Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
アンナの咳は、少しずつ治まっていった。夜中に何度も身体を折らせていた発作が遠のき、短い言葉なら息を切らさずに話せるようになった頃、隣の寝台ではアルチョムの呼吸が浅くなっていた。
ノヴォシビルスクから持ち帰った薬は、確かに彼女を救った。あの街の地下を潜り、凍りついた地上を歩き、ミラーが最後の抗放射線剤をアルチョムに使ってまで繋いだ道は、間違ってはいなかった。ただ、その道を辿って戻ってきた男の身体には、もう取り戻せないものが多すぎた。
オーロラの車輪が、継ぎ目を越える。かたん、かたん、と続く音のあいだを、仲間たちの声が行き交っていた。誰かが湯を運び、誰かが清潔な布を探し、誰かがもう一度、自分の腕を差し出した。
「俺はまだいける。さっきので終わりなんて言うなよ、もう少しくらい抜いたって――」
デュークの声を、静かな制止が遮った。彼の腕には、既に採血の跡があった。ヴォルガから一緒に戻り、その後も馬鹿話をして、こうして目の前で息をしている若い仲間の血は、アルチョムの身体へ確かに流れ込んでいた。
ダミールも、アリョーシャも、そこにいた。誰一人欠けることなく帰ってきた男たちが、順番を待って、腕を捲り、名前を呼んでいた。傷ついた誰かの代わりに空けられた席はなく、それでも寝台の上の顔には血の気が戻らなかった。
聞こえている、と伝えたかった。そんな顔をするなとも、もう十分だとも言いたかった。けれど唇を動かすだけで息が足りなくなり、アルチョムは指先に触れた温もりへ、残った意識を寄せた。
アンナの手だった。ひどく細くなっていたが、あの街に向かう前より温かかった。握り方だけは相変わらず強く、逃がすものかとばかりに、彼の手を両手で包んでいた。
「聞いて、アルチョム。家のこと、まだ決めてないでしょう。窓をどっちに向けるかも、畑に何を植えるかも。あなた、そういう話になるとすぐ外を見に行ってしまうんだから」
彼女は言葉を継ぐために、一度だけ息を吸った。そのあとに咳が続かなかったことを、アルチョムは喜んだ。こんな時に、と自分でも思ったが、嬉しかった。
「今度はちゃんと相談に乗って。私一人に決めさせないでよ。……お願いだから、ねえ」
最後の声が震えた。彼はそれを宥めるために手を握り返そうとして、自分がもう、その程度のこともできないのだと知った。
ミラーに託されたことがあった。アンナと共に生きるはずだったし、モスクワの地下に残された人々へ、外にはまだ生きられる場所があると伝えるはずだった。助けてもらった分だけ、これから返していくものがあった。
死にたくなかった。ここまで来て、ようやく彼女が息をできるようになったところで、その声を聞けなくなるのは嫌だった。
アンナが、彼の名を呼んだ。返事をしようとした時には、車輪の音がひどく遠くなっていた。
*
バイカル湖を渡る風は、冷たく、澄んでいた。マスクを外して吸い込んでも肺は痛まず、岸辺の水を調べた者は、何度も測定器を確かめ直した。ミラーが命と引き換えに持ち帰った地図は、正しい場所を指していた。
湖の見える場所に、墓標が二つ並んだ。デュークは土を落とした手袋を嵌め直しても、すぐには顔を上げなかった。アリョーシャは残った道具を片付け、ダミールは誰かが置いたままにした上着を拾った。何かしていなければ、そこから動けなかった。
アンナは二つの墓の前に立ち、長いこと黙っていた。父に言いたいことと、夫に言いたいことは、それぞれ山ほどあった。二人とも目の前にいた頃には、こんなに話すことがあったとは思わなかった。
「窓は、湖の方にするわ」ようやく口にできたのは、それだけだった。風が髪を頬へ押しつけ、彼女はそれを払いもしなかった。
翌朝、木を切る音が湖畔に響いた。地面を均し、水を運び、雨を凌ぐための屋根を組む仕事が始まった。キリルが釘を入れた箱を抱えて歩き、途中で数本落として、年長の男たちに拾うのを手伝ってもらっていた。
アンナも手を動かした。重いものを持とうとして止められれば腹を立て、少し休んでから、別の仕事を見つけた。まだ長くは働けなかったが、昨日より長く歩ける日はあった。
夕食の席で誰かがアルチョムの話をし、笑いかけた声が途中で詰まることがあった。もしあの時、と言いかけて黙り込む者もいた。誰も、その続きが分からないわけではなかった。
それでも家は建ち、薪は積まれ、畑にする場所には印が立った。アンナは窓辺に置くための椅子を選び、少し迷ってから、二脚とも運んでもらった。
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次に目を覚ました時、アルチョムは、自分の手で何も掴めなかった。視界はぼやけ、頭を持ち上げることさえできず、喉から出るのは意味のない泣き声ばかりだった。
誰かが彼を抱き上げた。背中をゆっくり撫でる手があり、知らない言葉であやす声があった。アンナを呼ぼうとすると、ますます大きく泣いてしまう。何度試しても同じだった。
夢なのか、死んだ後の出来事なのか、長いあいだ判断できなかった。腹が減り、眠くなり、寒ければ泣いた。大人だった頃の記憶は残っているのに、新しい身体は、それだけではどうにもならなかった。
やがて言葉を覚えた。歩けるようになり、鏡を覗き込むようになって、自分が小さな女の子として生まれ直したのだと理解した。頭の上には淡い光の輪が浮かび、窓の向こうには、壊れていない街があった。
キヴォトスという名を知ったのは、それからだった。世界中のことを知りたがる子供だと思われながら、アルチョムは地図を見て、写真を見て、街を走る列車を目で追った。モスクワも、ヤマンタウ山も、カスピ海も、バイカル湖も、見つからなかった。
自分の名を言えるようになった頃、彼女はアルチョムと名乗った。何度聞き返されても同じ答えを返すうち、周囲もそう呼ぶようになった。前の人生から持ってこられたものは、名前と記憶しかなかった。
この世界の水道を、初めて自分で使った時のことを覚えている。蛇口を捻ると透明な水が出て、そばにいた者は、そのまま飲んで構わないと言った。アルチョムは両手で受け止め、少しずつ口に運んだあと、こぼしてしまった分を惜しんで叱られるまでそこにいた。
食べ物にも、空気にも、同じようなことが起きた。初めて皮を剥いた果物の汁が指を伝った時には、その指まで舐めて笑われた。雨上がりの外へ出て深呼吸を繰り返し、風邪を引くから帰ってきなさいと呼ばれたこともあった。
歳月が経てば、そうした暮らしにも慣れていった。店にはまた品物が並ぶし、落としたパンを慌てて拾わなくても、明日の食事がなくなるわけではない。頭では分かっていても、身体が先に動く癖はいくつか残った。
夜中に目を覚まして、左手にフィルターの交換時刻を探す癖も、その一つだった。何も巻かれていない手首を見つめ、ここでは必要ないと思い出してから、もう一度横になった。
アンナの顔を忘れることはなかった。成長につれて声が変わり、背丈が伸び、鏡の中の少女が自分の顔になっていっても、彼女と暮らした時間は、そのままアルチョムの中にあった。
ただ、彼女がその後どうなったのかは分からなかった。薬は効いただろうか。みんなは住む場所を見つけただろうか。眠れない夜に考え続けても、答えを聞かせてくれる無線は、どこにもなかった。
*
レッドウィンター連邦学園に入学して間もない朝、アルチョムは寮の食堂でパンを一つ包んでもらった。朝食はもう済ませていたが、出かける用事があり、昼に戻れるか分からなかった。
制服の上から厚手のコートを着て、短く切った暗い髪を帽子に収めた。背負った銃は、木製の部品が残る古いカラシニコフ系の自動小銃だった。よく手入れされている割に飾り気がなく、初対面の生徒には、祖父のお下がりなのかと尋ねられたことがある。
今朝は、その隣に工具袋がぶら下がっていた。校内の掲示板で見つけた、古いストーブの不調を見てほしいという依頼を引き受けたのだ。新品を買う金はなく、修理業者を呼ぶ費用もないらしかったが、何が悪いのか見てもらうだけでも助かると書かれていた。
住所は旧校舎、二二七号特別クラス。地図を確かめ、寮を出たところで、本校舎の方から短い銃声が聞こえた。「……今日は何だ」
「さあ。朝から騒がしいよね」
同じ寮の生徒が、パンを咥えたまま肩を竦めた。アルチョムは一度だけそちらを見て、負傷者を運ぶ者も、逃げてくる者もいないことを確かめると、工具袋を持ち直した。
十五年暮らして、この街の銃声の意味も多少は分かるようになった。撃たれた生徒が大声で文句を言い、数日後には同じ相手と昼食を食べていることもある。それでも、悲鳴まで聞こえた時には、足を止めずにいられなかった。
旧校舎へ続く道は、途中から雪に埋もれていた。建物が見えた時、アルチョムはまず窓の数と、屋根から伸びる煙突を見た。立派とは言えないが、地下の駅で何十人も詰め込まれて眠ることを思えば、ずいぶん広い家だった。
入口の戸を叩くと、内側で何かが倒れる音がした。慌ただしい足音が続き、開いた隙間から、桃色の髪の少女が顔を覗かせた。
「はいっ、何でしょうか。……あ、修理を見てくれるって連絡をくれた方ですか?」
「アルチョムだ。遅くなったか」
「いえ! 来てくれるだけで助かります! 私、天見ノドカです。寒かったでしょう、どうぞ入ってください」
招かれて踏み込んだ廊下は、外と比べて大して暖かくなかった。床板が軋み、壁際には、補修に使うつもりらしい板が立てかけてある。奥から顔を出したもう一人の少女が、アルチョムの工具袋を見て目を細めた。
「本当に来てくれたんだ。私は間宵シグレ。遠かったでしょ、ここ」
「道が分かれば、それほどでもない。二人で住んでいるのか」
「うん。まあ、いろいろあってね。……先に温かいものでも飲む?」
シグレが持ち上げた小さな瓶を、ノドカが横から押し下げた。二人の動きは、何度も繰り返されてきたように滑らかだった。
「そっちじゃなくて、普通のお茶を出してください! 修理に来てくれた人なんですよ!」
「普通においしいのに。じゃあ、お茶にしようか」
アルチョムは二人を交互に見てから、コートについた雪を払った。暖房が駄目だというのに、客に出す温かい飲み物は用意するらしい。その順序に覚えがあった。
案内された部屋では、古いストーブが黙り込んでいた。ノドカによれば、調子が悪くなったのは少し前からで、昨日は部屋に煙が戻ってきたので、使うのをやめたという。
「正しい判断だ。見てみるから、周りのものを少し退けてくれ」
袖を捲り、状態を確かめ始めると、二人は思いのほか素直に従った。必要なものを頼めば探してくるし、ないと分かれば代わりを相談してくる。アルチョムが黙っている時間にも、勝手に火を点けようとはしなかった。
不具合は一つではなかった。傷んだ部品だけ替えれば済む状態でもなく、煙の通り道まで手を入れる必要があった。見終えたアルチョムがそう伝えると、ノドカの肩が落ちた。「……やっぱり、買い替えないと駄目ですか」
「使える部分は多い。足りないものを揃えれば直せると思う。ただ、今日は時間がかかる」
「今日で直るんですか!?」顔を上げるのが早かった。まだ断言はできないと付け加えると、ノドカは何度も頷き、今度はシグレの袖を引いた。
「聞きましたか、シグレ! 今日、暖かくして寝られるかもしれません!」
「聞こえてるよ。じゃあ、まず部品を探さないとね。……アルチョムちゃん、必要なものを書いてくれる?」
ちゃん、と呼ばれて、アルチョムの手がわずかに止まった。随分前から慣れているはずなのに、油で黒くなった指を見ている時に限って、妙な感じがした。トカレフが聞いたら、どんな顔をするだろうと思った。
手持ちの工具でできるところまで済ませてから、シグレと近くの店へ出た。道すがら、彼女は旧校舎の暮らしについて、あまり深刻そうでもなく話した。ところどころで面白がるような調子になり、アルチョムは相槌を打ちながら聞いていた。「暖房の修理くらい、本校に頼めないのか」
「頼んではいるんだけどね。私たち、停学になってここへ送られてるから」
「停学と、凍えていいかどうかは別だろう」シグレが、少しだけこちらを見た。アルチョムは雪の深い部分を避け、店の看板を探していた。「……そう言ってくれる人が、もっといればいいんだけど」
「窓も隙間が多い。あれでは、火が使えても燃料が余計に要る」
「あはは、そっちも見てたんだ。ノドカ、喜ぶよ。隙間風が入るたび、文句言ってるから」
必要な部品を探しているあいだ、シグレは値札を一つずつ真剣に見ていた。アルチョムは買い物かごに入れかけた品を戻し、店員に別の規格の在庫を尋ねた。少し待ってから出てきた古い箱を確かめると、それで間に合いそうだった。
帰り道、シグレが紙袋を覗き込んで笑った。浮いた分で甘いものが買えるね、と言い、アルチョムにどんな味が好きか尋ねた。
好きな味と聞かれると、まだ時々困った。食べられるものなら大概はありがたく、嫌いなものを挙げる方がずっと難しかった。それを正直に言うと、シグレは選び甲斐がある、と楽しそうに答えた。
*
修理が終わった頃には、窓の外が青く暮れかけていた。慎重に様子を見ているアルチョムの隣で、ノドカは両手を握り合わせ、祈るような顔をしていた。
ストーブは今度こそ機嫌よく働いた。少しずつ室温が上がり、窓際に立つ時の寒さが、さっきまでとは違ってきた。ノドカが近寄りすぎて、シグレに襟首を引かれた。「そんなにくっついたら、今度は焦げるよ」
「だって、暖かいんですよ……! ああ、暖かいって、こんなに素晴らしいんですね……!」
「分かったから、椅子を持ってきたらどうだ」アルチョムが言うと、ノドカはすぐに椅子を三脚運んできた。自分の分だけでなく、三人分を、何も考えずに並べた。
夕食も食べていってほしいと言われた。食堂へ戻るには遅い時間だったし、作業の途中で食べたパンだけでは腹も減っていたので、アルチョムは頷いた。二人が支度をするあいだに工具を片付け、床に落ちた煤を拭いた。
鍋の中身は、野菜の多い素朴なスープだった。シグレが椀へ注ぎ、ノドカがパンを切った。一番厚い部分を客の前へ置こうとするのを見て、アルチョムは先に手を伸ばした。
「均等でいい。二人も食べるんだろう」
「でも、今日は直してもらったお礼ですし……」ノドカは厚く切ったパンを見つめた。せっかく選んだそれを戻すのは、少し名残惜しそうだった。
「代金は貰う。食事まで余計に取ったら、ここに来るたび困る」
「え?」ノドカが、パンを持ったまま目を瞬かせた。アルチョムは切り分けた一つを彼女の皿に置き、もう一つをシグレの方へ押した。
「窓も見ておくと言った。今日は暗くなったから、また来る」
「……はい! いつでも! あ、でも、私たちが出かけてる日もあるので、連絡を――シグレ、連絡先! 交換してますか!?」
「まだだよ。そんなに急がなくても、食べ終わってからでいいって」
手渡された椀を、アルチョムは両手で包んだ。湯気が頬に触れた。鼻先には野菜と、僅かな油の匂いがした。
一口飲むと、口の中が熱かった。ゆっくり嚥下した時、向かいのノドカがほっとしたように笑い、それを見たシグレも、自分の椀を持ち上げた。
「どうですか? ちょっと薄いかもしれませんけど、今日はちゃんと――」
「うまい」答えると、二人は満足したらしかった。そこからは、今日買った部品の話になり、値切れなかった別の品の話になり、なぜか本校のプリンへの不満へ移っていった。アルチョムは知らない話の大半を聞き役で過ごし、時々、尋ねられたことに答えた。
食べ終わりに近づいた頃、シグレがふと口を開いた。冗談を言う時より、少し柔らかな声だった。
「アルチョムちゃん、食べるのが丁寧だね。一口ずつ、ちゃんと味を見てる」
椀の底に残ったスープを見て、アルチョムはしばらく答えなかった。アンナと向かい合って座った狭い場所を思い出していた。列車が揺れるたびに食器が鳴り、誰かの笑い声が、薄い仕切りの向こうから聞こえてきた。
「昔、一緒に食事をしていた人がいた」ノドカが顔を上げた。シグレは急かさず、その先を待っていた。
「忙しい時には、ろくに味も見ずに食べた。早く済ませて、出かけたかったから。……その人とは、もう食べられないんだ」
それだけ話すのに、思ったより時間がかかった。手の中の椀はまだ温かく、指先には、今日働いた分の小さな擦り傷があった。
アンナが今、どこかで食事をしていればいいと思った。昔なら、自分が戻らないせいで冷めていたかもしれないスープを、今度はちゃんと温かいうちに食べていればいい。誰かがそばにいて、彼女の皿が空になったことに気づいてくれればよかった。
「……お代わり、ありますよ」ノドカはそう言ってから、少し慌てた。何を言えばいいか分からない時に、まず鍋の方を見てしまったらしかった。
「あ、その、食べてほしいって無理に言ってるわけではなくて。でも、足りなかったら、まだ温かいので……」
「いや。貰ってもいいか」
差し出した椀を受け取る手が、嬉しそうに動いた。シグレがパンの残りを真ん中に置き、誰が取ってもいいように皿を寄せた。アルチョムは礼を言い、もう一度、立ち上がる湯気を見た。
悲しくなくなったわけではなかった。できることなら今すぐアンナのところへ帰りたかったし、眠りに落ちる寸前、オーロラの振動を感じる夜もあった。
それでも、目の前で自分の椀に残った分を数えている少女たちに、食べすぎたのではないかと気を揉ませたくはなかった。アルチョムはパンを三つに分け、今度は自分から、シグレが話していた飲み物について尋ねた。
ノドカが即座に警戒し、シグレが楽しそうに瓶を出しかけた。そのやり取りがおかしくて、アルチョムは椀の縁に隠すように、少しだけ笑った。
*
寮へ帰る頃には、空に星が出ていた。戸口で見送るノドカは、さっきまでと同じ調子で話していたが、肩にはアルチョムのコートを着せようとして、既に一度断られていた。
「道、気をつけてくださいね。着いたら連絡してください。途中で吹雪いてきたら、引き返してきていいですから!」
「分かった。二人も、寝る前に火を確かめてくれ。窓の方は、次に道具を揃えてくる」
「うん。じゃあ、またね、アルチョムちゃん」
また、とアルチョムも答えた。言ってから、一度だけ振り返った。二人はまだ戸口にいて、ノドカが大きく手を振っていた。
雪道を歩き、灯りのある方へ戻った。寮の自室に着くと、まず工具袋を降ろし、言われた通り、無事に帰ったと短い連絡を送った。すぐに返ってきたのは、ストーブのそばへ椅子を寄せた二人の写真だった。
ノドカは毛布に包まり、シグレはカップを持っていた。画面の端に、アルチョムが拭き残した煤が少し見えた。次に行った時には、そこも綺麗にしておこうと思った。
机の引き出しから、古びた手帳を出した。この世界の文字を十分に覚えるより前から書き足してきたもので、最初の方には、形の崩れた名前がいくつも並んでいた。アンナの名前のそばには、彼女の顔を忘れまいとして描いた、小さな絵があった。
アルチョムはその頁に指を置き、しばらく眺めた。遠い場所で、彼女が窓のある家に暮らしているところを想像した。どちらへ窓を向けたのか、聞いてみたかった。
新しい頁を開いて、ストーブの修理に使ったものを書き留めた。その下に、次に持っていく工具と、窓の寸法を測ることを付け足した。ノドカとシグレの名前も、連絡先と一緒に記しておいた。
ベッドへ入る前に、窓を少し開けた。冷たい空気が部屋へ流れ込み、遠くで、遅い列車の音がした。アルチョムは一度深く息を吸い、それから窓を閉めた。
明日の食堂の献立を、まだ見ていなかった。朝になったら確かめようと思いながら、彼女は灯りを消した。
───本当は、アンナやミラー大佐と…仲間達と共にこの平穏を噛み締めたかったと思いながら、瞼を閉じる。