「――キーンコーンカーンコーン」
放課後の終わりを告げるチャイムの音が響いた瞬間、2年F組の教室から比企谷八幡が跳ね起きた。一目散に教室を飛び出し、廊下を全速力で駆け抜けていく。
「ちょっ、まっ……! ヒッキー!?」
同じクラスの由比ヶ浜結衣が慌ててその後を追いかける。
――ガチャリ。
隣のクラスから出てきた雪ノ下雪乃は、その異様な光景に目を丸くした。
「……いったい、何が始まったというのかしら?」
さらに、そのただならぬ気配を察知した面々が次々と動き出す。
「なに……!? 奴が全速力だと……!? もしかして、いよいよ世界の改変が始まったのか――っ!」と、中二病全開の材木座義輝が走り出す。
「ちょ、比企谷のやつ……! 一体どうしたってんだよ!」と川崎沙希も足を速め、その只事ではない様子に葉山隼人も「比企谷くん、何かあったのか……?」と後を追う。そして「おいおい、すげぇ盛り上がってんじゃん、俺も混ぜろ!」と戸部まで加わり、昇降口へと向かう大名行列のような大移動が巻き起こった。
運動靴に履き替え、校門へと飛び出していく八幡。その後ろから「待ちなさいよ!」「どこ行く気よ!」と全員が雪崩れ込む。
「待て比企谷! 一人で行くな!」
「勝手に行かないでって言ってんでしょ!」
「いや、放課後は俺の自由だろ!着いてくんな!」
全力疾走しながら八幡が必死に弁明の声を上げる。
「は? じゃあ何なんだよ!」
「言えるかボケ! プライベートだ、個人の重大な事情なんだよっ!」
引き連れた大群の好奇心をさらに刺激しながら、八幡の無駄に賑やかな逃走劇は続いていくのだった。
「俺は用があるから。じゃあな!」
絶叫しながら全速力で駆け抜ける八幡の背中を追い、周囲の面々も一斉にその後を追う。
――おい、なんでだよ。
先頭を走りながら、八幡は心の中で盛大に悪態をついた。日本語が通じていないのか、あるいは集団幻覚でも見ているのか。こっちは「じゃあな」と明確に別れを告げたはずだ。それなのに、なぜ後ろからドタドタと足音のアンサンブルが聞こえてくるのか。
暇なのか? いや、部活やら何やらでそれなりに忙しい連中なはずだ。それとも何だ、自分のプライベートがそんなに魅力的な大河ドラマにでも見えているのか。
風を切るアスファルトの上、冷や汗を流しながら必死に足を動かす八幡の脳裏に、シュールすぎる疑問と深い絶望だけが渦巻いていた。
八幡は余計な思考を脳内から追い払い、ただひたすらに前を向いて足を動かした。
――気にせず走る。無視だ、無視。
今日だけは、この一瞬だけは、どうしても外せない重大な用事があるのだ。他人のことなど構っていられるか。ここで立ち止まったら負けなのだと、八幡は己に鞭打つようにペダルをこぐかのようにアスファルトを蹴った。
「ちょっ、待ってってばヒッキー……!」
すぐ後ろから、由比ヶ浜結衣が息を切らせながら必死に食らいついてくる。そのさらに背後では、普段の優雅さは完全にどこかへ消え去り、顔を真っ青にしながらも「はぁ、はぁ……っ、死にそう……っ」と文字通り死にかけの白鳥のような形相で必死についてくる雪ノ下雪乃の姿があった。
「これだけ大人数が動くんだ、只事じゃないはずだ……!」
葉山隼人は爽やかな外見からは想像もつかない抜群の健脚を誇りながらも、周囲の異常な空気を察知して真剣な面持ちで並走する。その横では、川崎沙希が負けじと鋭い眼光を飛ばしながら一心不乱に足を動かしていた。
「いやー、これマジで何かのイベントだろ! ヒャッハー!」
そして戸部だけは、なぜかこの状況を心から満喫し、アイドルでも追いかけるかのようなテンションで楽しそうに爆走している。
だが――。
「ぐはっ……! 我のライフは……すでにゼロ……っ!」
その大群の最後尾、中二病の重装備コートと運動不足のダブルパンチに耐えきれず、材木座義輝がついに路上の隅で盛大にバタリと倒れ伏した。
脱落者が出ようとも、後続の狂騒がどうなっていようとも、先頭を走る八幡はもはや振り返らない。ただ、「絶対に外せない用事」を果たすためだけに、夕暮れの街を駆け抜けていくのだった。
前方の交差点。無情にも、それまで青だった信号がパッと赤へと切り替わる。
――やっと止まるか?
後続の面々が「はぁ、はぁ……」と息を整えかけ、ようやく追いつけると思ったその瞬間だった。
八幡は減速するどころか、さらにスピードを上げた。
横断歩道の手前で右へと急ハンドルを切り、赤信号の横断歩道を堂々と無視するのではなく、わずかに回り込んだ先にある――まだ点滅すらしていない別の青信号のルートへと、鮮やかなドリフト気味のコーナーリングで突入していく。
「あ――っ!?」
あまりの予想外の機動に、追っていた面々は完全に意表を突かれた。
赤信号の手前で急ブレーキを踏まざるを得なくなり、結衣は「嘘でしょ!?」と足を滑らせかけ、川崎は勢い余って電柱にしがみつく。雪乃は「もう無理……足が……」と崩れ落ち、少し離れた路上では材木座が「我が肉体が……!」と二度目の絶命を迎えている。
完全に置き去りにされた追走者たち。
しかし、その絶望的な状況の中で、前方のわずかな動きに反応した者たちがいた。
「っ……!」
葉山隼人は、八幡が消えたルートの法則にハッと気づく。
「ま、待てよ、あそこの抜け道……!」
隣で息を切らせていた戸部も、葉山の表情を見て条件反射のように顔を上げた。
「マジかよ隼人くん! あっちから回り込む気か!?」
「ああ、行くぞ!」
一瞬の静寂を切り裂き、葉山と戸部の二人が再び脚を爆発させる。赤信号の包囲網を抜けた八幡を追いかけるべく、残された健脚コンビが猛然とそれに食らいついていくのだった。
抜け道を抜けた先、そこは古いアスファルトが経年劣化で痛み、1〜2mほど不自然に陥没している一帯だった。
夕暮れの光の中、先頭をひた走る八幡の視界にそのトラップが飛び込んでくる。だが、ここで足を緩める選択肢はない。八幡は地面の裂け目をめがけ、まるでハードル走の選手のような、あるいは野生動物のような荒々しい跳躍をみせた。
「ふっ……!」
軽々と陥没部分を飛び越え、着地と同時に再び加速して駆けていく。
「嘘だろ、マジかよ!」
その直後を追ってきた戸部が、目の前の穴に気づいて思わず奇声を上げた。しかし、運動神経抜群の葉山がその横をすり抜けながら鮮やかに跳躍し、戸部も「うおおおっ!」と勢い任せに空中へ飛び出してどうにかこうにか着地を決める。
少し遅れて、その現場に追いついてきた面々――。
「え、なにこれ、アスレチックコースなの!?」
結衣が陥没穴の手前で急停止して悲鳴を上げ、川崎は「足場悪すぎでしょ……っ!」と歯噛みしながら大股で跳び越える。すでにHPの残りカスだった雪乃は「もう勘弁して……」と遠い目をしながら迂回し、最後尾の材木座はもはや這いつくばってこの難所をクリアするしかなかった。
もはやこれは追跡劇ではない。
人々の意志とプライド、そして理不尽な運動量が絡み合う、ある意味でのリアル障害物競争へと変貌を遂げていた。
額から滝のような大汗を流し、息を荒げながら八幡はただひたすらに足を動かす。
冬(あるいは秋の夕暮れ)だというのに、全身から湯気が立ち上るのではないかというほどの熱気だ。視界がかすみ、肺が焼けるように熱い。それでもなお、八幡は最後の力を振り絞って一角を駆け抜けた。
そして――。
「……はぁっ、はぁっ……!」
ピタリと、八幡の足が止まった。
ようやくの減速。両手を膝につき、全身の水分を絞り出すように荒い息を吐き出す。
少し遅れて、葉山と戸部が両脇に追いついてきた。二人は腰に手を当て、肩を大きく上下させながらゼェゼェと息を荒げている。
出発点からおよそ3キロ。
普段から体を鍛えている運動部の彼らにとっても、一切のウォーミングアップなしでこのペースを維持し、さらに障害物競走めいた市街地を駆け抜けるのは、なかなかにエグい運動量だった。
「はぁ、はぁ……まじかよ……ここが、ゴール……なのか……?」
戸部が地面に膝をつきかけながら、虚ろな目で周囲を見回す。葉山も汗だくになりながら額を拭い、息を整えつつ八幡の背中を見つめた。
少し離れた後方では、結衣や川崎、そして雪乃たちが、すでに走るのを諦めてトボトボと歩きながら追いついてくる。最後尾では材木座が地面に這いつくばり、完全に文字通りの屍と化していた。
一体、これだけの労力を払って、比企谷八幡がたどり着いた「絶対に外せない用事」の正体とは何なのか。周囲の視線が、再びボロボロになった八幡へと集まった。
「……間に合った……」
八幡の乾いた唇から、安堵とも絶望ともつかない小さな呟きが漏れる。顔を上げると、目の前には近所のスーパーマーケットの自動ドアが静かに開いていた。
「は……? スーパー……?」
戸部が呆然とした声を漏らし、葉山も額の汗を拭いながら、何が何だか分からないといった表情で後に続く。自動ドアをくぐった瞬間、外の冷え始めた空気とは打って変わって、火照りきった身体に心地よい冷房の風が吹き抜けた。
「……っはぁ、生き返る……」
あまりの極上の涼しさに、葉山も戸部も自然とため息を零す。
やがて、遅れて到着した結衣や川崎、雪乃たちも次々と店内へ滑り込み、「涼しぃ……」「もう無理、動けない……」と、それぞれに冷気の下で崩れ落ちた。
極限まで追い込まれた肉体と、燃え盛るような渇き。
自然と足が向かったのは飲料コーナーだった。葉山は迷わずミネラルウォーターを手に取り、戸部や結衣たちはスポーツドリンクのペットボトルを掴む。雪乃もひんやりとしたお茶のボトルを手に取り、キャップを開けて乾いた喉へと流し込んだ。
「「ぷはぁ……っ!」」
冷たい液体が食道を通り、全身の細胞にしみわたっていく。
美味い。美味すぎる。およそ3キロを駆け抜けた肉体にとって、この冷たい水分はこの世の何よりも価値のある最高級の恵みだった。あまりの幸福感に、さっきまでなぜ命がけで走っていたのかという理由すら、綺麗さっぱり脳内から吹き飛んでいく。
そんな極上の静けさと疲労感の中――。
惣菜コーナーの横を通り過ぎ、八幡がまっすぐに向かったのは別の通路だった。
そこに積まれていたのは、鮮やかな黄色と茶色のパッケージ。誰もが知る、あの極甘の黄色い悪魔――マックスコーヒーの箱積みだった。しかもそこには、燦然と輝く「特別ご奉仕品」のPOPと、「半額セール」の赤い文字が躍っている。
「……ふっ」
八幡は満足そうに小さく鼻を鳴らすと、バラではなく、迷うことなくその「箱」ごと抱え込んだ。
「ま、待てよヒキタニくん…! それ……!」
後ろでスポーツドリンクを飲んでいた戸部が、目を丸くして箱を指さす。葉山も「マックスコーヒーの……箱買い?」と絶句していた。
しかし、当の八幡はそんな周囲の反応などどこ吹く風。
極限の3キロを走りきり、冷房の効いた店内で冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだその顔は、過酷なマラソンを完走したアスリートのような、あるいはすべての煩悩から解脱した仙人のような、見事なまでに爽やかな笑みを浮かべていた。
額の汗を拭いもしず、その黄金の液体が詰まったダンボール箱をしっかりと抱え上げ、八幡は堂々とレジの列へと並ぶ。
なぜ走っていたのか。何のために命を削ったのか。
その答えは今、彼の腕の中にある「特別ご奉仕品」の箱の中にすべて詰まっていた。
「……さて、と」
呆然とする仲間たちを背に、八幡は心地よい疲労感に浸りながら、至福のレジ待ちタイムを堪能するのだった。
黄金の液体が詰まったダンボール箱を抱え、清々しい達成感に満ちた顔でレジの列に並ぶ八幡。
その背中を、レジの横や通路のあちこちで――スポーツドリンクを片手にぐったりと座り込んでいる面々が、言葉を失ったような、完全にあっけにとられた顔でじっと眺めていた。
「…………」
息を整え終えた結衣が、パチパチとまばたきを繰り返しながら、信じられないものを見る目で箱を見る。
雪乃は冷たいお茶を持ったまま、呆れを通り越して冷ややかな視線を突き刺し、川崎は「……は?」と低い声を漏らした。葉山と戸部は、疲労困憊の体でただただ脱力している。
異様な静寂に包まれた店内。
ふと、レジの順番待ちの列で振り返った八幡は、自分を取り囲むようにいるそのメンバーの多さに、今さら気づいたように目を丸くした。
「……あれ? お前ら、なんでここにいんの?」
心底不思議そうな顔をする八幡。余計なお世話だと言わんばかりの顔で八幡を睨む雪乃達。
「……ってか、部活はどうした?」
――お前が発端だろ。
その場にいる全員の心のツッコミが、夕暮れのスーパーの冷房の風にかき消されていくのだった。
「……そんなもののために、私をあの地獄のような障害物競争と数キロの強行軍に付き合わせたというのかしら?」
呆れと怒りと疲労が混ざり合った声で、雪ノ下雪乃が震えながら問い詰める。しかし、あまりの脱力感と理不尽さに、続く言葉が出てこない。ただ「……っ!」と唇を噛みしめ、マックスコーヒーの箱を抱える八幡を睨みつけるのが精一杯だった。
「……まあ、予想はついてたけどさ」
川崎沙希はスポーツドリンクのボトルを傾けながら、やれやれといった様子で小さく息をつく。走っている最中から嫌な予感はしていたが、まさかここまで直球のバカげた理由だとは思っていなかった。
「はは……、マックスコーヒーの箱買い、ね……」
葉山隼人は苦笑いを浮かべつつも、どこか感心したような、あるいはすべてを諦めたような爽やかな笑顔を崩さない。理解はできないが、あの必死な疾走の理由がこれだと分かれば、怒る気力すら湧いてこないのが葉山だった。
「いやー、でもマジいいアップになったわ! 筋肉痛不可避だけどさ!」
戸部だけはすっかり元気を取り戻し、自分の太ももを叩きながらカラッと笑う。
そして――。
「……我は……、黄泉の国から……生還した……ぞ……」
最後尾で、材木座義輝が床に完全に文字通りの大の字でぶっ倒れ、白目を剥きながら微動だにしていなかった。
それぞれの反応をどこ吹く風と受け流しながら、八幡は満足げにレジの会計を済ませるのだった。
スーパーの自動ドアをくぐり抜け、夕暮れの涼しい外気へと足を踏み出す。
両腕には、あの極甘の黄色い悪魔がぎっしりと詰まったダンボールの箱。だが、それとは別に、八幡の右手には今すぐ喉へ流し込むための「冷えた一本」がしっかりと握りしめられていた。
プシュッ――。
乾いた心地よい音が夕暮れの空に響き渡り、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
迷うことなくその飲み口に口をつけ、八幡は一気に喉へと流し込んだ。半分ほどを一息で飲み干し、ふぅ、と長い息を吐き出す。
全身の疲労が極上の甘さと冷たさに溶かされていく。
「……ふっ、最高だぜ」
西に傾いた太陽の残光を浴びながら、八幡はどこまでも爽やかな、そして最高に満ち足りた笑みを浮かべるのだった。
スーパーの軒先。
茜色の夕焼けが千葉の街並みとアスファルトを染め上げる中、それぞれの戦利品を手にした面々が、ポツリポツリと腰を下ろしたり壁に寄りかかったりしていた。
葉山はミネラルウォーターのボトルを、戸部はスポーツドリンクの容器を片手に持ち、八幡の背中を見つめながら乾いた笑みをこぼす。
「……まあ、悪くはないか。確かに、最高だ」
葉山がふっと柔らかく微笑み、戸部も「だな! なんか変なアドレナリン出まくったわ!」と大きく頷いた。
その少し離れた場所で、結衣は「もう動けない〜」と言いながらもペットボトルのスポーツドリンクをごくごく飲み干し、雪乃もお茶のボトルを握りしめながら小さく息をつく。
「……本当に、これだけのバカ騒ぎを引き起こして、中身がただの甘ったるいコーヒーだなんて……呆れて物も言えないわね」
憎まれ口を叩きながらも、冷えたお茶が疲労しきった体に染み渡る心地よさには抗えない。雪乃は小さくため息をつきつつ、内心ではその美味さに深く頷いていた。川崎も無言のままお茶のボトルを傾け、静かに喉を潤している。
そして――。
「……ぐふっ……! 我の渇きを癒すのは……これしかなかったのだ……っ!」
少し離れた地面の上。
すっかりHPを回復させた材木座義輝は、なぜかスーパーの特売コーナーで買ってきた1.5リットルの特大コーラのペットボトルを両手で抱え込み、豪快にラッパ飲みしていた。
夕闇が迫る千葉の街の片隅。
理不尽なマラソンと極上の水分補給の果てに、それぞれが奇妙な達成感を味わいながら、茜空を観るのだった。