Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
レッドウィンター連邦学園では、週に一度はクーデターが起こる。
少なくとも、僕が入学してからの数か月間、平穏な一週間というものを経験した覚えがない。最初の頃は驚いた。校内放送で突然革命が宣言され、廊下を武装した生徒たちが走り回り、昨日まで掲げられていたチェリノの肖像画が今日には別人のものに変わっている。翌日には元に戻っていることも珍しくなかった。
初めて遭遇した時は、何か重大な事件が起こったのだと思って銃を持ち出したものだ。ところが、周囲の生徒たちは驚くほど平然としていた。隣の席の子など、銃声が聞こえても教科書から顔を上げず、今日はいつもより早いね、なんて言っていたくらいだ。
あれから何度も同じ光景を見た。
今では僕も慣れてしまい、クーデターと聞いて真っ先に確認するのは授業が休講になるかどうかだった。
……慣れというのは恐ろしい。
前世で革命や内戦に散々振り回された身としては、もう少し平和的に物事を解決してほしいところだけれど、この学園でそれを言い始めたらきりがない。少なくとも生徒たちが笑いながら翌日の授業に出てくるだけ、あちらの戦争よりは随分とマシだった。
だから僕は、これまで一度もクーデターに参加したことがない。
チェリノから協力を頼まれたことはあるし、工務部のミノリから革命への参加を勧誘されたこともある。どちらにも丁寧に断りを入れた。僕はただの一生徒で、学生生活を平穏に送れればそれでいい。政治には興味がないし、権力争いに首を突っ込むつもりもなかった。
そう、今日までは。
◇
「ふふ、きっと喜んでくれるだろうな」
放課後、僕は上機嫌で雪道を歩いていた。
片手には小さな紙袋。その中には、今日の昼休みに購買区画で買ってきた二つのプリンが入っている。少し値段は張ったけれど、評判の菓子店で売られている数量限定の焼きプリンだ。卵を贅沢に使った濃厚な味わいが特徴らしく、店の前にはそれなりの行列ができていた。
誰のために買ったのかといえば、チェリノとトモエだ。
先日、チェリノが僕の教室まで遊びに来た際、甘いものが食べたいと随分騒いでいた。ちょうど美味しいプリンの話を聞いたばかりだったので、今度買ってくると約束したのだ。
するとトモエも興味を示したので、彼女の分も買うことにした。
チェリノはあれでなかなか可愛らしいところがある。生徒会長として振る舞っている時は威張り散らしているけれど、一緒に買い物へ行けば新しいお菓子を見つける度に目を輝かせるし、気に入ったものがあれば僕の手を引いて見せに来る。
トモエはそんなチェリノを眺めているだけでも嬉しそうだから、二人で美味しいものを食べればきっと楽しい時間になるだろう。
そんなことを考えていた時だった。
『全校生徒諸君! 我々は腐敗したレッドウィンター事務局による圧政に断固抗議する!』
「……ん?」
頭上のスピーカーから勇ましい声が響いた。
『本日をもって、我々レッドウィンター革命戦線は連河チェリノ政権の打倒を宣言する! 全ての労働者と学生に自由を! 平等なプリンの配給を!』
……またか。
しかも今回もプリンが要求に入っている。
この学園の生徒たちは、どうしてこうもプリンが好きなのだろう。
僕は紙袋をちらりと見た。
「まあ、僕には関係ないか」
今日はチェリノたちと約束している。いつものように騒ぎが収まるまで待ってもいいけれど、せっかく買ったプリンをいつまでも持ち歩くのは嫌だった。
なるべく騒ぎの少ない道を選んで帰ろう。
そう考えた直後、曲がり角の向こうから十数人の生徒が飛び出してきた。
「革命万歳!」
「事務局の犬どもを蹴散らせ!」
「自由と平等を我らの手に!」
銃を抱えた革命派の生徒たちだった。
随分と元気がいい。
彼女たちは僕の横を走り抜け、反対側の通りへ向かっていった。僕は道の端へ寄り、通り過ぎるのを待つ。巻き込まれるのは御免だ。
ところが、続いて現れた保安委員会の生徒たちが、こちらを見るなり声を上げた。
「いたぞ! 革命派の連中だ!」
「逃がすな! 全員捕らえろ!」
ああ、まずい。
逃げる革命派。追いかける保安委員会。両者が交差した瞬間、銃声が響いた。
慌てて近くの壁に身を寄せる。
弾丸が石畳を削り、雪を跳ね上げた。続いて、誰が投げたものかもわからない閃光弾が炸裂する。
僕は反射的に顔を背けた。
前世の癖だった。
次の瞬間、背後の建物から爆発音が響き、衝撃に押された僕は足を滑らせた。
「あっ」
紙袋が手から離れた。
雪の上に落ちた袋を、逃げ惑う革命派の生徒が勢いよく踏みつける。
ぐしゃり。
嫌な音がした。
続いて、保安委員会の生徒がその上を駆け抜けていった。
僕はしばらく、その場から動けなかった。
銃声が遠ざかる。
雪が降っている。
通りには硝煙の匂いが漂い、建物の壁には無数の弾痕が刻まれていた。
僕はゆっくりと紙袋を拾い上げる。
中を覗いた。
「…………」
二つの容器は潰れていた。
蓋は外れ、柔らかなプリンが紙袋の底へ流れ出している。琥珀色のカラメルソースがクリーム色の生地と混ざり合い、見るも無惨な状態になっていた。
せっかく並んで買ったのに。
チェリノは楽しみにしていた。
トモエにも食べてもらいたかった。
どちらも、もう食べられない。
「…………」
僕は紙袋をそっと閉じた。
そして、近くのベンチへ置いた。
「……そうか」
なんだか、頭の中が妙にはっきりしていた。
何度も経験した感覚だった。銃弾が飛び交う場所で、感情に任せて行動すれば死ぬ。だから怒りも恐怖も、一度頭の隅へ押し込めてしまう。
もっとも、今は少し事情が違う。
押し込めた怒りが、まったく収まる気配を見せなかった。
「……もう、いいや」
背負っていた銃を手に取る。
使い慣れたAK-47。木製部品の残る、飾り気のないカラシニコフ。
《オーロラオーダー》。
手入れの行き届いた銃身に触れながら、僕は雪の向こうへ目を向けた。
革命派も保安委員会も、まだ銃撃戦を続けているらしい。
どちらが勝っても知ったことではない。
ただ、一つだけ言いたいことがあった。
「……人のプリンを潰して、ただで済むと思うなよ」
◇
最初に異変へ気付いたのは、革命派の前線部隊だった。
「おい、第二分隊からの連絡はまだか!?」
「それが……通信が途絶えています!」
「何だと!? さっきまで優勢だったじゃないか!」
路地裏に築かれた簡易陣地。そこでは革命派の指揮官が、通信機を片手に怒鳴っていた。
前線の報告は途絶え、保安委員会の動きも不明。予定していた挟撃作戦は、何故か開始前に崩壊していた。
「くそっ、保安委員会の奴らめ! どんな手を使ったんだ!」
「ち、違います! 保安委員会もやられているそうです!」
「はあ!?」
指揮官が素っ頓狂な声を上げた。
「じゃあ誰がやってるんだ!?」
その答えは、直後に聞こえた銃声によって示された。
乾いた発砲音。
陣地の照明が砕け散り、視界が一瞬で暗くなる。
「敵襲!?」
「どこから撃たれた!?」
「右だ! いや、左か!?」
銃声が雪の積もった建物の間で反響する。
兵士たちが慌てて遮蔽物へ身を隠した時には、既に遅かった。
僕は建物の陰から飛び出し、最も近くにいた生徒へ銃床を叩き込んだ。怯んだ彼女の銃を弾き飛ばし、そのまま背後の生徒を蹴り倒す。
「なっ……!?」
「動かないで」
短く告げ、銃口を向ける。
指揮官が慌てて拳銃を抜いた。
僕は先に撃った。
彼女の手元で火花が散り、拳銃が雪の上を滑っていく。
「ひっ!?」
「次は撃たないで。僕も無駄に弾を使いたくない」
もっとも、素直に言うことを聞いてくれるほど、この学園の生徒たちは大人しくない。
「た、たった一人だぞ! 全員でかかれ!」
ああ、やっぱり。
僕は小さく息を吐いた。
そこから先は、随分と忙しかった。
遮蔽物に隠れながら飛んでくる銃弾を避け、敵が近付いてきたところで不意を突く。正面から撃ち合う必要はない。相手がこちらを見失えば、別の場所から攻撃すればいい。
前世では当たり前にやっていたことだ。
モスクワの地下鉄でも、地上の廃墟でも、ヴォルガ川沿いの教会でも、僕たちは常に数で劣っていた。相手が何十人いようと、こちらの命は一つしかない。だからこそ、まともに戦ってはいけないのだ。
それに、この学園の生徒たちは妙に騒がしい。
「いたぞ! あっちだ!」
「全員、右へ回れ!」
「敵は一人だ! 包囲しろ!」
そんなに大声で喋ったら、何をするつもりなのか全部聞こえてしまう。
僕は誰もいない路地へ向けて突撃していく彼女たちを見送り、反対側の建物へ移動した。
数分後、革命派の前線陣地は沈黙した。
雪の上には、銃を取り上げられた生徒たちが転がっている。意識を失った生徒が大半で、起きているのは指揮官を含めた数人だけだった。幸い、致命的な怪我を負った者はいない。キヴォトスの生徒は本当に頑丈だ。前世なら大怪我では済まなかった攻撃を受けても、気絶する程度で済んでいる。
「な、何者なんだ、あんた……!」
指揮官が震える声で尋ねてきた。
「レッドウィンターの一年生だよ」
「い、一年生!?」
「うん」
僕は彼女の落とした通信機を拾い、無線を切った。
「それと、もう一つ」
「な、何だ……?」
「さっき、誰かの買い物袋を踏まなかった?」
「……え?」
「プリンが二つ入っていたんだけど」
指揮官の顔が引きつった。
彼女はしばらく考え込み、それから恐る恐る口を開いた。
「……もしかして、それが理由?」
「うん」
「プリン二つで!?」
随分と失礼な反応だ。
僕は銃を肩に担ぎ直した。
「二つとも限定品だったんだ」
指揮官は何も言わなかった。
◇
一方その頃、レッドウィンター事務局の保安委員会でも混乱が広がっていた。
「どういうことだ!? 革命派の攻勢が止まったと思ったら、今度は我々の部隊が襲撃されているだと!?」
池倉マリナは机を叩いた。
保安委員会の委員長として、彼女は数々のクーデターに対応してきた。時には自分でクーデターを起こしたこともあるが、それは今は関係ない。
問題は、現在進行形で起こっている謎の襲撃事件だった。
「敵の数は!?」
「い、一人です!」
「一人!?」
「はい! ですが、こちらの分隊が次々と撃破されています!」
「馬鹿な! そんなことがあるか!」
マリナは怒鳴った。
ところが次の瞬間、別の通信が入った。
『こちら第三分隊! 敵の姿を確認しました!』
「よし! 特徴を報告しろ!」
『白いコートを着た女子生徒です! 黒い銃を持っていて、こちらの攻撃が全く当たりません!』
「白いコート……?」
『今、倉庫の方へ逃げました! 追撃します!』
「待て! 勝手に追うな!」
通信機の向こうで銃声が響いた。
それから、何かが倒れる音。
『ぐえっ!』
『隊長!?』
『あっ、後ろに……!』
通信が途絶えた。
マリナはしばらく無言で通信機を見つめた。
「……何が起こっている?」
彼女は知らなかった。
その頃には既に、革命派も保安委員会も、正体不明の襲撃者を共通の脅威として認識し始めていたことを。
そして、襲撃者と交戦した生徒たちの大半が、何をされたのか理解する前に意識を失っていることも。
◇
僕は倉庫の屋根から雪の積もった広場を見下ろしていた。
下では保安委員会の装甲車が二両、周囲を警戒しながら進んでいる。
厄介だ。
いくらキヴォトスの生徒が頑丈でも、あれの砲撃をまともに受ければ痛いだろう。僕だって、わざわざ試してみたいとは思わない。
それにしても、この学園はどうしてクーデターの度に装甲車を持ち出すのだろう。
せめて月に一度くらいは、話し合いで解決してほしい。
「……まあ、今は僕も人のことを言えないけど」
背中のティハールを下ろす。
トカレフが作ってくれた銃を、ミノリたちの協力で再現したものだ。空気圧を利用して金属球を撃ち出す、少し変わったライフル。
発射音が小さいという利点は、こういう場所で特に役に立つ。
僕はしばらく広場の様子を観察し、狙いを定めた。
小さな発射音。
装甲車の外側に取り付けられていた監視装置が砕け散る。
『何だ!?』
『敵襲! 周囲を警戒しろ!』
広場が騒がしくなった。
僕は既に別の位置へ移動している。
相手は僕がどこにいるのかわからない。もっとも、僕だっていつまでも屋根の上にいたら危ないので、長居するつもりはなかった。
もう一度、ティハールを構える。
今度は装甲車の外で指揮を執っていた生徒の通信機を撃ち抜いた。
「ひゃあっ!?」
悲鳴が上がる。
直後、広場の反対側から革命派の部隊が現れた。
「保安委員会だ! 撃て!」
「革命派が来たぞ! 応戦しろ!」
……本当に懲りないな、この人たちは。
僕は深くため息をつき、ティハールを背負った。
こうなったら、まとめて相手をするしかない。
戦闘は長引いた。
どちらの陣営も、それなりに人数がいる。正面から全員を倒すのは現実的ではないし、無駄に怪我人を増やしたくもなかった。だから僕は敵の動きを観察しながら、一つずつ部隊を崩していった。
指揮官を見つければ優先的に無力化する。大勢が集まっている場所には近付かず、逆に少人数で孤立している部隊を狙う。無理に追いかけず、相手が諦めて退却するならそのまま見送った。
ただし、再び戦闘へ戻ってくるなら話は別だ。
そんなことを繰り返しているうちに、敵の方が勝手に混乱し始めた。
『こちら革命派第五分隊! 敵は何人いるんだ!?』
『一人だ!』
『嘘をつくな! さっき東側にいた奴が、もう西側で暴れているんだぞ!?』
『こちら保安委員会! 白いコートの敵を確認!』
『撃て!』
『消えました!』
『何だと!?』
『後ろです!』
『ぎゃあああっ!?』
通信を聞いていると、少し申し訳ない気分になってくる。
僕は別に、消えているわけじゃない。
普通に走っているだけだ。
もちろん、彼女たちの前世には存在しなかったような強力な武器や装備も、この世界にはたくさんある。僕が相手にしているのは訓練の行き届いた特殊部隊ではないし、ここがキヴォトスだからこそ通用する戦い方でもあった。
それでも、戦場で培った経験まで失ったわけではない。
少なくとも、数の多さを過信して一か所に固まる相手を崩す方法なら、いくらでも知っていた。
途中で何度か被弾した。肩を掠めた銃弾は痛かったし、近くで炸裂した砲弾には肝を冷やした。積もった雪に転がり込み、無我夢中で逃げたこともある。
まったく、酷い一日だ。
こんなことになるなら、プリンを買った後は真っ直ぐ寮へ帰るべきだった。
……いや。
そもそも、あの人たちが騒ぎを起こさなければよかったのでは?
そう思った途端、また腹が立ってきた。
「……よし」
もう少し頑張ろう。
◇
「同志諸君! 今こそ労働者の権利を勝ち取る時だ!」
工務部の安守ミノリは、建設現場の足場の上で演説していた。
今回のクーデターには直接参加していなかったものの、事務局が混乱していると聞いて急遽デモを開催したらしい。
「我々は不当な労働環境に断固抗議する! 労働者に十分な休息を! 適正な賃金を! そしてプリンを!」
その時だった。
遠くから銃声が響いた。
次いで、革命派の生徒たちが雪崩れ込んでくる。
「逃げろおおおっ!」
「化け物だ! 白い化け物が来るぞ!」
「もう嫌だ! 革命なんかやってられるか!」
ミノリは目を丸くした。
「同志諸君!? 何があったんだ!?」
「一人だ!」
「何!?」
「白いコートの奴が一人で、革命派も保安委員会も全部やっつけてるんだ!」
白いコート。
一人。
その二つの言葉から、ミノリの脳裏にある人物が浮かんだ。
「……まさか」
そして、その予感は数秒後に現実となった。
「ミノリ!」
建設現場の入り口から、見慣れた少女が姿を現した。
短い暗色の髪。白いダッフルコート。手に持ったAK-47。
アルチョムだった。
「アルチョム同志!? 君がこの騒ぎの原因なのか!?」
「違うよ。騒ぎを起こしたのはあの人たちだ」
「そ、そうか! ならば君も革命に参加しているのか!?」
「してない」
「では何故銃を持っている!?」
「プリンを潰されたから」
「…………」
ミノリは固まった。
「……プリン?」
「うん。チェリノとトモエに買ってきたプリン。二つとも駄目になった」
「…………」
「だから、ちょっと怒ってる」
ミノリはしばらくアルチョムを見つめた。
彼女の知るアルチョムは、穏やかで面倒見がよく、工務部の仕事もよく手伝ってくれる友人だった。銃の知識が豊富なことは知っていたし、ティハールの製作でその技術の高さも理解していた。
だが、ここまで戦えるとは思っていなかった。
何より恐ろしいのは、その表情だった。
アルチョムは怒鳴っていない。
顔を真っ赤にしているわけでもない。
ただ、いつもの落ち着いた声で、淡々と話している。
「……同志アルチョム」
「何?」
「今の君に、革命の勧誘をするのはやめておこう」
「そうしてくれると助かる」
「ところで、我々工務部は今回の戦闘に参加していないのだが……」
「知ってるよ」
ミノリはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった! ならば我々は安全というわけだな!」
「うん。ただ、今はデモをやめた方がいいと思う」
「何故だ?」
「向こうから保安委員会が来るから」
直後、遠くから装甲車のエンジン音が響いた。
ミノリは振り返った。
それから、再びアルチョムを見る。
「……同志アルチョム」
「何?」
「健闘を祈る!」
「ありがとう」
工務部は速やかに撤収した。
ミノリが後に語ったところによれば、あの日のアルチョムは今まで見たことがないほど恐ろしかったらしい。
ちなみに本人は、革命へ参加しなかった理由を「プリンを潰されて怒っている友人の邪魔をするほど、私は愚かではない」と説明していた。
◇
夕方。
レッドウィンターの中央広場では、奇妙な光景が広がっていた。
革命派と保安委員会の生徒たちが、揃って両手を上げている。
その前に立っているのは、白いコートを着た一人の女子生徒。
僕だ。
「……もう、終わりでいいかな?」
誰も答えない。
僕は少し困ってしまった。
あれから結局、革命派の主力部隊を撃退し、保安委員会の装甲車を戦闘不能にして、指揮系統を完全に崩壊させることに成功した。
途中でマリナ本人とも遭遇したけれど、随分と手強かった。
流石は保安委員長といったところだろう。彼女は最後まで勇敢に戦い、部下を守るために自ら前へ出てきた。
もっとも、戦場では勇敢さが必ずしも良い結果に繋がるとは限らない。
今は雪の上に座り込んで、恨めしそうにこちらを睨んでいた。
「……貴様、本当に何者だ?」
「さっきも言ったけど、普通の一年生だよ」
「普通の一年生が、数百人の武装部隊を単独で制圧できるものか!」
「……それは、まあ」
確かに普通ではないかもしれない。
でも、僕としてはこれ以上騒ぎを大きくしたくなかった。
「もう帰っていい?」
「待て! まだ話は終わっていない!」
「何?」
「貴様は何故、我々保安委員会まで攻撃した!? 我々は正当な秩序を守るために戦っていたのだぞ!」
僕は少し考えた。
「……僕のプリンを踏んだから」
「…………」
「革命派も踏んだけど、保安委員会も踏んだんだ」
「…………」
「二つとも、潰れた」
マリナは天を仰いだ。
「プリン……」
「うん」
「プリンのために……?」
「そうだよ」
「それだけの理由で、我々を全滅させたというのか!?」
僕は頷いた。
「せっかく買ったのに」
沈黙が広場を包んだ。
やがて、革命派の生徒が恐る恐る手を上げた。
「あ、あの……」
「何?」
「弁償します……」
別の生徒も慌てて頷いた。
「私たちもお金出します!」
「だからもう撃たないでください!」
……そんなに怖がらなくてもいいのに。
僕は銃を下ろした。
「別に、もう戦うつもりはないよ」
その言葉を聞いた瞬間、広場のあちこちで安堵のため息が漏れた。
革命派も保安委員会も、皆一様に疲れ果てている。
僕だって疲れた。
お腹も空いた。
それに、約束の時間もとうに過ぎている。
「それじゃ、お疲れ様」
僕は踵を返した。
背後からマリナが叫んだ。
「待て! 名前を教えろ!」
「アルチョム」
「アルチョム……!」
「アルチョム・アレクセエヴィチ・チョルヌィ。レッドウィンターの一年生だよ」
それだけ告げて、僕は広場を後にした。
振り返ると、革命派と保安委員会の生徒たちが揃って敬礼していた。
……どうして?
◇
「アルチョム!」
事務局の扉を開けると、チェリノが駆け寄ってきた。
「どこへ行っておったのだ! おいらはずっと待っていたのだぞ!」
「ごめん、チェリノ。ちょっと色々あって」
「むむ? その服、随分と汚れているではないか!」
確かに白いコートは酷い状態だった。
雪と泥で裾が汚れ、あちこちに硝煙の跡が残っている。肩の辺りには銃弾が掠めた痕跡もあった。
洗濯が大変そうだ。
「アルチョムさん!? 何があったのですか!?」
トモエも驚いた様子で駆け寄ってきた。
「怪我をされたのですか!? すぐに救護班を!」
「大丈夫だよ。少し掠っただけだから」
「少しって……!」
トモエが僕の肩を確認する。
幸い、傷は大したことがなかった。キヴォトスの身体は丈夫だし、これくらいならすぐに治るだろう。
「それより、二人に謝らないといけないことがあるんだ」
「む?」
「実は……プリンを駄目にしてしまって」
チェリノが固まった。
「…………」
「ごめん。せっかく約束したのに」
「……プリンが?」
「うん」
「……ない?」
「うん」
「…………」
チェリノの目に、みるみる涙が溜まっていった。
「お、おいらのプリンがああああっ!?」
「会長!?」
「楽しみにしておったのに! アルチョムが買ってきてくれると言ったから、おいらは昼のおやつも我慢したのだぞ!」
「ごめんね」
「誰だ! 誰がおいらのプリンを奪ったのだ! 粛清してやる!」
「……もう済ませてきたよ」
「む?」
「クーデターを起こしてた人たちが踏んじゃったんだ。だから、ちょっと怒ってしまって」
トモエが首を傾げた。
「クーデター……?」
「うん」
「そういえば、先程まで学園内が随分と騒がしかったようですが……」
「多分、もう終わったと思う」
その時だった。
事務局の扉が勢いよく開いた。
「チェリノ会長! 緊急報告です!」
飛び込んできたのは、傷だらけのマリナだった。
「マリナ委員長! 一体どうしたのですか!?」
「保安委員会が……壊滅しました!」
「な、何じゃと!?」
チェリノが目を見開く。
「革命派の仕業か!? おいらの事務局に刃向かうとは許せん!」
「いえ……革命派も壊滅しています!」
「……は?」
「両陣営とも、たった一人の生徒によって鎮圧されました!」
トモエが瞬きをした。
「……一人?」
「はい! 白いコートを着た一年生で、名前はアルチョム・アレクセエヴィチ・チョルヌィと……」
マリナの言葉が止まった。
僕と目が合った。
「…………」
「…………」
気まずい。
「……どうも」
小さく手を上げる。
マリナはその場で直立不動になった。
「き、貴様ああああっ!?」
「マリナ委員長?」
「こ、この生徒です! このアルチョムが、我々を全滅させた張本人です!」
トモエがゆっくりとこちらを向いた。
「……アルチョムさん?」
「うん」
「お一人で?」
「そうだね」
「革命派と保安委員会の両方を?」
「……うん」
トモエは無言になった。
チェリノも無言だった。
やがて、チェリノがぽつりと呟いた。
「……プリンのために?」
「うん」
「…………」
チェリノはしばらく僕を見つめていた。
そして。
「うわああああん! アルチョムぅぅぅ!」
「わっ!?」
突然抱きついてきた。
「おいらのプリンの仇を取ってくれたのだなぁぁぁ!」
「いや、そこまで大袈裟な話じゃ……」
「流石はアルチョムなのだ! おいらの忠実なる同志なのだ!」
チェリノは僕の腰にしがみつきながら、わんわん泣いている。
……どうしよう。
僕としてはプリンを駄目にしてしまったことを謝りに来たのだけれど。
「アルチョムさん……」
トモエが静かに口を開いた。
「本当に、お一人で全ての部隊を?」
「まあ、結果的には」
「マリナ委員長率いる保安委員会も?」
「うん」
「革命派の主力部隊も?」
「そうだね」
「装甲車部隊まで?」
「……あれは少し大変だった」
トモエはしばらく考え込んでいた。
やがて、にっこりと微笑んだ。
「……素晴らしいです」
「え?」
「これほどまでに優秀な方が、我がレッドウィンターにいらっしゃったとは!」
何だか嫌な予感がした。
「会長! これは歴史的な出来事です!」
「うむ! おいらもそう思うのだ!」
「単独でクーデターを完全鎮圧し、事務局と革命派双方の主力部隊を撃破! これほどの武勲は前代未聞です!」
「うむうむ!」
「早速、全校へ通達いたしましょう!」
「ちょっと待って」
僕は慌てて止めようとした。
けれど、トモエは既に机へ向かっていた。
「アルチョムさんの偉業を全校生徒へ知らしめる絶好の機会です!」
「会長! アルチョムさんへ特別勲章を授与するのはいかがでしょう!」
「よいぞ! 第一級髭勲章を授けるのだ!」
「……いらないよ?」
「何故なのだ!?」
チェリノが驚いた顔で僕を見上げた。
「栄誉ある勲章なのだぞ!」
「それより、プリンを買い直したいんだけど」
「…………」
チェリノの表情が再び悲しげになった。
「……プリン」
「うん。今度はちゃんと持ってくるよ」
「……本当か?」
「約束する」
するとチェリノは僕の手をぎゅっと握った。
「……では、今度は三つ買ってくるのだ」
「三つ?」
「うむ! おいらとトモエと、アルチョムの分なのだ!」
僕は少し驚いた。
チェリノは得意げに胸を張った。
「おいらだけ食べるのは不公平だからな! 同志は皆、平等にプリンを食べるべきなのだ!」
……なるほど。
たまには会長らしいことを言う。
「わかった。今度は三つ買ってくるよ」
「うむ!」
チェリノは満足そうに頷いた。
それを見て、トモエも嬉しそうに微笑んでいる。
……まあ、終わりよければ全てよし、だろう。
僕はそう思った。
その時点では。
◇
翌朝。
教室へ入った瞬間、妙な視線を感じた。
いつもなら騒がしい教室が、今日は不自然なほど静かだった。
僕は首を傾げながら、自分の席へ向かう。
「……おはよう」
「…………」
返事がない。
隣の席の子まで、口を半開きにしてこちらを見つめていた。
「……どうしたの?」
「ア、アルチョム……」
「うん?」
「昨日のクーデター……」
「ああ、あれ?」
「……本当に、一人で鎮圧したの?」
「うん」
「…………」
隣の席の子は机に突っ伏した。
「……嘘でしょ」
「何が?」
「だって、保安委員会も革命派も、合わせて何百人もいたんだよ!?」
「そうだね」
「装甲車まで出てたんだよ!?」
「うん。結構厄介だった」
「……結構厄介、って」
彼女は呆然と呟いた。
それから、恐る恐る尋ねてきた。
「……ねえ、アルチョム」
「何?」
「何でそんなことしたの?」
「プリンを潰されたから」
「…………」
隣の席の子は、もう一度机に突っ伏した。
「……私、絶対アルチョムのお菓子には触らない」
「別に、触るくらいならいいけど」
「絶対に嫌!」
……困ったな。
僕は何も、誰かを怖がらせたかったわけじゃない。
そう思っていると、教室のスピーカーから放送が流れた。
『全校生徒諸君! 本日はレッドウィンター連邦学園の歴史に残る、素晴らしい報告がある!』
チェリノの声だった。
……嫌な予感がする。
『昨日発生した卑劣なるクーデターは、既に完全鎮圧された! そして、その功績を挙げたのは、我が学園が誇る偉大なる同志、アルチョムなのだ!』
教室中の視線が僕へ集中した。
『同志アルチョムは、たった一人で革命派と保安委員会の双方を撃破! 数百名の武装勢力を無力化し、我がレッドウィンターに平和をもたらしたのだ!』
……頼むからやめてほしい。
『これを称え、同志アルチョムへ特別栄誉勲章を授与することを決定した! さらに!』
まだあるのか。
『今後、同志アルチョムを我がレッドウィンター連邦学園最強の生徒として公式に認定するのだ!』
……え?
教室が静まり返った。
続いて、トモエの声が聞こえてきた。
『補足いたします。昨日の戦闘記録を確認した結果、アルチョムさんは単独で複数の武装集団を制圧し、保安委員会の主力部隊を含む全ての交戦勢力を撤退または降伏に追い込みました。これほどの戦果を個人で達成した例は、我が学園では確認されておりません』
……トモエ。
『よって、会長のご判断は極めて妥当であると考えられます。全校生徒の皆様におかれましては、アルチョムさんの偉業を末永く語り継いでいただきますよう、お願いいたします』
……やめて。
『なお! 同志アルチョムの買い物を妨害する者は、おいらが直々に粛清するのだ! 特にプリンを潰すなど言語道断! 全校生徒は肝に銘じるように!』
……もう、本当にやめてほしい。
放送が終わった。
教室は静まり返ったままだった。
僕はゆっくりと椅子へ腰を下ろし、鞄から教科書を取り出した。
「……さて、授業の準備をしようか」
誰も答えてくれなかった。
◇
その日の昼休み。
僕は旧校舎を訪れていた。
「……あはははははっ!」
シグレが大笑いしている。
「ちょ、ちょっとアルチョムちゃん! プリン! プリンが理由だったの!?」
「……うん」
「あはははっ! 駄目、面白すぎる!」
彼女はお腹を抱え、涙を浮かべながら笑っていた。
隣ではノドカが、何とも言えない表情で僕を見つめている。
「……アルチョムさん」
「何?」
「以前から射撃がお上手だとは思っていましたが……まさか、あそこまでとは」
「昔から色々経験してきたからね」
「色々で済む話なのでしょうか……?」
ノドカは困惑していた。
僕はストーブの近くへ腰を下ろした。
温かい。
外は相変わらず寒かったし、昨日の戦闘で身体のあちこちが痛む。今日はできるだけ静かに過ごしたかった。
「でも、アルチョムちゃん」
ようやく笑い終えたシグレが、こちらへ身を乗り出した。
「これから大変だと思うよ?」
「……どうして?」
「だって、レッドウィンター最強なんでしょ?」
「チェリノが勝手に言ってるだけだよ」
「でも実際に、保安委員会も革命派も全部倒しちゃったんだよね?」
「……まあ」
「ふふっ。それじゃあ、これからクーデターを起こす人たちは皆、アルチョムちゃんのことを気にするんじゃないかな?」
僕は考えた。
確かに、そうかもしれない。
でも、それなら悪いことばかりではないだろう。
「……僕が通る時だけ、戦うのをやめてくれればいいんだけど」
「それ、絶対やってくれると思うよ」
シグレはまた笑った。
ノドカも小さく微笑む。
「それにしても、少し羨ましいです」
「何が?」
「そこまで大切に思ってもらえるチェリノ会長とトモエさんが、です」
僕は少し驚いた。
ノドカは穏やかな表情で続けた。
「お二人のために選んだプリンだったのでしょう? それを台無しにされて怒ったということは、それだけ楽しみにしていたということですよね」
「……まあ、そうだね」
確かに、その通りだった。
せっかくなら喜んでもらいたかった。
それだけのことだ。
「……でも、もう少し穏便に済ませればよかったかな」
「そうですね……」
ノドカは苦笑した。
「少なくとも、学園最強の称号を得るほどの騒ぎになるとは思いませんでした」
「僕もだよ」
シグレがにやにやと笑う。
「ねえ、アルチョムちゃん」
「何?」
「今度、私にもプリン買ってきてくれない?」
「いいよ」
「やった! じゃあノドカの分もお願いね!」
「えっ!? わ、私もですか!?」
「もちろん」
僕は頷いた。
「今度は四つ買ってこようかな」
「ふふっ、ありがとう!」
シグレが嬉しそうに笑った。
ノドカも頬を緩めている。
……まあ、これならいいか。
次は四つ。
いや、チェリノとトモエの分も合わせるなら六つだ。
少し財布が心配だけれど、それくらいなら問題ないだろう。
僕は温かい飲み物を一口飲みながら、次の買い物の予定を考え始めた。
その時だった。
旧校舎の外から、聞き覚えのある声が響いた。
「同志アルチョムぅぅぅ!」
……ミノリ?
窓の外を見ると、工務部の生徒たちを引き連れたミノリが立っていた。
「同志アルチョム! ぜひ我々の革命に参加してほしい! 君の力があれば、事務局の打倒など容易いはずだ!」
「……参加しないよ」
「何故だ!?」
「政治には興味がないから」
「ならば、労働環境の改善についてはどうだ!? 君も今の学園の体制には不満があるだろう!」
「まあ、少しは」
「そうだろう! ならば共に立ち上がろうではないか!」
僕は少し考えた。
それから、窓を開けて答えた。
「……ミノリ」
「何だ、同志!」
「クーデターを週に一度も起こさないでくれたら、僕は凄く嬉しいんだけど」
「…………」
ミノリが固まった。
工務部の生徒たちも固まった。
それから、誰かが小さく呟いた。
「……それは、ちょっと」
「難しいな……」
「革命は我々の権利だから……」
……そうか。
やっぱり駄目か。
僕は静かに窓を閉めた。
シグレがまた笑い始めた。
「ふふっ……あはははっ! アルチョムちゃん、今の顔!」
「……笑わないでよ」
「だって! あんなに強いのに、革命をやめさせることはできないんだもん!」
……確かに。
僕はため息をついた。
前世でも、戦争を終わらせることは簡単ではなかった。
どれだけ多くの敵を倒しても、どれだけ強い武器を手に入れても、人間同士の争いというものは簡単になくならない。
それは、この世界でも変わらないらしい。
……ただし。
少なくとも、これからは僕の買い物を巻き込まないでもらいたい。
それだけは、絶対に譲れなかった。
◇
それから数日後。
レッドウィンターの校内ネットワークに、ある妙な噂が流れ始めた。
『昨日のクーデターで一人に全滅させられたってマジ?』
『マジ。うちの部隊も全滅した』
『白いコートの奴だろ? 見たぞ』
『見たっていうか、見えたと思ったら気絶してた』
『こっちも。後ろから声がして振り向いた瞬間、目の前が真っ暗になった』
『私は銃を構えたところまでは覚えてる。その後の記憶がない』
『保安委員会の友達も同じこと言ってた』
『そういえば、あいつのフルネーム知ってるか?』
『アルチョム・アレクセエヴィチ・チョルヌィ、だろ』
『チョルヌィって、黒って意味らしいぞ』
『黒? 白いコートなのに?』
『いや、そこじゃなくてさ。あいつにやられた奴、みんな目の前が真っ暗になって意識が飛んでるだろ?』
『ああ……』
『つまり、あいつと戦ったら最後に見る景色は暗闇ってことか』
『……怖っ』
そんな噂は、瞬く間に学園全体へ広まっていった。
何しろ、被害者が多すぎた。
革命派の生徒も保安委員会の生徒も、何百人という数がたった一人の女子生徒に敗北している。しかも、その大半がまともに相手の姿を捉えることもできず、気付けば意識を失っていた。
どこから現れるのかわからない。どこへ消えるのかもわからない。
銃声が響いたと思えば別の場所に姿を現し、接近された生徒は抵抗する暇もなく地面に沈む。
戦った者が最後に見たものは、まさしく暗闇。
そして、その少女の名字は黒を意味するチョルヌィ。
偶然にしては、あまりにも出来すぎていた。
やがて誰が言い始めたのか、彼女には一つの異名が付けられた。
『暗闇のアルチョム』。
その名は革命派と保安委員会の双方に知れ渡り、いつしかレッドウィンター連邦学園で最も恐れられる名前となっていった。
◇
「……暗闇のアルチョム?」
僕はスマートフォンの画面を見つめた。
昼休み、隣の席の子から送られてきた校内掲示板の投稿には、大きな文字でそう書かれていた。
『レッドウィンター最強! 暗闇のアルチョム!』
……何だ、これ。
「アルチョム、知らなかったの?」
「うん。初めて見た」
「もう学園中で噂になってるよ。革命派の子なんか、名前を聞いただけで顔色変えるんだから」
「……そんなに?」
「そんなに!」
僕はもう一度画面を見た。
暗闇のアルチョム。
どうやら僕の名前をもじったらしい。
チョルヌィという姓が黒を意味するのは、もちろん知っている。何しろ前世からの本名なのだから。
アルチョム・アレクセエヴィチ・チョルヌィ。
それが、かつてモスクワの地下鉄で暮らし、スパルタンオーダーの一員として戦った僕の名前だった。
そして、もう一つ。
僕には、よく似た呼び名があった。
アルチョム・ダーク。
スパルタンオーダーで使われていたコードネームだ。
……まさか、新しい人生でも似たような名前で呼ばれることになるとは思わなかった。
しかも、今回はプリンが原因だ。
人生というものは、時々妙な冗談を言う。
「……どうしたの? 急に黙って」
「いや、昔もちょっと似たような呼び名があったなって」
「へえ! 何て呼ばれてたの?」
「アルチョム・ダーク」
「……え?」
「ダーク。暗闇って意味の」
「…………」
隣の席の子が固まった。
「……アルチョム」
「何?」
「それ、今回の二つ名とほとんど同じじゃない?」
「そうなんだよね」
「……何かの運命じゃない?」
「偶然だと思うよ」
僕は肩をすくめた。
そもそも、あちらとこちらでは随分と事情が違う。
昔は生き残るために戦っていた。
今はプリンを潰されて怒っただけだ。
……改めて考えると、随分と情けない理由だったかもしれない。
「ねえ、アルチョム」
「何?」
「一つお願いがあるんだけど」
「うん?」
「……私がお菓子を落としちゃっても、怒らないでね?」
僕は思わず笑ってしまった。
「大丈夫だよ。わざとじゃなければ怒らないから」
「……本当?」
「本当だよ」
隣の席の子は、心底安心したように胸を撫で下ろした。
……そこまで怖がらなくてもいいのに。
◇
その後、レッドウィンターでは新たな不文律が生まれた。
『暗闇のアルチョムが買い物袋を持っている時は、絶対に戦闘を行ってはならない』。
革命派も保安委員会も、この規則だけは律儀に守るようになった。
ある日、革命派の生徒たちが事務局へ突撃しようとした際、通りの向こうに僕の姿を発見して即座に停戦したという。
別の日には、保安委員会が暴動の鎮圧中に僕を見つけ、全員が銃を下ろして道を譲ったらしい。
僕としては、随分と礼儀正しい人たちだなと思ったくらいだった。
「……最近、皆親切だな」
今日も白いコートを揺らして雪道を歩く。
その手には、六つのプリンが入った紙袋。
レッドウィンター最強の生徒。
単独で数百人の武装勢力を制圧した、前代未聞の少女。
暗闇のアルチョム。
そう呼ばれるようになってしまった僕だけれど、別に何かが変わったわけじゃない。
今日も明日も、学校へ通って、勉強して、友達と遊んで、美味しいものを食べる。
それだけで十分だった。
……まあ。
できることなら、もう少し普通のあだ名がよかったけれど。
かくしてレッドウィンターには、チェリノ会長よりも、保安委員長マリナよりも、そして革命派のどの指導者よりも恐れられる、一人の女子生徒が誕生した。
なお、その後もクーデターは普通に起こり続けた。
ただし、暗闇のアルチョムが通りかかると、どちらの陣営も自主的に停戦するようになったという。
……平和とは、案外こういうものなのかもしれない。
───そういえば、デュークも暗闇のデュークと呼ばれていたっけ…