渦巻く感情を必死に言葉へと翻訳しようと、細い肩が微かに震えている。

「……っ」

何かを言おうとして、でも声にならない。そんな彼女の様子を急かすこともせず、八幡は缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、ただ静かに前を向いて待っていた。

やがて、絞り出すような、けれどどこか透き通った雪乃の声が、夜の静けさにポツリと溶け出した。

「……私ね……ずっと、怖かったのよ」

「……何がだ」

八幡が視線を向けないまま相槌を打つと、雪乃はゆっくりと顔を上げ、遠くの街灯の光を見つめながらぽつりぽつりと語り始めた。

「お母様の決めたレールの上を歩いていれば、間違いなんて起きなかった。自分の意思なんて持たずに、ただ期待に応える人形のままでいれば、誰も傷つかないし、私も傷つかずに済んだわ。……それが正しいのだと、ずっと信じ込もうとしていたの」

その声には、彼女がこれまで背負ってきた孤独と、誰にも言えなかった重圧の痛みが滲んでいた。

「だけど……あなたと出会って、この部活に入って……初めて『自分の意志で誰かと関わること』を知ってしまったの。……それがどれほど温かくて、どれほど救われるものかを知ってしまったら……今度は、それがいつかなくなってしまうことが、怖くて仕方がなくなったのよ」

「だから……あなたに嫌われるのが怖くて、見放されるのが怖くて、いつの間にかあなたの言葉に、あなたの存在に、すがりついて……自分で立つことすら忘れてしまっていたわ」

雪乃の瞳から、一筋の涙がほほを伝ってこぼれ落ちた。それは弱さからくる涙ではなく、長年隠し続けてきた本音をようやく外に吐き出せたことによる、痛々しくも美しい解放の涙だった。

「……私はね、強い人間なんかじゃないわ。本当は、すごく臆病で、ただの我が儘な子供よ。……あなたが言うように、いつかこの高校を卒業して、別の道に進んだとき、私は……あなたなしで、一人でちゃんと生きていけるのかしら……?」

その問いかけは、あまりにも切なく、八幡の胸の奥を鋭く突いた。

「依存するな」「いつまでもは守れない」と突き放した男の前にいるのは、誰よりも強くありたかったのに、ただ一人の少年を求めて震えている少女の姿だった。

八幡は持っていた缶コーヒーをそっとベンチの脇に置くと、眼鏡のブリッジを押し上げ、いつもの気だるげな、けれどどこまでも真摯な声を落とした。

「……当たり前だろ」

「……え……?」

驚いたように目を見開く雪乃に、八幡はゆっくりと視線を向けた。その死んだ魚のような目は、今夜は不思議とどこまでも優しく、そして揺るぎなかった。

「お前は、俺がいなくたってちゃんと生きていけるよ。最初から、お前の中にはちゃんと自分の足で立つ強さがあったはずだ。……俺がやったのは、せいぜいその足元に転がってた余計な石ころを蹴飛ばしたくらいのもんだろ」

「そんなの……」

「それにさ」

八幡は少しだけ照れくさそうに目を逸らし、ぽりぽりと頭を掻いた。

「『いつか別の道に進んだら』って、そんな先の未来のことは、今の俺には分かんねえよ。……だけどな、少なくとも『今』、この高校にいる間は……お前が一人で勝手に潰れそうになってるなら、隣にいてやるくらいの手間はいくらでもかけてやるよ」

それは、「永遠の愛」でも「無責任な救済」でもない。

今この瞬間を生きる二人が交わした、あまりにも八幡らしい、不器用で、誠実な約束だった。

雪乃はその言葉を胸の奥に染み込ませるようにじっと聞き、やがて、これまでの緊張が嘘のようにほどけたような、小さく、けれど今日一番の美しい微笑みを浮かべた。

「……本当に、あなたはどこまでいっても、調子の狂う人ね」

「おう、悪かったな。どうせひねくれたボッチで結構ですよ」

夜空にふっと零れた二人の笑い声は、冷たい秋の空気に溶け込みながら、静かに、そして確実に、二人の新しい関係の始まりを告げていた。

 

冷えた夜風に吹かれたベンチの上で、しばらく静かな余韻を分かち合った後、八幡はふと立ち上がり、軽くズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「……ま、いつまでもこんな寒空の下で湿っぽい話をしてても仕方ねえよ。腹も減ったしな」

「……急になんなのよ、まったく。情緒のない人ね」

涙の跡をそっと拭いながらも、どこか晴れやかな表情を取り戻した雪乃が、ふっと小さく息をついて立ち上がる。そんな彼女に、八幡は少しだけ目を逸らしながら、気だるげに顎をしゃくってみせた。

「ほら、行くぞ。近くに丁度いい避難所がある」

「避難所……って、どこに行くつもり?」

「サイゼだよ。昨日も行ったし、問題ねえだろ」

「……さいぜ?」

聞いたこともない響きに、雪乃はわずかに眉をひそめ、怪訝そうな顔を浮かべた。お高くとまったお嬢様である彼女の辞書に、そんな庶民派レストランの文字が存在するはずもなかった。

 * * *

数分後、初めて足を踏み入れた『サイゼリヤ』の店内で、雪乃は目の前の光景を物珍しそうに、そして少しだけ圧倒された様子で見回していた。

赤と白のチェック柄のテーブルクロス、あちこちから聞こえる賑やかな話し声、そしてどこか庶民的な活気。いつも静寂に包まれた高級店や自宅のダイニングとは全く違う空気に、雪乃は戸惑いながらも、八幡の後を大人しくついていく。

「ここの席でいいか。……ほら、突っ立ってねえで座れよ」

「う、うん……。なんだか、すごく独特な匂いがするけれど……」

「ミラノ風ドリアの香りだよ。文句言わずに食っとけ、安いから」

向かい合わせのボックス席に腰を下ろし、店員から渡されたメニューを開いた雪乃は、そこに書かれた驚異的な安さと料理のバリエーションに、目を丸くして絶句した。

「なっ……何これ……? この値段設定は一体どうなっているのよ……? 原価割れを起こしているのではないかしら……」

「お前は経営者の視点かよ。いいから好きなもん頼め、今日は俺の奢りってわけにはいかねえから割り勘な」

「急に現実的なことを言わないでちょうだい。……でも、ふふっ」

メニューの端から端までじっくりと眺め、微かに笑みをこぼす雪乃の姿を見て、八幡は心の中で「まあ、こういう顔が見られたなら連れてきた甲斐もあったか」と小さく息を吐いた。

注文を済ませ、湯気を立てるミラノ風ドリアと熱々のドリアが運ばれてくると、初めて食べるファミレスの味に雪乃は「……っ、おいしい……」と密かに感動の声を漏らす。その様子を横目に、八幡はコップの水に口をつけ、ふと、頭に浮かんだ疑問を口にした。

「……そういえばさ」

「ん? なに?」

「お前、さっき『別の道に進んだら』って話を自分でしてたけどさ。……実際のとこ、卒業したら将来やりたいこととか、何か目標みたいなのあるのかよ。あのおっかない母親の敷いたレール以外でさ」

その問いかけに、フォークを動かしていた雪乃の手が、わずかにぴたりと止まった。

窓の外の夜空を少しだけ見上げ、雪乃は思いにふけったように目を伏せる。これまで「正しいレール」の上を歩くことしか許されなかった彼女にとって、自分の意志で未来を選ぶということは、まだ少し怖くて、けれど確かな光を帯びた未知の領域だった。

けれど、もう迷うことはない。隣には、あの不器用な言葉で境界線を引いてくれた少年がいるのだから。

雪乃はゆっくりと視線を戻し、いつもの気高さを少しだけ覗かせながら、しかしどこまでも真っ直ぐな瞳で八幡を見据えた。

「……まだ、ハッキリとした形は見えていないわ。でもね」

彼女は小さく息を吸い、少しだけ頬を朱に染めながら、はっきりと告げた。

「お母様の操り人形でも、誰かの庇護にすがるだけの存在でもなく……私自身の足で選んだ道を歩いてみせるわ。……そのためには、もう少しだけ、この高校生活の中で色々なことを知る必要があるみたいね」

その言葉には、かつての頑ななまでの冷たさはなく、自分の足で未来へ踏み出そうとする確かな強さと決意が宿っていた。

八幡はその答えを聞くと、「まあ、勝手にすりゃいいさ」とそっぽを向いたが、その口元にはほんの小さな、けれど隠しきれない笑みが浮かんでいた。

温かな光に包まれたサイゼリヤの席で、二人の未来に向けた小さな一歩は、こうして静かに動き出していくのだった。

 

 

ミラノ風ドリアの皿からほんのりと立ち上る湯気と、店内のざわめきを背景に、八幡はコップの水を一口飲んで、ふとテーブルの向こう側に視線を投げた。

「……まあ、何にせよだ」

気だるげな調子を装いながら、八幡は少しだけ視線を逸らし、ぼそっと呟く。

「俺はお前のことが好きだぞ。……もちろん、友達として、だけどな」

その言葉は、あまりにも唐突で、そして彼なりの照れ隠しと最大限の誠意が入り交じったものだった。

――「好きだぞ。もちろん、友達として」

そのフレーズを聞いた瞬間、雪乃の中で何かが盛大に音を立てて沸騰した。

頭の中が真っ白になり、持っていたフォークがカランと音を立てて皿の縁にぶつかる。

(す、好き……? いま、この男は何をサラッと……っ!)

頭では分かっている。彼が言う「友達」という枠組みの意味も、これまでに交わしてきた境界線のことも、すべて理解しているはずだった。けれど、どんなに理屈で武装しても、あのひねくれた少年から「好き」という言葉を直球で投げつけられた事実の前では、免疫などまったく意味をなさなかった。

「っ……! あなたって人は、本当に……!」

雪乃は顔を真っ赤に染め上げ、耳の先まで茹でダコのように熱くなっているのを隠すように、慌ててコップの水を両手で掴んで口に運んだ。だが、動揺しすぎてむせそうになり、小さく「っ……!」と息を詰まらせる。

そんな彼女の慌てふためく様子を横目に、八幡は「ほら見ろ、だから言っただろ」とわざとらしくやれやれと首を振ってみせる。

「なっ……なによ、急にそんな変な誤解を招く言い方をして……! 一体、何を考えているのかしら、あなたは……!」

「誤解も何も、事実だろ。お前のこと嫌いだったら、そもそもこんな面倒なサイゼになんか連れてこねえよ」

照れ隠しを隠すためにぶっきらぼうに返す八幡の耳たばも、実はほんのりと赤く染まっていることに、恥ずかしさでいっぱいの雪乃はまだ気づいていなかった。

自分を「友達」と定義する、その不器用で意地っ張りな優しさ。

その言葉の裏にある温もりを痛いほど知っているからこそ、雪乃はこれ以上突っ込むこともできず、ただ真っ赤な顔で俯いたまま、小さく「……ばか」と呟くのが精いっぱいだった。

温かなファミレスの照明の下、照れくさそうに目を逸らす少年と、顔を真っ赤にしてカップを見つめる少女の影が、テーブルクロスの上に仲良く並んで揺れていた。

 

 

赤らめた顔を両手で少しだけ冷やしながら、雪乃はふっと息を整え、意地悪そうな、けれどどこか真剣な光を湛えた瞳を八幡に向けた。

「……ねえ。さっきの言葉、聞き流すわけにはいかないわね」

「は? 何がだよ」

「『好き』だって言ったでしょう。……じゃあ聞くけれど、私のどこが好きなのかしら? 『顔以外』で、ちゃんと言ってみなさいよね」

それは、彼女なりの照れ隠しか、あるいは彼が自分のどこを本当の意味で見てくれているのかを確かめたくて仕方がなかったからこその問いだった。

不意を突かれた八幡は、「顔以外って……おいおい、急にハードルを上げてきやがるな」と心の中で盛大に頭を抱える。

(いや、ここで適当なことを言ったら確実に信用を失うし、かといってあまりにも重い言葉を返したら気まずさがマッハだぞ……!)

テーブルクロスの上に置かれたフォークを見つめながら、八幡はしばし思考の海へと潜った。

自分がなぜ、このひねくれていて、プライドが高くて、どうしようもなく不器用な少女のそばにいてやろうと思ったのか。その答えは、これまでの日々の中にいくらでも転がっていた。

やがて、八幡はわずかに視線を上げ、いつもの死んだ魚のような、しかしどこまでも嘘偽りのない目で雪乃をとらえた。

「……そうだな」

低い、けれど静かに響く声で、八幡はぽつりと言葉を紡ぎ出した。

「世の中の理不尽とか、人間の汚い部分とか……そういうものに絶望しながらも、そこから目を背けずに、自分なりの正しさを貫こうと必死にもがいてるところ、かな」

「――っ」

思いがけない言葉に、雪乃の息がわずかに止まった。

「お前は、いつだって一人で全部を背負い込もうとして、傷ついて、それでも折れずに前に進もうとするだろ。……そういう不器用で、泥臭くて、でも曲がりなりにも前を向こうとしてる生き様がさ……見てて、こう……放っておけねえって思わせるんだよ。もちろん、面倒くさいって思うことの方が多いけどな」

最後はいつもの調子に逃げるように悪態をついたが、その瞳の奥にあったのは、紛れもなく彼女という人間の本質を丸ごと肯定するような、真っ直ぐな敬意だった。

世間に絶望しながらも、なお正しくあろうとする雪乃の美しさを、誰よりも近くで見ていた彼だからこそ言える答え。

雪乃は胸の奥がギュッと締め付けられるような、これまで感じたことのない温かな熱に包まれるのを覚えた。

目頭が熱くなり、あふれそうになる感情を必死に堪えながら、彼女は小さく鼻を鳴らし、わざとお高くとまった調子で、しかしどこか震える声を絞り出した。

「……っ、本当に……どこまで人を狂わせる言葉を平然と言うのかしら、あなたは……」

「いや、だから褒めてんだよ、一応」

「……褒め方を変えなさいよ、バカ……」

真っ赤になった顔を隠すように、雪乃は再びミラノ風ドリアの皿に視線を落とした。

その頬に伝わった熱は、サイゼリヤの温かな照明に溶け込み、夜の帳が下りる静かな店内で、二人の距離をまた少しだけ、確実に近づけていくのだった。

 

 

 

気まずい沈黙を紛らわせるように、八幡は再びフォークを手に取り、少しだけ気恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうに言葉を継ぎ足した。

「まあ、あれだ。あとは単純に……見ていてとにかく危なっかしいから、放っとけねえってのもあるな」

「危なっかしい……?」

「そ。お前はすぐに一人で無理をして、キャパシティを超えても全部一人で抱え込もうとするだろ。だから、こう……なんていうか、放っとくと勝手に自爆しそうな危うさがあるんだよ」

そこで八幡は、ふと思い出したように自分の胸元を軽く叩き、妙に納得したような顔でうなずいた。

「なにせ、俺には小町って言う手のかかる妹がいるからな。こういう、おせっかいを焼かないと勝手に面倒なことに巻き込まれるタイプを見ると、どうも放っておけない性分っていうか……お兄ちゃん気質ってやつなのかな、ははっ」

――妹がいるから、お兄ちゃん気質。

その言葉を聞いた瞬間、先ほどまでの甘い余韻と温かな空気が、音を立てて粉々に砕け散った。

(……い、いま……何て言った……?)

雪乃の手から、フォークが再びカランと音を立てて皿に落ちる。

彼女の顔から先ほどの照れや赤みが一気に引き、代わりにピキピキと額に青筋が浮かぶような、得も言えぬ衝撃と強烈な不満の色が浮かび上がった。

「ちょっと……比企谷くん」

「ん? なんだよ、ドリア冷めちまうぞ」

「いま、私を……小町ちゃんと同じ『妹』の枠組みに入れたわね……?」

雪乃の目が、ガラス細工のように冷たく、かつてないほど鋭く細められる。そのあまりの低気圧な雰囲気に、八幡は「うわ、なんか機嫌損ねたぞ……?」と内心で冷や汗をかいた。

「いや、だって似たようなもんだろ。一人で突っ走るとことか、危なっかしいとことか……」

「どこが似ているというのかしら! 私はあなたの妹でもなければ、庇護されて当然の子供でもないわ!」

雪乃はテーブルの上に身を乗り出し、真っ向から不満をぶつけた。その瞳には、先ほどまでの恥じらいはどこへやら、「一人の女性」として見られたいというプライドと、どうしようもない悔しさがこれでもかと詰まっていた。

「私はあなたと同い年の、一人の人間よ! それなのに、まるでお守りが必要な幼児や、手のかかる妹扱いをするなんて……失礼極まりないわ!」

「いや、お守りってほどじゃねえけどさ……。じゃあなんだよ、お前は俺に女として見られたいわけ?」

思わず口から滑り出たその直球すぎるツッコミに、雪乃は「っ……!」と息を詰まらせ、再び顔をパァァッと真っ赤に染め上げて言葉を詰まらせた。

「なっ……! な、何を勘違いしているのかしら、私はそんな意味で言ったわけでは……っ!」

「ほら、図星じゃねえか。顔真っ赤だぞ、お嬢様」

「うるさいわね! もうあなたとなんか口をきかないっ!」

顔を背け、ぷいっとそっぽを向いてしまった雪乃だったが、その耳たばまで真っ赤に染まっているのは隠しきれていなかった。

(まったく……「妹」扱いは不満のくせに、図星を突かれるとすぐこれだ……)

やれやれと頭を掻きながらも、八幡の口元には、先ほどよりもずっと自然で、隠しきれない笑みが浮かんでいた。

賑やかなファミレスの片隅で、不器用な兄(?)と、猛抗議する誇り高いお嬢様の、少しだけ距離の縮まった夜は、こうして静かに更けていくのだった。

 

 

 

そっぽを向いてツンとすねてみせた雪乃だったが、先ほどから耳のあたりまで真っ赤に染まったままで、どうにも落ち着かない様子でフォークをいじっている。

そんな彼女の横顔をチラリと見やりながら、八幡はグラスの水をごくりと飲み干した。そして、気まずさを紛らわせるように、けれどどこか淡々と、しかし決定的な一言を付け加えた。

「――まあ、あれだ。理屈ばっか並べたけど、一番最初は単純に『見た目』だな」

「……は?」

「妹扱いするなって怒るから訂正しとくけどさ。お前は見た目が抜群に整ってるだろ。顔もいいし、スタイルもいい。そういう分かりやすく綺麗なものは、人間として本能的に守りたいって思うもんだろ。……それって、普通の男の感情だと思うが」

――綺麗なものは守りたい。普通の感情だと思うが。

その言葉は、ひねくれた理屈や面倒な自己防衛の裏に隠されていた、あまりにもストレートで、男としての素直な本音だった。

(っ……! なに、サラッと……!)

頭の中でその言葉が反芻された瞬間、雪乃の全身の血が一気に沸騰したかのように、顔だけでなく首筋までカッと赤く染め上がった。さっきまでの「妹扱いされて不満」という怒気はどこかへ吹き飛び、ただただ破壊力抜群の直球ストレートに脳の処理能力が完全にフリーズしてしまう。

「なっ……! あなたという人は……どうしてそう、平然と恥ずかしいことを……!」

雪乃は両手で自分の熱を持った頬をパッと覆い、テーブルの向こう側で完全にうなだれた。

いつもお高くとまり、完璧な気高さをまとっているはずの雪ノ下雪乃が、こんなにもタジタジになり、言葉を失っている。

そんな彼女の様子を見て、さすがの八幡も少し気恥ずくなってきたのか、耳たばを赤く染めながらそっと視線を横に逸らした。

「なんだよ、事実だろ。綺麗なものを綺麗だって言うのに、いちいち理由なんていらねえよ」

「うっ……うるさいわね……! そんなこと、急に面と向かって言うものじゃないわよ……!」

震える声で文句を言いながらも、雪乃の口元には隠しきれない歓喜と、どうしようもないほどの甘い熱が広がっていた。

自分が「一人の女性」として、このひねくれた少年の目にどう映っているのか――その答えが、これ以上ないほどまっすぐに伝わってきてしまったからだ。

サイゼリヤの温かな照明の下、照れ隠しに不機嫌なふりをする少女と、それを直視できずに窓の外を見るふりをする少年。

「期限付き」なんて自分で決めた境界線が、音もなく、少しずつ、けれど確実に溶けていく夜だった。

 

 

顔を真っ赤にしてうなだれる雪乃と、同じように耳を真っ赤にしてそっぽを向く八幡。

そんな二人の世界を、数歩離れた隣のボックス席から、信じられないものを見るような、それでいてどこか面白がるような眼差しで見つめている人物がいた。

――一席挟んだ、ちょうど死角になる隣のボックス席。

そこに足を組んで座っていたのは、他でもない雪ノ下陽乃その人だった。

(……いやぁ、これはまた……。予想以上の傑作が見られたものね)

陽乃は手元に置いたドリンクバーのグラスにストローを挿したまま、心の中で盛大に吹き出していた。

母から「不思議な男ね」と聞かされていたあのひねくれた少年の前で、いつだって氷の女王のように冷徹だったはずの妹が、まるでただの恋する少女のように真っ赤になってタジタジになっている。

そして、あの面倒くさがりな八幡が、照れ隠しを全開にしながらもストレートに本音をぶつけている。

(なんだこれ。聞いてるこっちの歯が溶けそうなんですけど……。なにこの甘ったるすぎる空間は……!)

背筋がゾワゾワするような気恥ずかしさと、どこか胸の奥を引っ掻かれるような羨ましさが入り交じる。

いつも周囲をコントロールし、すべてを達観したような顔で「お姉ちゃん」を演じてきた陽乃にとって、この不器用で、泥臭くて、あまりにも眩しい青春のワンシーンは、少しだけ眩しすぎた。

「……ずるいなあ、もう」

陽乃は誰にも聞こえないように、小さく、しかし本音の混じった呟きを零した。

冷めた現実しか見ようとしなかった自分が心のどこかで遠ざけていた「あんな風に誰かとぶつかり合い、確かめ合う温度」を、あの不器用な二人は今、必死に築き上げている。

(青春したいなあ、私も……なんてね)

ふっと自嘲気味に微笑みながら、陽乃はグラスを傾けて冷たい炭酸を喉に流し込んだ。

もちろん、ここで声をかけて二人の雰囲気をぶち壊すような野暮な真似はしない。彼女なりの最大限の優しさとして、この甘ったるい密会の続きは、もう少しだけ二人のものにしておくことにしたのだった。

 

その爽やかな声がテーブルの脇で止まった瞬間、雪乃はわずかに眉をひそめ、すっと視線を自分の手元のグラスへと落とした。

先ほどまでの柔らかな空気は嘘のように消え失せ、いつもの「氷の女王」のような、完璧に硬質な仮面がスッと貼り付く。しかし、その指先がわずかに震えていることを、向かいに座る八幡は見逃さなかった。

葉山は爽やかな笑みを浮かべながら、こちらのテーブルを見下ろしていた。その立ち振る舞いは相変わらずスマートで、周囲の視線を自然と集める華やかさがある。

「へえ、二人でサイゼなんてめずらしいな。なんか相談事でもしてたのか?」

葉山が向けたその言葉に、雪乃はわずかに息を呑んだ。

彼女にとって葉山は、過去の因縁や、自分の弱さを知る「かつての同級生」であり、ある種の呪縛の象徴のような存在でもあった。周囲の期待に応えようと無理をしていた頃の自分を思い出させるその存在に、今の彼女は無意識のうちに身構えてしまう。

そして、そんな葉山の姿を斜め向かいから眺めながら、八幡の胸の奥には、またもや冷たい自己否定の感情がよぎっていた。

(……だよな。どう考えたって、あいつの隣に並ぶのは、俺みたいなひねくれたボッチより……あんな風に誰からも好かれて、眩しい光を纏った奴なんだよな)

育ってきた環境も、見ている世界も違う。

「住む世界が違う」と自分で引き直したはずの境界線が、目の前の光景によって再び嫌な現実味を帯びて頭をよぎる。葉山のようなスマートで完璧な男こそが、本来の雪ノ下雪乃の隣に相応しい――そんな思いが、八幡の喉のつかえとなって沈み込んだ。

だが、そんな八幡の鬱屈した思考を断ち切るように、雪乃は冷たく、けれど淀みのない声で口を開いた。

「……葉山くん。私たちはただ、個人的な話をしていただけよ。あなたに関係ないわ」

それは、いつもの冷徹な拒絶ではなく、今の自分の足で立ち、自分の意志でこの男の隣にいるのだという、確かな境界線を引くための言葉だった。過去の呪縛に囚われたままの彼女ではない。

葉山は少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの人当たりの良い笑みに戻り、「そっか、邪魔して悪かったな。じゃあな、二人とも」と軽く手を挙げて友人の待つ席へと引き返していった。

葉山の背中が遠ざかり、店内に再び喧騒が戻る。

しかし、テーブルを挟んだ二人の間には、先ほどまでの甘酸っぱい熱が冷め、どこか切なさと不器用な沈黙が漂っていた。

 

放課後の喧騒が少しずつ静まり始める教室。

窓から差す夕陽が廊下の床をオレンジ色に染め上げる中、八幡は自席で鞄ルーズに荷物を詰め込んでいた葉山の背中に声をかけた。

「おい、葉山」

いつもの気だるげな、しかし妙に低いトーンに、葉山は動きを止め、ゆっくりと振り返った。その整った顔には、いつもの完璧な笑顔ではなく、どこか探るような、複雑な影がわずかに滲んでいた。

「なんだよ、比企谷。めずらしいな、お前から話しかけてくるなんて」

「……まあな。ちょっと気になったもんでさ」

八幡はポケットに片手を突っ込み、少しだけ視線を逸らしながら核心へと切り込んだ。

「昨日の夜のことだけどよ……お前と雪ノ下の間にな、昔なんかあったのか?」

その名前が出た瞬間、教室の空気がわずかにピリッと引き締まった。

葉山はふっと小さく息を吐き、窓の外の空を見上げた。その瞳の奥には、中学時代――あるいはそれよりももっと前からの、彼が背負ってきた重荷や、どうしようもなかった後悔の色が揺れていた。

「……昔、ね」

葉山は苦笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべ、自分のデスクに軽く腰掛けた。クラスの中心に立ち、誰もが羨む「完璧な少年」を演じ続けてきた彼が、珍しくその仮面をほんの少しだけ緩めた瞬間だった。

「お前はさ、雪ノ下がああなった理由……本当の意味で知ってるか?」

「……あいつの家の事情くらいは知ってるつもりだ。歪んだ期待と、過剰な正しさにな」

八幡の言葉に、葉山は静かにうなずいた。

「ああ、それだけじゃない。……あいつは昔から、何でも一人で背負い込もうとする癖があった。周りの期待に応えようとして、自分の意思を押し殺して、傷つくことすら許されずにすり減っていくのを、僕はただ見てることしかできなかったんだ」

葉山の声には、どこか痛切な自責の念がこもっていた。

「僕はさ、誰のことも傷つけないように、みんなの期待する『葉山隼人』でいようとした。でも、その結果として、一番近くで壊れかけていたあいつを救うことも、本当の意味で手を差し伸べることもできなかった。……あいつにとって僕は、過去のしがらみや、当時の無力だった自分を思い出させる象徴でしかないのさ」

それは、誰もが羨む「陽の者」のトップにいる葉山隼人が抱えていた、あまりにも重く、そして不器用な挫折の告白だった。

「だから昨日のあいつを見てさ……少し、驚いたんだよ」

葉山は視線を八幡に戻し、どこか羨望を含んだ、真っ直ぐな目を向けた。

「あいつはもう、過去の僕が見ていた『守られるだけの存在』じゃない。自分の足で立ち、自分の意志で隣にいる人間を選ぼうとしている。……それはきっと、僕にはできなかったやり方で、比企谷、お前が隣にいてくれたからなんだろうな」

図星を突かれたような、気恥ずかしいような感覚に、八幡は思わず目を逸らし、ポリポリと頭を掻いた。

「……なにを柄にもねえこと言ってんだよ。俺はただ、勝手に自爆されてこっちの平穏が乱されるのが面倒臭いから、ついでに文句言ってやってるだけだ」

「はは、相変わらずだな、お前は」

葉山はからかうように軽く笑うと、ブレザーを肩に引っ掛け、教室の出口へと歩き出した。すれ違う際、彼は足を止めず、背中越しにポツリと呟いた。

「あいつを頼んだよ、比企谷。……今度こそ、間違えないであげてくれ」

それ以上何も言わず、葉山は静かに教室を去っていった。

取り残された夕暮れの教室で、八幡はしばらくの間、窓の外の茜色の空を見つめたまま、動かずに立っていた。

 

教室を出て行った葉山の背中が見えなくなり、静まり返った夕暮れの空間に、八幡の足音だけがポツリと響いた。

「……住む世界が違う、か」

その言葉は、かつて自分が吐き捨てたものだった。

自分のようなひねくれたボッチと、陽の光を浴びるように生きるあいつらとは、生きているレイヤーが違う。そうやって安全な場所に身を隠し、深く踏み込むことから逃げるための言い訳として、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。

あの夜、サイゼリヤで葉山を見たときも、無意識のうちにその言葉を引っ張り出してしまいそうになった。あんな風に誰からも好かれ、眩しい光を纏った男こそが、雪乃の隣に相応しいのではないか――と。

だが、葉山の口から語られた過去は、その勝手な思い込みを木端微塵に砕いた。

誰も傷つけまいと八方に気を配り、完璧な「葉山隼人」を演じ続けた結果、一番救うべきだった少女の手すら掴めなかった男の絶望。そして、自分を「守られるだけの存在」ではなく、一人の人間として真っ直ぐに向き合い、泥臭く並み立とうとしている雪乃の現在地。

住む世界が違うんじゃない。

ただ自分が、「本気で誰かの隣に立つこと」を恐れていただけなのだと、八幡は痛いほど思い知らされていた。

窓の外を見下ろすと、校庭の影が長く伸び、秋の冷たい風がガラスを震わせている。

卒業すればそれぞれの道に進む。この「期間限定」の甘い関係がいつか終わりを迎えることだって、頭では分かっている。永遠なんて保証はどこにもないし、未来のことは誰にも分からない。

それでも。

「……未来のことは、正直わかんねえよ」

誰に聞かせるわけでもなく、八幡は小さく呟いた。

ポケットの中で拳を強く握りしめる。その手のひらに伝わる体温は、迷いを捨てた人間のそれだった。

いつか終わるからと線を引いて、安全な傍観者気取りでいるのはもうやめだ。

誰かの救いになどならなくたっていい。ただ、目の前で不器用にも自分の足で立とうともがいているあいつの隣に、「友達」という都合の良い免罪符を隠れ蓑にして突っ立っているだけの自分を、もうこれ以上は許せない。

「……まあ、めんどくせえし、泥臭くてかっこ悪くたっていいさ。俺がやるしかないんだからな」

誰に頼まれたわけでもない。

ただ、自分がそうしたいと選んだのだから。

夕闇に染まり始める空に向かって小さく息を吐き出すと、八幡は重い足取りを軽く踏み出し、教室を後にした。その背中には、もうかつての逃げ腰なひねくれ者の面影はなく、自分の意志で未来を引き受けようとする一人の少年の確かな決意が宿っていた。

 

秋が深まり、冬の足音が聞こえ始める頃。

奉仕部室の空気は、かつての張り詰めた緊張感や、ただの「暇つぶしの空間」とは明らかに違う、静かで熱を帯びたものに変わっていた。

授業が終われば自然と自習を始め、過去問や参考書のページをめくる八幡の姿は、周囲の人間を大いに驚かせていた。あの事なかれ主義で、テスト前以外は机に向かわないことで有名だった比企谷八幡が、今や目の色を変えて勉強に没頭している。

その日も、静まり返った部室で黙々とペンを走らせる八幡の横に、淹れたての紅茶を置いた雪乃が、どこか不思議そうな、そして呆れたような目を向けていた。

「……ねえ、比企谷くん」

「ん、なんだよ。いま集中してんだ」

「最近、あなたらしくもなくやけに勉強に励んでいるけれど……。いったいどうした風の吹き回しなの? まさか、急にエリート街道でも目指す気になったわけ?」

皮肉めいた響きを含みつつも、その瞳には隠しきれない好奇心と、どこか心配そうな色が混じっている。

八幡はカタカタとペンを走らせていた手を止め、ふっと息をついて背筋を伸ばした。そして、目の前にある難解な英単語の羅列から視線を外し、まっすぐに雪乃を見据えた。

「……いつかお前に言ったよな。『そのうち、お前に相応しい白馬の王子様でも現れるさ』って」

その名前を出された瞬間、雪乃の動きがぴたりと止まった。

過去の記憶を呼び起こすようなその言葉に、彼女はわずかに眉をひそめ、警戒するように目を細める。

「急になんなの、そんな昔の茶化すような話を……」

「茶化してねえよ」

八幡は遮るように低い声で続け、机の端に置いてあった参考書を軽く指で叩いた。

「俺はあのとき、勝手に納得して、自分なんかよりあいつらみたいな眩しい奴のほうが相応しいって、どこかで線を引いて逃げてたんだと思う。……だけどよ」

八幡はそこで一度言葉を切り、目の前にいる少女の瞳をまっすぐに見つめ返した。

「もし、この先もずっと、そんな都合の良い『相応しい男』なんて奴がどこにも現れなかったらどうするんだよ? ……万が一、そんな奇跡が起きなかったら、お前は一体どうすんだって思ってな」

その言葉の意味を理解した瞬間、雪乃の息がわずかに詰まった。

心臓がトクンと大きく跳ね、血がサーッと顔に昇っていくのが自分でも分かる。

「なっ……! あなた、いったい何を……」

「安心しろよ」

八幡は気恥ずかしさを隠すように、少しだけふっと自嘲気味に笑ってみせた。だが、その声のトーンには、これまでのような逃げや冗談の色は微塵もなかった。

「お前がいつか自分の足で立つ道を選ぶなら、その隣に並ぶ奴くらい、俺が泥臭く這いつくばってでも用意してやるよ。……たとえそれが、ほかの誰でもなく、このひねくれた俺自身だとしてもな」

「――っ!」

頭を殴られたような衝撃と、胸の奥底から熱いものがこみ上げてくるような感覚に、雪乃は言葉を失った。

顔から耳たばまで一気に真っ赤に染まり、持っていたティーカップのソーサーがカタカタと小さく音を立てる。

「ば……バカじゃないの、あなた……。本当に、どこまで調子の狂う……」

批難の言葉を紡ごうとしても、震える声からは少しも迫力がない。代わりに、あふれ出しそうになる感情を堪えるように、雪乃はぎゅっと唇を噛み締め、俯いた。

「おい、ペンが進まねえだろ。茶々入れてないで、お前も英単語のテスト出せよ」

「……誰のせいでこんなに動揺していると思っているのかしら、この大馬鹿者……!」

ぶっきらぼうに目をそらす八幡と、真っ赤な顔で抗議しながらも、その口元に隠しきれない温かな笑みを浮かべる雪乃。

未来のことはまだ分からない。それでも、二人が選んだこの不器用で確かな道は、冷たい秋の空気を優しく溶かしながら、ゆっくりと未来へと動き出していた。

 

静まり返った奉仕部室に、パラパラと参考書のページをめくる音だけが響いていた。

先ほどの言葉の余韻がまだ空気中に漂う中、八幡はペンを置くと、椅子にもたれかかり、どこかすっきりとした、それでいてどこか照れくさそうな顔をして雪乃を見た。

「……ま、そういうことだ。俺の覚悟は完了したってわけよ」

「……は?」

雪乃はペンを握ったまま、キョトンとした顔で八幡を見上げる。その瞳には、まだ先ほどの言葉の真意が追いついていない戸惑いが浮かんでいた。

「なんなのよ、急に。一体なんの覚悟が完了したと言うのかしら」

首をかしげる雪乃に対し、八幡は少しだけ目を逸らし、しかし逃げずに真っ直ぐなトーンで言い放った。

「決まってんだろ。――お前の隣にいてもおかしくない男になる覚悟だよ」

「――――っ!!」

その瞬間、雪乃の脳内で思考回路が完全にショートした。

遠回しなのか、それとも直球すぎる告白なのか。理性のフィルターをすっ飛ばしてダイレクトに心臓を撃ち抜いてきたその言葉は、彼女の防衛本能を完全に粉砕するには十分すぎる破壊力を持っていた。

(なっ……いま……なんて……! お前の隣にいてもおかしくない男って……それって、つまり……!)

顔の温度が一気に沸点に達し、頭から湯気が出そうなほどの熱を帯びる。心臓がうるさいほどに鳴り響き、呼吸の仕方を忘れたように胸が締め付けられた。プライドも冷静さも、すべてが吹き飛んで、ただ圧倒的な羞恥と甘い熱だけが全身を駆け巡る。

「っ……! あなた……あなたって人は、どうして……!」

耐えきれなくなった雪乃は、ガタッと激しく椅子を押し退けて立ち上がった。

もうこれ以上あの顔を見ていたら、どんな顔をしていいか分からない。顔を真っ赤に染め上げ、耳まで茹でダコのように赤くした彼女は、文字通り頭から湯気を出しながら、パニック状態で部室のドアへと駆け出した。

「ちょ、おま、どこ行くんだよ――」

「うるさいわね! ちょっと頭を冷やしに行ってくるわよ、バカ……!」

ガチャリと乱暴にドアを開け、廊下へと飛び出す雪乃。

一刻も早くこの場から逃げ出そうと、勢いよく廊下を曲がったその瞬間――。

コツン。

「いたっ……!」

曲がり角の壁に、見事に勢いよくおでこを直撃させた。

「痛っ……ぅ……」

頭を押さえてその場でうずくまる雪乃の背中を見送りながら、開いたままのドアの隙間から、八幡は「……おいおい、大丈夫かよ……」と盛大に頭を抱えつつも、どこか愛おしそうに小さく吹き出すのだった。

 

ガタガタと痛むおでこを両手で押さえながら、雪乃が再び奉仕部室のドアを恐る恐る開けて戻ってきた。前髪は少し乱れ、うっすらと赤くなったおでこをさすりながら、彼女は恨めしそうな、それでいてどこか潤んだ瞳で八幡をキッと睨みつける。

「……比企谷くん」

「お、おう。大丈夫か? 流石に壁にまともに突っ込むアホはお前くらいだぞ」

「うるさいわね! 誰のせいでこんなパニックになって、前も見えずに歩くことになったと思っているのよ。……私はね、あなたのせいで頭をぶつけたのよ!」

責任転嫁にも似た、しかし完全に正論の抗議を突きつける雪乃に、八幡は「はいはい、すんませんね」と両手を軽く挙げて降参のポーズをとった。

「悪かったよ。俺の言葉選びが直球すぎたせいで、お前のキャパを超えちまったわけだな」

「っ……! わかっているなら言い方をもう少し考えなさいよ……!」

ぷいっとそっぽを向いて頬を膨らませる雪乃だったが、ぶつけたおでこはまだジンジンと熱を持っているらしく、小さく「痛たた……」と呟いて眉をひそめた。

そんな彼女の様子を横目で見ながら、八幡は「やれやれ」と小さく息をつき、椅子に座ったまま軽く自分の太ももをポンと叩いた。

「……で、どうするよ。痛むなら、手当てでもするか?」

「……手当てって、どうやってよ。湿布でもあるわけ?」

「いや、そんなもんねえよ。……ほら」

八幡は少しだけ照れくさそうに目を逸らし、気だるげな調子で付け加えた。

「――だから、膝でも貸してやるよ。少しは落ち着くだろ」

その言葉の意味を理解した瞬間、雪乃の動きがぴたりと止まった。

さっきまで真っ赤になっていた顔に、再びサーッと血が上り、今度は耳までどころか首筋まで一気に朱色に染まっていく。

「なっ……! い、いま……何て言った……?」

「だから、膝を貸してやるって言ってんだよ。……嫌ならいいけどさ」

「嫌じゃ……ないけれどっ!」

羞恥心と、それでも彼に甘えたいというどうしようもない本音がせめぎ合い、雪乃はしばらくの間、その場で小刻みに震えていた。

しかし、ジンジンと痛むおでこを押さえながら、彼女は意を決したように小さく息を吐き出すと、トボトボと八幡の足元へと歩み寄ってきた。

「……文句は、後からたっぷり言ってあげるんだからね」

そう小さく呟くと、雪乃は恐る恐る、けれどこれ以上ないほどに頼り切った足取りで、八幡の膝の上にそっと頭を預けた。

柔らかく香る髪の感触が太ももに伝わり、八幡は思わず息を呑んで硬直する。

「……重いのか軽いのか、どっちなんだよ」と誤魔化すように呟く八幡の膝の上で、雪乃は目を閉じ、トントンと荒ぶる自分の心臓を宥めるように小さく息を整えた。

夕暮れの光が差し込む部室の片隅。

不器用な少年の膝の上で、誇り高いはずのお嬢様が身を委ねるその空間は、世界で一番甘くて、静かな時間に満たされていた。

 

春の柔らかな日差しが差し込む、とある大学のキャンパス。

ベンチに並んで腰掛ける二人の影が、穏やかなアスファルトの上に並んで揺れていた。

ふと、八幡は空を見上げながら、遠い目を――いや、いつもの死んだ魚のような目を細め、ぽつりと呟いた。

「……なんてこともあったな、そういえば」

「――っ! 急になんなのよ、唐突に昔の恥ずかしい話を蒸し返さないでちょうだい!」

隣に座っていた雪乃は、耳の先まで一気に真っ赤に染め上げ、持っていた教科書で八幡の肩を軽くバシッと叩いた。その顔には不満の色が浮かんでいるものの、どこか懐かしさを楽しむような、柔らかい笑みが混じっている。

「いや、あの時は本当にお前が壁に頭から突っ込むもんだから、こっちが肝を冷やしたって話をしてるだけだろ」

「あれは……その、不慮の事故よ! あなたのその、デリカシーのない直球な物言いがすべて悪いんだからね!」

すっかり頬を膨らませて抗議する雪乃の様子に、八幡は苦笑いを浮かべながらも、ふっと表情を和らげた。

「はいはい、悪かったよ。……まあ、なんだかんだ言いつつもさ」

八幡は言葉を区切り、やれやれといった調子で肩をすくめる。

「とりあえず、こうして同じ大学になんとか入れたな」

その言葉に、雪乃はふっと動きを止め、それまでの慌ただしさを隠すように、優しく微笑みながら前を向いた。風に揺れる髪をそっと耳にかけ、彼女は少しだけ誇らしげに胸を張る。

「……当たり前じゃない。忘れたの? あなた、私に『隣にいてもおかしくない男になる』って大層な覚悟を語ったでしょう?」

「うっ……それを今さら掘り返すなよ、恥ずかしいだろ」

「ふふっ。私の隣にいるんでしょ? ならば、この程度の難関を突破するのは当然の結果よ」

その声には、かつての冷たさや危うさは微塵もなく、自分の足で未来を切り拓いた自信と、隣にいる少年への確かな信頼だけが満ちていた。

青空の下、それぞれの道を自分の意志で歩み始めた二人の足元には、これからの眩しい時間がどこまでも続いていた。

 

 

 

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