Blue Archive fo MetroExodus 作:宇迦之たま猫
数学の小テストが返ってきた時、僕はまず裏面を確かめた。問題は表だけだと思っていたが、最後の二問は裏にあった。何も書かれていない解答欄の上を指でなぞってから、もう一度表へ戻すと、隣の席から小さな笑い声がした。
「アルチョム、始まる前に両面見なさいって言われてたよ。あの時、何してたの?」
「窓の外を見ていたんだ。工務部が何か運んでいたから、気になって」
「そっか。じゃあ、外のことはよく分かったんだね」
その通りだった。荷車の片側だけ車輪の回り方が悪いことも、積んだ材木の長さが荷台に合っていないことも分かった。けれど、そんなことを書いても点は貰えない。
答案用紙を半分に折って、教科書に挟んだ。放課後は二二七号特別クラスへ行くつもりだったが、その前に解き直しておいた方がよさそうだった。ノドカとシグレに、窓の寸法を測りに行くと連絡して、問題集を開いた。
僕は字を書くのが遅い。頭に浮かんだ答えを、この世界の文字で読みやすく並べる作業には、今でも意識を使う。急ぐと前の人生で覚えた綴りが混ざり、あとから自分で読み返して困ることがあった。
それでも、紙を好きなだけ使って勉強できる暮らしには、文句をつけようがなかった。間違えたら消して、もう一度書けばよかった。薄暗い場所で、誰かの持ち帰った古い本を順番待ちする必要もない。
ただ、紙を裏返すくらいの注意は払うべきだった。そこは、昔も今も変わらないらしい。
*
昼休み、食堂へ向かう途中で、廊下の先から歓声が聞こえてきた。窓越しに見ると、工務部の生徒たちが広場へ集まっている。朝に見かけた荷車は横付けされ、材木の代わりに、大きな看板が立てかけられていた。
手袋の追加支給を求める、と書かれていた。その下にも何行かあったが、読み終える前に、黄色いヘルメットを被った生徒が拡声器を持ち上げた。
「道具を使う手を守るために、必要なものを要求している! それを贅沢だと言うのなら、まずは自分たちの手で作業をしてみるといい!」
周りの生徒たちが拳を上げた。僕は立ち止まり、自分の手袋を見た。指の付け根が少し薄くなっていて、近いうちに繕わなければと思っていたところだった。
「工務部のミノリ部長だよ。今日はまだ、拡声器だけなんだね」
隣の席の子が、僕の肩越しに外を覗いた。そう言いながらも、足は食堂の方へ動いていた。僕もあとを追い、窓から離れた。
「手袋は要ると思う。作業中に破れると困る」
「うん、それはそう。だから、食堂まで止まる前に食べよう」
彼女の判断は早かった。こういう時は、どこまで騒ぎが広がるかを心配するより、できることを先に済ませた方がいいらしい。僕は食券を取り出し、その後ろに並んだ。
今日の昼食には、肉の入った煮込みがついていた。野菜の下に隠れていた一切れを見つけると、隣で同じ皿を持つ子が、僕の顔を見て笑った。
「食堂のおばさんに、その顔見せてあげなよ。きっと喜ぶから」
「何か変な顔をしていたか。普段と同じつもりだったんだけど」
「ううん。おいしそうでよかったなって、すごく分かるだけ」
そう言われると、意識してしまう。僕は肉を一度皿の端へ寄せ、野菜から食べようとして、結局やめた。冷める前に食べる方がよかったし、最後まで残していると、何かあった時に食べ損ねるかもしれなかった。
食後、窓の補修に使えそうな材料を探すため、購買へ寄った。店の人に古い窓の話をすると、工務部が端材を出しているかもしれないと教えてくれた。広場を見ると、さっきの集まりはまだ続いていて、今度は別の生徒が演説をしていた。
僕は少し迷ってから、外へ出た。作業をしている最中に割り込むより、今の方が話はできるかもしれなかった。少なくとも、あの人たちが何を求めているかは、さっき聞いていた。
荷車のそばにいたミノリは、僕が近づくと、まず肩の工具袋に目を向けた。今日は放課後に出かけるので、朝から持ってきていたものだった。
「工務部に用か? 仕事の依頼なら、内容を聞こう」
「窓の補修材を探している。旧校舎の隙間風をどうにかしたくて、使える端材がないか訊きに来たんだ」
「旧校舎……二二七号特別クラスか。君一人でやるのか?」
僕が頷くと、彼女は腕を組んだ。嫌な顔というより、まず確かめておかなければならないことを見つけた顔だった。
「工賃はいくらだ。材料費まで、自分で出すつもりじゃないだろうな?」
「材料代は二人と相談する。僕の分は、前にストーブを直した時と同じくらいでいいと思っている」
額を伝えると、ミノリは何か言いかけ、工具袋と僕の顔を交互に見た。それから近くの部員を呼び、部室の鍵を借りてくるよう頼んだ。
「まず現物を見よう。材料を選ぶところから手伝うが、取り付けは寸法を確かめてからだぞ。合わないものを無理に使えば、余計な仕事が増える」
「助かる。僕も、窓を丸ごと直したことはないんだ」
「それなら、なおさらだ。……名前を聞いてもいいか、同志」
アルチョムだと答えると、彼女は自分も名乗った。安守ミノリ、工務部の部長。次に拡声器を持つ予定の生徒へ、少し席を外すと声をかけてから、僕を部室へ案内してくれた。
作業場には、見慣れたものがいくつもあった。金具、板、使い込まれた工具。仕分けられた箱の前へしゃがむと、僕はようやく、話についていける場所へ来た気がした。
ミノリは必要なものを選びながら、作業の段取りを確かめた。僕が考えていた方法のうち、一つは別のやり方に直され、一つはそのままでいいと言われた。教わったことを手帳へ書くと、彼女は横から覗き込み、簡単な図も描き足してくれた。
「手慣れているところと、妙に知らないところがあるな。前に、どこかの部活で手伝いを?」
「身近に、物を直すのがうまい人がいた。その人の仕事を見て、少し覚えたんだ」
トカレフの手元を思い出していた。あの人なら、この部屋に入るなり、何がどれくらい使えるかを確かめ始めたと思う。僕はただ、持っているもので間に合わせることに慣れていただけだった。
「そうか。だったら、分からない時には訊きに来るといい。道具の貸し出しも、手続きをすればできる」
その言葉に礼を言ってから、僕は荷車のことを尋ねた。片側の車輪が重そうだったと話すと、ミノリはすぐに思い当たったらしく、眉を上げた。
「ああ、あれか。分かってはいるんだが、後回しになっていてな。気づいたのなら、戻る前に一緒に見てくれるか?」
「僕でよければ。午後の授業まで、まだ少し時間がある」
結局、材料を選ぶよりも、荷車の方に時間がかかった。しゃがんでいるあいだに足が痺れ、立ち上がった時にはミノリに笑われた。材料の代金と、手伝った分の扱いは、それぞれきちんと紙に残してくれた。
「働いた分を曖昧にするな。自分の分を安くしすぎると、あとから他の者まで困るんだ」
僕は受け取った紙を折り、手帳に挟んだ。小さな仕事でも、そうやって考えるものらしかった。食事をご馳走になれば十分だと思っていたことは、ここでは言わないでおいた。
*
午後の授業が終わり、材料を引き取って校門へ向かう途中で、廊下の向こうから生徒の列が来た。真ん中に、小柄な白い髪の生徒がいる。立派な帽子と、よく目立つひげを見れば、誰なのか考える必要はなかった。
連河チェリノ会長だった。そばには、眼鏡をかけた背の高い生徒が付き添っている。掲示物で見た顔と、入学時に聞いた名前を思い合わせると、秘書室長のトモエだろう。
僕は壁際へ寄った。腕に抱えた補修材は長く、すれ違う相手にぶつけたくなかった。けれど、脇を通るはずだった会長の足は、僕の前で止まった。
「おい、おまえ。その荷物は何だ? 何かの旗でも作るつもりか?」
「窓を直す材料です。工務部で分けてもらいました」
「工務部から? ……怪しいな。さっきもあいつら、広場で騒いでいたのだ」
僕は材料を少し傾け、中が見えるようにした。旗を作るものは入っていない。取引の紙も出そうとしたが、会長はその前に、荷物の端を指さした。
「それは何だ。やけに長いぞ」
「窓枠に使うものです。切る前なので、この長さになっています」
「ふむ……。では、その窓を直したら、おいらの肖像を飾るのだ。誰のおかげで学べているのか、よく分かるようにな!」
僕は、旧校舎の窓を思い浮かべた。ノドカは夜空を見るために、あの窓のそばへ望遠鏡を置いていた。そこへ大きな肖像を貼るとしたら、あまり都合がよくなかった。
「窓を塞ぐと、外が見えなくなります。壁の方がいいと思います」
言ってから、隣のトモエが口元へ手を添えるのが見えた。笑ったのだと思うが、すぐに会長の方へ向き直ったので、確かめられなかった。
「まあ、会長のお姿を、風雨に晒される場所へ置くわけにはいきませんものね。室内のよく見える場所がふさわしいかと」
「そうか。そうだな! おいらが外で寒そうにしていては、生徒たちも心配するのだ!」
会長は満足したらしく、大きく頷いた。僕は材料を抱え直し、通り道をもう少し空けた。後ろにいた生徒たちも、止まっているあいだは荷物を気にしてくれていたらしい。
「励めよ。窓の修理も、立派な学園への奉仕なのだ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
一団が通り過ぎるまで待ってから、僕も歩き出した。ひげの付いた肖像が何枚届くのかは分からなかったが、それはノドカとシグレに相談しなければならなかった。窓の補修より、難しい相談になるかもしれない。
*
旧校舎に着くと、ノドカが戸を開けてくれた。部屋は、前に来た時よりずっと暖かかった。僕が工具袋を降ろすと、シグレが足元へ古い布を敷き、材料を置ける場所を作った。
「途中で会長に会った。あとで肖像が届くかもしれない」
「……何をしたんですか、アルチョムさん。あの人、自分の顔を増やすことだけは本当に熱心なんですから」
「何もしていないよ。窓を直すと話したら、飾るように言われたんだ」
ノドカが額に手を当て、シグレは肩を揺らして笑った。窓ではなく壁を勧めたと付け加えると、ノドカは、そこは助かったと小さく頷いた。
寸法を測り、ミノリに教わったことを確かめながら作業を始めた。二人にも手伝ってもらったので、思っていたより早く進んだ。最後に窓辺へ手をかざすと、冷たい風が入り込んでいた場所が、さっきより静かになっていた。
ノドカも同じことをして、場所を変えながら何度も確かめた。すぐに笑顔になったが、望遠鏡を動かす時に、うっかり僕の工具へ足を引っ掛けた。シグレが支えてくれなければ、せっかく片付けた窓辺が、もう一度散らかるところだった。
「まず、道具を片付けよう。僕も見てみたいから、そのあとで頼めるかな」
「はいっ。今日は見え方もよさそうなんです! 薄暗くなったら、一緒に見ましょう!」
夕食まではまだ時間があった。作業を終えて手を洗い、シグレが出してくれたお茶を飲んでから、僕は鞄から教科書を取り出した。ここで少し勉強していけば、帰ってから慌てずに済みそうだった。
挟んでいた答案用紙が、机の上へ落ちた。拾うより先にノドカの目がそちらへ向き、僕は半分だけ隠すつもりで紙を持ち上げた。裏返すと、今朝見落とした二問が、またこちらを向いた。
「……裏にもあったんですね。ここ、手をつけなかったんですか?」
「気づかなかった。今は、ちゃんと両面見ている」
シグレがお茶を飲むのをやめた。笑いを堪えている顔だった。ノドカは一度こちらを見てから、何も言わず、問題用紙をまっすぐにしてくれた。
「これ、似た問題なら見たことがあります。よければ、一緒にやってみませんか?」
「頼んでもいいかな。途中までは分かるんだけど、最後に答えが合わなくなるんだ」
ノドカは椅子を寄せ、自分の筆記具を持ってきた。説明は、僕が思っていたよりずっと分かりやすかった。どこまで分かっているかを尋ね、僕が書いた式を見て、間違えた場所から順番に戻ってくれた。
彼女が考えているあいだ、僕は口を挟まずに待った。昼間には工具の使い方を教わり、今度は数学を教わっている。今日一日で、手帳よりもノートの方がよく埋まっていった。
「ここです。この数字を移す時に、符号が変わっていません」
指で示された場所を見て、僕は鉛筆を止めた。そこを直して最後まで計算すると、解答欄の数字と一致した。随分長く悩んだのに、原因は小さな印一つだった。
「……本当だ。よく気づいたね」
「こういうの、私も間違えるんです。何回もやると、気をつける場所が分かってきますから」
ノドカは少し得意そうに笑った。その顔を見て、僕も笑ってしまった。さっき窓辺で見せた顔と似ていたが、今度は、僕の方が助けてもらっていた。
シグレはその横で、空になったカップへお茶を足してくれた。自分は数学を教えられないけれど、と言いながら、僕たちが計算を間違えるたびに、不思議とよいところでお菓子の皿を寄せてきた。
休憩にしようと顔を上げた時には、外が随分暗くなっていた。ノドカは窓を見て、すぐに立ち上がった。僕の答案用紙は、裏の二問まで、今度こそ埋まっていた。
*
望遠鏡を覗く時は、銃の照準器を覗くのとは勝手が違った。いつもの癖で目を寄せすぎ、少し離してくださいと言われた。ノドカの指示通りに顔を動かすと、暗い視野の中に、小さな光がはっきり浮かんだ。
僕はしばらく黙って見ていた。肉眼で見る時には、空にある沢山の光の一つだったものが、覗いてみると、急に近く感じられた。ノドカは隣で名前を教え、どこを見ればいいのか、ゆっくり説明してくれた。
この空の星について、僕はまだほとんど知らなかった。地図を調べ始めた頃には、見覚えのある地名を探すことばかり考えていて、空の方までは手が回らなかった。あとになって見上げる余裕ができても、ただ綺麗だと思って眺めるだけだった。
「次は、こっちを見てください。さっきのより少し見つけづらいですけど、今日はよく見えるので」
場所を譲り、彼女が向きを変えるのを待った。シグレが毛布を一枚持ってきて、ノドカの肩へかけた。しばらくすると、その端が僕の方へも回ってきた。
「二人とも、窓辺でずっと動かないから。風が入らなくなっても、そこは冷えるよ」
「ありがとう。……シグレも、見てみる?」
「あとで交代してもらおうかな。まずは、初めてのお客さんに譲っておくよ」
毛布を落とさないよう片手で押さえ、もう一度覗き込んだ。ノドカは僕が見失うたびに、根気よく場所を教えてくれた。その声を聞いているうちに、僕は、昔の無線のことを少しだけ思い出した。
アンナも、離れた場所からよく周囲を見ていた。僕が気づかなかったものを見つけ、進む先を教え、時には、そんなところへ行くなと怒った。窓辺で彼女と同じ空を眺められたら、何を話せただろうと考えた。
聞いてほしいことが、今日もいくつかできていた。数学で問題を見落としたことも、工務部で手伝いをしたことも、ひげを付けた小さな会長に呼び止められたことも。きっと、最後の話は簡単には信じてもらえなかったと思う。
思い出して口元が緩むと、ノドカが何か見つけたのかと尋ねた。僕は、よく見えたと答えた。それも本当だった。
*
寮に戻ってから、ノドカに無事着いたと連絡を入れた。返事には、次は別のものも見せたいと書かれていた。僕は楽しみにしていると返し、借りた道具を返す予定も手帳へ書き足した。
補修材の残りを片付け、昼間貰った紙を取り出した。ミノリの書いた数字と、僕が手伝った仕事の記録が並んでいた。工具を借りるための連絡先も、端に添えてあった。
ノートを開き、教わった問題を、何も見ずにもう一度解いた。途中で止まったが、どこを確かめるべきかは分かった。答えが合ったところで、ようやく鞄へしまうことができた。
明日は、数学の授業で外を見ないようにしようと思った。そう決めてから、朝の荷車の音がしたらどうするかを少し考え、休み時間まで待つことにした。
寝る支度をしていると、シグレから写真が届いた。窓辺へ椅子を寄せたノドカが、望遠鏡を大事そうに拭いていた。写真の下には、今日は宿題も終わったみたいでよかったね、とあった。
僕は、二人のおかげだと返した。そのあと、画面を閉じる前に、明日の食堂の献立を確かめた。昼食には魚が出るらしかった。
食べながら骨を取り残さないようにしよう。問題用紙を見落としたばかりの僕には、そういう心配も必要だった。灯りを消して横になると、遠くの列車が通り過ぎる音が聞こえた。出しておく宿題はもうなく、僕はその音を聞きながら目を閉じた。
───この美しい星空を、アンナと眺めたかったな